日曜美術館「 縄文 “美”の発見」

縄目の模様の縄文土器や人をかたどった土偶。そうした縄文時代の“美”が今、注目されている。縄文をテーマにした映画や本も出版され、国宝にも認められたその魅力を探る。この夏、東京国立博物館には縄文時代の国宝6件すべてが集結する。もともと土器や土偶などの出土品は、当時の文化や生活を知る研究資料として見られその美術的価値は見過ごされてきた。芸術家・岡本太郎は「日本人の祖先の美意識だ」と激賞し、バブル時代の開発に伴う発掘調査で次々と貴重な出土品が発見され、ついに95年に「縄文のビーナス」と呼ばれる土偶が初めて国宝に認定された。その過程を追いながら縄文の美を味わう。

【ゲスト】建築史家・建築家…藤森照信,東京国立博物館 主任研究員…品川欣也,【司会】小野正嗣,高橋美鈴

放送:2018 年7月22日

日曜美術館「縄文 “美”の発見」

東京国立博物館で縄文時代の美をテーマにした展覧会が開かれています。

全国から集められたおよそ200点にもおよぶ出土品です。

日本人のルーツとも言える縄文時代の人々。

彼らの作った漆塗の水差しや、

ハート型をした土偶など、その美意識が伺えます。

「見たことのないものが結構ある」

「こんなにちっちゃいんだ」

気になったのは木の皮を丁寧に編んだ籠。

こうした出土品を見ると藤森さんは一万年の時を越えて縄文時代の人々を身近に感じるといいます。

「古い時代の、我々とつながる人たちが遺したものだというとすごく新鮮で、宝探しという感じです」

屋根に植物がある家や土でできた美術館。

藤森さんは自然素材を使った建築で知られています。

縄文時代の住まい竪穴式住居をつくったこともあります。

展覧会を企画した品川さん。

二人は縄文時代前期の土器から見ることにしました。

千葉県松戸市から出土した関山式土器と呼ばれる土器群です。

「土器の見どころは縄目模様。縄目模様が様々な方向に施されていることがわかるかと思います」

この縄目文様が縄文の由来となったのです。

同じ土器でも縄の種類や押し当てる方向を変え、さまざまな文様を表現していました。

「こんなに細かいのが、段をつけているとは思わなかった」

「縄目模様そのものは縄文時代の草創期から登場するんですが、この縄文時代の前期、関山式土器の時代にいちばんバリエーションが多く登場しています。そこに土器を作る気遣いが見えてくるのです」

表面に見られる黒い部分は煤のあとです。

このことから土器は煮炊きに使われていたことがわかっています。

この土器こそが縄文時代を象徴する道具なのです。

当時は動物を狩り、木の実を拾う狩猟採集の暮らしでした。

土器の発明で調理だけでなく、食べ物を保存できるようになり、定住が進みました。

縄文土器のおかげで豊かで安定した暮らしがおよそ一万年にもわたり続いたのです。

立体的造形

次に見たのは縄文時代中期の土器です。

新潟県十日町市から出土した火焔型土器や王冠型土器。

前期の縄目文様は粘土を貼り付けた立体的なものに変わりました。

燃え盛る炎や、王冠のような形が名前の由来です。

「彫刻を見ているような感じです」

中でも特に優れているとされるのが国宝の火焔型土器です。

火焔型土器の中でも特に形が洗練され、仕上げも細部まで丁寧に作られています。

うずまき、うねる立体的な装飾はまさに縄文の美の極致です。

「日常的に動物を食べていたわけですよね。当然食べると腹を切るわけで、内臓的なものを見てた。そっちのほうが大事だったのではないか。農耕ではない美学ではないかと思います」

実はこうした縄文の装飾的な土器は世界に類を見ないものです。

同じ時代の中国の土器「彩陶鉢」。

メソポタミア文明で使われていた土器。

エジプトの土器。

いずれも形はシンプルで実用的なものです。

「おそらくすごく安定している。なおかつ豊かな中で一万年かかってああいうことを繰り返した。だから珍しいと思います」

さらに縄文時代には土器と並び立つ美的な出土品があります。

土偶です。

土偶とはヒトを象った土の焼きもの。

国宝「中空土偶」は、北海道函館市から出土しました。

文字通り足先から頭まで中が空洞で作られ、

最も薄い部分は厚さわずか二ミリです。

その体全体には精緻な文様が施されています。

縄文の人々の技術力の高さを示しています。

土偶は何のために作られたのか?

仮の成功のため、安産のため、死者の再生復活のためと諸説あります。

いずれにしても縄文の人々が願いを託した祈りの道具ではないかと推測されています。

山形県舟形町から出土した国宝「縄文の女神」

高さ45センチ、重さおよそ3キロ。

最大級の土偶です。

現代的なデザインを感じさせるくびれたウエスト。

洗練された造形です。

座った形の土偶もあります。

青森県八戸市から出土した国宝「合掌土偶」です。

胸の前で手を合わせる姿から名付けられました。

胸には乳房があり、出産する女性の姿であるとも言われています。

足や腰の割れ目には天然のアスファルトを接着剤のように塗ったあとがあります。

縄文の人々はこの土偶を修復しながら使っていたと考えられています。

「再生という、生きて死んでという魂の再生に使われたと思います。精神的、宗教的な造形です」

縄文の美は最近認められた

八ヶ岳を望む長野県茅野市。

14986年夏。縄文のビーナスがここで発掘されました。

守矢冒文さん。当時その発掘に立ち会った学芸員です。

「当時はこの当たり一面は田畑で、この中に棚畑遺跡がありました」

棚畑遺跡は大正時代から知られていた遺跡。

茅野市ではこの場所に工業団地を移設するために発掘調査を行っていました。

「あれ。変なものがあるねという話から始まって、時にしては変なもの。あれもしかしたら大変なものかもしれないという話に盛り上がっていきました」

縄文のビーナスはほぼ完全な姿で見つかりました。

壊れた状態で見つかる土偶が多い中、それはとてもめずらしいことでした。

「次の日に掘り出したときには光の中に輝くように見えた。これはすごい」

ビーナスという名。発掘後その造形の美しさから、自然にそう呼ばれるようになりました。

どっしりとした足に豊満な腰。

突き出たお腹があり、妊婦の姿を優美な曲線で表現しています。

しかし、その美が国宝に認められるにはいくつもの壁がありました。

もともと縄文の遺跡の発掘は明治時代の東京大森貝塚の発掘から始まりました。

縄文の人々が食べた貝の残骸や出土した時は当時の生活や文化を知るための研究資料とみなされてきました。

考古学には美術的な視点がなかったのです。

そうした中、縄文の美に注目したのが芸術家・岡本太郎です。

1951年。40歳の岡本は東京国立博物館で偶然縄文土器に出会い、衝撃を受けました。

「四次元的な感覚を持った狩猟民族ならではの感覚を持った人々が作ったに違いないということに気づきまして、その造形力の豊かさに感動したのですね」

「激しく追いかぶさり重なり合って、隆起し、下降し、旋廻する流線紋。これでもかこれでもかと執拗に迫る緊張感。しかも純粹に透った神経の鋭さ。この圧倒的な凄みは、日本人の祖先が誇った美意識だ」(「日本の伝統」より)

そもそも国宝は昭和25年の文化財保護法によって指定されるようになりました。

その要件は、世界文化の見地から価値の高いものでたぐいない国民の宝たるもの。

つまり美術的に優れているだけでなく、学術的にも価値が高いことが必要となるのです。

縄文のビーナスが国宝と認められるには学術的な価値が必要。

鵜飼さんは学術調査である妙案を思いつきました。

「病院に行けばレントゲン写真がある。諏訪中央病院に役所の関係者がいるので話をした所、撮ってもらうことができる」

調査チームは病院でレントゲンとCTスキャンを撮ってもらうことができました。

これが縄文のビーナスのレントゲン写真です。

足、胴、両腕、首に見える白い筋。

これによって土偶がパーツごとに作られ組み立てられたことがわかりました。

縄文のビーナスは設計図があるかのように計算して作られていたのです。

当時鵜飼さんの部下として調査に関わった守矢さんは制作者の高い技術に驚いたといいます。

制作者は熟練しており、火の扱い方にも習熟していることがわかりました。

ビーナスの足のCT写真です。

右側の黒く見える部分には空気が入っています。

通常は焼く際にこの空気が急激に膨張して爆発してしまいます。

しかしビーナスはなぜ壊れずに焼けたのか。

その秘密は発掘写真から読み解くことができます。

右足のかけたところには生焼けの粘土が見えます。

つまり縄文のビーナスは急激に空気が膨張しないように絶妙に火加減がコントロールされていたのです。

「火の加減を調整しながら土の造形を崩さないように作っていく技を熟知した最高峰がこのビーナスだろうなと考えた」

調査チームは5年かけて千ページを超える報告書を作成。

縄文のビーナスが学術的に価値が高いことを明らかにしたのです。

しかし美術的価値の認識はまだまだ低いものでした。

国宝を選定する文化庁の元職員で考古学の研究者でもあった土肥孝さん。

縄文のビーナスは国宝に値すると思っていました。

「かなりバカにされました。なんで美的に見るんだと。そんなことはありえない話だと研究資料だから。あんた研究者辞めたのかとまでいわれたんですけれども、そうじゃなくて美的なものを美的にみることは非常に重要なことなんだけど、そういうことは今までほとんどされていなかった」

縄文の出土品の美術的価値を証明するため土肥さんはある意外な作戦を思いつきます。

それは海外で展覧会を開くことでした。

ベルギーやアメリカで展示された土器や土偶は美術的に素晴らしいと絶賛されたのです。

「ピカソが何人いるんだと喋ってました。だからそれまで土偶というものは同じものだと見ていたわけです。ところがピカソが何人いるんだということは、みんな同じものじゃないよっていうことを言っている。それが大事だった。日本の研究者はまだ思っていなかった」

海外で評判を読んだ土器や土偶は日本でも美術的に高く評価されるようになりました。

そして1995年。文化庁の専門委員会は縄文のビーナスを全会一致で国宝に指定するよう答申したのです。

国宝の解説文にはこう書かれています。

美しい曲線でまとめられた安定感あふれる姿形。光沢ができるほど磨き上げられ均整が取れた伸びやかな表現、質量感。洗練された造形美。本土偶は縄文時代の精神文化を語る傑出した遺品として国宝にふさわしい価値を持つものである。

「素直に嬉しかったですね。それはそうです。なりましたなって。その時変わったのでしょうね世の中が」

世代を超えた縄文の美

縄文のビーナスが発掘された棚畑遺跡。

ここからはビーナス以外にも興味深いものが見つかっています。

それは狩りには欠かせない獲物を取るための矢じりです。

遺跡周辺が矢じりの生産にかせない黒曜石の産地であることもわかりました。

さらにこの地域の黒曜石の矢じりが遠く北海道にまで伝わっていたのです。

いっぽうここでは産出しない鉱石も見つかりました。

新潟産のヒスイ。

そして千葉県調子のものとされるコハク。

瀬戸内海周辺でよく作られる土器も見つかりました。

棚畑遺跡一体は全国の産物が行き交う豊かな交易の拠点だったのです。

さらに縄文のビーナスについても様々なことがわかってきました。

発掘調査によって棚畑遺跡には異なる時代に栄えた南北2つの集落があることがわかりました。

縄文のビーナスが発掘されたのは後に栄えた南側の集落。

ところがビーナスは頭の紋様や形状などから南側より古い時代に栄えた北側の集落で作られたと考えられるのです。

「北側の集落で作られたビーナスが南の集落が発達するまでずっと使い続けられて、最終的に南の集落の広場に埋められたのではないかと考えます」

鵜飼さんは縄文のビーナスが使われた時期は300年以上に及ぶと考えています。

縄文のビーナスは交易の中心地で何世代にも渡って大切に受け継がれた特別な土偶だったのです。

そして現代。

この土偶は今も多くの人々をひきつけています。

発掘で時を越えて甦った縄文の美です。