日曜美術館「小さな家たちの冒険」

世界的な注目を集めている日本の個人住宅。「狭い土地」「ローコスト」などの課題を解決しながら、作り手、住み手それぞれが“冒険”して作りあげた5つの住宅を訪ねる。

今、日本の小さな個人住宅が欧米を中心にブームになっている。常に狭さやローコストが課題だった日本の住宅。建築家たちは、時代の要請に応えつつ、作品としての創造性を追い求める冒険を繰り広げてきた。住み手たちも、世界のどこにもない家を求め、それぞれの新しいライフスタイルに似合うような家を果敢に求めてきた。現在も生活の場となっている“小さな家”の代表作を訪ね、日本独自の発展をとげてきた建築文化に光をあてる。

【ゲスト】建築家、東京工業大学大学院助教授…塚本由晴,東京国立近代美術館 主任研究員…保坂健二朗,【出演】建築家…坂本一成,椎名英三,石山修武,藤本壮介,【司会】井浦新,高橋美鈴

初回放送日: 2017年8月27日

 

日曜美術館「小さな家たちの冒険」

清家清「私の家」

日本の家の今を考える時出発点となる家があります。

迎えてくださったのは八木ゆりさんです。7歳からこの家で育ちました。

建築家、清家清が1954年に建てた自邸。名付けて「私の家」です。

所在地 東京都大田区東雪谷
敷地面積 182平米
建築面積 50平米
延べ床面積 70平米
構造規模  RC造  地上1階地下1階
竣工日 1954年10月

戦後日本を代表する建築家の一人清家清は多くの弟子を育てたことでも知られます。

30代なかばで両親の家の敷地に建てたのがこの家でした。

ゆりさんは清家の長女です。

「どうぞこちらに。あの、玄関がないのですけど、一応ここが玄関ということになりますので。石がつながっているような感じで」

耐震壁を建物中央に後退させたこの建物は。入り口が広く採ってあります。そのため室内と戸外が有機的に結びつけられていて生活が大気の中に溶け込んでいるようです。

「庭とひとつづきですね。開放感があります」

「全部がひとつづきになります」

「私の家」は50平方メートルのワンルーム。 部屋の中には耐震壁のほか仕切りがなく、ドアが一つもありません。ここに夫婦と子ども4人が暮らしたそうです。

玄関も個室もないという設計。背景には時代の状況がありました。

終戦後420万戸もの住宅が不足していた日本。やがて復興が始まると政府によって持ち家政策が進められます。とはいえ公的融資は面積15坪。およそ50平方メートルまでに制限されていました。

その面積で豊かな空間をどう作るか。清家はワンルームという前代未聞の答えを出しました。

「ここは父の書斎でもあり、畳の台の上で子どもたちが遊んだり、みんな大きくなると寝る場所がないのでここで寝ていました・・これは動くんです。夏の盛りのときは外に出したりしてみんなで夕涼みしていました」

「季節に応じてしつらえていったのですね」

「父はしつらいという言葉が大好きでした」

しつらい。目的に応じて建具や調度などで部屋を仕立てるという意味です。

暖かい季節には開け放って庭と一体の空間で暮らしました。

この家はトイレにも扉がないことで有名になります。

そこには民主的な家族の姿を模索した清家の理想が込められていました。

「父が朝髭を剃りながら、私がトイレに座っていると、今日は何をするんだいみたいなことを聞いて、学校でこういうことをするのとか、コミュニケーションとか話をして。多分父は家族の中で嘘をついたり隠し事をするのはあまりいいことではないので、隠すようなものはないはずなのだからトイレにべつにドアがなくてもいいじゃないかということでした」

その後「私の家」には結婚したゆりさんの一家、続いて妹の家族が暮らします。ここで三世代7人の子どもたちが育ちました。

清家は「家とは単なるハウスではなくホームであるべきだ」と語っていました。

妻がなくなった時、この家について印象的な言葉を残しています。

「ぼくは私の家という作品の名前を付けたけれど、結果的には母がなくなったときにですね、ここは私たちの家であったと思いますといってました」

戦後10年足らずで住まいの常識を打ち破った「私の家」。清家清の冒険はその後の実験的な住宅の出発点となりました。

坂本一成「代田の町家」

東京で都心に家を持ちたい人にとって狭い敷地にどう建ててるかが大きな課題です。

ノルウエー生まれの美術家アイナーソンさんと、PR会社を経営する本田美奈子さん。以前はニューヨークと東京を往復していましたが、結婚後東京を拠点に選びました。

「日本の住宅は色んな意味でとても興味深いです。たとえば多くの制約があること。家は密集しているし土地は狭いですね。美術家としての経験から言うと、難しい条件があるほど作品は良くなります。東京の家は雑多ですし、これが美しいというルールもありません。面白い作品への可能性は開かれています」

二人が暮らす家は東京の住宅地に1976年に建てられたもの。

間口わずか7メートルと小さいけれど力強い存在感です。

密集した街で気持ちよく暮らすため様々な工夫が凝らされています。

表の駐車場から一歩はいると低い塀で仕切られた中庭。屋外と室内の中間のような場所です。

中庭に面してリビングルームがあります。

このすぐ先は裏の通り。窓の位置を高くしてプライバシーを確保しながら、表から裏まで突き抜ける開放的な空間が作られています。

京都などの町家を思わせる作りから”代田の町家”と名付けられました。

設計した坂本一成さん。初期には街に対して閉ざされた家を作っていました。

外の環境にかかわらず内部に快適な空間を作ろうとしたのです。

「その閉鎖性みたいなものが逆に気になりまして、もう少し都市と町並みと地域の環境と連動するようなあり方にしなきゃいけないんじゃないかということをちょうど思い始めた時の最初の住宅がこの”代田の町家”という位置づけになります」

表から裏までひとつながりのリビングルーム。密集地に建つ窮屈さは感じられません。

限られた空間を伸びやかにしているもう一つの工夫があります。

それは素材に軽快な表情を与えること。

例えば壁は木材ですが、白く塗ることで重々しくなることを避けています。

「極端に言えば無色透明。ニュートラルなといったらいいのでしょうか、素材の良さみたいなものはある種の魅力ではあるのですが、逆に人々が日常的な暮らしをする時逆に鬱陶しいということが出て来る私たちは”社会的意味”と言いますが、素材はうっとうしさを持っているわけではなく、使い方によってそういう状態になる。それをコントロールする」

床は大理石。普通は高級な素材として扱われますが、これもまた軽快に広がりを持たせる役割を持たせています。

銀色の壁もニュートラルな高価を生むために考えられました。銀色は光をまとって軽やかです。坂本さんはクリアなグレーと呼びました。

この家は元の住人が売りに出し、取り壊しが検討されました。

それを惜しむ人々がここで坂本さんによるレクチャーと見学会を開きます。

多くの人が詰めかけ、家はにわかにいきいきとした表情を見せました。

偶然足を運び、この家に一目惚れしたのが本田さん夫妻だったのです。

小さな敷地にとびきり軽やかな家を建てる冒険。そこに暮らしてみようという冒険。2つの冒険心が出会い、この家の物語は第二章に。

藤本壮介「Thouse」

新しい暮らし方が生み出す新しい家のかたち。

住宅地の中に突然現れる灰色の建物。

群馬県前橋市に建つ「T HOUSE」です。建築家の藤本壮介さんが4人家族のための木造平屋の住宅として設計しました。

www.yasumatsu.co.jp

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玄関はどちらでしょうか。

外観からは想像できない空間が広がります。

この家はいわば変形のワンルーム。そこに様々な角度で仕切りが入っています。

寝室などの部屋を仕切るのは一枚のベニヤの薄い壁だけ。

立つ位置によって見え方が違ってきます。

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部屋のようで部屋でない。廊下のようで廊下でない空間です。

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「共同生活している感じです。青春時代暮らしていた寮を思い出します」

板に挟まれた隙間に家族それぞれの居場所がある家です。

「家ってこれからどういうふうになっていくのだろうかとか、様々に考えたプロジェクトでした。施主さんのご家族がすごく仲が良さそうだということもあって、こういうご家族のための住宅とはどういう場所なのかというところから最初に家を考え始めたのです」

「僕自身も隅っこが好きだというのが昔からあってなんか落ち着く、部屋というよりは隅っこというのが個人の、自分のための空間の最小単位なのではないかという思いがどこかにあった。そこからもう一回、家の中の自分の居場所と家族とのつながりのバランスをつくっていくということで、隅っこがたくさん集まったような形になった。つながりつつ離れていて、でも家族の気配をいい意味で常に感じ取ることができてみんなで一緒に住んでいるという場所が作れればいいなと思いました」

石山修武「開拓者の家」

建築家と住い手の深い関係。その際立った例を示す家があります。

レタス畑の中いくつものビニールハウスに囲まれて小さな家が見えてきました。

なんとも不思議な筒型の建物。

「開拓者の家」は、建築家と住まい手が12年にわたって作り上げたセルフビルドの家です。

土木工事に使う鋼鉄の板をつなぎ合わせた「コルゲートパイプ」で作られています。

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軽量で強度、耐久性にすぐれたコルゲートパイプは取扱いや運搬が容易。経済性にも優れた鋼製品です。半円形・円弧形・直材などの部材を組み合わせボルトでつなぐことでパイプ形状やU 字形状に組み上げます。

板をつなぐのも、コンクリートを打つのも、窓枠を溶接するのも住人が自らの手で行いました。

この家を建てた正橋孝一さんです。開拓農家の二代目として自分で作れるものはなんでも作ってきました。

中に入ると吹き抜けの空間に鉄の階段が思いの外華やかな形で広がっています。

ステンドグラスから光が指す二階はこの家の客間です。

長さ12メートル幅およそ10メートルの筒。階段を囲むように茶の間や寝室が配置されています。正橋さんはこの家を24歳のときに建て始め住めるようになるまで10年以上を費やしました。

この家の設計をしたのは建築家・石山修武さんです。10年あまりにわたって膨大な図面が送られてきました。正橋さんは図面を見ながら家造りに挑戦したのです。

「どんどん新しい図面ができて、施工するときは最新の図面でやってください」

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コルゲートパイプで家を作れば柱や基礎工事がいりません。自分で建てられる方法としていくつかの先例が知られていました。

正橋さんは農閑期に一人作業を続けます。

開拓者の家と名づけられた家は1980年代半ばに住めるようになりました。

設計者の石山修武さん。

石山さんも東京の自宅を自力で建てました。

人間にとってなによりも大切なすまいが安易な商品になっていることに異議を唱えたのです。

「自分で作って自分で細工して自分で使うわけですから、商品のやり取りではないのです。簡単にできてしまうようなものは面白くないじゃないですか」

「これは自転車。そこらにあるものでいいんだけと」石山さんは中古自転車を使って水力発電をつくろうという提案を携えていました。

ほかのどの作品よりも長く深く関わった開拓者の家は石山さんにとって原典と呼べるものです。

正橋さんが常に手を入れ、この家は今も変わり続けています。

建築家に支えられ、自力で家を建てる人。その家を精神の支えにする建築家。二人の冒険に完成という言葉はありません。