日曜美術館 「異端児、駆け抜ける! 岸田劉生 」

日曜美術館 「異端児、駆け抜ける!  岸田劉生 」

フランスの印象派に憧れた大正時代の画壇で、ひとりデューラー風の肖像画を描き続けた異端児がいた。 岸田劉生 。現代画家の会田誠さんが<意識高い系>画家・劉生を語る。

日本美術史上、最も有名な少女・麗子。岸田劉生が何度も描いた愛娘7歳の肖像「麗子微笑」は、謎のほほえみを浮かべている。また静物画では、果物の配置や色つやに、ただならぬ気配が漂う。そして何の変哲もない“坂道”は、今にもこちらに迫ってきそうな迫力。岸田劉生が描くと、いつも何かがヘン。劉生は日本の洋画家の中で飛びぬけて<意識が高い><理想が高い>と語る現代画家の会田誠さんとともに、劉生の真の姿に迫る。

【ゲスト】現代美術家…会田誠,東京ステーションギャラリー 学芸室長…田中晴子,【出演】アーティスト…山内崇嗣,修復家…土師広,東京国立近代美術館 主任研究員…都築千重子,画家…塩谷亮,【司会】小野正嗣,柴田祐規子

放送:2019年9月29日

日曜美術館 「異端児、駆け抜ける!岸田劉生」

 

プロローグ

手触りまで感じさせる着物。

ピンピンと跳ねた髪の毛に黒々としたつぶらな瞳。

麗子。日本美術史上最も有名な少女でしょう。

描いたのは岸田劉生。

画壇から異端児とされながらも独自の美を探求し続け、変幻自在にスタイルを変えた画家。

何度も描いた愛娘・麗子を見ても分かります。

リアルの少女像は謎の微笑みを浮かべた姿に。

その理由を探るべく現代の画家が挑みます。

「底知れない表情ですよね。なんだろう。下手なのか。わざとやっているのかわからないような面白さがあって」

麗子像だけではありません。

日用品を描いた静物画ですら劉生の手にかかると、ただならぬ雰囲気が漂う。

一体なぜ。その理由が去年行われた修復によりはっきりと見えてきました。

「哲学しているような。いい悪いということを超えて気になる作家であり続ける」

岸田劉生が描くとどんなテーマもどこか気になる少し変な絵に生まれ変わるのです。

その秘密は何なのか。

この男、実は意識高い系。

今日は何かと画壇を騒がせた岸田劉生の姿に迫ります。

劉生の生い立ち

今日は東京ステーションギャラリーで開かれている岸田劉生の会場にお邪魔しました。
「意識高い系。明治からの日本の油絵の歴史を考えてみると僕にはある不満が芽生えまして、日本の油絵家は全体的に意識が低いという思いがあったんです。その中で岸田劉生は違うのかもという感がして、あたりを付けたっていう感じですけれど。その後もまあ基本的にその印象は変わらずはいやっぱり意識高い子だなと」
「16歳の頃の作品です。数寄屋橋を描いた作品です。このそばの銀座に岸田劉生は生まれまして、育った家は裕福でこの絵を描いたころから画家を本格的に目指すことになります」

東京銀座。1891年岸田劉生はここで生まれました。

実業家であった父のおかげで裕福な少年時代を過ごします。

ハイカラなこの街には洋画を飾るような最先端の店がいくつもありました。

劉生はそうした場所に通うようになります。

父の影響により14歳でキリスト教の洗礼を受けました。

一時は牧師を目指すもその激しい気性から断念したといいます。

18歳の時の作品。《橋》この頃岸田劉生は洋画界の第一人者。

黒田清輝の画塾に入門しました。

水面の荒々しいタッチ。フランスの印象派思わせます。

これこそ外光派・黒田清輝から学んだ表現でした。

さらに青年劉生に影響を与えたのがこの雑誌。

最先端のヨーロッパ美術を紹介していた白樺です。

そこで目にしたのはフィンセント・ファン・ゴッホの作品の数々。

何者にも似ていない個性に目を奪われました。

そして描いたのがこの自画像。

劉生の言葉です。

「自分が最もゴオホに惹かれたのは自然をこの目で見ることを教えられたことであった」

自分もゴッホのように独自のスタイルを生み出したい。

劉生は模索を始めます。時に友人をモデルにして。

時に自分自身の姿を見つめ。

特に自画像は毎月のように描きました。

そして着実に見えてきた自分のスタイル。

 

「強い意志を感じます。筆先に力がこもっているかとか。決意がこもったようなねりねりという決意がこもったような独特な圧があります」
「劉生は自分を美男子とは思ってもいないでしょうから、美しいものをみんなに見てもらおうということではないんでしょうけど、俺を見ろみたいな。俺が俺であることが大切だみたいな」

「印象派は応用編。日本はすっ飛ばしてきてしまった。これではまずいと思って劉生は挑んだというのが僕の意識高い劉生という幻想」

道路と土手と塀の秘密

東京渋谷区代々木。22歳の劉生が妻と移り住んだ場所です。

人物画ばかりを描いてきた劉生がこの土地で見つめたもの。

それは何の変哲もない坂道。

《道路と土手と塀 切通しの写生》

青空の下まるでこちらに迫ってくるような坂道です。

むき出しの大地。

ひび割れから雑草がたくましく生え、そこに電信柱が長い影を落としています。

それにしてもこの坂道。不思議な迫力があります。

不自然に歪みこちらに迫ってくるかのよう。

この絵に魅了された人がいます。アーティストの山口崇嗣さん。

「何度も絵を見て、坂を見て、でそういうことを何度もしてくうちにいろんな発見をして」

実際に山内さんのこの場所を描きました。するとあることに気づきました。

それが道路の左側の部分。奇妙な歪みです。

そう劉生の絵にも描かれた不自然な歪み。

「そのカーブの部分をボリュームを強調してるようにも感じます。しかしこれは劉生がフリーハンドで描いた創作のカーブではありません。

実際にここのあたりからボトルネックのように道が狭くなっています。

それは劉生の創作ではなく道そのものが歪んでいたそこの風景を表現として表現したのがここのカーブになります」

劉生はこの不思議な光景に惹きつけられたのかもしれません。

そして歪みを写実的に描きながらも、少しだけ嘘をつくのです。それが坂の頂上。隣の塀を越えるほど大地を盛り上げて描いてしまう。そうまでして描きたかったのですこの大地の迫力を。しかし人物画ばかりを描いてきた劉生がなぜ大地にこだわったのか。

当時の代々木界隈の資料や劉生の日記などを調べた山内さんは一つの理由を見つけました。

「当時の渋谷代々木のエリアは東京の場所でもニュータウンで、まだまだそんなに住宅はなく荒地のようなところや畑がとても多いところで銀座生まれの都会人だった劉生は郊外の代々木の地区に来てといも自然のあり方、草木や土のあり方に感銘を受けたようです」

都会っ子だった劉生にとって、むき出しの土に生い茂る草木の光景は新鮮でした。

しかし劉生が筆を取った理由はそれだけではありません。

山内さんは一人の芸術家の存在があったといいます。

ウィリアムブレイク。劉生より1世紀ほど前に活躍した詩人であり、画家。

ブレイクの幻想的な神話の世界に劉生も虜になったと言います。

こちらは旧約聖書の創世記の一場面。

神が土くれから最初の人間アダムを生み出しています。

キリスト教信者だった劉生もアダムとイブを描いています。

どこかブレイクを思わせる表現です。

大地は命が生まれる場所。

雑草ひとつ石ころひとつも克明に描いています。

それらは全て地表から湧き出てきたかけがえのない命。

その偉大なる大地を描くべく、劉生は写実と虚構をないまぜにし迫力を放つ世界観を構築したのです。

「自然の形のボリューム感、透明感を表すように、草木の縁のもりもりした感じがとても良く出ていて、それは自然に見える風景だけど賛美や信仰もできそうなイメージ作り。自然信仰、自然賛美みたいなものを表す絵だったと僕は思います」

母なる大地に人間の手で打ち込まれた電信柱の影が落ちています。

力強い自然のありように崇高さを見出した劉生ならではの風景画です。

静物画への挑戦

神奈川県鵠沼。25歳の流星はこの地に居を移します。

それは静養のためでもありました。この頃結核の診断を受けたのです。

長時間の外出は禁止されたため風景画は描けませんでした。

麗子はまだ幼くモデルを務めることはできない。

そこで劉生は新たなジャンルに挑戦します。

それが静物画です。

どうです。劉生が描くと静物画ですらどこか不思議な感じがします。

画家の塩谷亮さんに読み解いてもらいました。

「これで絵になるのかなという不安にはなりますよね。まずリンゴ を左右対称に等間隔に配置するということもなかなかしないことだと思うのですよね。

僕もやってみようと思い自分の絵でやったことはあるんだけれど、少し怖くなってバランスを崩したりとかしてしまったのですけど。リンゴの美味しそうな感じとか色のきれいなことだとか自然主義的なことではなくて、対峙したときに自分の思いというみのを凝縮して描いていってる感じ」

家にこもりおよそ二年間集中的に描いた静物画。

物言わぬ日用品や果物に劉生はどんな思いをはせたのか。

その謎を解くのにその謎を解くのに相応しい作品はこちらです。

《壺の上に林檎が載って在る》

実はこの作品、去年行われた修復により劉生の思いがはっきりと見えるようになりました。

修復に携わった土師広さんです。

「かなり厚いワニスが塗られているのが最初の印象でした。それでよく観察してみるとその塗布されているワリスも茶色くなっていて、作品本来の色を少し隠しているんではないかと」

こちらが修復前の状態です。

紫外線ライトを当ててみると、ワニスが蛍光反応します。

白く濁って見えるのがワニスです。

調べていくと劉生が描いたずいぶん後に、別の人間の手でワニスが塗られた可能性が高いとわかりました。

そこで土師さんによるワニスの洗浄が行われたのです。

「そういった汚れた場所を取ることで岸田劉生が描いた本来の色に近いものが取り戻したのではないかとおもいます」

修復前と修復後です。

ヤニがかったような色が抜け、劉生の意図した色彩が蘇りました。

研究員の都築千重子さんは、この修復で劉生ならではの技法がはっきり見えるようになったといいます。

 「壺には、あえて光の反射を表すハイライト部分に明るい色の絵の具をあえて足しているという箇所があるんですけれども、そういうものについても見る人が気づくようになった。目が留まりやすくなった」

都築さんが指摘するハイライトの部分。

なぜか他の部分とタッチが違います。

壺の表面やりんごは丁寧に描いているのに対し、

このハイライトだけ絵の具の質感を残しているのです。

デューラーのような写実にこだわった劉生がいったいなぜ。

「写実と言いながらも写真に撮ったように本物らしく表そうということを劉生は目指していないと思います。もっと目の前にある対象。在っていうこと自体の持ってる意味はどういうことなんだろう。在るって言うことの根本はなんだろう。もっとその奥にあるものを追求しようという。一種の哲学してるような」

劉生が静物画を描き始めた頃の言葉です。

「驚くべきは実在の力。自分は猶これを探り進めたい」

その存在の輝きを描きたかったのです。

ただ客観的に写すのではありません。

それがあることに対して自分が受けた感動を筆に任せキャンバスにぶつける。壺の上にリンゴがのって在る。

「ものがあるっていう事、深く私たちが考える機会って意外と今って少ないじゃないですか。飛び交う様々な情報を表面的に吸収して処理して終わってしまう。それに対してあの作品の前で見ている。物があるって何だろうとか自分に問いかけてみたり、あるっていう事って生きているって事って素晴らしいんではないかと思わせるようなそういうあの思いまで喚起するようなそういう深さというものがあってそれが劉生というものの独特の魅力ではないかと思います」

不思議な静物画

「数珠のところがなんとなくロザリオのようにも見えてきますよね。聖母マリアマリア様の服っていうのは赤と青を着るのが定番であって、もしかしたらその手っていうのは神の手かもしれないし、いろいろな読み取りができるんですね」

「そしてこれが麗子像です。麗子5歳の図って書いてありますけれども、麗子が4歳ですね。数えで5歳。4歳の時に劉生が初めて愛娘の麗子を油絵で描いた作品です」

麗子像

宗教画を思わせるアーチの下に描かれた麗子。

幼子の表情を写実的に捉えています。

その翌年に描かれた麗子です。

ちょこんと床に置かれた右手。

鮮やかな赤と黄色の着物はその質感まで手に取るように分かります。

リアルに描かれた表情。

真剣な眼差しで正座をする麗子。

一心不乱に描く父のため手と足の痛みにも耐え、涙を落とすまいと必死に堪えたと言います。

そして数え8歳の時の肖像。麗子微笑。

麗子の成長とともに変わる劉生の画風。

特に麗子微笑は得も言われぬ不思議な雰囲気を放っています。

これが本当に幼い娘の肖像なのか。

劉生はなぜこんな風に描いたのか。

写実の画家塩谷さんがその読み解きに挑戦します。

同じ年頃の少女をモデルとし、衣装も似たものを準備しました。

実際に描くことで劉生の狙いを探ろうというのです。

まずはスケッチをして全体像を捉えました。

この時点で明らかにわかったことが。

「ずいぶん上下が圧縮されてるような感じしますよね。何だろう肩がずんぐりしてるって言うのか。それに対してこの手の小さいこと。なんか見れば見るほど奇妙だなということをすごく感じますよね」

実際の麗子です。

切れ長の目と通った鼻筋。

黒髪のおかっぱが似合う愛らしい少女。

明らかに劉生は写実を超えた何かを目指していたのです。

塩谷さんさらに検証を続けます。

モデルの周りを暗幕で囲みます。

「劉生の麗子像と言うと暗闇にワッと浮かぶっていうイメージが強いと思うんですよね」

そしてモデルの顔に照明を当てます。

「だいぶイメージに近いかな」

劉生は麗子が帰宅するとすぐにモデルをさせ、わずか2週間足らずで完成させたと言います。

最後の筆入れは目の輝きです。

完成です。

写実画家塩谷さんが再現した絵です。

改めて比較しましょう。

明らかに横長にデフォルメされた顔と体。

小さすぎる手。でもそれだけではありませんでした。

「実際に描いてみてあっと思ったんですけど、実際にモデルの女の子に麗子と同じような光当ててみると、目のハイライトの位置とか体に当たってる光の感じからするとほぼ麗子に向かって正面に光源がある感じに見えるんですよね。

そのような光にすると鼻筋はそんなに明るくならないですよ。でこの麗子像を見るとかなり強い影が入ってて、これは明らかに劉生が現物の麗子を見ながらこの鼻筋を通した表情にしたいってのが明らかに意思が感じられるんですよね。

丸い顔に切れ長の目に鼻筋が通ってるって言うのは、ぼくは仏像のようなイメージを感じるんですけれども。

首が短くて丸い肩にコロンとした頭が載ってるってのもお地蔵さんのようだし」

もうひとつ麗子微笑と塩谷さんの絵との違いは”ほほえみ”。

塩谷さんはあえて抑えた表情にしました。

「仏像の中にはほほえんだのもありますが、ほほえみってきわどい問題で、本当に絵が俗っぽくなるかの瀬戸際で勝負するところがあると思うのですけれど、この絵はぎりぎりのところで高貴な感じを残りながら劉生が望んだなにか深さみたいなものが感じられますよね」

劉生は西洋の油絵に東洋の美を盛り込んだのです。

そして唯一無二の絵が生まれた。

画壇の異端児がたどり着いた極みです。

スタジオ

さあ、こちらはまた雰囲気がかわりました。

劉生の作品だと知らない人が見たら劉生の作品なのかと驚く人いるかもしれません。

「劉生自体が、東洋と西洋の統合だった次代から、今度は東洋の、日本の美に惹かれていって出てきた」