日曜美術館「遺(のこ)された青春の大作~ 戦没画学生 ・久保克彦の挑戦」

日曜美術館「遺(のこ)された青春の大作~ 戦没画学生 ・久保克彦の挑戦」

昭和17年23歳の画学生が大作を描いて卒業、2年後に戦死。東京美術学校図案科の久保克彦である。彼が遺した7メートル超の大作「図案対象」は今何を語りかけてくるのか。

東京芸術大学に一つの巨大な卒業作品が遺(のこ)されている。幅7メートル超の絵画「図案対象」。作者は久保克彦。昭和17年23歳で卒業、2年後中国大陸で戦死した。描かれた大作は、戦時下とは思えない現代絵画を先取りした前衛芸術的な表現に満ちていた。久保は戦死する命運を担いながら美の探究の総括として描いたのである。久保の大作は今何を語りかけてくるのか。戦争を実感できない、若い世代も参加して読み解いていく。

【出演】東京芸術大学教授…佐藤道信,アーティスト…会田誠,黒田和子,【司会】小野正嗣,高橋美鈴

放送:2018年8月26日

 

日曜美術館「遺(のこ)された青春の大作~戦没画学生・久保克彦の挑戦」

平成最後の夏。

東京藝術大学大学美術館にある絵画が懸けられました。

具象的なものと抽象的な形が交錯する不思議な世界。

5つの画面で構成された《図案対象》。

7メートルを超える大作です。

大きく傾く船。

炎に包まれ墜落する戦闘機。

幾何学的な図形の数々。

この絵にはどんな意図が隠されているのでしょうか。

描かれたのは76年前。

太平洋戦争のさなかのことでした。

東京美術学校図案部の久保克彦の卒業制作。

これが最後の作品となりました。

久保はこの作品について一言も語らず出征し戦死しました。

「久保さんの絵はね、今機械文明に生きているものはすべてがやられてしまう。そういう恐怖を感じました」

戦時中に描かれたとは思えない斬新な表現。

そして76年を経てはじめてこの作品と対面する現役の藝大生たち。

「散りばめた要素の中に久保さんの思考的要素が入っていて」

「全体的に攻めている作品というか、チャレンジしてやっている」

目前の死を予感しながらあえて難解な前衛表現に挑んだ久保克彦。

この絵で最後に表そうとしたものとは何だったのか?

そのメッセージを読み解きます。

《図案対象》

難解な《図案対象》。

そこにはどんな秘密が隠されているのか。

後輩である東京芸術大学デザイン科の学生たちがその解析に挑みました。

学生たちを指導するのはデザイン科准教授の押本一敏さんです。

まず5つの画面に描かれている内容を検証して行きます。

一番右の第一画面は、ねじれて回転する曲線や円など、平面的な図柄で構成されています。

第二画面は立体的な楕円や球体が浮遊し蝶や花々が乱舞する不思議な構図です。

中央の第三画面は、墜落する戦闘機と大きな船のまわりに鳥や昆虫、魚などが一見無秩序に描かれたダイナミックな具象画になっています。

第四画面は岩石など様々な立体物を平面に置き換えて表した幾何学的な構図です。

そして一番左の第五画面は、同じ形を無限に繰り返すフラクタルの法則など数学的な原理を視覚化しています。

学生たちは五つの画面の中に様々な対比の構図があることに気づきました。

「全部の絵で抽象とか具象とか、線と曲線とかで入っている一つの画面で3つくらいの要素が対比させていて、それが全部の絵の中でそうなっている。構造だけで見たら全部、五枚とも同じ作りになっている」

「すべての絵にそうなんですが、花とか有機的なものが出てきている。構図の幾何図形*1的ジオメトリックなものと有機物的なものとの対比をしているのかなと」

さらに絵の全体に一つの法則を見つけました。

水平線で分割された縦の長さの比率を見ると1対1.618。

最も安定した美の比率”黄金比”です。

中央の画面は縦横の画面の比率から”黄金長方形”になっています。

縦の長さで絵の中に正方形を作ると、残りの四角はまた”黄金長方形”になります。

同じように繰り返していくと絵は正方形で埋め尽くされて行きます。

久保は”黄金比”を駆使してその正方形の中に絵の主題となる戦闘機や船などを配置していました。

「執念を感じるくらい黄金比であったりとか、計算がされた画面に生きるがすごいなと思いました。どうやって絵を作っていったのか計算から入っていったのかわからなくて深いと思います」

「この人は無機的な曲線とか直線を主に使ってすごく生々しいものを描いているなと思って、それがすごいなと思って」

「これが技法としては黄金比とかを使っているんですが、それを見せないようにしている。それが嫌味に見えない感じとかは、私自身の制作に対するスタンスと似ている」

さらに第4画面の複雑な図像を押本研究室で3Dの画像にしてみました。

複雑に交錯する平面を立体として組み上げていくと、様々な断面を持つ正四角形の立方体になりました。

「あえて複雑な画像を二次元画面の中でやているわけです。わかりやすく描くというよりも、難解に見せるようなトリックを忍ばせるような感じです」

難解で複雑な表現を絵の中にしかけた久保。

そんな表現の秘密を解き明かそうと試みた人がもうひとりいます。

久保の作品について10年にわたって研究した姪の黒田和子さん。

10歳の時に《図案対象》の制作にも立ち会っています。

一見無秩序に見える第三画面。

すべてのものが計算された法則の上に配置されているといいます。

「分割線と対角線のところに蝉がいます。ここにもトンボがいます。トビウオがいます。みなそれぞれのところに何かが置かれています」

黄金比で分割された四角のカド。

船やクレーンなどの線を延長していくとその交点にあらゆるものが配置されています。

鳥やトンボや飛行機。グライダーや蝉などほぼすべてのものが計算され配置されていることがわかります。

さまざまな線は他の画面にもつながっていて、画面と画面との複雑な関係性が見えてきます。

さらに黒田さん五画面を通して時間の経過が描かれているといいます。

「すべてのものに影ができています。その影と実物とをつなぐと太陽の位置がわかる。朝日、夕方となっていて時間の経過を表しています」

太陽の位置を計算すると、第一画面は木の陰により朝六時。

第二画面は一番下にあるロープの影を見ると午前九時。

中央第三画面は墜落する戦闘機の赤い影によって正午 。

第四画面は小さな立方体の影により午後三時。

そして第御画面は竹の影から夕方六時になります。

久保は絵の中に時間の変化までも表そうとしたのです。

《図案対象》それは久保が獲得した美の知識のすべてを描きこもうと挑んだ壮大なグラフィック*2でした。

久保の生い立ち

久保克彦は大正七年、瀬戸内海の小さな島に生まれました。

山口県佐合島。

広い空と海に抱かれた周囲四キロの島です。

女四人、男二人の六人兄弟の末っ子でした。

久保の生家は代々この島で醤油の醸造を生業としてきました。

父・周一は白船という号を持つ俳人で種田山頭火とも深い交流がありました。

久保白船が描いた佐合島の風景です。

やがて一家は徳山に移住。

久保は父の影響で絵の好きな少年として感受性が磨かれました。

小学校六年生の時の日記です。

本で調べたのでしょうか、毎日違った機種の飛行機を実に丹念に描いています。

やがて久保は画家を目指して上京。

昭和13年。念願の東京美術学校工芸科図案部。今の東京藝大に合格します。

その時の喜びを姉への手紙にこう書いています。

「ああ春なり春ならむ。春ならかし。春ぞかし。春なりけむ。恋なぞしたい。うまいものも食いたい。恋人もほしい。そして手を組んで銀座四丁目あたりを歩くのもよいだろう。あ、忘れてました。久保克彦氏におかせられましては、今回めでたく東京美術学校にパスされました。偉え肩書を持って威張ってやがら。テヘヘヘ」

入学後に描いた静物画です。

当時久保は工芸図案部15人の中で常にトップの成績でした。

「小生にとっては絵が命であり、生活であり、娯楽であり、慰安であるのです」

これは久保が描いた植物のデザイン画です。

様々なものを色や形、質感などに分解し、デザイン的に再構築するという課題でした。

この時培われた発送がやがて《図案対象》につながっていきました。

《ベートーヴェン第七交響曲》と第されたポスターです。

木の板壁を背景に三半規管を思わせる形の縄が様々な階調の色彩で描かれています。

中央には目を連想させる穴。

縄の中には新聞の見出しでしょうか。

意表をつく物同士を組み合わせ前衛的なイメージを作り上げています。

久保克彦の人生の足跡をたどり画集までまとめたおいの木村亨さんです。

久保しあったのは小学校1年生の時。

すでに記憶になかったおじの人柄を改めて知りました。

「久保君はとにかく几帳面で勉強家で読書家だった。久保君の下宿に行くと部屋の中も机の上も整然としていて、わからないことがあると久保くんにきくのだけど、彼が即答せずに、時には二三日たってから、百科事典のいつ項目になるようにきれいに整理してわかりやすく説明してくれたと聞きました」

真面目で几帳面な久保でしたが反面ユーモラスな一面もあったようです。

「これは母上には内緒ですが、実は小生昼飯抜きなのです。ランチ・タイムのひもじさと言ったら、今でこそ馴れて楽になりましたが、学校が正午に終わって帰り道、市営の市場でコロッケ5個10銭なりの傍らをつも通るのですが、そいつを横目でにらみながら垂涎三丈。クソっと思って我慢します」

少ない仕送りを我慢しながらも学生生活を満喫していました。

この明るく軽やかなスタイルがも久保の作品です。

この服を着せてみたいある女性のために描きました。

その人は親友原田改さんの妹智恵子さんでした。

「智恵子さんのために描いたデザイン画を見ますと微笑ましいというか力が入ってますよね。智恵子さんは海軍中尉に嫁がれたんですが、今日は海軍士官の結婚式だと言い残して出ていった日は夜遅く酔いつぶれて帰ってきてそれから数日そういう日が続いたといいますから、ダメージは大きかったと思うのです。図案対象を描きながら自分の気持を整理していった。そういったところはあるでしょうね」久保亨さん

そんな甘酸っぱい日々が終わりやがて久保の人生に暗い影が大きくのしかかってきます。

戦争です。

久保が試行錯誤を重ねて挑んだ様々な前衛表現。

その斬新なグラフィックに惹かれた人たちがいます。

その一人が久保克彦と同じ東京藝術大学出身の現代美術家・会田誠さんです。

戦争がを集めた本を企画した際に《図案対象》を取り上げたことがあり、モダンで前衛的な久保の作品は突出していたといいます。

「とにかく圧倒的に珍しいですよね」

「絵画というよりデザイン。戦後のデザイン感覚を先取りしているところは明らかにあります。若々しい好奇心にあふれています。不必要なほど細かく描いているので」

「ちょっとした自分の曼荼羅というか世界観を細かいところまで細部まで作り込みたいという意思を感じます

「日本人として絵を描くというのではなく20世紀の人間として普遍的なものを描きたかったような気もします。すごい。圧倒されます」

もうひとり、強い関心を示したのが数学者のピーター・フランクルさん。

この絵の幾何学的な表現に惹きつけられたといいます。

中でも絵の左側の幾何学的表現は、永遠に続くものがテーマになっているといいます。

「戦争が終わって結局物質はそれでも変わらない。たとえ人間がいなくなったとしても、いろんな結晶が同じように残ったりするし、それは永遠の真実であったりして」

「フラクタルも同じようにこの全体を見て、さらに再分割して小さくしてさらに小さくしても、終りがあるわけではなく永遠に続くものがある。まさにそれの一つの例であって、いずれにせよこの基本にある学問やら自然とか、その後また発展が続く」

文明や人間が破滅しても永遠に変わらないものがある。

それこそが再生への原動力である。久保の強い思いではなかったかといいます。

昭和16年12月8日。太平洋戦争開戦。

全国の大学生たちも戦争の時代へと巻き込まれて行きます。

東京美術学校にも軍の配属将校が常駐。

軍事訓練も課せられます。

当時久保が軍部からの課題で描いたポスターです。

スパイを監視せよというテーマですが、まさに軍の圧力に抵抗するかのような挑戦的な表現になっています。

当時、久保は戦争とどう向き合っていたのでしょうか。

「権威というか権威主義というか、権威を笠に着る人間、こういった人間を嫌悪するという局面はあったと思うのです。軍隊という組織の中でなんとか自分を見失いたくない・・・」久保亨さん

東京美術学校時代、久保の後輩だった画家の野見山暁児さん。

当時は先の見えない不安な日々が続いたといいます。

「卒業の日を持って絵を書くのは終わりと。それは三年先でも二年先でもやがて確実にやってくるんですね。確実にやってくると気づいた時恐怖だったんだな・・・・・・・」

野見山さんは久保の卒業制作を見た時衝撃を受けたといいます。

「久保さんの絵はね非常に反戦的だというのでびっくりしたね。僕は、反戦的というよりもね、今に機械文明に生きているものはすべてがやられてしまうんだ。というそういう恐怖を感じました。・・・・」

昭和17年。 戦況が悪化し、大学の卒業が半年間繰り上げられました。

久保は西荻窪の姉の家にアトリエをしつらえ、昼夜を通して卒業制作に没頭するようになります。

「母の証言によりますと、すごく自信に満ちたような顔をして、充実したような顔をして仕事をしていたそうです。おそらく久保の短い生涯の中でいちばん幸せな時間だったんじゃないかなと思います」

絵の制作は中央の第三画面から始まり、わずか一ヶ月半で仕上げたといいます。

最初はグラフィックな要素だけの構図を考えていましたが、途中から美しいもの、自分が好きなもの、さまざまなモチーフを雑誌や本から探し出し、絵の中にコラージュしようと思い立ちます。

「これがスクリューです。20度位傾けている」

「船はこれです。30度位傾いています」

さらにはこんな小さなものも。

急降下する鳥。

鯉の群れなど、様々なものが散りばめられています。

「久保は日本の敗戦を意識したと思って。なんかもう自分は死ぬのじゃないかと考えたみたいで。今までのものから総括みたいなものに変わったのではないか」

卒業制作を仕上げた久保は故郷山口で当時の心境を手紙に記しています。

「芸術も恋愛も友情もすべて空しい煙と消えて、人間の精神に求めた歓喜と尊厳の栄誉も夢のまた夢。肉体と食欲の世界へ入ります。この暗雲。硝煙と破壊の中からもいつか愛の夢がほのぼのと立ち上る日が訪れるのでありましょうか」

卒業の翌年、久保は久留米の予備士官学校に入校します。

毎日体力の限界まできびしい軍事訓練が続く中、美術への思いは封印されました。

昭和19年4月末、 久保克彦は中国の湖北省に見習士官として出征します。

そして7月、一発の銃弾によって戦死。25歳。

同期の卒業生の中で唯一の戦没者でした。

久保克彦が《図案対象》で表そうとしたのは人類と文明の危機でした。

久保が習得した線や形。球体の美しさ。そして命の煌き。

そうしたものが戦争という現実の中で失われつつありました。

20世紀を象徴する機械は、文明を崩壊へと導く道具となるのか。

作品はそれを問うています。

「俺は一兵卒として死ぬ」

と友人に語った久保。

出生する直前に書いた手紙にはそんな無念な心情が溢れていました。

「生き抜いて、七度生まれて絵を描いてくれ」と机の上の日記の一ページの見るともなく目に入った文字が苦しくて、何年前家の秋の夜に枯れてしまっていたはずの涙が流れて、流れて。心の尊厳と優美の上にいきてきた私の美は嵐の前に吹き消される灯火のようにちっぽけなものだったのでありましょうか。私の自己嫌悪は救いがたいのです

久保の卒業から76年。

東京芸大デザイン科の後輩たちが卒業制作に取り組んでいます。

彼は今まさにデザインの構想をねっているようです。

「今はクリエィティブの欠片を探しているというか・・・・ぐるぐる考えています」

死ぬことへの不安や複雑な思いを抱えて久保が全身全霊を傾けて描いた《図案対象》。

今、その作品が今同じ世代の学生たちの前にあります。

「自分と同じくらいの年頃だった人が、これが遺作になるかも知れないと思って出征に臨む。その意気込みみたいなものって、それが一番すごいというか。熱量というものが違うのかなというか、チャレンジしてやったのだなと思います」

「デザインってメッセージを人に伝えることを大事にしているけど、この絵ってメッセージが分かりやすいわけではなくて、なにか直感的に鑑賞者に訴えかけるようなものが描きたかったのかなと思って、だからこういうシンボリズムを多用したりだとか、画面構成を計算しつくしているけどパッと見わけわかんないみたいなような絵にしたのかなと思いました」

「近くで見て圧倒されて怖かったんですけど、死ぬかも知れないというか、ただ若干死ぬかとわかりながら描いてていた、本当に命をかけて描いているように感じがして、全て自分が本気でこれからこんなふうにできるかとかいろいろ考えさせられました」

「憶測なんですが、描きかけなのかなと思って、戦争で死ぬかも知れないという状況の中で描いていて、もしかしたら戦争が終わったあとにこれをもう一つ加筆して完成させようみたいな、なんかそういう生きるメッセージみたいなものを感じて、それを伝えたかったことなのかなと思いました」

「この絵があったからこそ、自分がこれから戦争に行くということと向き合えたのかなと思っていて、君はこれから戦場に行くんだといわれて実感が無いというか、よくわからないまま戦争に行ってしまうイメージなんですが、自分が考えていることをまとめて絵に出すことで自分の考えを整理すること。運命的なものと向き合う自分を作れたのかなという気がします」

久保克彦の日の探求は戦争によって終わった。

しかし、久保の遺した日のメッセージは今も若い世代に問い続けている・・・

久保克彦25歳。

その魂は静かな海に抱かれた故郷佐合島に帰っています。