日曜美術館 「ひそかに春をまつ心 竹久夢二の油絵」

2024.10.20.日曜美術館 「ひそかに春をまつ心 竹久夢二の油絵」

大正ロマンの画家・竹久夢二。「夢二式美人画」と称される哀感をたたえた女性像で知られ、絶大な人気を博した。近年発見され注目を集める夢二の美人画がある。「アマリリス」と題された油彩画だ。独学で描き続けていた油彩、現存するのは30点ほどと極めて貴重だ。その研究の中で、画家としての夢二の葛藤と挑戦が浮かび上がってきた。地元・岡山の美術館を訪ね、知られざる夢二の素顔に迫る。

初回放送日:2024年10月20日

日曜美術館 「ひそかに春をまつ心 竹久夢二の油絵」

去年、一枚の絵が八十年ぶりに見つかりました。どこか不思議な表情をたたえた和服姿の女性像。

《アマリリス》1919(大正8)年頃 油彩、カンヴァス 夢二郷土美術館蔵

竹久夢二の油絵です。夢二のモナリザとも言われるこの絵は、滞在していたホテルにお礼として贈ったもの。ホテルの閉鎖後、行方がわからなくなっていました。

大正ロマンあふれる美人画で知られる 画家竹久夢二。夢二雑誌の表紙や広告を飾った物産な女性像は夢二美人画と呼ばれ、一斉を風靡しました。なぜ甘い絵ばかり描くのかと問われた夢二夢はこう答えたと言います。「パンになるからさ。」しかし、夢二が本当に描こうとしていたのは、単なる甘い女性像ではありませんでした。何度も絵筆を重ねて描き上げた油彩の美人画。そこには大切な女性との記憶や、激動の時代と真摯に向き合った画家の姿がありました。夢二がその油絵に込めた知られ去る思いに迫ります。

夢二の故郷、岡山にある夢二郷土美術館今、生誕百四十年を記念し、美術館のコレクションを中心に二百六十点余りを紹介する特別展が開かれています。

「こちら、後ろ向きのあの舞妓の姿は、夢二ならではの、情感あふれる徐々的な雰囲気が、パッと見た瞬間から伝わってくる素晴らしい作品だと思います。背景がそれほど詳細に描かれていないにも関わらず、想像力が掻き立てられるのは、彼の独特な表現技法によるものなのでしょう。」

「作品『加茂川』は、夢二が30歳の頃に描いた代表作の一つです。夢二は、絵画を通じて女性の心の内面を表現したいという強い思いを持っていました。そのため、線の揺れや濃淡など、細かな部分にまでこだわり、感情を繊細に描き出そうとしていたのです。

例えば、『加茂川』に登場する女性の帯の模様にも、夢二の深い愛情が込められています。大胆な菱形の模様は、水辺に咲く花を模したものですが、同時に、その女性を守りたいという願いも表現しているのです。このように、夢二は絵画の中に、様々な物語や感情を込めていたことが分かります。彼の作品からは、被写体に対する深い愛情と、それを表現したいという情熱が伝わってきます。」

明治十七年、岡山に生まれた夢二は十七歳で上京。独学で絵を描き始めました。夢二の筆名は、憧れの洋画家藤島武治の名にあやかりました。夢二が絵を描き始めた頃の東京は、日清日露戦争の相次ぐ勝利に活気づいていました。大正に入ると近代化と洋風化が進みます。大正ロマンと呼ばれる華やかな大衆文化が開花します。女性のライフスタイルも大きく変化しました。印刷技術の発達に伴い、次々と女性誌が創刊。夢二の挿絵が評判となり、瞬く間に人気画家への階段を駆け上ります。

夢二式美人

夢二の女性像は夢二式美人画と呼ばれ、女性たちはこぞってその装いや化粧を真似ました。さらに夢二は詩人としても才能を発揮。切ない恋心を歌った詩が女性たちの心をつかみました。一躍時代の長時となった夢師。しかし、絵に向かうその姿勢は真剣でした。

“はあとのかけら“は「自分の絵は、人の世の旅路に、たとへば、胸に挿むだ心の花から花弁(はなびら)を一つ一つ路へ捨ててはゆく――その花弁だ。…もし間違(まちが)へて、紅い花弁のかはりに、自分の心臓(はあと)の砕片(かけら)を落しでもしよふものなら……………それでも構はない。絵は、僕の命だもの。」(『夢二画集 夏の巻』序より)

そんな夢二の生き様を色濃く反映しているのが油絵です。多作で知られる夢二ですが、油絵は三十点ほどしか現存していません。

夢二が二十八歳の時に描いた 油絵。初恋島崎闘争の小説に着想を得たと言われます。伏し目がちの少女と、彼女に思いを寄せる青年のままならない淡い恋。夢二は美術雑誌や複製画などを参考に、独学で油絵の研究を重ねました。女と題された油絵。

ほんのりと頬を染めた優しい眼差しの女性モデルは、二十三歳で結婚した妻たまきと言われています。やがて妻とは別れることになりますが、この一枚には大切な人との幸せなひとときが色褪せることなくとどめられています。

夢二の油彩画の最高傑作の一つと言われるのが、去年発見されたアマリリスです。夢二が絵を送ったホテルに長く飾られ、多くの人から愛されました。

こちらは夢二が描いた油彩画ですね。女性の微妙な表情が印象的で、何かを言いかけているような、そんな気配を感じます。この作品の魅力は、見る人それぞれの心に異なる感情を呼び起こすところにあるのではないでしょうか。

特に、アマリリスの花と女性が一体化しているような、色の溶け合い方が素晴らしいですね。赤色のリズミカルな使い方は、花から女性の襟元、帯留めへと繋がり、まるで一つの旋律のように感じられます。夢二は、西洋画の技法を学びながらも、日本の美意識を融合させることで、独自の表現を確立したと言えるでしょう。

この絵画からは、西洋の華やかさと日本の繊細さが絶妙に調和していることが分かります。女性の表情は、決まったポーズではなく、何気ない日常の一瞬を切り取ったような、自然な雰囲気が魅力的です。きっと、この女性と語り合っているような、そんな温かい気持ちになれる作品だと思います。

アマリリスのモデルとされる女性がいます佐々木かよ。愛称お葉。秋田から母親を連れて、状況生活費を稼ぐため、いろいろな画家や画学生のモデルを務めていました。夢二がアマリリスを描いたのは、お葉と出会って間もない頃のことでした。竹久夢二を長年研究してきた岡部正幸さん。モデルの捉え方に、他の洋画家にはない夢二ならではの表現力を感じるといいます。

「お葉をモデルにした作品は、竹久夢二と藤島武二の両名によって描かれています。二人の作品は、同じモデルを題材にしているにも関わらず、表現方法に大きな違いが見られます。

藤島武二は、お葉を西洋画のモデルとして捉え、その美しさを客観的に表現しようとしたと考えられます。一方、夢二は、お葉の持つ内面的な深みや複雑な感情を、絵画を通して表現しようとしました。夢二の油彩画は、人物の心の奥底にある様々な感情を、重ね合わせた色や陰影によって表現することで、見る人に深い感動を与えます。

夢二の作品は、単なる肖像画にとどまらず、人間の内面を深く探求したものであり、油彩画という媒体だからこそ表現できた深みと奥行きがあると言えるでしょう。この点において、夢二の油彩画は、再評価されるべき価値を持つ作品であると考えられます。」

幼い頃から夢二の絵にこよなく惹かれてきた人がいます。歴史学者の磯田道史さん。夢二と同じ岡山出身で、この美術館にもしばしば足を運んできました。この絵のモデルの表情に夢二が生きていた時代が感じられるといいます。

「どこ見てんのかわからないっていう絵はすごい多いですよねイメージの女性ってね近代現代を生きる人間っていうのは、時代の流れが早いから、社会自体がいきなり戦争になったり、災害が起きたり、何起きるかわからないっていう、そういう時代を生きる人間の目がはっきり何か見てわかってるって顔はやっぱりできないんじゃないですかねなんかすごい画家って一回描いた上に何か塗り重ねた時にその人の本音が出るっていうか糸が出るんだけど僕、イメージってもちろん精密に書く部分とボケる部分があるんですけど、結構工夫して小根入れて筆を置いている感じが見受けることがしばしばあって、自分たちが生きた時代はこうだっていうのを非言語の形で言葉じゃなくて伝えてきているなんかこの女の子から見ていたこの先になんかイメージの見ている世界があるんじゃないかっていうような感じがしますね。」

アマリリスの翌年の大正九年。夢二は同じお葉をモデルに一枚の大作を書きます。秋の憩い舞い散る落ち葉の中、頬杖をつく女性。傍らには大きな信玄袋。彼女が地方から上京してきたばかりであることを示しています。

「これ、この数年で私、干渉の仕方がガラッと変わった絵なんですね大正九年というと、どういう時代か、まず米騒動があったとか、そういうこともあるんですけど、この前なんですよ七年から八年にかけて、 寒い寒い時期にスペイン風邪になって大量の人が亡くなって、ほんの二、三年のうちに日本の人口が一パーセント足らずスペイン風邪で死んで減っていたと憩いって言いながら、去年も大量に人が死んだ、今年の秋も葉っぱが落ち始めて、感染の激しい大都会に出てきた私っていう落ち葉が、普通の気持ちでは私はもう見られなくなったんですが、コルナの後、当時の人はこの絵を見たら、慣れ親しんだ故郷からこの袋の中身一つで東京に来て、夜部がない女性やその周りの落ち葉を見るとたくさんの人が命を落としたなと、この二年間でというようなイメージで見なくはないんじゃないかなとか、安住の地がなくなってそれで都市集まってきてそれでどうしようかなっていう、そういう人たちの気持ち、これ共感した人は多いんじゃないですかね。」

夢二が見つめたのは、時代の荒波の中を賢明に生きる人々の姿でした。

形と色の奥に秘められた何ものかを掴みたい人の心の内に自分の影を映したい

青い着物をまとい、ぽつんと座り込む一人の女性。夢二が自らの心に向き合った作品だと言います。

「うつむいた表情と砂漠のようなバックグラウンド。なんでしょう、この異世界にぽつんと置いてかれたようなね女性ですね、実はこの作品が描かれたちょっと前にですね、夢二は恋人のひこのを亡くすんですね。おそらくですけれども、彦乃の絵の 思いを作品にしたものではないかと思うんですけれども。」

恋人の名は笠井彦之。女子美術学校に通う学生でした夢師が絵を教えたことがきっかけで二人が恋に落ちたのは、夢二30歳、彦乃18歳の時のこと。

開封した手紙を手にうたたねする女性。夢二は彦乃と多くの手紙を交わし、愛を育みました。

ずいぶん 長い間会わずにいたような気がしている。いつも会えると思う朝や、会う前後の私は本当に生きている 幸福と生命の力と、目に見て感じて心がいそいそとして生命が若くなる。

寄り添い合い、遠くの山を眺める女と男、彦乃と夢二がモデルです。出会いから三年後、二人は一緒に暮らし始めますが、幸福な時間は長くは続きませんでした。暮らし始めた翌年、彦乃は病に倒れ、交際を反対していた彦乃の父親に よって引き離されます。二年後、彦乃は結核のため、二十三歳で帰らぬ人となりました。夢二がその臨場に立ち会うことは許されませんでした。その年、夢二が描いたのがこの油絵です。

「誰もいないところにポツンと投げ出されて、深い悲しみを感じます。孤独を描きながらも、それが真っ黒な感じではなくて、この着物の青色も非常に美しい色ではありますし、静かなんですけれども聖地の一つであるような、非常に静かな世界の印象も受けます。アマリリスは女性の指を描くときも赤い輪郭線で描かれてたんですね。こちらの作品はそれが青い輪郭線に変わってます。生命力のある赤という色 とはちょっと 違う色の表現であったり夢二は女性に投影させて自分の悲しみを描いたんですね。女性と自分の気持ちが重なり合っていくような、そして 内面をどれだけ描き出せるか苦しい作業の中でこの人の美しさを、儚さを残したいっていうふうに思われてたでしょうね。イメージを作品にすることでその女性は永遠に生き続けるそういった個人的なことを作品にしていくっていう悲しみも生命力に変えていくというような姿勢にアーティストはそうでなきゃいけないなと思ったりします。」

彦野の死の3年後、午前11時58分、関東地方一帯は突如として大地震に見舞われました。関東大震災。東京・渋谷の自宅にいた夢路は被災を免れましたが、10万人以上の人が亡くなり、30万近い家屋が全壊全焼しました。夢二は翌日からスケッチブックを手に、がれきの山と化した東京中を歩き回ります。そして三週間にわたり新聞に記事を連載します。

命だけ持っ た人敗れた鍋を下げた女、子供を追った母、老婆を車に乗せた子ただ慌ただしく黙々として歩いてゆく。おそらく彼ら自身もどこへ行けばよいのか知らないのであろう。三日の朝、私は忍池の端で大地に座ってタバコを売っている娘を見た。タバコをパンに替えてしまったら、この先娘はどうして暮らしてゆくのであろう。心ハンタンとならざるを得ない。

なぜ夢二は被災した人々を描いたのでしょうか。

「実際、20歳に行かない娘子一人が、ひょっとするとこの後春を鬻がなきゃいけなくなるかもしれないっていう瀬戸際に置かれている状態を国が救おうとしてない状態で、どこが強い国なんだっていう強い国家への反論、弱者への共感っていうのが多分イメージにはあって、当時通わかった女性たちをこういうふうにおいて何が強い国かっていう道徳的や倫理的にこれはおかしいんじゃないかってことは、やっぱり絵で言って歩いたってことだと思うんですよね。芸術の役割って本来そうだと思うんですが、徹底して人間の役割を見つけて、人間の美しい部分、恐ろしい部分、危険な部分、素晴らしい部分いぶり出してみせて、次世代を生きる人間にそれを指し示すことなんですよね。それはやったんで、だから錆びないんでしょ、 多分あの夢二というのはね。」震災の翌年、夢師は6年前に大ヒットした酔い待ち草の楽譜の表紙絵を新たに描き、世に送り出します。

「当初で出た楽譜の表紙は和服を着た女性が人を待っている姿なんですけれども、震災後はこの洋装の女性に代わって十字架をかけているんですね 首から。待てと暮らせどこの人という恋人を思う気持ちを歌ったのかもしれませんけれども、それは被災して会えなくなった人をいつか会いたいって思うような気持ちにもつながるので、そっとこの歌が悲しんでいる人々の心に寄り添うような、そんな受け入れられ方っていうのをしたのではないかなというふうに思います。」「開いてみてはいいですか随分とキーが高いんですけど、これが震災後、また多くの方を励ましたんですね。」

震災後、社会の空気は急激に変わります。政府は治安の維持を名目に治安維持法を制定し、言論や思想の統制があって呈されていきました。夢二の作品は軟弱だとみなされ、次第にその活躍の場は失われていきました。

その頃描いた油絵。暗闇の中、静かに光が瞬いています。

芸術家であることが誇りだった時代もあるが、語らんとした時もある。今はただ一人の人間でよろしい。

1931年、47歳の夢二はスケッチブックと油絵の道具を携え、アメリカに向かいます。

ワイニマの桟橋

到着したアメリカ西海岸で書いた油絵。現地で書いた絵を売り、旅費を捻出しながら新たな画教を開きたいと考えていました。しかし、当時アメリカは大恐慌の最中にありました。夢二の絵は売れず、食べるにもこと欠く窮乏生活を余儀なくされます。苦しい日々の中、現地の日系人の家で世話になりながら、新しい油絵への表現に取り組みました。十年前、アメリカで当時夢二が書いた絵が見つかりました。

西海岸の裸婦

夢二が世話になった日系人写真家に送った油絵、三代にわたり大切に受け継がれていました。

西海岸の裸婦、現地のモデルを使って夢師が初めて描いた油彩の裸婦像です。

「なんとこう、あの日本の女性を見慣れてしまったのでちょっと今びっくりしていますけれども、 そこはガラッと変わって、でもこの目元とかをよく見ますと憂いを含んだ瞳になっていて、やっぱり夢知識 美人のその真の部分というものがこの作品に残っていて、新たな夢知識美人っていうものを生み出そうとしてたっていうような夢師の表現であるかなというふうに思いますそうですね、光も全然違いますからね日本で見ていく風景の光とは全然違う、本当に燦燦と注ぎ込む太陽の中で非常に大胆に堂々と生まれたままの 姿を表現しているっていうものに対して、じゃあどうやって表現しようか この女性の生命感もそうですね。」

この絵と格闘する様を夢師は日記に記していました。

モデル女、よその色が俺の絵の具箱にはないのだ。光の中でお前はま裸だ日本男児のつつましさを俺は恥じる。

2014年絵の修復のため科学調査を実施したところ、夢師の苦闘の痕跡が浮かび上がりました。なんと最初は女性の腰を覆う布が描かれていたのです。しかし夢二はそれを消して全裸に描き直しました。さらに透き通るような肌を表現するため、透明感のあるジンクホワイトとマットなシルバーホワイト、二種類の白の絵の具を使い分けながら描いていることも分かりました。

「血色感が素敵ですねそうですね、この辺りに肌が美しくて、ポッと内側から体温を感じるそうですねその体温とかその女性の肌の柔らかさとか、表面で見えない何かそういったものを伝えるっていうことがやはり夢中の表現なのかなと思います。」

「夢二自身が生といいますか生きるということに対してすごく肯定的というのが作品から通じてわかりますね。日記やいろんなことを手紙などを見ると生活の苦しさというのはわかりますけれども、実際は 大変意見に満ちて、決してそれは大敗的なものになったりとか、平和なものにはなってない横たわるラフというのは、ルネサンスのジュルジョーネティセアノからずっと近代のマネに至るまで引き継がれた系譜なんですけれども、多くの学科が一度は挑戦したい重要なテーマだと思いますただ、それをイメージは 何か流行に合わせた書き方をするとか、みんなを共通して持っているアカデミックな書き方であるとか、そういう語りはめた書き方ではないわけなんですね。あくまでも自分自身の書き方っていうことを貫き通していると思うんですけれどそして、人間というものの脅威を持ち、肌の温もりであるとか、コミュニケーションであるとか、それに喜びを感じていた、これから先に大きく芸術を花開かせたかもしれないということを予感させます。」

しかし、夢二に残された時間はもう多くはありませんでした。西海岸の裸婦を描きあげた夢二は、さらなる挑戦を目指しヨーロッパに向かいますが、長旅の疲労から体調を崩します。

不調に苦しむ 中、日記に書きつけた歌がありました。

カミールの花を煎じて飲む夕べ、密かに春を待つ心かも

翌年、夢師は結核のため49歳で世を去りました。

「アマリリスの彼女の髪と溶け合っている部分が何か意味があるような気がしてきたんです。彼女自身がまだこれから開花する何かを秘めてる、咲いていいんだよっていうメッセージかもしれないと想像できます。」

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