誰もが子供の頃に見たような郷愁あふれる風景を描き続けた画家、谷内六郎(1921~1981)。そのライフワークは、「週刊新潮」の表紙絵。昭和31年の創刊号から昭和56年亡くなるまで描き続けた絵は、実に総数1300点以上に及び、昭和の日本人の多くに親しまれた。今年は谷内六郎の生誕100年。少年の感性を終生持ち続けた谷内の、懐かしく、ファンタジックで、時に怖い絵を、谷内自身の言葉とともに紹介していく。
初回放送日: 2021年10月10日
日曜美術館 「 遠い日の風景〜 谷内六郎 の世界〜」
昭和の時代を生きた人なら、きっと目にしたことがあるでしょう。子供の頃を思い起こさせる、懐かしくて切ない風景。昭和31年、週刊新潮の創刊から表紙を飾った絵は、画家が亡くなった昭和56年まで、25年余りにわたって続きました。
その表紙絵を描いた画家の名は谷内六郎。谷内は、それらの絵に自らの言葉を添えていました。
投げたボールが植木鉢にぶつかって割れました
あらよあらよゆってやろうゆってやろう
幻の影がそう叫んでいるようです
秋は透き通る風船
秋は透き通る風車
秋は胸も透き通る
「見た瞬間に子供の時の感覚に戻してくれるっていうか、鮮やかだった感覚にばって戻してくれるからなんか感動するんだと思うんですよ。」
「魂のいちばん奥のところにほっと火が灯るような思い。これは味わいたくて谷内さんの絵を何度も何度も繰り返して見るんでしょうね。」
今年は谷内六郎生誕百年記念の年。その絵を谷内自らの言葉とともにご覧ください
谷内六郎の表紙絵の原画をほぼ全て所蔵している神奈川県の横須賀美術館。その一角に谷内六郎館があります。
美術館が所蔵している谷内の表紙絵は千三百点余りあります。いつもこのように五十点程展示会をしながらご紹介しています
膨大にある表紙絵。まずは子どものユニークな遊びの光景です。
電車の終点。ここで終わりでは面白くないと坊やは線路をつなげています。地方に行くと大変楽しい小さな電車が走っています。春の野をコットンコットン行くのは何とも言えない楽しい電車の味です。
雪国の温泉の家は山間にあるせいか、道の狭いところが多いです。向かいの家の二階とこちらの二階の子がお人形を糸に釣ってくるくるとリフトごっこです。
春の日はもう初夏のような温かさです。子供は洗濯ばさみでパーマ屋さんごっこです。本当に子供は思いもよらないものを使って色々な遊びを考え出しているようです。
東京都内をちょっと外れれば、いたるところに火の見櫓を見ることができます。秋の日差しに色濃い火の見櫓の陰に乗って、展望台に載っている気持ちになっている子を描いてみました。
今から百年前。大正十年に生まれた谷口六郎は子ども時代をまだ当時自然が豊かだった東京世田谷で過ごしました。
まばゆいばかりの緑の地帯でありました。すぐそばに小さな小川が流れておりメダカでもドジョウでもうんざりするほどいた。
しかし小学校二年生の頃には喘息に悩まされるようになります。
僕にへばりつき始めた持病の喘息。学校も休みがちでただぼんやりと憂鬱な思い出しか残っておりません。
子供時代への郷愁を誘う谷内の絵。そこには子供の切実な気持ちが描き込まれています。
投げたボールが植木鉢にぶつかって植木鉢が割れました
あらよあらよゆうてやろうゆってやろう
瞬間坊やの周りにたくさんの顔
友達の顔が影のようにあちこちに横切ります
あらよあらよ誰かさんはあらよ
幻の影はそう叫んでいるようです
坊やは大きな大きなおもちゃのバスをプレゼントに買ってもらって、頭の中はバスのことでいっぱい。エスカレーターからずっと天点まで登ってしまう夢心地です。
自転車で一人で遠い街に来てしまった子。街を歩いている人がみんなこっちを見ているようだった。みんな知らない子や大人ばかり。話しかけることもできない。見知らぬ街の煙突や電信柱が夕日にシルエットになって黒っぽく。ああ坊やはだんだん不安になってきます。
佐藤可士和さんは美術大学を目指していた頃。谷内六郎の表紙絵を治めた文庫本の画集と出会い魅了されました。ボロボロになるほど見て新たに買い替えています。
「『風邪熱の晩』っていうのは気に入ってるというか、こういう体験をよくしてたなっていう。その坊やが風邪をひいて熱を出してしまって、でちょっとこううなされて、でそこにこうお姉ちゃんが薬を飲む水を持ってきてくれるみたいな。やっぱり子供の頃って僕もよく風邪ひいたりとかして熱出したりとかしていて、本当にそのときに家にも壁掛けの時計があったんですけど、こう病気でま風邪ひいて寝たりしてると、こっちこっちこっちこっちとか、ああいうことがすごく大きく聞こえたりとか、それこそ本当にこう天井の柱とか梁とか、そういうのを見てるとぐにやっと歪んだりとかこう。家に置物がま自分のおもちゃと別に招き猫とかキツネとか牛の置物があったりとか、よく見てるとちょっと怖い感じのものっていっぱいあったと思うんですよ。やはりそういうのがこう熱を出てるなんとなくでっかくなって襲ってきたりするというか、そういう恐怖が何て言うか潜在的にあるんですかね。夢と現実も行ったり来たりみたいな、完全に夢の中じゃなくて現実が夢になっていくみたいな、そういう感じが描けてて凄いいいですよね。」
谷内は小学校を終えるとすぐ町工場で働きます。
小さな小さな電球工場でした。一番楽しかったクリスマス電球を作った思い出は忘れられません。それはタングステンのところに天使の人形が封じ込んである大変手の込んだものでした。
しかし谷内は持病のぜんそくの発作の度に休むので町工場を転々としなければなりませんでした。
僕の少年時代は何か影のような孤独がつきまとう
現実を離れた空白に住んでいた
谷内の絵には子どもが感じる不安な気持ちが幻影となって現われる絵が多くあります
夕方、お使いの帰り道で燃えるようなケイトウの花を見るとぎょっとします。夕方の空にあるケイトウは恐ろしい色彩であらゆる怖い感覚を与えてくれたそんな子供の頃の思い出です。
人を飲み込んでしまいそうに暗い夜の海。吠えるような潮鳴りの音。崖の岩肌に真っ黒な海坊主がいた。それが焚き火の中の人の影であっても、子供はそれを海坊主を見たと思い記憶に残すようです。
お巡りさんと通行人が車を止めて話し合っています
赤いパトカーのくるくる回る光が木や道に事件のように光の影を投げています
光の回転がだんだん大事件めいた気分にしていきます
ついには子供の頭の中で大きな空想となっていき
大事件だと家人に告げたりします
夜中、坊やは犬の吠える声に目を覚ます
はじめ、一二匹の犬が吠えていたのに
しまいには街中の犬が吠える
これはテレビに出ていたような青い怪人がいくに違いない
坊やは犬の吠え声が高まるようにだんだん不安が高まり
お巡りさんが三人くらいいれば良いのだが
一人では怪人にやられるかもしれないと思っています
戦争中は軍の工場に徴用され、23歳で終戦を迎えた谷内。戦後は喘息に悩まされながらも漫画を精力的に発表し独自の絵も描くようになりました。しかし昭和25年谷家はぜんそくが悪化し入院します。以後数年間にわたって闘病生活。谷内は毎日の注射を克明に記録しました。
1年のうちほとんど毎日注射する状態で、1回の発作で15日くらいは昼夜ぶっ通しで注射していました。そのため、大抵、看護する人が悲鳴をあげました
病状が良くなると谷内は兄弟が営むろうけつ染めの工房で働きながら漫画やえに打ち込みました。そして昭和三十年突如脚光を浴びます。谷内の書き溜めていた絵が文芸春秋漫画賞を受賞
初めて画集が出版されたのです
これは昭和二十年。終戦直後の絵。焼け跡のような暗い阿南の向こうに巨大なアメリカのたばこが見えます。
へえご飯の代わりにジャガイモのうでたのを食べてから
ラッキストライクを過ぎました
うん闘病中に描いたと思われるえーぐらい空の中で
女の子がこちらを見てかすかに公園でいます
ピンクの服を着てたあの子は遠くへ越して行きました
僕の心に寂しい冬の風が吹きました
出会った瞬間から一枚一枚表紙絵を切り抜いては大学の音に貼り付けて読ま
今それに見とれるっていう生活をしてましたからね
四人のいけいマサキさんは中学生の時に谷口六郎の絵に心を奪われ
その思いが高じて詩を書き始めました。「谷村のこの莫大の映画病気が書かせたということはないです。
逆に言えばごく幼い子供の頃からその病気を懸命になって乗り越えようとしたその思いが書かせた映画と僕は思っているの。悲しみっていう感動だけがこの画面いっぱいに溢れているって僕はそういう風に思うんですよ。」
今はないけれどもどうしても欲しい今はいない
でも今すぐどうしても会いたい今はどこにもどこ行ってもない
だけどどうしても今すぐそこへ行きたいなんかそういう時なんだがね
地団駄の溢れた思いはパニックさんの絵に現われるトップがあるんですよ
この絵そのものがね何か聞いたことのないような叫びをあげてますよね
これも同じ頃の絵。空に上がった男の人。作る綿飴が雲になって浮かんでいます。
森さんの横がちょっとこう吊り上がった目で怖いですよね
怖いけれども懐かしいんだね
この畑のねこの遠くに見えているこの森の条件
このちょっと傾いてかすかに見えている電信柱
半分だけ窓からこのかごが出てる美ぼん女の子
これ全部ね僕が見てる僕が見た風景じゃないかと思うんだ全部僕のものだと思うんだよ
なんでこの井上さんがそれを知ってるんだろうって思うんだよ
ねなんでだろうと思ったらそこの足の間のようにね
この絵がさそうだね僕はでいつまでたっても見飽きないよね
ま魂っていうのが人の中にあるとしたらその魂の中にぽっと火が灯るような
あの谷さんえーに触れるたびにそういう思いを味わうことができるんだ
深い頷きとしか言えないようなねあの魂の一番奥のところに
ぽっと火が灯るような重いこれが味わいたくて他人さんの英語を
何度も何度も繰り返してみるでしょうね
昭和三十一年週刊新潮の創刊とともに谷内は表紙絵を描く画家に抜擢されました。以来二十五年にわたり谷家が描き続けた表紙。それは日本が高度成長を遂げる時代と重なっていました。高速道路が続々と建設される集団就職など都会に人々が集中し、地方の村村は過疎化が進みました。谷内六郎の絵にもその時代を映したものが多くあります。
島の高校を出た子たちは都会に就職に出ます
弟や姉やお母さんはテプで船を送り
島も優しく門出を祝って虹のテープをかけています
船に乗る子はその時美咲が母親のような優しい姿に見えたようです
お父さんに車で都心に連れてってもらったひうんええ高速道路の白線が
ちょうど晩そこをすごい速さで張っていくように見えました
そんな幼い娘の感覚を表現してみたものです
少し土手を登ってみるとまるでおもちゃのように小さな分教場がありました
分教場の庭には枯葉の子どもたちが騒いでおりました
誰もいない家誰もいない学校映画のセットのようでもあり
夢の中をさまよう気分でした
山だったところが切り崩されて道ができトンネルができると
今まで住んでいたやまびこは住むところを失ってトンネルの中に住むしかないのです
試しにトンネルの中で包囲っと叫んでごらん
ちゃんとやまびこが返事をします
昭和三十三年。谷内は人形作家の美智子さんと結婚。やがて二人の子供に恵まれます。庭で遊ぶ子どもたち。飛行機も電車も手作りです。谷内は自らおもちゃを手作りして一緒に遊びました。
「これはあのポロライドカメラポラロイドカメラですね。父はポラロイドカメラと言ってたんですけど、これは簡単に画用紙を切り抜いてこのようにお友達が来たりなんかした時に写真撮ってあげるねって言って、はいチーズでこの笑顔が出るようになってるんですけど。こちらのはこういうものを作ってちゃんと裏と表があって男の子がこの人に襲われていて、それで困っているところにお姫様がやってきて、この少年を助けようとしてしているんですね。顔がそれでこの族は驚いて逃げていくという、おそらく父は子供で遊ぶっていうことがアイデアにも繋がるし、あの楽しかったんだと思います。というか父の絵の中で遊びながら育ってきたっていう感じですかね。年配の方の話をしてて昔は蚊帳がね、こういうのがあってねって聞くとそうでしたよね。って私は言ってしまうんですけれども、実際には蚊帳なんて入ったこともないし、全然知らないんですけど、私はあの父と絵を描いてる側にいて書いたものをずっと見ていたからなんだと思うんですね。父の絵の中で遊んで育ってしまったので、気が付いたら全部体験してしまっているんですね。だからなんかちょっと不思議な感じですよね。」
数えきれないほどの音をテーマにした絵を描いてきました。その大半の絵は教習に結び付くことでした。ラムネの便の音。ブリキ玩具の音。鉄瓶の煮える音。母が菜を刻む音。チャルメラの音。風鈴の音。ミシンを踏む音。ひぐらしのなどなど、僕はどんな些細な音でも、そこから色々なイメージを引き出しては絵にしてきました。乳白色の海と空。そんなミルク瓶のような夜明けの静寂を栓を抜くようにぽんぽん船が質量に出ていきます。白い夜明けはミルク瓶ぽんぽん漁船が栓を抜き。釈迦しゃか社会線香。花火の火の出る音。釈迦シャカシャカ線香花火は夜店の話。
金魚屋の話。ひとしきりお喋りをすると赤黒い火の玉になって地に落ちて、涙の非番海沿いの道に昔からそこに立って移動様。そこにミンミンゼミがうまい具合に花植えに止まって鳴いています。まるで地蔵が暑い日照りの中でお経を唱えているようです。月の夜草の中で虫たちが演奏会です。今週から秋にかけて虫は盛んに片方の草むらでリサイタルやコンサトに忙しく、中には掛け持ちの神風タレント虫もいるそうです。雪はゴーという風を伴って吹雪となり、夜更けに嘘のように読んでしまいました。しんと静まり返った外は白く凍って物音一つしません。そんな夜更けの静寂を破ってどすんと雪が屋根から落ちます。布団にもぐる坊やは白い横綱の相撲取りが落ちたと思ったのです。
はいこの映画が好きでこの映画好きだったんだ
工場にいた魚ってね工場排水でしょうね
そこにこのなんか雨もたまって別にいいとぶん殴られた
歯車とかが作品の部品はここに沈んでいる中でも
こういうことであったでしょう
なんか子供ってなんかいるっていってそれはもう今もない記憶だから
大人になってようもない
役に立たない記憶が忘れられてしまうんだけど民
さんの中にはそれが宝物として残っていて
こういう風に描かれるで役に立たなくなったから、そんな記憶はもういらないって捨ててしまった。僕も含めて今の人たちはこれを見てえーあったなって思うってそれがね
あの素晴らしいうんちょっと胆汁酸なければ
起こらない現象なのね。
共感物って言ってこのような何の役にも立たないものっていうのがあるじゃないですか。例えばこう幼い頃にそれがなかったのはねられなかったものとか、失せろれた国民の緩みとかあのそういうものをね。谷内さんは宝物として人の候補に蘇らせるものがある。その共感物をねでもその共感物ってね。人は人であるために一番大切なものだと思うんですよ。だから谷内さんは声を大にせずにささやくような声で人として一番大切なものを絶えず僕らに支えて続けておられたんだと思う。」
五十代になると谷口六郎は静岡県にある障害児の施設ねむの木学園の子どもたちと深く交流するようになります。自らの詩画集にねむの木学園の子どもたちの縁も掲載しました。
僕自身が擁護学園に行かなくてはならないような子供時代を経験して、同じような子供の一人でも助けられるということが、何より大切なことだと思っています
谷内の絵は現実にある風景を映してものではありません。どれも谷内の中で生み出された風景です。
僕の絵はじっと浮かんでくる目の中の景色をぱっと捕まえて描く絵です
はい白い灯台の日だまりに確かに揺れるものを見ます陰郎です
秋は透き通る風船秋は透き通る風車
秋は胸も透き通る木枯らしの吹く季節です
木枯らしは山から電線に伝わって入場してきます
あんまりありがたくない木枯らしのパレードは粉雪のチラシも巻いています
貝殻の形は管楽器に似ています
波のピアノと月夜の浜辺でシンフォニーを奏でています
月の明るい浜辺は人の心を大変現実離れしたファンタジックに誘います
く燃える夕焼けもやがて墨色の夕闇に消され
夜がやってくるのです
家の伝統や
街灯の光が嘘のような明るさで愛愛と光時うん
私は遠いところに来てしまったと思います
夕方から夜に移る一瞬というものは生き物の心を不安定にする何かがあります
はいそれは夜を恐れた原始時代からの名残りが
たちの心に残っているせいかもしれない
夜になると樹木は世紀を帯びて人のように笑うのかもしれません
としとと雨の降る夜
話ボックスの光が樹木をとは巨大に見せています
電話ボックスの中には確か誰かいるようです
香里奈白々と動いているのです
もしかするとキツネが電話をかけているのかもしれないよ
モスモスモスモスうん迷い子になった夢っていうのはすごい
これも気に入ってますね
こう例えば友達とみんなで遊んでたのに夕方になってはっと気付いたら
もう自分しかいなくなってたとか
迷子になっちゃったのでこの四つの数字の道のどっちに行けば
帰れるのかみたいなのが分からなくなっちゃう
で後消防の道具を入れるみたいな小屋がで赤い電球がぼーっとと思ってる
みたいなあれ怖いですよね
アドも何もなくてでふと気付くと猫が猫人間みたいな
こっちを見てるみたいなあと木がですね
木の枝がてみたいになってて
自分のこう洋服を掴んで引っかかって離れなくなってるんです
逃げようと思っても逃げる
僕も気づいたら誰もいなくなってたみたいな
夢を何度も何度も見てますけど
なんかこう前に進もうと思っても
引っかかって逃れられないみたいな
まそういうものもそういう経験も夢の中で
夢の中でそういう経験もしたり見てると
自分の不安感が蘇るっていう感じだと思うんですよね
やっぱりこう見た瞬間に子供の時の感覚に戻してくれるっていうか
やはりその子供の時に感じてた感覚
っていうのは僕はすごいビビットな感覚だと思うので
ですごく小さなことでもビットに色んなものを感じていたと思うんですけどやはりこう
大人になるとそこを忘れていってしまうので
その鮮やかだった感覚にばって戻してくれるから
なんか感動するんだと思うんですよ
谷内六郎は昭和五十六年一月病気のため亡くなりました。五十九歳でした。二十五年間欠かさず描き続けてきた週刊新潮の表紙。谷内が生前書き残していた最後の表紙絵は虹を折る人でした。
森の中で虹は空に向かって織られています。子供たちは虹を織っている人を見たようです。