日曜美術館 「 美は語る 激動のウクライナ 」

日曜美術館 「 美は語る 激動のウクライナ 」

2月に始まったロシアのウクライナ侵攻。戦争という極限状態が連日報道されるが、いったい私たちはウクライナの何を知っているのだろう? 日曜美術館では、NHKのアーカイブスを網羅。そこには紀元前の黄金のスキタイ文明に始まり、中世の華麗な大聖堂など、多様な民族が行き交い重なり合ってきたがゆえの独自な文化があった。激動の歴史を、その美を通して見つめる。

初回放送日: 2022年4月17日

 

日曜美術館 「 美は語る 激動のウクライナ 」

世界に衝撃を与えたロシアによるウクライナ侵攻。
市民の犠牲が絶えることなく続いています。
モノクロームの焼けただれた町。
紛れもない今のウクライナ春の町です。
撮影したのは現地のアーティスト、ウラジスラフ・クラスノショフ。
21世紀。
起こらないと思われていた戦争の姿です。
ウクライナ。
そこは紀元前勇猛な騎馬民族が駆け抜けた実り豊かな大地でした。
さまざまな民族と国が行き交い、それぞれの便が積み重なっていきました。

この地の文化をたどりながら激動の歴史を見つめます。

 

日曜美術館です。
ロシア軍がウクライナに侵攻してから二ヶ月になろうとしています。
いまだに銭湯は終わらず被害は広がるばかりです。
今日の日曜美術館はアーカイブスの中からウクライナの美術をご紹介していこうと思っています。
その事で少しでもウクライナの歴史や文化をお伝えしていきたいと考えています。

美術品はある歴史やその文化の本質的なものの精髄っていうものが形となって現れているものだと思う。美術品を学ぶことで僕たちはそれを育んだ土地について知る。今まさにこうある一つの土地が戦火にさらされている。その土地のことを僕たちが知りたいと凄く思ってると思うんですね。だからその時には美術品を通してそのことを考えるってことは、僕たちにとって必要なことじゃないかなと思います。

スタジオにはウクライナ・ロシアの美術を研究されている河野若菜さんにお越しいただきました。
よろしくお願いいたします。河野さんはウクライナのアーティストたちと連絡を今も取り合ってると伺っていますが、どんな状況でしょうか。

「侵攻が始まった当初は芸術は無力だ芸術は夢に過ぎなかったと語って創作を止めていたアーティストたちも今再び創作を始めている状況です。例えば冒頭で紹介されたハルク在住のウラジスラフ・クラスノショフは戦争が始まった当初はこう怒りに任せてかなり強い表現の、書き殴るような作品を描いていたわけですけれども3月24日からはハルキウの現在の写真を撮り始め、クラスノショフは芸術家としての自分の使命はこの事態を記録することだと述べています。今各地で芸術家がこのような活動を続けている状況です」

そしてリモートではヨーロッパを中心とした文明史が専門の青柳正則さんと繋がっています。青柳さんよろしくお願いいたします。
青柳さんは今のこの状況をどんな風にご覧になってるでしょうか。

「河野さんがおっしゃったように、ロシアの侵攻の色んな写真を見てると、ちょうどピカソがゲルニカを描いて、世界中に戦争の悲惨さを訴えましたけど、あのゲルニカを思い出さざるを得ない状況が今現実にあるんだいうことを重く感じています」

それではまずウクライナ地に紀元前に現れた美術から今日は見ていくことにします。

 

現在のウクライナの地についての最も古い記述はギリシャ人によるものです。
紀元前五世紀。
歴史家・ヘロドトスが書き残しています。

彼らは街も城塞も築いておらず、家を運んでは移動していく騎馬の弓使いだ。
戦ったものは一人として逃れえることができず、誰も彼らを捉えることができない。

彼らの名はスキタイ。
馬を自在に操り、無類の強さを誇ったとされる遊牧騎馬民族です。
紀元前七世紀からおよそ五百年以上。
西はウクライナの地から東はアルタイの周辺まで君臨していました。

文字を持たず、記録を残さなかった謎の遊牧民スキタイ。
アルタイ地域。
紀元前七世紀の墓から大量の副葬品が出土しています。
死者が身にまとっていた布。
直径一ミリの金のビーズが、二十五万個も編み込まれています。
このネックレスにはわずか三ミリのイノシシが百三十四個も飾られていました。
スキタイの独自の世界観を物語るのが鹿の装飾品です。
現実にはありえない程長く伸びる角。
何度も生え替わる角は再生の象徴。
戦士たちはそのエネルギーを授かろうとしたと考えられています。

後に西に勢力圏を広げていったスキタイ。
その中で美術品にも変化が生まれてきます。
ウクライナ東部で発掘された全長五十センチの弓矢のケース。
描かれていたのは空想上の動物グリフィン。
これはスキタイの人々がギリシャ人の職人に作らせたものだと考えられています。
はいこの時期スキタイは肥沃な土壌で栽培される穀物を背景にギリシャと盛んに交易。
富を蓄積していました。
この胸飾りもスキタイがギリシャ人に作らせたもの。
直径およそ三十センチ。
金の重さはなんと一キロを超えます。
胸飾りは三つの層から構成されています。
外側は荒々しい弱肉強食の世界。
二頭のグリフィンが馬を食いちぎるとしています。
細かな筋肉の動きまでを捉えた躍動感あふれる描写。
内側の層は牧歌的な風景です。
男たちが羊の毛皮で上着を縫っています。
乳を搾る子供や女性。
今に残されたスキタイの人々の日常の姿です。
紀元前の昔からウクライナの地はたぐいまれなる黄金の文明を育んだ豊かな土地であったのです。

 

ウクライナっていうと穀倉地帯っていうようなイメージがあったんですが、その草原を騎馬民族が走って、しかもヨーロッパの他の文化や文明と交流があったっていうのは興味深い話です。

青柳さんは今の映像をどんな風にご覧になりましたでしょうか。

「今のスキタイのことが考える時に、ユーラシア大陸全体を考えると、あの頃まだローマ帝国は勃興してませんがその核ができ始めて、ギリシャ分限が広がっている。それからヘレニズム文化っていうものがある。今のペルシャイランの辺りにはアケメネス朝ペルシャがあってそれからインドに行くとその後になんですけども、文明が国家が出来上がっていく。それから中国ではもう中国漢王朝がずっと繋がっていく。でそういうスーパー権力の中の中心部。いわゆるあのシルクロードとかあるいはスキタイあるいはサルマタイ、トラキアが活躍した草原地帯がいる、そういう非常に大きな勢力の中に囲まれている、いわばある意味で希薄な人口も希薄なんですけども、希薄な地域。そこに遊牧民的な生活をするスキタイとかサルマタイとかあるいは中国の方に行くと匈奴とかそういう人たちが動いていた。それが今でもある程度ですね歴史や文化にも継続性を持っているということを感じさせます」

素晴らしい技術の水が凝らされてると感じるんですけども、ギリシャとかそれ以外のところの交流によって発達していくっていう意味ではある種開かれた文化民族だったというような理解でよろしいですか

「勿論です。もう古代早い時代から世界中が少しずつ文化を発展させるためには交流なくしてできない訳です。それでスキタイ人たちもおそらくギリシャで訓練を受けた工人、職人たちを呼んで自分たちが注文しながらああいうあのソーシングを作ったと思います」

高野さんはこのスキタイの美はどんな風にご覧になりました。

「繊細な細工でデザインも大胆であり、物語性もあって、現代から見ても大変魅力的であると思います。またスキタイは二十世紀初頭、都市に住んでいた知識人にも大きな影響を与えました。第一次世界大戦のさなかに自分たちのグループをスキタイ人と名付けて活動した文学者たちもいました。当時彼らにとってスキタイは衰退しつつあるヨーロッパとは違う独自の文化、荒々しさであったりこう自然との結びつきを表していたのだと思います。またスキタイが主要なモチーフとして描いていた鹿は現代のウクライナ美術にも受け継がれています」

 

まだ平和だった頃のウクライナの首都キーフ。
中世ウクライナの地は再び歴史の表舞台に登場します。
九世紀各地の諸侯をまとめる形でキエフ大公国キエフ大使が誕生します。
北はバルト海から南は黒海の手前まで。
中世ヨーロッパで最大級の広さを誇りました。
世界遺産、聖ソフィア大聖堂。
広大な国土を統治するためにキエフの大公はビザンツ帝国からキリスト教の宗派の一つ
正教を導入。大聖堂を立てました。

内部はさながら天上の世界です。
記録によるとキエフの大公は宗教儀礼が美しかったから正教を国教としたと伝わります。
ドームの天井には六メートルにもなる聖母マリア。
手を広げているのは祈りの仕草。
三百万個以上のガラス片からなるモザイク画です。
大聖堂の中は壮麗なフレスコ画で埋め尽くされています。
キエフルーシ。
その統治は緩やかなものでした。
象徴と言えるのが三つの聖ソフィア大聖堂。
ビザンツ帝国の正教会から布教を統括することを直接認められた施設です。
首都キーフだけでなくそれ以外の都市にも存在していたのです。
「自分たちはキリストを受けたんだ。キーフと対等な街なんだという自覚がポラツクにもノブゴロドにもあったということの証だと思います。だから中央集権の統一的な国家とは全く違う形態だったというふうに考えられます」
宗教と同時にキエフルーシにもたらされたのは文字でした。
ドニプロ川沿いにあるキエフ洞窟大修道院。
川岸の洞窟で修道士たちが共同生活を営んだことが始まりです。
修道士たちは聖書を地元の言葉に翻訳。
さらに建国にまつわる歴史書を編纂します。
スラブ最初の古典文学だとも言われる「原初年代記」。
キエフルーシの繁栄と衰退が生き生きとした筆致で描かれました。
ウクライナとロシア。
二つの国のルーツとなる物語の誕生でした。

 

近代国家の枠組みで見ると後ウクライナとロシアってあ違うんだみたいになっちゃうけど、文化的歴史的にこう遡ると共通の土台から発展してきたんだなっていうことはよく分かりました。

緩やかな連合体だったキエフルーシはヨーロッパの中央から東のエリアに広がっていました。このエリアに今の国境線を重ねると、ウクライナとロシアの一部とベラルーシになります。ですからこう東スラブと呼ばれるこの三つの国は同じルーツを持っているわけです。ただし近代以降の主権国家が成立してからは独立した国家として存続してきました」

こうやって見ると非常にこう大きい範囲の国だったんだなという気がします。青柳さんキエフルーシのこの緩やかな連合体というのはどういう状態だったんでしょうか。

「おそらく彼らはですね、しっかりとした統治制度のある国家にしたいとは考えてるんだけど、例えばその見本となるのは南だとビザンチン帝国で、ここは政教一致ですよね。それから西ヨーロッパの場合にはまだ本当の絶対王権はできてないけど、前段階の王権統治があった。両方とも自分たちの土地に合ってるかどうかっていうのは分からないし、正教統一の高度な土地制度をすぐ取り込むこともできない。その中であの緩やかな連合体の中で模索しててしてる時代という風に捉えることができる」

模索っていうことで考えると文学の役割。まさにその人々が自分たちのその共通なその場所に属している歴史に属しているっていう意識を支えるものじゃないですか。キエフルーシの歴史の原初年代記っていうのが生まれたっていうこと。でそれでこうみんなが同じ言葉を読み書きま一部の知識人に限られたかもしれないけど、みんなが同じあの言語を読みそして同じ年代記を読むっていうことによってやっぱりお酒おっしゃってるような緩やかな連合体をよりこうよりこう強固にしていくっていうかそういうこう傾きっていうか働きっていうのがあったのかなっていう風に感じました。

「文学を書く前、どうしても文字が必要だった。文字が必要だからギリシャアルファベットを取り込もうとする。だけど、それだけじゃ自分たちの言語を全部表現することができないということで、キリル文字のようなアルファベットに十五文字ぐらい付け加えた大きなキリル文字を作りますよね。でそういう準備ができたから文学もその上に乗っかることができていくという。だからそういう段階的なことを非常にあの鮮明に見ることができますね」

中世ヨーロッパの大国だったキエフルーシは十三世紀にモンゴルの侵攻を受けて崩壊をします。
そしてキーウにあった正教の主教座は北東の一公国だったモスクワに渡ることになります。
その後ウクライナ後は様々な国の支配下となりました。
そんなウクライナにはこんな小話があるんですね。

私はオーストリア=ハンガリー帝国で生まれ、ポーランドで結婚し、ソ連で働き、ウクライナで余生を送っている。しかし私は一度も自分の村から出たことはない。

という小話がありまして、それを地図に当てはめると西部の街リヴィウにご注目いただきたいんですが、周りがポーランドスロバキア、ハンガリーなどなどに囲まれている。この年表に当てはめて見てみようと思います。

例えば1910年にリヴィウに生まれたとしたら、産まれたころはオストリア=ハンガリー帝国なわけですよね。で二十代になるとポーランド人として例えば結婚すると。そして三十代の半ばになるとソ連で働くことになり、さらに八十代になるとウクライナで余生を送ることになると思うという、ひとりの方の人生の中でこのぐらい点々と自分の国が変わるということになる訳です。
だけどリヴィウから一歩も出てないっていうことがあり得るかもしれないですよね。

普通にやっぱりこの地域にいたってことなんですかね
こうした激動の歴史だからこそ独自の文化が生まれることになります

世界遺産の街リヴィウ。
ポーランドの支配下にあった十六世紀。
独特な教会文化が誕生します。
ポーランドの国教カトリックに正教会の人々が合流した合同教会。
カトリックへの帰属を受け入れながらも正教会の儀式や典礼を保ち続けました。
正教会の象徴イコンに口づけする人々。
一方、建物には正教会ではありえない装飾が施されています。
カトリック教会によく見られる立体的な彫刻です。
十八世紀にはこの町ならではの宗教彫刻も生まれます。
どこから来たのかどこで学んだのか来歴が一切分からない謎の彫刻家ヨハン・ピンゼル。
磔のイエスキリスト。
ピンゼルはウクライナ伝統の木造彫刻でヨーロッパのバロック的な表現を追求しました。
その表現は過激なまでにドラマチック。

ムーザの小部屋 ベルヴェデール宮殿のピンゼル展!!

傍らで我が子の死を見届ける聖母マリア。
激しく体をよじり身悶える母の姿です。

Pinzel_2

神への犠牲として息子を捧げるイサクの犠牲。
究極の試練を受ける人間の姿。
激動の時代をくぐり抜けてきたウクライナの歴史そのものなのかもしれません。

 

「ピンゼルの作品は非常におもしろいもので、彼がどこで生まれてどこで学んだのかということは分かりませんが、彼の作品からはピンゼルがヨーロッパ中の色々な美術を知っていたということが伝わってきます。でもそれは彼自身が旅をしたのか、あるいはウクライナの美術史家が行っているんですけれども十八世紀のリヴィウというのはヨーロッパの色々な美術がこう交じり合う場所であったえですので、そういった特徴が彼の作品にも現れているのだと思います。ただヨーロッパの文化が色々集まってくると同時にヨーロッパの中心的な都市から遠く離れている場所だからこそそこでは不可能であろう大胆な表現が可能になったという風に考えることができると思います」

 

面白いですねその時代を映すものでもあるし、その地域性も映すものでもあるし芸術作品から見えてくる
傑作だっていうピエタを見てたんですけども、ピエタを見るとすぐに我々ミケランジェロのピエタ像を思い出します。
子どもを失った母親の悲しみはいろんな表現があるけれど、それを全部抽象させてでああいう形にまとめていったところがピンゼルはある
マリアという人のあの個性をそのまま悲しみに表現させてるという写実性があってね
その違いが非常に面白いと思って今見てました

ちょうどミケランジェロのピエタっていうのは韻文のししですね
韻文のピエタだしそれから今度ピンズのあのピエタは散文のピエタっていうか面白いですね

僕は説明が素晴らしいと今思って聞いてました
韻文と散文の違いですよね。普遍的な母の失うほどの悲しみっていうのを
より普遍的な書き方もあればよりこうこ的な体験っていうことをリアルに描くことによって
でもやはりたどり着くところが一緒っていうかそこがやっぱりこう芸術の面白さで
散文であろうが韻文であろうが人の心にこう深く届きそれを揺さぶるようなものを作り手は作ろうとしているという風に感じます
これ見て今起きてることを考えなきゃいけないじゃないですか今の我々に時代を超えて強く働きかけてくる心に触れてくる
そういう作品であるという風に感じます。

私たち多様性という言葉はよく使いますけれども今のこの作品を見ていると
こうさまざまなものが積み重なっていく多層性を感じるような気がするんですが
僕たちが理解しているその場所っていうものが歴史的に様々な全く異なるような文化やその種族やあの風習が重なり合ってできてる
宗教的にもローマカトリックの影響もっていうのもあるしだけど東方教会っていうのもあるしっていうような形でおそらくあんまり好みでは触れられていないです
けれどもこのあのくらいの地域っていうのはユダヤ系の人たちがたくさん大量に乗られたところですよね
だから東方ユダヤ系のその文化っていうのも息づいていた場所だと思うのです
多層多層的な場所だったっていうふうに感じます

大きな文明とか大きな文化の中心地っていうのはだんだん洗練されていく一種のトラディションというか伝統ができていくでそういうことを見
ながらあの周辺のところこのウクライナっていうところではそれ以外の要素も加えてある部分がより強調されたりする
だから今ちょっと時代が違いますけどね今の彫刻を見ているとショパンが英雄ポロネーズを作曲したが
ポロネーズというポーランドのあの民謡音楽をクラシックな音楽に重ねてますよねそれですごい素晴らしい曲になってる
それと同じようなことがこの彫刻にも見られるんじゃないでしょうかね
エンゼルは今あのウクライナで研究されているんですけれども他の色々な影響があると同時にその土地の宗教ですとか土着的な文化との繋がりも指摘されていて
ウクライナ的なものを取り込みながら独自の文化を育てていった国の美術なんだなという風に感じています

ロシア軍の侵攻が始まって数日後。
ウクライナの国民的画家の作品が失われたというニュースが報じられました。

キーウ郊外のイワンキフ歴史地方史博物館の火災です。

ロシアの攻撃、博物館にも。ウクライナの国民的画家マリア・プリマチェンコの作品が複数焼失|美術手帖

それはマリア・プリマチェンコの作品でした。
プリマチェンコは1908年。帝政ロシア下のウクライナの貧しい農家に生まれました。
絵は独学。
幼い頃、刺繍職人だった母親から教わった刺繍が創作の原点です。
「私たちの軍隊私たちの守り手」と題された作品。
男女が民族衣装を着て手を取り合っています。
厳しい軍隊のイメージはありません。
動物も木々も太陽もみんなこの世を守る仲間たちという世界観が描かれています。
1991年。ウクライナはソ連から独立。
民族意識が高まるなかでプリマチェンコは国民的な画家として一層慕われるようになります。
1997年に亡くなった後も切手になるなど高い人気を誇っています。
作品の消失をうけていま、SNSではプリマチェコに関する投稿が相次いでいます。
ショックだ。
気持ちが沈んでいるがウクライナへの思いは続いている。
作品を通じてウクライナへの連帯の呼びかけが広まっているのです。
「翼を広げ平和を求める鳩」
素朴な絵に込められた願いに共感が広がっています。

見ていると頬笑みがこぼれてしまうような温かい気持ちになって優しい筆致の絵だなっていう風に感じますよね

彼女の作品が焼失したというのも大きな理由ではあるんですけれども
平和を願う作品であるとか本当にこう幸せに暮らす人々の作品自体がま大きなメッセージを持っている
それがこうまウクライナだけではなくて世界の人々に広く受け入れられている理由だと思います

続いてはソ連時代のウクライナ出身のアーティスト・イリヤ&エミリア・カバコフから番組宛てにメッセージをいただいています

手を携える船と題されたタバコフ夫妻の作品
帆になっているのは世界中の子供たちに書いてもらった絵
民族や文化の違いを乗り越え共に未来を目指すという願いが込められています
ロシアの侵攻に心を痛めている人
今行っている支援について妻のエミリアさんが話してくれました

若いミュージシャンとその母親を逃すための基金を立ち上げて資金集めをしています
これまでにドニプロのいくつかの家族をポーランド経由で逃しました
私が出向くのではありませんがこの資金集めには本当に多くの人が賛同してくれました
ある十五歳の少年は母親に必要なものをまとめなさい今夜出発よと言われて何を思ったと思いますかトロンボーンです
ミュージシャンだから
着替え一着とトロンボーンだけ
それが彼にとっても大事なものなのです
彼らは今ベルリン近郊にいます
どこに暮らしているかというとロシア人家族の家です
かつてソ連から移住した芸術家です
ウクライナ人ではなくロシア人が彼らに食べ物を与え、アパートの一室を提供しています
これが戦争を憎み自由と平和を望む人たちの連帯です

手を携える塔
世界のニュースに合わせて色を変えるといいます
悲しい時は青に
何かが始まる嬉しい時はピンクに
今は青と黄色
ウクライナの国旗の色に光りながら平和の訪れを願っています

アートにはいつだって果たせる役割があります
非常に大事なことです
文化に貢献している人
教養がありより良いものを愛するような人は絶対に戦争などしません
必ず対話します
音楽や詩や文学や踊りに携わる人
アーティストなどは芸術を通して対話します
言語すら必要としない
それが重要なことなのです

今日は私たちはウクライナの美術を見ることでウクライナの歴史や文化をより知りたいと思ってやってきましたけれども
今日番組をご覧の皆さんに高野さんはどんなことをどんなメッセージを伝えたいと思われますか

「戦争に関わっているもう一つの国であるロシアのアーティストにも注目していく必要があるかと思います
ロシアは今言論統制が強まっていて戦争に反対する発言をすることによって禁固刑になる可能性があるという法案ができてからは
アーティスト達も非常に戦争に対してこう反対意見を表明しにくい状況ではあるんですけれども
それでもなお危険を冒して反戦的な作品を作り続けているアーティストが数多くいます
戦争やでも直接的に描くアーティストもいればレオニート・チシコフという作家のように
みんなが同じ月を見ているということで上月を通じて国や民族を超えた繋がりを表わしている作家もいる
ウクライナとロシアとまたさらには色々な国のアーティストと手を携えることによって新たな対話の基盤が出てくるのではないかという風に思っています」

「ウクライナのものを色々見せていただいて思い出すのは、1946年11月にユネスコがあの設立されます
これはあの第二次世界大戦を反省して世界の平和をより強固なものにするということで作られた国際組織です
ユネスコの一番最初の憲章の一番最初のところに戦争は人の心から生まれるものだから人の心の中に平和の砦を築かなければいけないということが書いてあります
でこれを人々の生活に大なり小なり影響を及ぼす政治的な指導者は常にこの言葉を心の中に持っていってほしいですね
それをつくづく今この番組を一緒に見ながら感じました