【字】ありのままの最期 末期がんの“看取(みと)り医師” 死までの450日

【字】ありのままの最期 末期がんの“看取(みと)り医師” 死までの450日

始まりは2年前の12月。末期のすい臓がんで余命わずかと宣告された医師がいると聞き、取材に向かった。
田中雅博さん(当時69)。医師として、僧侶として終末期の患者に穏やかな死を迎えさせてきた「看取りのスペシャリスト」だ。
これまで千人以上を看取った田中さんの「究極の理想の死」を記録しようと始めた撮影。
しかし、次々と想定外の出来事が…。看取りのスペシャリストが見せてくれたありのままの最期、450日の記録。

ありのままの最期
末期がんの“看取(みと)り医師” 死までの450日

放送:2017年9月18日(月) 再放送:2017年10月8日

2015年12月

始まりは2年前の12月。
余命わずかと宣告された医師がいると聞き取材に向かった。
おはようございます。
先生は?こちらにいらっしゃいます。
NHKの方がお見えに…。
お世話になります。
まだこちら打ち合わせしてないので。


田中雅博さん。医師として僧侶として千人以上の死を看取ってきた。
日本にまだホスピスがほとんどなかった27年前から終末期の患者に寄り添い穏やかな死を迎えさせてきた看取りのスペシャリストだ。

「お陀仏がいい。お陀仏するとどんなふうになります?」
「なってみないとわからない」
「楽しみですか」
「苦しみはないわね。たぶん」

私はその看取りのプロ自らが末期がんとなりどんな最期を迎えるのか知りたかった。

田中さんは自分が死ぬまでをすべて撮影すればいいという。

この言葉に私は驚いた。
そのころすい臓がんで亡くなった私の母は、病気で弱っていく姿を私たち家族にさえ見せたがらなかったからだ。
「何かしたいことあります?」
「十分です」
「十分?十分ですか」

看取りのプロの「究極の理想の死」を見届ける。
450日に及ぶ密着が始まった。

「痛い痛い…」
しかし目にしたのは私の想像とは大きくかけ離れたものだった。

「今私は死の渇愛・・・死にたい」
「私を眠らせてください」

看取りのプロの「ありのままの最期」を記録した。

栃木県益子町普門院診療所。
「こんにちは。ご苦労さまです」
ここで田中さんと妻の貞雅(ていが)さんが夫婦で緩和ケアを実践してきた。
貞雅さんも同じく医師で僧侶「看取りのスペシャリスト」だ。
「蘇生してほしいそうです」「はい聞きました」
この診療所で徹底してきた事がある。一つはどういう最期を望むのか患者本人の意思を確認し尊重する事。
「本人に今から聞いてみたら?」「(貞雅)DNRで」
「それは本人が言ったの?本当に」「(貞雅)いやいやご家族でしょう」
「それはDNRじゃない。DNRっていうのは本人が言う事をDNRというんだ」
「(貞雅)深谷さんこの人は誰ですか?息子さんですね?心臓が止まったら動くように処置はしてほしいですか?」
「(貞雅)呼吸がね自分でできなかったら人工呼吸器っていうのつけても大丈夫ですか?つけない方がいい?つけた方がいい?私はつけるのを尊重した方がいいと思いますが、それでよろしいですか」

「私西明寺の住職の田中雅博です」
もう一つ徹底してきた事がある。患者が抱く死の恐怖や不安を取り除く事。
田中さんが月に1度主催する「がん患者語らいの集い」。
患者の苦しみや悩みに僧侶として耳を傾ける。
「死ぬという苦しみをいかに解決するか。その方法として行われるのが”傾聴(けいちょう)”っていうんですね。本人の話を語りを聴くんですね。本人の言葉を聴いてそれを理解してそして共感する。
それをする事によって逆に離しての方が逆に今まで気づかなかった本人の物語を自分自身が完成するんです。話している間に気づくことも多いのです」
「ほんとうに今まで死というものを本当に真剣に考えたことがないですから、癌になって考えた時不安な気持ち漠然としたなにか不安感が襲うんです。これが常に背中に重く乗ってくる」
「自分としては死というか病状にも向き合って、それが充実していればいいのかなって」
田中さんはただひたすら話を聞く。
患者が自ら死を受け入れるのをじっと待つ。
「事実を認めて逃げない」
3年前田中さんにすい臓がんが見つかった。
ステージは最も進んだ「4b」。
肝臓やリンパにも転移していた。「治ってしまうことはまず期待できない。現在残されている治療法はありません」

田中さんは「死ぬのは怖くない」と言い続けていた。
理由を聞くとこれまで看取った患者たちから死に方を学んだからだという。
「ものを教わる教えて頂く人を「先生」といいますけどね。先生というのは先に生まれたって書きますよね。ところが先に生まれた人とは限らずに先にやはり死んでいく方「先死」の方がそこから学ぶ事が多かったと思うんですね。
もう病気になって自分の命が先が少ないとそういうふうに覚悟した人はですね、すごい崇高な精神の持ち主がたくさんいらっしゃる」

「まずはお疲れさま」
田中さん夫婦はお酒を飲むのが大好きだ。
末期がんが見つかってからも変わらない生活を続けていた。
「病気になって節制している人は多いと思うんですけど」
「無意味ですね。意味がない。病気に対して悪くてもいいじゃないですか。病気に対して良いことだけをすることが良いこととは限らない。悪くてもお酒飲んで楽しければそれでいい」
「(貞雅)いつ死ぬ予定?あと3ヶ月くらい大丈夫だよね?」
「あと6ヶ月後」「おーい半年長過ぎる(笑)」
間近に迫った死を深刻に捉え過ぎない。
夫婦の暗黙の了解だった。

2017年1月18日

今年に入り田中さんの病状は急速に悪化した。
いらだちや意識の混濁が見られるようになっていた。
「やらんでもいいって俺がやるから」
「先生ここにかけて下さい」
「俺がやるからお前いなくてもいいって」
「そんなんじゃ駄目だ」
「自分でもう一回やり直すよほんとに」
「(貞雅)ほれこんな大きな前立腺がん。おしっこ出るわけないじゃない」
「あとでもう一回やるよ。危ないよそんな事して」
「ちょっと持ってて」
「落とすよ。ここにあるじゃないか。何やってんだ!」
「先生それさっき。薬飲んでたじゃないですか。前立腺肥大の。それとまた違うんですか?」
「飲んでないと思いますよ」」
「さっき飲んでませんでしたっけ?」
「貞雅!頭が確かに混乱しています。俺ユリーフ飲んださっき?ユリーフ飲んださっき?」
「(貞雅)飲んだ。さっき飲みました。飲みました。ほらこっち空いてるじゃない」
「間違えて二回飲むところだった」

9日後 1月27日

田中さんは自分の葬儀のために用意した曲を聴いていた。
Time to say Goodbye(旅立ちの時)
田中さんの原点国立がんセンター
末期患者の悲痛な訴えに応えられず医療の限界を知った。
「「死ぬのが怖い」「死にたくない」「どうにかしてほしい」と言われても同しようもないですよね。
薬とか手術とかで直せないわけです」
父の急死を機に実家の寺を継ぎ43歳で境内に診療所を開設。医師として患者の体の苦痛を和らげ、僧侶として患者の話に耳を傾け死の恐怖を取り除いてきた。
3年前がんになり、自分も人に話を聞いてもらいたいと思った。
友人や仕事仲間そして講演会。
自分の生きてきた価値を確かめながら語り続けた。
私たち取材者にも。
「今お話を聞かせていただいているのも」
「はい。私のケアですね。非常に満足しています。聞いてもらえていますから」
「満たされる感じ?」
「はいそうですね」
「誰にも相手にされなかったら、こんなに寂しいことはないんじゃないですか」
「(私の命は)あと2~3日でしょう。だって何の有効な治療はできていないですから」
「あと2、3日しかないときにこんなに時間を咲いてもらってお話してくださってありがとうございます」
「話を聞いてもらって・・・私のほうがありがたい。話を聞いてもらって最高に幸せ」
「死ぬときはどういうふうに死にたいとか決めてるんですか」
「DNR(蘇生措置を拒否)です。人工呼吸。心臓マッサージ。そういったものを拒否します」
体調は日に日に悪くなっていったが田中さん夫婦が撮影を拒否することはなかった。
「撮影してもいいよ」
「(貞雅)そのままおちんちん丸出しなんてできないよ。いいの」
「いいよ」
自分の話を聞いてもらいながら最後を迎える。田中さんは理想の死に向かっているように見えた。
田中さんはDNR以外にもう一つ自分の最期について意思表示をしていた。
持続的鎮静。
耐え難い苦痛を抑えるために麻酔薬で意識を低下させ眠らせる医学的処置だ。
余命1〜2週間から数日の段階で行い最後は眠ったまま死を迎える。
「苦痛に耐えられなくなった時は眠らせてくれ」。
田中さんは貞雅さんにそう伝えていた。

一週間後 2月3日

鬼は〜外!福は〜内!鬼は〜外!福は〜内!

2月に入り田中さんの様子が突然変わった。
言葉が思うように出なくなってきたのだ。
「失礼します」
「貞雅」
「こんにちは佐野ですけども。こんにちは」
「駄目なんですよ。まず貞雅を…呼んで下さい」
「貞雅さんですね。ちょっと痛かったりするんですか?」
「近く…にいませんか?」
「近くいるの?ちょっとじゃあ捜してきますね」
「完全に…」
「はい」
「今、どうしようも…な…な…な…な…なくなってるんだけども」
「お父さ〜ん。湯沢さんと石井さん来て下さった」
田中さんは親友の僧侶に自らの葬儀を託していた。
「住職…。貞雅は…。な何とかになった。ななんつったらいい?私は…」
「あれ…何しろ…。住職…じゃないわけで」
「(貞雅)そういう事お願いするんじゃなかったんでしょ」
「私は…」
「(貞雅)だってお二人とお会いしたあと。眠らせてほしいって言ってたじゃない・別れの言葉でしょ」
「今日…よろしくお願いします。何しろ二人でやってもらって…。あとは…。あの…どこだ」
田中さんと出会ってから1年余り。初めて目にする不安な表情だった。
「もう…ぼけてる」
「(貞雅)もう本人自体もどうしていいのか分かんなくなっちゃってる。今混乱のしかた。せわしなく動いてるでしょ。あれがもうせん妄(意識の障害)の始まり。本人も苦しいわけ。どうしていいのか分かんない」
「(貞雅)自分で戸惑うわけですよ。なんでスムーズに言葉が出てこないんだ。どうしてこんなに忘れるんだってちょっと不安になっている」

翌日2月4日

混乱した状態は更にひどくなっていた。
「貞雅貞雅貞雅貞雅。貞雅貞雅貞雅貞雅貞雅…」
「貞雅さん今診察中みたいですよ」
「貞雅貞雅貞雅貞雅…。どうしようもない。貞雅貞雅貞雅貞雅…。貞雅貞雅貞雅貞雅貞雅…」
このまま撮影を続けるべきか。躊躇する私たちに貞雅さんは言った。
「のたうち回ることも取り乱すこともわかって取材を受けているはずですよ」
「田中先生どこ行くんですか?」
「貞雅貞雅貞雅貞雅貞雅…」
「お願いします。お願いします」
「何をお願いしますって言ってるんですか?」
「お願いします。お願いします」
「何をお願いしますなんですか?」
私には田中さんが「持続的鎮静で眠らせてほしい」と言っているように見えた。
貞雅さんの医師としての見立てでは持続的鎮静を行うにはまだ早い。
「大丈夫?」
一方で妻としては苦痛を訴える夫を見ているのはつらかった。
「力抜いて下さい」
「(貞雅)おかあさんめまいみたい。今グラッときた」
「午後終わったらお父さんのこと見てくれる」「うん」
「今日18滴にするからやっぱり夜眠れないから」
貞雅さんは仕事をしながら連日付きっきりの看病が続いていた。
「さすが年だわず〜っと連続だと」「そりゃそうだ」
「(貞雅)すごく良くないのが昼間「お願いします。お願いします」って「寝かしてくれって」」
「それはどう」
「いいんじゃない。もう寝てもいいんじゃない」
「わかりやした」
「じいじの頭は?頭」「ウフフフ。頭!ウフフフそうそう偉い偉い賢い」

翌日2月5日

次の日。田中さんを眠らせるかどうか迷っていた貞雅さん。その葛藤を目の当たりにする事になった。
「(貞雅)おっとっと…お〜っとっとっと!
この日は月に1度の「がん患者語らいの集い。
「だいぶつらそうですね」
自らが主催するこの集まりだけは最後まで出席したいと以前から言い続けていた。
「(貞雅)大丈夫です。ありがとうございました」
「寝かしてください」
「(貞雅)寝るなら病室へ帰りましょう。みんなにひと言会ってからで…しないの?ん?」
「ん…眠らせて下さい」
「(貞雅)眠らせないここでは眠らせられない。病室に戻ってからね。薬はここにないです。薬はここにないです」
「眠らせて下さい」
「(貞雅)薬はここにないです」
「眠らせて下さい」
「(貞雅)薬はここにないです」
「薬?」
「(貞雅)うん薬。眠る薬」
「眠らせて。私を眠らせてください」
がん患者語らいの集い
「(貞雅)よいしょ。もう少し前ですよ。いいですか?じゃあ座ったままで失礼いたします」
「もう眠るだけ」
「(貞雅)じゃ私から話していいですか?住職の今の状態を」
「うん」
「(貞雅)はい。こういう姿多分私も初めてですけれど皆さんも見た事ないと思うんですね。近しいお友だちなんかもこういう姿をみんなに見てもらうのは…ってちょっと躊躇されてたんですけれども。本来の住職ならもっとしゃっきりしてて尊敬する…今でももちろん尊敬しております。それで最期を看取るのは私たち家族になってきますので…。まあ今までの事を感謝しながらっていう事なんですね。本人がとにかく行くって言って。皆さんの所へ行くってその一念でここまで来たんですけれどもちょっとこういう状態で申し訳ございません。なんかせっかくの語らいなのにこういう湿っぽい話になってしまって申し訳ありません。じゃあ…退席しますか?」
「うん」
「(貞雅)皆さんの前だからこうやって優しいけど「どうするの!?行くんですか?行かないんですか?はっきりして下さい」とこういう状態です。さあ行きましょうか。じゃあ皆さんに「失礼します」。失礼します」
(拍手)
「(貞雅)ありがとうございます。ほら皆さんが。立って下さい」
「(貞雅)カツが出来てるけどカツ食べる?ううん。カツはまだいいの?どうしたの今日泣いちゃって。どうしたの?どうしたの?何で泣くの?泣かないで」

「(貞雅)泣かないよだってまだまだじゃない。あなたも来月お誕生日よ。ね?泣かないよ。それで…。みんなあなたが一日でも長く生きてほしいってみんな思ってるんだから泣かない。頑張る。ね?」
「うん」
「(貞雅)分かった?いっぱいまだやり残しがあるんだから」
「うん」
「(貞雅)ね?何でそんな気弱になっちゃったの?大丈夫大丈夫大丈夫。薬使わないの。分かった?だからあなたが投げちゃったら駄目じゃない」
「今までと同じ…分かりました」
「朝昼晩ね」
「(貞雅)おっ出てきたの?どうしたの?フフフフ」
「お願いします」
「(貞雅)おっ…。危ない危ない。そこ通れない。あっすいません」
「(貞雅)ダンスしましょう。踊りましょう。踊りましょう」
「うん。あ〜」
「(貞雅)ワルツにしましょうか。123。こっちの足を下げて下げて」
これまで手をつないだ事もなかった夫が初めて見せた素直な愛情だった。
「転んじゃうよ」
「(貞雅)転んじゃう?じゃあ横歩き。カニさんカニさんして」
別れの時が近づいていた。

2週間後 2月19日

2週間後貞雅さんから連絡が入った。
”持続的鎮静”を開始した」という。
「(貞雅)三回くらい転んではーはー言ってて。一瞬キョトンとした顔してこっち見るけどまた騒ぎ始めるから。しょうがないからベッドの柵こうして私がここへ座るんですよ。そしたらゴンゴンゴンゴン蹴ってくるんです。じゃあどうした。眠りたい?って言ったら、目をカッと見開いて「うん」って。じゃあ寝よう。「ほんとにこのままなのかねえ」なんて娘に言ってみたり。心のなかではまだ諦めていない。何だかよう分からん感情ですね。こういうモヤモヤモヤモヤしたのは私の一番苦手とするところだから。「よくここまで離婚しないできたね」と夫婦の最後の会話はしたいなぁと思うけど・・ないですね。ここで見送った人たちはみんなちゃんと話せたんですよ。だから私たちもそういうふうに思ってて、最後の時間を過ごすんだろうなとおもったら、何のこっちゃない全然それがない」
貞雅さんが眠っている田中さんを検査し始めた。
死が迫ったがん患者に現れる「腹水」を調べるのだという。
「あぁ〜あぁ〜」
「(医師)水は溜まってないですね」
「あっほんと」
「(貞雅)腹水たまってない。すごいね。じゃ何なのこれは。ありがとう。よかったじゃないあなた。心配しなくても大丈夫だ。腹水たまってないって。住職!住職!寝てるね」
あっけなく訪れた別れの時に貞雅さんは諦めきれていないように見えた。
それは田中さんの「理想の死」を見届けたい私も同じだった。

4日後2月23日

4日後事態は再び動きだしていた。
「(貞雅)じいじ切ろうね」
貞雅さんが麻酔薬を止めて田中さんを1日2回目覚めさせていたのだ。
「まだ死なれたくないの」と貞雅さんは言う。
「痛い痛い…」
「(貞雅)しっかりと目覚めて。やっぱり動かした方がいいのかね」
貞雅さんによると私たち撮影クルーが来ると田中さんが元気になるそうだ。
「(貞雅)立つの?立ちますか?ほんと?ほんと?せ〜のよいしょ!」
「(貞雅)おいしょ」
少しでも長く行きさせるため、貞雅さんは田中さんの体を無理をしてでも動かすことにした。
「(貞雅)お父さん前見て」
「貞雅先生はどこにいらっしゃいます?いた。あそこにいました」
「(貞雅)今お薬のんだから痛くない」
「痛い」
「(貞雅)良かったじゃない。立てて」
「(貞雅)アイスクリーム買ってきました」
貞雅さんが10日以上点滴で生きている田中さんに好きなアイスクリームを食べさせ始めた。
「(貞雅)はい。おいしい?うん。ごっくんできましたか?お口開けてみて」
貞雅さんはもう一度自分で食べられるまで回復させたかった。
「(貞雅)あ〜上手上手。できましたか?ちょちょちょちょ…。大丈夫大丈夫。ん?熱があるかな
貞雅さんは迫り来る夫の死に懸命に抵抗していた。
「(貞雅)これでごちそうさましますか?」
「あぁ〜…。あぁ…。う〜ん…」

「(貞雅)口からは無理なのかねて感じ。顎もこの線があんなに今まで出たことないのよ。こうやって触ってみたり。ここ一日でカクッとここ(喉)が減った。私自身が何で自分が医者でありながらこんな…こんな時までほっといたんだって。ほっといたっていうよりももっと早く検査すればよかった。他の人にあれだけ注意して注意してうちでうんとね早期がんを見つかってありがとうございますって言ってるのに何で肝心要の自分の旦那さんを…。自分の主人をこういうふうになるまでやらせなかったかっていうのは…。一生悔いが残るねこれはね。代われるもんならほんとに代わりたいって思うぐらい。もう1年もう2年早かったらこんな命もってかれるって事はなかったのにっていう悔しさは今初めて言うけどすっごい悔しい。もう自分が愚かだったっていうのが…」

3月21日の朝

3月21日の朝、貞雅さんからメールが届いた。「今朝7時20分 逝きました」
「お顔も見てください」
「失礼します。田中先生NHKの3人で来ました。もう1年以上のおつきあいですけどいろんなお話聞かせて下さってありがとうございました。いつもつらそうなお姿を顔に出さないで笑って下さってた姿がとても思い出深いです。またちょっと先生が最初の時にお話し下さった自分のお葬式まで撮ったらいいよっておっしゃってましたのでその言葉に甘えさせて頂いてもうちょっと撮影させて頂きますのでよろしくお願いします」
「(貞雅)娘に起こされてすぐ起きて。したら心臓が止まっちゃって。すぐに心マをして…。やっちゃいけないと言われてたのにやって。心臓マッサージしたんですよ」
「心臓はどの辺?」
「心臓はここです。ですから心臓に直接注射した跡が。ねえDNRって言って蘇生はしないでくれって言ったけど。怒られちゃうかな?するなって言ったのにって」
看取りのプロの「理想の死」を記録しようと取材を始めた私に、田中さんが見せてくれたのは飾る事のない「ありのままの最期」だった。

貞雅さんは田中さんから寺の住職を引き継ぎこれからも緩和ケアを続けていく。
貞雅さんは言う。「1,000人の死を看取っても人の死に慣れる事はない」。
「(貞雅)はい。ありがとうございました」

(読経)
「葬式まで全部撮影しなさい」と言った田中さん。
その約束を果たす中で思ったのは、実は「理想の死」なんて最初からなかったのではないかという事。
(読経)
田中さんが教えてくれたのは「死はきれい事ではない。思いどおりにいかない」という事。
そして「人は一人では生きていない。だから一人では死ねないんだ」という事も。
貞雅さんは「とても火葬場まで行けない」と言った。
(クラクション)
私は火葬場まで見届けることに決めた。
看取りのプロは言った。「先に死にゆく者の死に方から学べ」。
(読経)
その答えは一人一人の胸の中にある。
(読経)