今回公開されるのは、初出陳8件を含む55件の宝物。聖武天皇ゆかりの4弦楽器「螺鈿紫檀阮咸(らでんしたんのげんかん)」、光明皇后が自ら筆をとって書き写した書「杜家立成(とかりっせい)」、ハスの花をかたどった香炉の台座「漆金薄絵盤(うるしきんぱくえのばん)」などの至宝が並ぶ。日々の暮らしを彩った道具や仏の世界へのあこがれを映す品々など、天平人たちのリアルな姿を伝える宝物を紹介。
初回放送日: 2021年9月26日
日曜美術館 「横尾忠則 ART IS LIFE」
軽やかにカンバスへと振られていく絵筆
美術家・横尾忠則八十五歳。
この夏その作品が東京を駆け抜けました。
七月の半ば東京丸の内で行われた記者発表会
高層ビルの壁面がダイナミックに予稿の作品で覆われました
個性あふれる肖像画の数々
フランスから百三十九点が里帰りしました
これまでで最大規模の個展も開かれました
お願いしますライフ芸術とは人生そうですね
横尾忠則の今に迫ります
黄色にするとさ、なんか空間の中に溶け込むみたいな
自分が絵を描いてるっていう間はね
思い通りになってると思うんだけれども、逆だね
自分が描くっていう意識が消えてしまって、それでただただそれだけ動かしてる
それはむしろ絵の方が僕にその体の動きを求めてるような気がするよね
不思議だよね、でもね、向こうが要求するわけ絵に描かされてるって感じ
現況横尾忠則アートは今
横尾が考える最も重要になっています
作品数六百点余り
六十年以上の創作活動の集大成ともいえる展覧会です
あと描かれたばかりのような生々しい感じ
1980年横尾がグラフィックデザイナーから画家に転向した当時の作品です
動きのある筆跡がエモーショナルな空間を作り出しています
少年たちの目の前に広がる洞窟の中のイセカイ
骸骨をさらう漁師段差や戦闘機など
混沌としながらも
画面は生命力に満ちています
時間や空間を超え
様々なモチーフが一つに集約するのが横わうん
割かれたカンバスが複雑に組み合わされた画面
色鮮やかな油彩と
木炭によるモノクロ大丈夫です
ぶつかり合い絡み合うカンバスは
躍動感が溢れています
はいはいはい予稿が
海外へ向き合う姿勢を表した
一枚よろしくお願いします
何を描くかではない
いかに描くかではない
いかにいける
うん横尾さんの作品というのは
まああの日にちのあの瞬間
瞬間のあの感情とか感覚とか
そういったものが直接こう
あの作品に反映されているてまになっている
というそういうことなんですよね
でその作品に反映される意識とか
思いっていうのは
横尾さん自身がまあこれまでに経験し
てきた例えば過去少年時代のえー記憶とか
るいは夢ですよね
そういったものは
常にその現在の自分の意識に組み合わさったり
誘導したりしながら
作品の中にまあ渾然一体となって現れて
これは横尾さん自身のこう意識の探求
そういったものが反映されていると
要約すればその私と
は何かというのは
横尾さんの絵画の非常に大きなあのー
根本的なまでじゃないかなと思います
洋楽のはもう結構ねもう明光ですよ
だいぶ前からうんふふ
もういいやっていう感じだけれども
だけどそのもう嫌々買いたい
もう飽きちゃった
飽きた状態で書いた絵は
どんなえーなんだろうか
見てみたいっていう
あの好奇心があるじゃないですか
だからそれを見るために
またあの飽きた気持ちで
また書いていくっていうことはある
とも思いますけどね
二股に分かれた道愛次郎二千年
子供の頃に
よく通った模型店の跡地を訪ねた予稿
昔とは変わってしまった見知らぬ風景
新鮮な感覚を抱き
闇に包まれた日本の道ワイジロは
先の見えない未来に向かう
分かれ道を連想させます
毎時ろはシリーズとなり
その時々の予稿の心情に合わせ
描かれていきます
その数は百五十点に達しました
その夜の愛次郎不確かな線の表現によって
二か所のワイジロが
重ね合わせて描かれています
はい粗くかすれた無数の線
街の喧騒が伝わってくる
二千七年山梨県の石和温泉を訪ねた
横尾は食物アレルギーを起こし救急車で運ばれました
そんなトラブルも作品のモチーフに
細かい描写に引き込まれます
雨上がり住んで変える愛次郎
うんタッチを生かす色を重ねることで
夕焼けや道路に反射するネオンが
美しく表現されています
新たなスタイルを模索し続ける
予稿二千十四年フランスのカルティエ
現代美術財団の依頼によって
わずか三か月で百
三十円余りの肖像画を書きました
世界中のアーティストや文学も
一人一人の個性が多彩なスタイルによって
描写されています
肖像の制作を通して
新たな描き方の可能性を探ったという
予稿予稿にとって創作とは
変化し続けることなのです
今僕絵を描くような状況で
筆持ってませんからね
で逃げてただ叩きつけてるだけで
うん痛さを利用してるっていう言い方変だけど
さたきゃ遺体でそれもまいいんじゃないかな
痛みと共有するっていうのかな
疲れた
今日はもうここまでですね
現況横尾忠則展の最後の部屋
現況の森と名付けられています
展示されているのは
新作の数々物の輪郭がはっきりとしない
色と形が混ざり合った
画面検証えーによる手の震え
年聞こえづらい旅行は体の不調を受け入れ
それをスタイルにすれば良いと言います
武蔵と小次郎の決闘の場面
まるで子供が描いたようなタッチ
不自由な筆遣いから
逆にさらなる自由な感覚を得たよ
まあここ新作の部屋ですけど
今回すごいたくさんお書きになりましたよね
何点ぐらい書きました
確か二十年ぐらいじゃない
一年半ぐらい一年半ぐらいの間うんそうですね
一年間一年分
つまりコロナが発生した時期からだから
一年半ぐらいかな
でも今回凄い色がねきれいですよね
あのね黄色が凄くこう
ぱっと目に入る感じしますね
うんまあんまり黄色使った絵画っていうのは
そんなに多くないのでね
まあゴッホぐらいかなうんだから黄色ってね
難しいと思ったんだけど
うんだからいっそのこと
難しいことをやってみよう
失敗の可能性のほうに賭けてみようっていう
うん新作の中で繰り返し描かれたのが
寒山十徳のシリーズです
寒山拾得とは
中国唐の時代にいたとされる人の僧侶
奇抜な行動で知られ
俗世界を超越した存在ともされる換算と
十徳自由な精神予稿の心をとらえました
うんありがとうございます
新作の中であ
これはおもしろい試みをやってるな
と思ったのが換算十徳のシリーズですけども
人物が換算と十徳それぞれが輪郭がよれよれ
しかも線が繋がってるように切れてる先生
それでかろうじて分ま
それで十分なわけですよね
でそれが非常にあの
意図的にやっていますよね
それから色彩が浮遊してるんですよねあのー
つまり色彩っていうのは
普通は西洋がい
海外で言えば大体
何かものと一緒になって物を説明し
あるいはそれを関係づけたり
えーするために色彩っていうのが使われますけれども
この色は色で独立してるま
何というか画家の気分という
よりえーそのものが持っている気分
絵画の気分ですね
その気分のために
こう使われているという感じですかね
で非常に自由な感じええ
みんな楽しそうに遊んでる感じがしますよ
基本はあのー遊びですよね
うーん子供はただ遊びたいために遊びますよね
えーもう僕はそれでいいんじゃないかと思う
わけま人は生まれてきて
何の目的で生まれてきたかって
目的なんか何もなくて
ただ遊ぶために生まれてきたって
それを実践しているような人だからうん
やっぱりあティストも
そうでなきゃいけないんじゃない
うんいけないっていう
そういう気分になるっていうことま
必要じゃないかなと思う
千九百三十六年予稿は
兵庫県西脇に生まれます
その三年後
父の兄横尾家の養子となります
呉服商を営む年配の兄夫婦は
旅行へ限りない愛情を注ぎました
二十四歳の時に上京
グラフィックデザイナーとして活躍します
ええ六十年代
ポップアートと
土着的なエロティシズムが入り交じった
斬新な表現は衝撃を与えました
そこには子供の頃に目にしたマッチや
反物のラベルのデザインの
強い影響がありました
千九百六十五年
自分自身を題材にしたポスター
二十九歳の絶頂で死ぬと記されています
あ一歳半の自分の写真の頭上には
自殺をする人の姿
二年後には
デザインの業界紙に
自身の死亡通知を掲載します
そして初の作品集のタイトルには
二冊横は死を恐れる
あまり繰り返し自分の死を描きました
その根底には
子供の頃に抱いたある感情がありました
漁師ねとにかくうん溺愛されましたね
それで僕の名前を呼びつけで
呼ばれたことは一度もないし
叱られたことも記憶がないんですよね
僕とものすごく離れてるわけでしょ
そうするとおじいちゃんおばあちゃんだから
そんなに長い切るするとは思わないわけ
両親が知るということが
逆にあの恐怖の対象で
僕自身が死ぬよりも
両親が死ぬことのほうは
恐ろしかったですね
うん死への恐れ
そこには幼い頃の
鮮烈な戦争の記憶もあります
燃えるような赤い絵画のシリーズは
戦争の体験を反映しています
予稿の過ごすさっきから見た明石は
二十九の空襲に遭いました
火災で真っ赤に染まったそらその印象は
今も焼き付いているといいます
郷里で育ったうん
そのあの時間それが
僕にとって
全作品を試合してるような気が
するんですよね
いちいちねあの炊く時に
教授のことを回想した記憶を
手繰り寄せていたくっていうのは
ないんですよね
あの多分無意識に
そういったものが
僕の騒動に
関わってきてるような気がしますね
今書く書いてる作品にも
全部それを営業してる
全ての作品に
影響してるような気がするんですよね
東京駅の迎えにそびえる高層ビル
その外壁が予稿の作品で覆われた
東京大壁画です
高さおよそ百五十メートル
流れるように壁面を負うのは
タキの絵です
滝それはにとって重要なテーマです
めまいを起こすような
圧倒的な物量一万枚の滝の
絵はがきを使ったインスタレーションです
うんうんうん八十年代後半
繰り返しタキの夢を見た予稿は
これらの絵はがきを集めました
はい夢という無意識の世界から
現れたテーマを掘り下げていきます
はい旅行は滝を描き巡る内に
浄化されるような感覚を覚えた
といいます
やがて絵画を関連的にではなく
直感や記憶など
自らの内なる感覚をもとに描くようになります
うんうんそうした変化は
市の表現にも現れます
若い頃の父親と大人になった予稿
並んでアイスクリームを食べる姿は
思い出と現在が交錯しています
後には神戸の震災の様子
空襲の記憶と混じり合うように
空が赤く染まっていますはい立ち上る花園
はいその先には輝く星星
そして亡くなった人々の姿
広大な宇宙の一つに
なった子のイメージが広がっています
同居してるって言うのかな
なんかこう共有してるような
そんな感じですよね
ここまでが痛いです
ここから先が施設って言うんじゃなくて
それがなかった時計あったような感じで
それは絵の中にもあのー
なんとなく現れてるんじゃないかな
いちいち考えないですそんなことをかけたい
ものを書いたらそういうものが自然にあの出てる
死者の誕生人が生から死へ移ろう時
詩の世界からの視点に立って
描いた作品です
ありがとうございます
紙には宇宙や紙にも通じる広大な領域がある
という予稿ありがとうございます
死の世界は
芳醇なインスピレーションの源
となったのです
今ねあのー今言ってんの
あのー鯛焼きが来るから
鯛焼き食べてからやりましょう
今皆で行ってるからお願いします
この絵の中にもあの男もいるし
女も入るし色々いるけども
この全員が全部
あの人の僕だと思ってるんですよね
過去にいろんな経験をしてきたのが
ある時間のところに
全部わっと集まった
その瞬間を書きたいわけですよね
物心ついた頃だから死を意識してきた予稿志とは何か
私とは何か旅行にとって描くとはこの果てることのないと
家の答えなのかもしれません
今我々は生きてますよね
だけど生まれる以前があったのかなかったか
っていうことを考えると
僕はやっぱりそれ
以前があったと仮定しないと説明できない
子供が多すぎるんですよね
それがやっぱり今生の作品の中にも
何かの形で影響してで
あの描かせられてるっていう感じ
で自分でも分からない
何かその無意識とか言うそのレベルじゃなくて
あのーもっとね
魂のレベルって言ったらいいのかな
まそれを僕は現況っていう
言葉で説明したんだけどね
魂っていうのは見えないし触れないし
だからそれはあのそれは
そういったものは存在してない
近代的な考え方あではなくてねうん
見えないもの触れないもの
そういったものこその中にね
何かものを作る必然性っていうのか
原動力があるんじゃないかな
と思うわけね
予稿はすべての人には魂の故郷があって
その場所が元凶だと言います
そして元凶は
死んだ後に
魂が帰っていくところでもある
と言います
現況とは時のサイクル
生命の根源のようなもの
ほぼ完成した新作
さっき売れたの柔らかな風が
結婚を祝福するように吹き抜けていきます
過去から現在に至る
さまざまな姿で描かれた予稿命の輝きが
一瞬に集約されています
artISlife芸術とは
人生
これからの
夢とかね
あのー計画とかね
そういうビジョンは全然ないですね
まあ今日のこの絵はきょういっぱい書いてで
その続きは明日を書く
その続きをまた合わさっていって
それのこう連続ですよね
楽しいのか苦しいのか
なんだかよくわかんないなんなんですかね
うんまあ画家っていう業があって業によって
書かされてんのかな
なんなんだろうなと思って
そんなことを考えないですね
それ考えるとね
途端に書けなくなっちゃうと思うから
まあいいじゃないかとうんだから
書きたいから書いてんだから
それでいいじゃないか
っていうそうですよね