海外で数多くの賞に輝き、“世界のムナカタ”と呼ばれた版画家、棟方志功。昭和10年代、まだ全く無名だった棟方を見出し、大版画家に導いた人物がいる。民芸の美を提唱した柳宗悦である。自由な本能に従い、全身でぶつかるように彫る棟方を“自然児”と呼んで、その天才を開花させた柳。番組では、棟方志功の代表的な版画作品を、柳宗悦の文章とともに紹介しながら、柳と棟方、二人の25年にわたる魂の交流を描く。
【語り】柴田祐規子
放送:2020年7月26日
日曜美術館 「自然児、棟方志功〜師・柳宗悦との交流〜」
釈迦の弟子たちと菩薩を描いた棟方志功の傑作です。
ヴェネチアヴィエンナーレでグランプリを世界に棟方の名を轟かせました。
棟方を物心両面で支え世界の棟方と言われる版画家に導いた師がいます。
民芸運動で名高い思想家・柳宗悦です。
棟方は作品が完成すると真っ先に柳に見せるのが習わしでした。
柳は棟方作品を自ら考えたデザインで表象しました。
この屏風は絵の色に合わせて茶と青の市松模様になっています。
こちらが放射状に伸びる光線のようなデザインです。
「ちょうど背中に後光がさしているように、像はキリストですが仏のようにですね」
柳は棟方の魅力をこう書いています。
「棟方の身振りや叫び声や流れる汗を見ていると、獣のような趣がある。棟方の作物には自然の叫びがじかに聞こえているのだ。多くの者が失ってしまったものを、いまだに持っているのだ」
棟方と柳。25年間に及んだ二人の魂の交流をたどります。
東京駒場にある日本民芸館。
この民芸館を構想し初代の館長に着いたのが柳宗悦です。
柳は無名の職人達が作った日用品の中に美を見出し、民芸という言葉を作りました。
そしてそれを世に広める民芸運動を繰り広げました。
柳が棟方志功に出会ったのは、この日本民藝館を開館する直前。
昭和11年のことでした。
二人が出会うきっかけとなった作品「大和し美し」です。
棟方志功は日本武尊の生涯を歌った叙事詩に感動。
その詩の文字と絵とが渾然一体となった20図にも及ぶ版画を作り上げました。
版画の美しさは白と黒の対比にあると考えていた棟方の、モノクロームの世界です。
この作品をたまたま展覧会場で見かけた柳はたちまち魅了されます。
「へんにごちゃごちゃしたものが目に映った。目を近づけると驚いた。その混雑した中から妙な美しさが光り出るではないか。実に前代未聞の柵にぶつかったのだ。辺りを見回すと頭でできたり、指先でできたり、それらの器用な絵の中にただ一つ野生の花が生き生きと咲いているのだ」
青森の鍛冶屋の家に生まれ”わだばゴッホになる”と油絵描きを目指して上京した棟方志功。
29歳の頃。版画家として生きることを決意。
《大和し美し》は3年の歳月をかけて完成した作品でした。
「とても心を打たれましたので、その旨を棟方に話しますと、いいなあと叫んでいきなり私にかじりつきました。涙を浮かべ額からは汗が垂れています。髪がむしゃくしゃし、また胸毛が濃く生えていました。ちょっと原始人とでも言ったら良いでしょうか。今の時代に生まれた人間ではないかのようです」
柳はこの作品を同時250円という高い値段で日本民芸館のために買い入れました。
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棟方志功が初めて日本民芸館を訪れた時のエピソードが残っています。
棟方は部屋の正面に置かれていた大きな鉢に目を奪われました。
「どんな名人があって、こんな大したものを作ったのか、興奮してガンガン心臓が鳴ってきました。柳先生の返事が跳ね返ってまいりました。「九州の職人の作ったものだよ。君は鍛冶屋の子供だと聞いたが君のお父さんが刃物を作るのと同じだよ。君はお父さんの刃物を見て驚く時が来るだろう」私は両手を握って泣いていました。あの父を、えらい先生が褒めてくださったのだ」
「棟方は鍛冶屋の息子だと言う。それは運命にとって良かったのだ。棟方は身体全体で十分仕事にぶつかれるのだ。手の先や頭だけで助ける仕事には元々縁がないのだ。彼が鍛冶屋の息子でなかったら今のように描けはしないであろう」
「目が悪いのでもっともっと近づいて匂いを嗅ぐような状態で見たんじゃないかなって思いますけど」
棟方の孫にあたり十八歳まで一緒に暮らした石井頼子さん。
長年、棟方の研究をし、いくつもの本に著してきました。
「まあお父さんに対してはほんとすごい尊敬している思いはあるけれど、でもその一方で職人じゃしょうがないと。芸術家。偉い芸術家にならなければいけないっていう思いがとても強いわけですよね。その二つの相反する想いが棟方の中にはあるわけです。ところが先生がそんなことは関係ないと。名前なんかが立派にならなくても生まれてきたものが美しければそれでいいんだと。ものが立派であればいいんだっていうことを懇々とそれも大きな声ではなくて淡々と語ってくださったと思うんですね。それが最終的にお父さんに結びついたと。それはね嬉しかったんじゃないかと思う。ウルッとしちゃうんですけど。本当にその職人であるお父さんをこんな偉い先生が認めてくださったっていうのは嬉しかったでしょうね」
柳を始め日本民藝館に集う人々との出会いによって、棟方は初めて仏教をテーマにした大作に挑みます。
合わせて23譜に及ぶ華厳譜でした。
華厳経の本尊で万物を照らす仏、毘盧遮那仏を中心に様々な仏や神などが対になるように描かれています。
裸婦のような姿をした普賢菩薩に、これまた裸婦のような文殊菩薩。
疾風のごとくかける風神。
そして太鼓を連ねる雷神。
「華厳譜を見ると人間がかつて持っていた本能が不思議と棟方で蘇っているのだ。美の根源に触れているのだ」
華厳譜の出来栄えに驚嘆した柳ですが
23譜の中で5譜だけは気に入りませんでした。
「出来不出来があった。私は遠慮なく棟方にこのことを話し、刻み直してはどうかと勧めた。宗像はそれを喜んでくれた。それを私はどんなにか喜んだ」
「こちらが華厳譜です。こちら薬師如来の像になっております」
現在の華厳譜の中にある薬師如来。
柳の勧めで刻み直された後のものです。
最初のオリジナルとはどう違っているのでしょうか。
「実はこちらが元になる最初に作った薬師如来像なんですね。ちょうど周りに女性がたくさんいるということで、こちらの左側の大日如来と合わせてみて頂きますとよくお分かりいただけるように、どちらも女性に囲まれたモテ男とモテ男の対になってるわけです。それに対して柳先生が薬師如来の人物があまりにも騒々しくて賑々しいということで、おそらくもっと静かな薬師如来なんだから、もっと静かなものになさいという意味で多分作り替えを命ぜられたんではないかと私は考えます。それに対して棟方こちらの静かな薬師如来を作り上げるわけですね。同じように蓮の上に乗っているんですけれど、こちらの方はその人物のなしにすっきりとまとまった構図になっていて、静かな薬師如来の世界が本当に生まれたと思います。柳とってはこの一対になるっていう事は全く問題じゃなかったと思うんです。一点一点がどうあるべきかっていうことを考えて、美しさの点で柳は作品を求めてるわけですね。棟方自身はやっぱり柳がこれはダメって言ったものは作り変えた方が絶対良くなるって言うのは絶対的な信頼感っていうのがそこにはあるような気がしますね」
全く無名だった棟方は、当時妻と三人の子供を抱え極端な貧乏暮らしでした。
柳を始め日本民芸館の中心メンバー達は毎月資金援助をして棟方の生活を支えました。
棟方が柳に当てた膨大な書簡。
そこには資金援助へのお礼が繰り返し記されています。
「お情けの金子25円。拝受いたしました。かくならぬ私にお助けお言葉も無くありがたさ尊さ。骨身に染み込みます。なお一層心をしめまして勉強いたします」
資金援助のおかげもあって棟方はさらなる大作に挑みました。
実に120枚にものぼる版画をつなぎ合わせ、六曲一双の屏風に仕立てました。
当時、棟方の故郷東北地方は頻繁に凶作に見舞われました。
その故郷を仏の力で救いたいという祈りを込めた作品です。
「この版画で日本の美の世界に、版画としての美の策を建てようと思いました」
しかしその棟方の思いをよそに、柳は厳しい評価を下します。
「作者の並々ならぬ抱負と精力とを示すものである。版画として最も成功している部分は左右両端の黒衣の人物である」
柳が特に気に入ったのは体が真っ黒の人物たちです。
人物を黒く表す手法は、この後棟方版画の代表的技法の一つとなります。
柳は黒い人物など気に入ったところだけ別に軸装にして飾りました。
「右は男性。左は女性。民芸館にはこの部分を切り離して一軸を仕立てた。甚だ美しい。宗像は何をしでかすか分からない画家だ。作品にはまだ無駄が出る。その無駄の中にも素晴らしいものが混じっている。だから明日のまた明後日の棟方が楽しみなのだ」
「本当に恵まれない東北というところは、仏様が自分の体を真っ二つに割るくらいの思いを込めなければとても救われないということで、あえてその屏風の真ん中に仏様を置いて、仏様が真っ二つに割れる形での表現を作ったわけです。でも柳としてはこの両端の人物像とその一人の人物がとても良いので、別刷りにして3点組の自分なりの東北を作ってほしいというようなことをおっしゃって、それに棟方が対応するわけですね。まあいう人も言う人ですし、またそれに対応する棟方もどちらも凄いなって思います」
棟方は仏教をテーマにした大作を毎年のように発表していきます。
今度は観音菩薩が33の姿に変身して人々を救うと解く観音経を題材にその33通りの姿を描きました。
柳は表現も手法も想像力も一段と進歩したと、この作品をたたえました。
「多くの人のは絵を版画に仕立てる。だが棟方のは版画でなくば生まれない絵なんだ。棟方でどんな絵とも立派に向かい合う版画が生まれた」
これまで白と黒との対比こそが版画だと考えていた棟方がこの作品では色彩を使いました。
柳の助言で始めた紙の裏側に色を塗る裏彩色という手法です。
裏側から滲み出る柔らかな色具合。
この作品以降、棟方は裏彩色を多用するようになります。
仏教的なテーマに邁進していた棟方はこの頃ある仏像と出会います。
東京国立博物館に展示されていた奈良興福寺の《須菩提像》
釈迦十大弟子の一人です。
棟方は柳に宛てた手紙にこう書いています。
「先日、博物館国宝シュウボダイを見て参りまして、自分の惨めさを裸にされて正月早々泣きました」
実は《須菩提像》を見て棟方が泣いたのは、その時製作していた伝教大師の像の至らなさに気付いたからです。
そんな棟方を柳は励ましました。
「お励ましのお言葉。変えようのない宝です。君自身からもっと自由に迸り出る策をうんと勤め、うんと力を入れて、きっと近いうちにお目におかけしてまたの指示をお願い申し上げます」
昭和14年。棟方は伝教大師像をさらに発展させ、生涯の傑作を作り上げます。
須菩提像など釈迦の10人の弟子に文殊菩薩と普賢菩薩を加えた12図。
今度は再び白と黒の世界です。
「下絵も描かずにぶっつけに筆を下ろしました。ちょうど一週間で出来上がりました。早速柳先生に見せると手をたたき、私の肩を叩いて喜んで下さいました。私もぼーっとしてわからないくらいの嬉しさでした」
「迷いなどなく、異常な速さで仕上げてしまいます。下絵などに縛られるにしてはあまりにも自遊人。いきなり板に彫り出します。板が彫られつつ、絵を生み出すです。ですからどんな結果になるか自身でも知ってはいません。その場その場にまかせて、即刻に彫り上げます。これが自然人の版画家棟方志功の特色でちょっと例がありません」
「もういきなりやったら、いきなり12人が出来たっていうような話になってますけれど、実際にはもう何年も前から、先生から十大弟子の資料をお借りして、本を読み、そのそれぞれの話をちゃんと学んで、何百枚もの下絵を書いててそれを体の中に全部染み込ませるまで何度も何度も書いて、体に入ったところで板に向かう。そこまで来てますので忘れないうちに全部やらなきゃいけないって言うか、スピードでものすごいスピードで彫り上げていく。もうあの調子の良い時には2枚も3枚も彫ってみたいなこと言ってますけれど、確かにそれぐらいのスピード感があって彫り上げているんではないかとそうでなければあの線は出ないですよ本当に」
昭和20年。棟方は戦火の東京を離れ、一家をあげて富山県福光町に疎開します。
敗戦が間近に迫った7月。
福光に柳が危険を冒して訪ねてきます。
柳を迎える棟方のハガキが残っています
「大いにみんな待って準備中です。盛んに先生をお待ち申し上げます」
その柳から宗像に当てたハガキ。
「空襲のため故障続出で昨日は機銃掃射をくらい命が危ないところだった」
再会を果たした二人。
棟方の妻チヤはこう記しています。
「先生の滞在は二晩でしたが、その間二人はただ語り合い、絵を描き、書を書いては見せ合っていて、一時も離れがたいように見えました」
疎開先の福光で戦後すぐに棟方が仕上げた大作です。
全部で24図。
体が黒い人物には赤褐色の顔料、代赭の裏彩色。そして体が白い人物には群青の裏彩色がなされています。
日本民藝館にあるこの作品が手の色に合わせて茶と青の市松模様の表装が施されています。
この表層は柳の発案です。
「それぞれ色に対応してですね。群青には青の紙を使い、代赭には茶の紙を使い、それぞれ表装自体がまさに市松模様になるようにですね。さらに作品の持つ深みを増していることが分かるかと思うし、それが見事に成功してると思いますね。そういう点ではまさにお二人のコラボレーションっていますか、共鳴する世界が完成しているように思います」
棟方は戦争中にこれからは裸婦を描いていこうと決意したと言います。
この作品でも裸婦が半分ほどにのぼります。
「棟方の絵は美しいとか醜いとかの範疇から一歩出たものという方が良い国に棟方の強みがある。美しくなければいけないというような窮屈なものではない。何かもっと自在なのである。こだわる者のない自由さからあの独創が涌いてくるのである」
さらに棟方は仏教の聖典の主な6つの経を6人の裸婦で表しました。
黒地にわずかな白い線で象られた裸婦。
多くの女性像のを彫り上げた棟方がとりわけ好んだ作品です。
棟方独特の言葉でこう書いています
「日本のに女肌。女の人の体からどうしても抜き差しできないぬめぬめした世界。体と言うか、肉と言うか、肌と言うか、女物という感じをいっぱいに積もったものでした」
「神様であり仏様でありあるよ自然の万物でありあるいはもなんていうかもっと大きな空気感みたいなものでも何か表したこと言う時に表現手段としてはやっぱり女性の姿を描くことが一番彼にとってのやりたいことって言うか、どうしたって出てきてしまうものが女性像になってしまうっていうか。その女性像もボリューム感があり生命感に溢れ、そしてその動き、ざわめきと言うか、この中にこもったものをいかに表現するかっていう。黒い体。黒いボリュームのある体のところに、なるべく少ない彫り線で、この腕であり、胸であり、おへそでありを表現するのにどうしたらいいか。すっと決まる一本の線を描くことの難しさ。それにが本当に版画の難しさだと思いますね」
昭和30年から翌年にかけて、棟方は一躍世間の脚光を浴びます。
戦前に製作した二菩薩釈迦、十大弟子などがサンパウロビエンナーレ、ベネチア
ビエンナーレで相次ぎグランプリを受賞したのです。
棟方の受賞を受けて柳はこう書きました。
「棟方の真価が日本ではまだ本当に理解されてはいない。なぜ西洋人の方がその値打ちを認めやすいのか。今度でも他に5人の作家が出しているのは、多かれ少なかれ西洋風なものばかりで、日本自らが生んだものとはいえぬ。そこへ行くと棟方の近代性にはほとんど西洋の影響がない。それほど独自のものなのである」
茶室にかけるための絵。
12点のシリーズです。
四季の風景。
鳥や魚や花、そして釈迦やキリストなどバラエティに富んでいます。
茶室には相応しくないと思われる真っ白な裸婦を棟方は加えています。
黒い山々に囲まれた村里が雨に煙っています。
柳は風景画としてはこれまでの版画史にないほど深い作品だとただいました。
そして柳が最も気に入ったのはこのキリストでした。
「今までの棟方の作から何か一枚を選べと言われたら私はこの一図を押したいと思う。衣のひだなども簡単でいて、よく尽くしている
荒い線が細い線であや取られ掘りにも心を込めてある。何と言っても素晴らしいのは顔で、目や眉や頭髪あごひげなど実によく無用化されても申し分がない。
特に目の表現。イエスの鋭く聡明な性格を迫るように示している」
柳はこのもっとも気に入ったキリスト像にまるで後光が差しているようなデザインの表装施しました。
他にも柳は異なる表装のキリスト像を作っています。
こちらはキリスト教の十字架を思わせるデザインです。
「こちらの方が大胆です。この付近の色も。背景のこの顔の色もあって青と黄色の色のコントラスト強い意志。こちらは非常に茶とねずみ色の落ち着いたはいこうになっています。静かな深みといったものが感じるような気がします」
世界の宗像と呼ばれるようになり、棟方は頻繁に海外の旅に出かけるようになりました。
一方柳は晩年病気がちになります。
棟方は忙しい創作の合間を縫って病身の柳に捧げる版画を作りました。
それは柳が自らの心境を書き溜め、心うたと呼んだ短い句へ絵を添えた版画です
その数合わせて72にのぼりました。
今日モアリ オホケナクモアリ
「オホケナクモ、かたじけなくも、もったいなくもとかいう意味である。こうして生きているそのことがもったいないことなのである。この度重病をしたのでなおさらこの真理を味わわせてもらった」
今見ヨ イツ見ルモ
「私はどうしたら美しいものが見えるようになれるかとよく聞かれる。別に秘密はない。初めて今る思いで見ることでウブな心で受け取ることである。これで物は鮮やかに女、眼の鏡に映る。心うたのうたい病中の僕をどんなに喜ばしたかわからない。忙しい最中に、たくさんの図を完成してもらい、本当に恐縮にたえない。作品としても今までのよりさらに深まったように感じる。君の作で今度のほど静かな連作はない」
「心うた。まだ数が足りないと。また続け彫りますからどうぞ仰せ付けください。私も先生と共に話し合っているつもりで続けたいです。110首になっても200首になっても、際限ない作品になればなるほど嬉しいものになるようです」
「それは先生はお加減悪いんだったらば、なんとかこう励ましになるならばって言うのでは、作り始めれば棟方もすごく楽しいでしょうし、納めすると先生が喜んでくださるならばまた次をっていう風になっていくでしょうから、やっぱり師弟愛以外の何者でもないかなという風に私は捉えています。だから本当に出会いの時から最後まで変わらないんですよ。本当に不思議な存在として柳の眼に映り、好ましい人物としても映り、棟方にとっては最初にお父さんを認めてくれて自分を認めてくれた人としての絶対的な信頼感って言うもこれで最後まで続いている。この師弟関係ではないかなって思います」
柳宗悦は昭和36年、72歳で亡くなりました。
宗像との初めての出会いから25年が過ぎていました。
棟方は柳の七回忌霊前にこの作品を捧げました。
長年追求し続けてきた黒い体に白い輪郭線で表された裸婦。
座ったり逆さまになったり様々な格好をした7人の裸婦が取り囲む
その中に1人赤子が横たわっています。
柳の再生を願う思いで捧げたのでしょうか。