日曜美術館 「マグマを宿した彫刻家 辻晉堂 」

日曜美術館 「マグマを宿した彫刻家 辻晉堂 」

陶土を用いた彫刻「陶彫」で知られる彫刻家・辻晉堂。陶芸と彫刻の境を越えて生み出される独創的な抽象作品は、1958年のべネチア・ビエンナーレ展にも出品されるなど、国際的に活躍した。その一方で辻は、京都にあった美術専門学校で後進の指導にも情熱を傾けた。

陶土を用いた彫刻「陶彫」による抽象作品で、国際的に活躍した彫刻家・辻晉堂。教え子だったサグラダ・ファミリアの主任彫刻家・外尾悦郎が語る、異才の彫刻家の素顔とは?

【出演】【彫刻家】外尾悦郎,【陶芸家】宮永東山,辻茜,【語り】柴田祐規子

放送:2020年11月8日

日曜美術館 「マグマを宿した彫刻家 辻晉堂」

男は考え続けた。

長い間。

男の名は彫刻家辻晉堂。

若くして写実を極めた木彫で周囲を驚かせます。

手掛けた肖像は人柄まで写し取ったと評判に。

しかしある時、晉堂は前代未聞の彫刻を作り始めます。

子供の背丈ほどもある巨大な作品。

焼き物に使う土を使って釜で焼いた陶彫とよばれる独創的な彫刻でした。

作品は海を渡りイタリアの国際美術展で絶賛されます。

晉堂は陶彫で新たな美術の可能性を切り開きました。

世界遺産サグラダファミリア主任、彫刻家の外悦郎さんです。

彫刻家としての人生で常に背中を押してくれたのが辻晉堂でした。

「偉大な人というのは中に見えないすごいマグマのような人間としての偉大さ、力というものを持っている」

戦後の彫刻界でひときわ異彩を放った辻晋堂の生涯をたどります。

スペインバルセロナにあるサグラダファミリア贖罪教会。

天才建築家アントニ・ガウディが設計した世界遺産です。

ガウディの死後もその意志を継ぎ建設が続けられてきました。

外尾悦郎さん。

日本離れ教会の彫刻を彫り続けてもう42年。

年も大切に持っているものがあります。

京都市立芸術大学の学生証です。

「小さい時に父を亡くしまして、末っ子だったもんですから安い大学を探したんです。京都市立大学は年間一万八千円だったんです。1回アルバイト。きついアルバイトでもやれば学費は出せると。一般の他の学生っていいますか、芸術を志す学生とはちょっと違う」

数多くの芸術家を輩出してきた京都市立芸術大学。

憧れの彫刻科に入学した外尾さん。

生活費を切り詰め、ようやく手に入れた一本の鑿を大切にしていました。

「ある日、おじさんが横に立ってなんかじっと見てるんですね。そのおじさんがちょっとよこせという。私の研いでいた鑿。渡して、じっと鑿を上手いこと研いでくれるんですね。この爺さんなかなか知ってるじゃないかと」

それが彫刻家、辻晉堂との出会いでした。

すでに世界的に活躍していた晉堂。

大学の教授として何くれとなく外尾さんを気にかけてくれました。

「一本の鑿しか買えない貧乏な学生。つまり木は買えないことは分かってるわけですね。

不思議なことに東山の古い校舎の本館の古い木造のトイレの横に、樹齢300年ですから直径が1メートルぐらいあったんじゃないですかね。それが3本重ねてある。もうみんな喉から手が出るような材木をそれを使えとある日仰っていただいたんです。どうも鑿の研ぎ方から始まった私のそばにはいらっしゃいませんでしたが、常に遠くから見ておられたような気が今実感としてあります」

特別な計らいで手にした樹齢300年の古木。

晉堂直伝の研ぎ澄まされた鑿を手に向き合いました。

新郎との出会いで生まれた初めての作品《木の心》

大学祭に出品され評判を呼びます。

「素直に頂いたものを綺麗にその中の美しいものを取り出してきただけなんですね。ですから私にとって非常にそれは勇気を与えてもらえた作品です」

この夏、晉堂のふるさと鳥取県で、生誕110年の展覧会が開かれました。

陶彫と呼ばれる陶土を用いた彫刻作品を中心に代表作が並びました。

土で作り魂の炎で焼かれた時計。

陶彫を作り始めた頃の作品です。

はずみ車や歯車がモダンにデザインされています。

中央には大きな空間。

焼き物は空洞がないと熱がこもり窯の中で割れてしまいます。

晉堂はその空間に針の動きを連想させるくさび形のモチーフを埋め込みました。

リズム感のある造形。

焼き物ゆえの課題を魅力的に変えたのです。

タバコを咥えた男の顔をモチーフにした《禁煙の名人》

抽象化されたタバコの煙に包まれるのは愛煙家だった晉堂自身です。

こちらは大好きだった猫。

彫刻刀で彫り出した大胆な造形と、空気抜きの大小の穴が生み出す力強さと軽やかさ。

振り向いた猫の一瞬の動きをとらえました。

戦後の彫刻界に旋風を巻き起こした辻晋堂の陶彫。

どのようにして生まれたのでしょうか。

生い立ち

大山を望む鳥取県伯耆町二部。

明治43年辻晋堂は農家の長男として生まれました。

晉堂が通った小学校。

現在の伯耆町立味生小学校です。

校門の前には晉堂の作った青年の像があります。

子どもの頃から美術の才能に優れていた晉堂ですが、卒業後は大工に弟子入りします。

その一方で独学で写生や彫刻の制作を続けていました。

昭和6年。21歳になった晉堂は美術の道に進むことを決意し上京。

新聞配達をしながら独立美術研究所でデッサンを学びます。

その日々の中で晉堂の関心は絵画から立体へと変わっていきました。

独学で彫刻を始めてわずか2年。

日本美術院展に初出品をはたします。

その後、晉堂は精力的に木彫作品を発表。

度々入選します。

時には自らモデルとなって迫真に迫った写実性を追求しました。

木で掘った竹の子。

本物と見まごうほどです。

生きとし生けるものの本質まで掴み取ろうとしています。

その腕を買われ肖像の依頼も数多く舞い込むようになりました。

納得がいくまで何度もモデルと向き合いました。

そんな晉堂を取り分け高く評価したのが生涯を木彫に捧げた平櫛田中です。

6代目尾上菊五郎をモデルに20年以上の歳月をかけて彫り上げた《鏡獅子》

近代彫刻の最高峰と謳われます。

田中が38歳も年下の晉堂に送った手紙。

「君はいつどこで習ったということもなく泥人形を作る村のわらべのような気持ちで、手に任せ、心に任せて土をつける」

田中が築き上げた写実的な木彫。

その未来を晉堂に託したかったのかもしれません。

しかし田中の思いとは裏腹に晉堂は己の道を歩み始めます。

昭和24年。

晉堂は田中の推薦で京都市立美術専門学校の教授となります。

39歳の時でした。

学校のあった京都の東山一帯は古くからの焼き物の町。

煙突のあるところには登り窯があり、焼き物が大量に焼かれていました。

たくさんの器を効率よく焼くための共同窯や、貸し窯も数多くありました。

窯では火を知り尽くした職人が火力の強い赤松の薪で焼き上げていました。

晉堂は考えます。彫刻を窯で焼いてみたらどうだろう。

京都での登窯との出会いが晉堂の彫刻を変えていきます。

陶芸家の宮永東山さん。

学校で晉堂に学び作品作りを手伝っていました。

晉堂の作品を焼いたのは窯の中でも格別場所だったと言います。

「辻さんの作品を入れるのは一の間、二の間、三の間、四の間とあっても、この火前という場所。一室の中の火前という、この上にのせる作品であれば可能なわけ」

火前とは本来焼き物置かない狭い場所です。

火力が安定しないため、時には炎で煽られて作品が倒れる危険もありました。

「炎のまわりだからどっちへ行くかわからない。多分倒れる。倒れたら壊れる。野ずれたら壊れる。だからそれを皆いやがったわけ。偉い先生であろうとそんなの知らんぞと。焼き物屋さんの中へ芸術家としての作品を入れるわけでしょ。やったこともない。見たことない。そんなの潰れたらどないしてくれるのと、保障してくれるのか」

それでも登り窯で焼きたかった理由。

それは灼熱の炎が生み出す、人智の及ばぬ美しさでした。

「迫力と言われると全部が全部迫力とはいえないが、何らかの哀愁っていうか、言葉にはちょっと難しいんやけど、理屈では割り切れない美しさみたいなもん感じてしまうわな」

赤松の薪を使うことで釜の温度は1300度まで上がります。

炎の中で晉堂独自の陶彫が生まれました。

圧倒的な存在感を放つ2体の作品。

高さ1メートルあまり。

ゆうに子供の背丈を超える大きさです。

高温で焼かれた土肌。

登り窯の中でかぶった灰が溶けて、まるで釉薬をかけたような複雑な発色をしています。

土の表面に刻まれた無数の線。

わびた質感が表現されています。

作品のモチーフは中国唐の時代の僧侶。

広げているのは経を写した巻物です。

禅に深く傾倒していた晉堂は禅画にしばしば描かれる伝説の僧侶の姿を抽象的な力強い造形で表しました。

晉堂の製作は土作りから独創的でした。

割っているのは匣(さや)。

窯の中で焼き物を灰や強い炎から保護するための鉢です。

長く使った匣を粉にして陶土に混ぜます。

登り窯で大きな彫刻を焼くために土に工夫を凝らしました。

「1回焼いたやつ。二割五分縮む。縮むということは形が変わることやろ。それに耐えるだけのものを作るにはどうすればいいかというと、土そのものが縮まないような土にすればいい」

何度も窯で焼かれて縮みが少なくなった匣の土を入れることで割れない工夫をしたのです。

作り方も独特です。

四角い粘土を薄い板場にスライスします。

それを箱のように組み立てます。

側面には爆発しないよう空気を抜く穴を開けます。

中に仕切りを入れて補強しました。

このブロック状の粘土を、形を変えながら積み上げて大きくしていったのです。

晉堂が作った最大の作品《牝牛》

長さおよそ170センチ。

一人一人が横たわるほどの大きさです。

研究室で汲み上げた作品を学生たちとともに大八車に乗せ、砂利道を登り窯まで運んでいきました。

しかしその道中、彫刻は五つに割れてしまいます。

晉堂は割れたまま釜に入れ、なんと接着剤で嗣ぎ合わせました。

焼き物は割れたら終わり。

しかし晉堂にはその概念はありませんでした。

「焼き物では絶対にやらないような、やっちゃいけないと言われるようなことでもやる。彫刻だったからできたんだ。彫刻で作ったわけで、陶器で作ったわけではない」

傷だらけの喧嘩牛。

キズも勲章。

晉堂の陶彫に込めた美学です。

当時書かれた進藤の日記です。

「焼き物屋が驚くほどの大きさであるが、幸いにして窯の調子良く。大変良い色に焼けた」

その時窯の中で焼かれていたのがこの作品《沈黙》

およそ1300度の炎で2日版。

土の肌は赤褐色の緋色に染まっています。

晉堂が登り窯に託した色。

大満足の仕上がりでした。 

昭和33年。

晉堂はイタリアで行われた国際美術展の日本代表に選ばれます。

沈黙をはじめ7点の作品を出品。

彫刻の自由な言語の再発見と高い評価を受けした。

革新的な作品で晉堂の名は一躍世界に轟いたのです。

晉堂に教えを受けた外尾悦郎さん。

サグラダファミリアで働き始めたのは42年前。

大学卒業後、武者修行に飛び出した先で出会ったのがこの教会でした。

自分にも彫らせて欲しいと交渉したのがきっかけとなりました。

一つ一つ信頼を勝ち取りながら彫り続けてきました。

「ずっと毎日が試験です。それも忘れたことがないです。次の来月果たして

収入があるとかどうかわからない生活というのはやはり試験ですよね」

外国での厳しい日々。

心の支えとなったのが日本を離れる時、晉堂が与えてくれたものでした。

「行くんだったら美術家連盟に入っておけと。簡単にはなかなか入れないです。推薦状が必要でし審査があります。ただ美術会というのは本当に何もない証明もないものでは本当にどこも受け入れてはいただけない。その最低限のものとして彼は持って行けと強くを言っていただいたんではないかと思います」

金もなく、つてもなく。たった一人で世界に飛び出す外尾さんにせめて日本の美術家であるという証明書を持たせたい。

晉堂の親心でした。

これまでに300体を超える彫刻を制作してきた外尾さん。

とりわけ印象深いというのが東側の門にある《生誕のファサード》です。

壁一面に刻まれた彫刻はイエスキリストの誕生の物語。

幼いキリストを取り巻くように設置されているのは

楽器を奏でる15体の天使たち。

外尾さんは16年かけてすべての天使を彫りあげました。

その中の一つハープを奏でる天使。

ハープには元々鉄の弦が張られる予定でした。

しかし外尾さんは太い鉄の弦ではハープの優しい音色を表現することはできない

と異議を唱え弦を外してしまったのです。

「一本は絶対に譲れないというものを持っておかなければいけないと思うんですね。そうすると敵が一気に増えます。今まで仲良くにこやかにしていてくれた人ですら一瞬にして敵にまわります。でもそれを分かった上でたった一人となっても、世界が敵に回っても、それを通す」

孤独な戦いの中で外尾さんは晉堂の生き様を思い出します。

「辻先生のパワーが本当にすごいパワーですから。同じように先達して一人で戦った人がいたんだということを、心のどこかすみに持っていればそれをそれを一人ではない先達の中に一人いたんだということが分かっていれば踏み出せるわけですね」

情熱を貫き通した先に新しい芸術は生まれる。

晉堂から外尾さんへ受け継がれた芸術家魂です。

外尾さんにはずっと気になっている晉堂の彫刻があります。

タイトルは《東山にて》

箱のような作品です。

朽ち果てた古い壁のようにも見えます。

穴は底知れぬ深さを感じさせます。

しかし見下ろすと奥行きは

わずか15センチしかありません。

これは一体何なのでしょう。

「もう飛んでますよね。まずタイトルが東山にてというね、この東山には思いが先生のご自宅もありましたし京都市立芸大の本館もありましたし、私はそこで近くで住んでましたし、宿を借りてましたし、本当に今ふるさとと言ってもいいような場所なんですけども、そのタイトルとは遥かに違う深みと重みと新鮮さがスパーっと出てますよねでもそれでいて非常に東山を表している」

東山は晉堂がその半生をかけて彫刻と向き合った特別な場所。

なだらかに続く峰々。

煙突から立ち上る登り窯の煙。

晉堂はそうした日々の暮らしを四角い箱に止めようとしたのかもしれません。

「陶器というのは限界と思った。一歩間違えると爆発してしまい、とても作品にはならない。そういう条件が厳しい。技術を知らないととてもものにはならない。条件の中で晉堂先生が引き出された、その狭い世界の中に入りながらそれを逆にパーっと無限の可能性を見せてくれた」

四角い土の塊は見るものに様々なイメージを沸かせます。

ぽっかりと開いた穴は忘れかけた記憶を呼び起こしてくれるのかもしれません。

「これ古い遺跡のようにも見えますし人の顔のように見える。東山に集う人々にも見える。古いしきたりの中に何かそういったちょっと抜けたようなユーモア。いろんなことを思えさせてくれる。でも辻さんこれは本当は何ですかと聞いてみたいですよね」

大きな危機

昭和40年代。

京都の焼き物業界は大きな危機を迎えていました。

登り窯の煙が公害とされたのです。

高度成長期を迎えた日本。

その一方で浮上したのが公害問題。

様々な規制が始まりました。

この頃、晉堂は不思議な作品を作ります。

目と鼻の先の距離はとても短いはず。

でも視点を変えるとこんなに長くなってしまいます。

実はこの作品。晉堂が登り窯でなく、電気窯で焼いた初めての作品でした。

「悩みが見えますほんまに悩みが見える。登り窯のなくなることは想定してたであろう作品やな。何をどうしたらいいのか。自分はこれから何を作ったらいいか。もうそこで分からんようになった」

目と鼻の先の長さは晉堂の悩みの大きさでした。

作品の生命線である登り窯がなくなってしまう。

その不安。

昭和43年。

大気汚染防止法によりついに京都市内の登り窯は廃止に追い込まれます。

晉堂が生涯を過ごした東山の自宅。

登り窯が使えなくなった晉堂は自宅に電気窯を設置。

試行錯誤を繰り返したと言います。

「なんかグラフ用紙に温度の変化をつけて入ったりしてる紙なんかがありましたから、やっぱり困ってたんだと思います。夜も昼もそんなこと考えて一所懸命になるんですね」

火力の弱い電気窯で登り窯のような作品を焼くにはどうすれば良いのか。

登り窯で使う赤松の薪を電気釜に放り込むなど試行錯誤する晉堂。

「状況が変われば価値観を変えなければいけないですね。そに立ち向かっていく。くるものであれば向かっていくというその勇気というものを持たなきゃいけないではないかと思いますが、晉堂先生、一人の芸術家としてそういう状況が変わる中で相当悩まれたと思います。偉大な人というのは中に見えないすごいマグマのようなその人間としての偉大さ力というもの持ってます」

60歳を迎えた晉堂。

情熱は健在です。

ユーモラスな表情のから傘のお化け。

高さはわずか三十センチ。

電気窯で焼かれています。

幼い頃に聞いた故郷に伝わる怪談がモチーフとなりました。

《オマンマの塔》は五穀豊穣を祈る祭りで振る舞われる山盛りの飯。

お椀と米粒。

まるで童心に帰ったように楽しみながら作る晉堂の姿が浮かびます。

作るものの大きさも以前のようにむやみに大きなものを作ろうとしない。

焼き物は自分の両手で持ち上げられないようなものは作らない方がいい。

彫刻という考えを放棄することによって、自然に無理をしないで物を作ることになった。

焼き物でも彫刻でもない、-。

晉堂いわく粘土細工。

線だけで刻まれた目と鼻。

それは晉堂自身の姿です。

どの作品もこんなに薄くなりました。

本を読む自画像です。

これでもかとそぎ落とした造形。

それでいて確かな存在感。

晉堂のメモ書きが残っています。

「忘れるだけ忘れてしまい、肝心なものだけ残るだろう。その残ったところを描け」

泥古庵と名付けた晉堂の部屋。

そこにあるのは身の回りにある好きなものだけ。

傍らには猫。

わずか20センチ四方の小さな作品です。

机の上には読みかけの本。

そして一升瓶。

酒が大好きな晉堂でした。

「なぜか人を通して一力というお店に来いと言われまして、一見さんお断りのすごい老舗の店で、そこで腹を空かせた若者より本当に上品なお食事が出てくるはずのところが、大きなお皿に山ほどの海老の天ぷらを食させて頂きました。それをタバコをくわえながら楽しそうに見ておられるあの顔がやっぱり今でも忘れられません。樹齢300年の木を頂いたのと同じように、非常に不思議な思い出です。夢のような思い出ですね」

豪放磊落。

熱い魂を持った晉堂は71歳でこの世を去ります。

「最後に京大病院に入院してる時もね、手がもうすっかり腫れて動かないだろうと思うのにも、自分は退院したらまた作るんだって言ってね手を一生懸命さすってたんですね。治るつもりでいたみたい」

あかねさんの元には晉堂が友人と談笑しながら作ったという小さな粘土細工が残されていました。

祈り、喜び、瞑想する、食べる、人生の喜怒哀楽、そして見ざる聞かざる言わざる聞かざる。

常に手を動かして作ることを無上の喜びとしました。

新型コロナウイルスの影響で中断されているサグラダファミリアの建設。

しかし外尾さん達は2026年の完成を目指し準備を進めています。

「ガウディがいってるのはまず初めに愛情である。次に技術が来るとしおっしゃっている。今我々現在どうしても技術とかノウハウとかだけを追い求めすぎてるそういう気がします。技術が生まれるためには愛情が必要だという大事な大元のところがどうも忘れられている気がします。晉堂先生とガウディとは同じ大きさを持った、懐の深さを持った存在だったと思います」