日曜美術館「 北大路魯山人 ×樹木希林」

日曜美術館「 北大路魯山人 ×樹木希林」

女優の樹木希林さんが日曜美術館に初登場!食通として知られる一方、独自の美意識で生涯料理に合う器を作り続けた北大路魯山人の魅力をたっぷりと語ります。

食通として知られる一方、生涯料理に合う器を作り続けた北大路魯山人。型破りで斬新なデザインから時には「焼き物知らず」と言われながら独自の美意識を貫いた。そんな魯山人に心を引かれているのが日本を代表する女優の樹木希林さん。傲慢と言われ人と衝突することの多かった魯山人の生きざまをどう読み解くのか?そしてどんなところに魅力を感じているのか?たっぷりと語り尽くします。

【ゲスト】樹木希林,【解説】京都現代美術館館長…梶川芳友,【司会】井浦新,高橋美鈴

放送:2017年8月6日

日曜美術館「北大路魯山人×樹木希林」

北大路魯山人。型破りで多彩な作風を持ちとことん美を追求しました。斬新なデザインで作られた陶芸。勢いのある書。繊細なタッチで描かれた水墨画。料理が引き立つように考えられた器。生涯その独自の美意識を貫きました。

そんな魯山人に心惹かれている人がいます。日本を代表する女優の樹木希林さんです。「色といい表装。いいですね」

数々の名作を残しながらも傲慢と言われ、人との衝突も多かった魯山人。樹木希林さんはどんなところに魅力を感じているのか。日曜美術館のスタジオに初登場。

「美によって神に近づく一番いいんじゃないか。優しいことじゃないか」樹木希林さんが魯山人の魅力をたっぷりと語ります。

日曜美術館です。女優の樹木希林さんにお越しいただきました。
樹木「日曜美術館好きで、でもね、だからといって美術品を手元に置くとか、本物を見たいというのは一切ない。ちょっと場違いな感じしません?」
魯山人どんなところに気に入ってるんでしょうか

「何にもわからない。だいたい素養がないんだから。例えば同じものでも、偽物と本物とあって。だったら私偽物でいいと」
偽物なんか気になる存在になってきた。
「どっちかっていうとその魯山人の、立派な作品を遺した人の人物のほうが面白い」

椿の花が描かれた大きな鉢。その大きさは直径40センチもあります。これは楽焼とよばれる焼き方で作られました。一般的には壊れやすいという焼き方。茶碗などの小さなものを作るときの焼き方ですが、魯山人はあえてその楽焼で大きな鉢を作りました。

そのやり方は常識のない”焼き物知らず”と呼ばれました。

魯山人の陶芸はまさに型破りだったのです。

デザインもまた型破りでした。

この花入れは竹籠を表現しています。

小刀でくり抜かれたかごの目は不揃い。

描かれた線は丈の線をもしています。

魯山人の新しいものを生み出そうとする気迫が感じられます。

藝術は計画とか作為を持たないもの。刻々と生まれでてくるものである。

言葉を変えて言うなら「当意即妙」の連続である。

この器。一見すると普通に見えますが、実はヒビが入っていたものなのです。

普通は失敗作として割ってしまうこの皿。

魯山人はヒビを埋めてすすきの柄に見立て、二度焼きをしました。

作り直して新たな命を吹き込む。これも魯山人の型破りなところでした。

この作品も失敗をものともせずに作られました。

漢詩を彫ったこの屏風には、船を浮かべ、酒を酌み交わす情景が描かれています。

よく見ると、小さく酒の文字が彫り込まれています。

実は魯山人。酒の文字を入れ忘れ、後から書き足しました。

魯山人の型破りな作風はどのように培われたのか。

そこには孤独な生い立ちが育んだ独立独歩の精神がありました。

1983年。京都で上賀茂神社の社家、北大路家の次男として生まれた魯山人。

父親はすでに他界。里子に出され多くの家を転々とします。

学校もろくに通えず、家族の愛情も知らないまま育っていきました。

その後印刷や看板の仕事でなんとか生計を立てていました。

そんな魯山人が陶芸に目覚めたのは三十代の頃です。

仕事先の旅館で出された料理の器に感動し、看板作りをやめ陶芸家を目指すようになります。

しかし型にはまることを嫌い、特定の師を持ちませんでした。

そして次第に自分独自の美意識を育んでいきます。転機になったのは魯山人42歳の時。

有力者に資金を出してもらい、東京の赤坂に料亭を開いたのです。

そこは魯山人の器に対する考えを実践する場となりました。

料理を引き立たせるための器を生涯追い求めたのです。

魯山人の生き方そのものが自由奔放で型破りな作品を生み出していたのです。

幼少期のこと家族と離れて暮らさなくてはならなかったそのことは型破りさに影響しているのでしょうか。
樹木「すごく影響していると思います。育てられなくてあちこち点々として、その中で貧しくて、大きくなって、親が恋しくってってという」
頼りたくても頼る人が頼りないっていう状況
樹木「あるいは頼らないまでも、抱きしめてくれる人がいなかったその悲しさと心細さみたいなものが後に結婚離婚を繰り返していくことなんじゃないかなという風に思う。人を信用する。人を人に愛情を注ぐ。魯山人が。相手にもそれを期待をして」
作品づくりに影響している

樹木「人のマネのできないでないものであるけれども、実に大胆で、わざと字を抜かしたりあるいは本当に失敗してもそれをやり直すなんてこと。字が抜けたら後で入れてるっていうところが好き。やっぱり創っていう字は作り出すっていうことでもあるけど、傷っていう意味でもあるわけ。そうは絆創膏のそうだからさ。やっぱりどっかに破れっていうのがないと
つまんないな」
その魯山人の作品群が持つ型破りさっていうのってそういうところにもキリンさんは感じるものがあった
樹木「おもしろいものがあります」
1973年から放送されたドラマ「寺内貫太郎一家」。樹木希林さんがなんと老婆の役でした。

樹木「でもあの頃、婆さんの化粧はしてないんです。アップになるわかるんですけど全くしてない。姿勢と扮装とですね髪の毛。今のままできますよ。何もしない」
30代の時に70代老婆を演じるって言うときのその気持ちってどうやってそこに向かって行かれますか
樹木「だから年取ったら悟れるとか成熟するとか普通役者は考えるんですね。と思うんです。おばあさんになったらこうなるだろうとか、理想があったりするんですけど。絶対に変わらないなと。内実は変わらない。ただ曲がっているだけで、欲の深さだとか見えの貼り方だとか変わってないなぁ。じゃあ私も別に年齢は、そうという設定はあるけど、気持ちは同じでいい」
お芝居は独学で
樹木「人間はいっぱいいるじゃないですか。そのそれをそれに当てはめてみていくというのはまず第一の勉強ですよね」
魯山人も独学で続けることで学んでいくっていうその独学の強みと弱点みたいな所ってどんなところが
樹木「でも魯山人の場合、基本の学ぶ。篆刻でも彫りのあれが偶然そうなっちゃったなんてことはない学び方が、基本しているからもうどうにでもなるんじゃないすかね。それを私にあの兼ね合わせて喋らせたいんでしょうけど。私は基本はない。基本は皆さんが先生。世の中にいる人間皆さんが先生。
魯山人は型破り。希林さんはその中で例えばその常識にとらわれないようにしようみたいなものって意識としてあるないんですか
樹木「私ねないんです。結果的に非常識になってるだけで、ちゃんと常識を踏まえていたいんです。例えばねちょっと今思い出したけど、あの秋篠宮殿下と妃殿下のにお目にかかる時があったんですよ。着物をちゃんと着ないといけない。留袖を着ないといけないと思ってホテルへ持ってって朝着替えてたらばひょっとなんかの拍子に帯締めがどっかいっちゃってたんですね。でももうホテルに行ってる暇もないからと思って、電気ポット。お湯沸かしないそれにコンセントがついてる。コンセントあれして黒いのむすんでこれでもうちょっと隠し知らん顔してても間に合ったんす。でも変なんですよ。妃殿下がずっと帯を見る。でから知らん顔をする。そういうとが結構ある。面白いんですよ。面白いことに後でしますよね。そうでないとつまんない」

日本でも有数の魯山人コレクションで知られる何必館・京都現代美術館。

「北大路魯山人 展-和の美を問う-」と題した展覧会が開催されています。

館長を務める梶川芳友さん。

50年にわたって魯山人の作品を収集してきました。

ゲストの樹木希林さんとは35年の付き合い。

樹木さんに魯山人の魅力を伝えてきた人です。

梶川さんは、魯山人の器は使ってこそ意味があると考えています。

魯山人の器を使う面白さを見せてくれました。備前の花入れを古材で作られた板に掛けます。

そして赤い実を付けた山帰来(さんきらい)の木を入れます。

「魯山人の器というものは、それを何と取り合わせるか。あるいはどう使うかが一番面白いところで、使い方如何によって生きてくる」

器と活けられた植物が一体となって一つの美の空間を作り出しています。

魯山人のこだわりを一番感じられるのが料理を盛る器です。

鮒ずしを置くことで織部の緑が鮮やかに映えています。

魯山人は常々「器は料理の着物」といい、器が脇役に徹することで料理を引き立たせると考えていました。

さらに魯山人の美意識は箸置きにも向けられていました。

愛嬌たっぷりな魚を始め、多くの箸置きを作りました。

箸置きは食事の始まりから終わりまでずっと膳の上にあるから重要だと、魯山人は考えていました。

「箸置き一つによってその一つの場みたいなものがですね、潤うというのか、話題になる。いろいろ考えて作っていますから、脇のもの、あるいは小さきものに対しての心遣いが非常に強い人」

こだわり抜いた器とそれに合う料理。

魯山人は料亭の場で文字通り美食を実践したのです。

使ってこそ命が込められるっていう魯山人の様の美の捉え方っていうのは
樹木「その通りだと思いますね。使ってこそ。しまっておくんじゃつまんないですもんね。まして食器として作るならば。やっぱりそれは使う人の美意識がそこで問われるわけだからなかなか面白いですよね」
よくある機会ではないですけれど、ある作家が作ったもしくは名だたる陶芸家が作った器ですとかを知らずに出されてる時とかっていう状況になった時にあなたには分かりますかって試されているようで、器との道具との中キャッチボールみたいなのあったりするんだろうなって・・
樹木「私にはちょっとそういうあのね家にあるものに値打ちのあるものでご飯食べるってなかなか腑に落ちるものではなかったですね。でも何度も京都へ行くためにふらっと常設の部屋があるわけで、そこを見てるとなるほどねこうやって楽しむんだっていうのは徐々に30年以上経つと分かりますね」
箸置き。魯山人が脇役が作り出す美というようなものものをとても大事にしていた一つの考え方だと思うんですけど。脇役だからこその重要性みたいなものってものを希林さんはどのように考えて
「映画会社の社長が、主になる若い子、新鮮な子は次から出てくるから結構いるんですって。映画作るときにあんまり困らないんだけど、脇がいないんだって。力量のある人生を経験した人たちがずっと少なくなって。いても何人しかいないから、あっち出てこっちにも出てとその人たちも疲弊しちゃってるわけです」
その脇を固めるっていう言葉とかもあるように、まずは気をしっかり固めて言って作品を作ったりしますよね
「台本に書かれてるの中から色合い。私で言ったら私はちょっとオレンジがかった黒にいた方がいいかなーとか、やっぱここでは一瞬でも黄色なった方がいいかなとかっていう全体のドラマの中で自分の位置を決めていくつのはしますけどね。その中の私は一色になればいいという感覚でいるんですが」
色に例えたりして
「ものづくりっていうのは全体のあれですから」
組み合わせの妙とか。一つ一つがやっぱりちゃんとした個を持っていてそれがぶつかり合いながら運ぶ面白さとかは。
樹木「あーって言うと思いながら補って行くことでとんでもないものができてくるっていうのでは役者の中の脇っていうのはそういうふうに考えてますけど」
その魯山人の美意識がやって来周囲を巻き込んで波紋を広げてことになります。

日常生活でも隅々にまで日にこだわった魯山人。

これは魯山人が自ら作った自宅の五右衛門風呂です。

織部の陶器で作られた青竹を模したタイル。

湯がかかると本物の竹のように色づきます。風呂に入ることを一つをとっても魯山人にはこだわりがあったのです。しかしそうした美意識が、時に親しい者との諍いも生みました。

彫刻家のイサムノグチを可愛がり、自宅に住まわせるほど世話をした魯山人。しかしノグチ夫妻が庭先に洗濯物を干したのを見て突然怒り出したと言います。

「魯山人の中におけるその美しさの価値観っていうのはもう絶対的なものだったように思いますね。他の人とは美しさというそのことに関わることになると 少しさっていますかそのことに関わることになると非常に厳格なんですね」

さらに魯山人のこだわりは自分の料亭にも影響を及ぼします。予約に遅れてきた客を門前払いしたり、従業員を怒鳴り散らしたり、さらには高価な骨董品を次々と購入して共同経営者と衝突。ついには料亭を解雇されてしまうのです。

料亭を追われてしまうことになる。
樹木「来るお客も緊張して高いお金払ってくるんだけども、こっち側も何も食べていただくっていう感じじゃなくいるから、それは衝突することがずいぶんあったんじゃないかと思いますね。それに向き合って当意即妙に反応してくれる客がそういたかどうか。どうでしょう、魯山人の美に拮抗するだけの客が、一日一人いなかったんじゃないですかね。一か月に1人ぐらいいたかもしれないけど。そういうものはどこでしょうつまんなかったんじゃないかなと。魯山人が一人だけ違う美の世界へ行って、そっから見るあの周りの人達でそこに反応する感応する人がどれだけいたかというつまらなさがあったんじゃないかと」
本当にはどういう人だったんだろうっていうことは考えさせられますね。だって自分の美意識のためには洗濯物にまで文句をいう
樹木「洗濯物ってそう誰が干しても干し方にかわりのあるわけじゃないじゃないですか。それから干してる品物だってそうねあれじゃないのにそれを見て烈火のごとく怒って、スゴイ勢いで駆け上がってってこんなものを私の目の届くところに干すなって。それだけその美っというものに対して共感してくれるだろうからこういうものを用意する。でもそこで美しく住んでくれと。私が見た時だけ美しく住んでくれってのは、ずいぶん酷ですよね」
日常の生活の中でも美というものをちゃんと意識してやってほしいという強い思いがそのまま素直に出てしまったっていうことですね。
樹木「すごい人だからそんなに長く付き合える人はいなかったんじゃないですかね」
料理人が辞めて行ったりして自分が嫌われていることも分かってたと思うんですけれど
樹木「それは私にもわかりません。優れた人は何か違う」
希林さんも歯に衣着せぬと思うんですけど、周囲との軋轢が起きたりとか。
希林「私、気を使って喋っているんです。でも人が起こってくるという気持ちも見るのも好きなんですね。私これ役者だからかなあと思います。この人が来今ムカッとしているかななとかって、なんかそういうのを見るのが好きですね。やな奴なんですよ」

美意識みたいなものは人それぞれのものだと思うので、みんな違いがあると思うんですけどやっぱりその自分の大切にしてるものがあるからこそ本気何事も本気になっていてやっぱ意味て厳しいなと思うんでもその厳しさは、その厳しさを受け取る時は辛いってなるけれども後になってみるとその厳しさがあるから結局その優しさを感じれてこちらはそっから学びを持ってっていう風なんで
樹木「魯山人の場合通用するんです。例えば手紙。巻紙みたいな手紙の中に、ある漆屋の旦那に、君はなぜいつまでもこのようにつまらない作品ばかり作るんだ。もう文字からね、その身をよじってるん思いが匂い立つ。だけどそれはどうやって残ってるかというと、それをもらった漆屋の人が大事に持っていて、見せているから次に人に伝わるわけだから。世の中なかなか捨てたもんじゃない。何を言っても伝わらない人には伝わらないし。一言言っても伝わる人には伝わると思ってるっていいじゃないですか。最後はもう諦めしないですか寂しいと言ったって最後は諦め。でも人間に関わりたいっていうのはあるんじゃないかと思うからそこらへんがどのように魯山人が晩年過ごしたかなってなちょっと電話ででも聞いてみたい」

料亭を解雇された後、魯山人は自分の工房にこもり器を作り続ける日々を送りました。これは魯山人が亡くなる5年前71歳の時に描いた屏風です。松の木には二羽の小鳥が描かれています。片方の鳥がもう一方を寂しげに見上げています。梶川さんはこの屏風は晩年の魯山人の心境を表しているのではないかと考えています。

左下の小鳥が魯山人自身。そして右上の小鳥は本当の美を理解できると思う友。

本当の美を共有できる友と出会いたい。そんな魯山人の心情が屏風から汲み取れるというのです。

「少し人恋しい感じもありますし、寂しげな感じもある。魯山人晩年の心境みたいなものが表されてるんじゃないかと思っております」

これが76歳で亡くなった魯山人の最後の作品。晩年の展覧会のポスターにもなった器です。梶川さんは横歩きをする蟹を描いたことに魯山人の思いがあると感じています。

「魯山人はたぶん人皆直行。われひとり横行」

魯山人が遺した晩年の言葉です。

「ただ一つだけみんなに分かってほしいことは、わしの人生はこの世の中を少しでも美しいものにしたいと思いながら歩んだ人生だということだ」

樹木「北大路という社家に生まれ、本来は神に仕えるべき魯山人がそこから出されいろいろ回って歩いたんだけど、結局根底の中にあるのは、美によって神に近づくのが一番いいんじゃないか、優しいことじゃないか。権力で作ってんじゃなくて美によって。神の使い人としての家系の中に生まれた魯山人の中にあったんじゃないかなと思いましてね。今日こうやって関わらしていただいて感じましたね」

晩年の言葉は強がりであるようにも聞こえても、一方でそのだけわかってほしいことはと言ってみたり、二羽の鳥を描いてみたり。多くの人や物事と体でまっすぐぶつかって行った魯山人が晩年、みんなこれだけはわかっていてと、自分はその美というものを、もうとにかくついていきたかったそれだけなんだよっていうのを改めて言わしてしまう。なんかすごいなんか可哀想だなっていう風に持つと思ってしまって、そばであのそれを理解して続けていく理解者ってのがやはりなかなか少なかったのかなと思ったと感じてしまったり

樹木「井浦さんにはそんな人はおられますか」

そんなに名前を出てくる感じじゃないですね

樹木「名前が出ないまでも、そんなに人に期待しないでもらいたいって、私は思うんですけど。いるもんじゃないんじゃないんですか。あのましてこれだけのものを持ってる人は期待するほうがおかしい」

樹木希林さんが惹かれている魯山人の言葉があるんですけれども、あの紹介させていただきますね。

「あの人はいつ死んでも良いのである。人はこの世に生まれてきてどれだけ仕事をしなければならんと決まったわけのものでもない」

樹木「並べられてる言葉の中でどれが好きですかって言われたからそれがそうかなという風に思ってあれしたんですけども。私自分もね、今たまたまこ役者を生業としているんですけれども、こう言ってみればその名前が売れたいわけでもないそこそこ食べられていけばいいそこそこおもしろいことがあればいいぐらいのことであるから、何の不満もないんですけどただまやんなきゃいけないっていうことは自分の中の持って生まれたほころびって言うか、人間としてのだめなものを修繕しながら生きてるって感じはするんですよね。

今となってみると。70過ぎると特にそうですね。繕いながらなるべくその仕事をするために生きてるわけでもなく、こうしなきゃいけないということもないけど、少しずつこの繕いながら糸でこうそういう感じで自分でいるので、言葉がそうなったのかな」

樹木「役者をやるために人間やってるんじゃなくて、人間をやっていくための生業として役者の皆さんに出会わせていただいてるという感覚だから、執着ないですね仕事というものにね。だからファクスと留守電があって、基本料金1820円払ってそれ整理しながら、それできないごめんなさいちょっと言うときもアレば、割のいい仕事がアレばやりますなんていう 加減なんです」

今魯山人に会うことがあったとしたらどうでしょう。理解者になれたのでしょうか。

樹木「そんなおこがましいことは思いません。ただ、結婚してたら離婚はしないで別居をして生涯側にあのつかず離れずでいたいなと思う方ですよね。向こうはもうお払い箱でしょうけど今日はありがとうございました」