日曜美術館「奄美の森に抱かれて~日本画家 田中一村 ~」

今年生誕110年を迎えた日本画家・ 田中一村 。50歳のとき奄美大島の自然に魅せられて移り住み、その風土を鮮やかに描き出した。そんな田中一村の画業の足跡をたどる。

明治41年に生まれた田中一村は、彫刻家だった父親の手ほどきで絵を学び、8歳のころから神童と呼ばれた。優秀な成績で東京美術学校に入学するが、病気や教育方針の違いから辞め、自分独自の世界を切り開いていった。特に旅で九州を訪れ、南国の自然に魅せられ、それが奄美大島に渡るきっかけとなった。奄美では木々や生き物すべてに神が宿るという信仰があり、彼の画風は森に抱かれるような心象風景にまで昇華していった。

【ゲスト】美術評論家…大矢鞆音,【司会】小野正嗣,高橋美鈴

放送:2018年7月29日

 

日曜美術館「奄美の森に抱かれて~日本画家 田中一村~」

神々の森。垂れ下がったガジュマルの木の根が幾重にも絡み合います。

薄闇からじっと外界を見つめるトラミミズク。

鬱蒼とした森を捉えた一枚の絵。

時として絵画に描かれる生き物は、作者の自画像だとも言われます。

描いたのは、日本画家田中一村。

奄美大島と出会いひたすら島の自然描き続けた画家でした。

昭和33年。一村は奄美大島へと渡りました。

奄美群島は一村が渡る5年前に返還されたばかりで、当時パスポート無しで行ける最も南の島でした。

田中一村は50歳から69歳でなくなねまでの19年間を奄美で過ごしました。

原色の奄美の植物、生き物たち。一村は見るもの全てに心を奪われました。

「奄美の海に蘇鉄とアダン」。

南国特有の植物アダン。

鮮やかに花を咲かせた蘇鉄。

色鮮やかな自然に心を奪われた旅人のような一村の目は、次第に土地の人の目へと変わっていきました。

奄美では生き物、木々、全てに神が宿っているといいます。

一村の視線は森の奥へ奥へと入り込んで行きました。

奄美を描いた画家

昭和33年。

田中一村は50歳の時千葉の家を引き払い、船で奄美大島へ渡ってきました。

鹿児島市の南西370キロにある奄美大島は、四季を通じ温暖な亜熱帯気候です。

美しい珊瑚の海が広がり、山には亜熱帯の植物が繁茂しています。

最大で10メートルにもなるシダ植物「ヒカゲヘゴ」。

奄美大島にしか生息しない「オーストンオオアカゲラ」など、希少な動植物の生態系が維持されています。

国立療養所・奄美和光園。

昭和18年に開設されたハンセン病療養所です。

一村は本土の知人から、困ったことがあったら訪ねるようにと和光園を紹介されました。

周りを山に囲まれた和光園。

一村は園内の官舎に住まわせてもらいました。

当時和光園の庶務課長だった松原若安さん。

松原さんはいっそんを自分の官舎に招き、一緒に食事をしたり何かと面倒を見てくれました。

一村が奄美に来て絹地に最初に描いた作品「パパイヤとゴムの木」。

南国らしい植物を墨の濃淡で表現しています。

柔らかなにじみやぼかしの味わいは、いかにも日本画的です。

この作品は松原さんの家の八畳間を借りて、庭を眺めながらその風景を描いたものです。

当時小学六年生だった若安さんの息子松原千里さん。

一村がパパイヤとゴムの木を描いていたときのことを鮮明に記憶しています。

「その絵を書いている時、私の六つ下の弟が先生の背中にポンと飛び乗ってしまいまして、父も家族もあーっと思ったのですが。そーっと開けてみましたら、片手でヨシヨシとしてきちんと座られて、まだもう一本の手ではですねじっと描かれていて・・」

これまで孤高の画家と言われ、一人画業を貫いてきたと思われていた田中一村。

しかし、実際には周りの人たちとの関わりの中で描いていました。

和光園のまわりの豊かな自然は一村にとって画題の宝庫でした。

毎日森で植物や生き物を観察していました。

幼い千里さんは母親におにぎりを持たされて一村に届けていたといいます。

「僕がおにぎりを持ってきたのはこの辺」

「その当時は川の水が豊富で、大きな岩と小さな岩があるのですが、先生はこうされたり腰掛けられたりですね、じっとしておられて」

「何をされていたんですかというと。アカショウビンとかですね、それが来るのを待っておられたんだそうです」

岩の上で羽を休めるアカショウビン。

「初夏の海に赤翡翠」

奄美に来たばかりの一村が旅人として心躍る目で見つめた南国の景観です。

「奄美の里に褄紅蝶」

一村が好んでよく描いたビロウの葉。その裏表を薄墨で見事に描き分けています。

下から突き上がるのはアオノリュウゼツラン。

その先でヒシバデイゴに戯れる褄紅蝶。

南国の森のなかでじっと目を凝らし続けた一村の鋭敏な観察眼が生み出した作品です。

田中一村の軌跡

明治41年栃木で八人兄弟の長男として生まれた一村は、六歳の時一家で東京麹町に移り住みました。

その頃、彫刻家だった父からすでに絵の手ほどきを受けていました。

八歳のときに描いた「白梅図」

この頃には一村はすでに神童と呼ばれていました。

幼い一村が学んだのは江戸時代に中国の影響を受けて生まれた南画です。

水墨を基調とした絵画で、柔らかな筆使いが特徴です。

熱心に南画を学んだ一村は、大正15年。18歳の時東京美術学校、現在の東京藝術大学日本画科に入学しました。

しかし一村はわずか二ヶ月で東京美術学校を辞めています。

理由は結核を患ったため、あるいは父が病に倒れ、一家を支えなければならなくなったためなどと言われてきました。

しかしそこにはさらなる理由がありました。

「文展が始まった頃にすでに南画の時代の終わりが近づいていた。展覧会でも南画の出品はヘリ、新しい作品・新派という作品が増えてきている」

「東京美術学校に入っても教育方針は違うし、ここにいても居場所はないという思いを持ったのではないか」

昭和13年。一村が30歳の時、一家は東京を離れ千葉の千葉寺という場所に移り住みます。

両親と3人の弟を亡くし、家族は祖母と姉と妹の4人になっていました。

千葉で頼ったのは川村幾三さんです。

叔父の川村幾三氏に「これだけの金額で出来る家を作って欲しい」と依頼し千葉市千葉寺町に家を新築した。
姉・「喜美子」、妹・「房子」、祖母・「スエ」と移り住む。

一村の絵を高く評価し、生涯に渡っても家族を経済的に支えてくれました。

千葉での一村は誰に師事するでもなく自分なりの絵とは何かを問い続けました。

昭和22年。39歳の一村が描いた「白い花」。

一人絵の道を追求していた一村はこの作品を青龍社展に出品。

みずみずしい緑に映える白い花を描いた作品は見事入選を果たしました。

一村は支援者の川村幾三さんの家に

「おじさん、おばさん。やっと入選しました」と、入選はがきを手に嬉しそうに飛び込んできたといいます。

日本画家・土屋禮一さん。

一村の友人だった日本画家・加藤栄三と関係が深く、予てから一村の感性に注目していました。

「油絵は目をしっかりと見開いて描け。日本画は目をつぶって描けっていうのですね」

「見の目弱く、観の目強くというのですけど。ものは見るだけじゃなくてよく感じろ」

「白い花というのは自己主張というか、心の一番深いところで描かけるわけで。一村がいない。そこに花があるだけで。自然の中にある花の美しさ」

そして昭和30年。47歳の夏。旺盛な創作意欲を胸に旅に出ます。

熊本阿蘇の雄大な自然から始まるスケッチ旅行。

この旅が運命的な旅になりました。

これまでの人生の中で見たこともない自然の色。

千葉に戻ってから「草の芽生えは本当にきれいだった」と川村幾三さんに繰り返し語ったといいます。

阿蘇から宮崎に抜けた一村は日南海岸で真っ青な空と海、そして青島に出会います。

奇岩・鬼の洗濯板を見て「千葉の海岸とはおよそ違う風景。すごいスケールだった」と話しています。

そして始めて見た青島のビロウの樹に目を奪われました。

この時見たビロウは後々まで一村の心に強烈なイメージを遺しました。

色紙に描かれた「青島の朝」。

力強いタッチのビロウの向こうに真っ青な海が広がります。

南国の太陽に照らされた鮮やかな色彩。

生い茂るビロウの樹。

一村は「青島の朝」を包んでいた紙に、この時の心の高揚を記しています。

海ハ碧玉空ハ緑玉檳榔樹ノハハソヨグ南国ノ夢アリ

どこまでも青い海。透き通るような空

そしてビロウが風にそよぐ南国の風景。

もっと南へ。奄美へのあこがれの始まりでした。

もっと南へ

九州の旅を経ていよいよ昭和33年12月。一村は奄美に渡りました。

高価な岩絵の具や絹を買うため大島紬の工場で働き始めました。

奄美大島の伝統的な織物大島紬。

数多くの工程をすべて人の手で行い、1300年以上の歴史があると言われています。

一村は紬工場で糸に色を染め付けていく染色工の仕事を得ました。

染色とは機織り機に掛ける前の糸に、

決められた図案通りのところへ色をしっかりと刷り込んでいく熟練の業を要する工程でした。

日給は450円。一村はここで5年間働いて絵を書く資金を貯めようと思いました。

一村は千葉の支援者川村幾三さんへの手紙に

「私の絵かきとしての最後を飾る立派な絵を書いていきたい」と奄美で生きていく覚悟を伝えています。

一村は日常の生活の中で新たな作品を生み出していきました。

工場へ通う道の途中で見かけた名もない花へも目を留めます。

草むらの中にひっそりと咲くコンロンカ。

土地の人達が名前も知らず気にもとめないような花でした。

梅雨の時期に奄美で咲くアカミズキも描かれています。

一村は紬工場への途中にあった魚屋に毎日のように立ち寄りました。

日々絵の題材を求め歩く一村の目線は、南国特有の魚へも向けられていました。

当時店に立っていた押川フサエさん。

一村は店先で珍しい魚を見つけるとじっと観察したり、頼み込んでスケッチをさせてもらったりしていました。

「描きたいの(魚)はね、陳列から出して、どこででもいいから描いていいですよって主人が言ったから、それはありがたや話と言って、エラブチを好んだ。

これまで持っていった紋様描くから、鱗まで、鱗まで洗って、きれいに洗って、あらってそれを少し乾かして、帰るまでに。そして持っていった。鱗なにするんだかわからない。何にするか言わなかった」

画面を埋め尽くすようにぎっしり描かれた海老や魚。

細部まで緻密に描きこまれています。

岩絵の具も厚く塗り重ねられ、ウマヅラハギの肌の滑りまで感じられます。

店先で観察していた海老はトゲの一本一本まで正確に写し取っています。

一村の眼は地元の風土にも向けられました。

海沿いの集落で5月から6月にかけて古くから行われている「浜下レ」のまつり。

豊漁や五穀豊穣などを願って人々が集います。

自然の恵みも人の幸せも全ては海の彼方にある楽園・ネリヤカナヤからやってくる。

人々はネリヤカナヤとつながっている浜に降り、神に感謝の思いを届けます。

奄美に根を下ろして生きていく覚悟を決めた一村の心に土地の人々の息遣いが深く染み通っていきました。

そして海にも山にも、生き物にも木々にも神々が宿っているという思いが一村の心の中にも芽生えてきました。

もはや旅人ではなく島の人間となった一村は、森のさらに奥深くへと分け入っていきました。

心を無にして自然と一体になっていく。

静まり返った森の中。

かすかに聞こえる波の音。

神々の気配。

一村が感じ取った奄美の姿。

山裾にガジュマルの木が立つ神聖な場所。

一村がたどり着いた世界。

時として絵画に描かれる生き物は作者の自画像だとも言われます。

田中一村は69歳でなくなるまでひたむきに奄美と向かい続けました。