聖徳太子と 法隆寺 の至宝の数々が登場する特別展。飛鳥時代から江戸時代まで仏教美術の最高峰が一堂に。太子が日本文化の礎と呼ばれる理由とは?人でありながら仏のように信仰の対象となったのはなぜか?太子の姿を寺宝からひもとく。さらに太子直筆と伝わる書物を筆跡分析。浮かび上がった人物像とは。1400年前に太子が見た夢が現代につながる。ゲスト:池田理代子さん(漫画家)
放送:2021年5月30日
日曜美術館 「太子の夢 法隆寺の至宝」
奈良法隆寺今年4月
ある人物をたたえる法要が
盛大に営まれました
その人は寺を創建した聖徳太子
今年私が亡くなってせんよんひゃく年
という節目の年です
奈良国立博物館では
大使や法隆寺
ゆかりの秘宝集めた
特別な展覧会が開催されています
国宝さんじゅーろく件
重要文化財ななじゅーご件
貴重な宝物から見えてくるの
仏教の教えをもとに
日本という国の礎を築く
落とした太子の願いです
ちょっと圧倒された感じがしましたね
なんかあの歴史の教科書でしか
習ったことがないものを実物で色々見て
ちょっと身近に感じましたね
びっくりしちゃいました
対しの行いがあったの
国民意味を抜けたこないだ買ったので
今の時代によって
全部持って結構あるのかなとは
これも見ましたね
今に伝わる宝物から
太子のユメミタセカイを探ります
ミツカンです今日は
聖徳太子と法隆寺の展覧会を取り上げます
けれども聖徳太子と家とは
どうもイメージがすいませんお手数ですそうです
今日はスタジオに
その懐かしの聖徳
太子のお札を持ってきました
これ見るとこうなんかちょっとありがたい感じ
と言うかねま懐かしくてなんと
これまでショート私はなな
回もお札に登場したりして
その時々の最高額の紙幣に
いつもプリントされ
それに何でしょうは
尊敬されてるって言う事なんですかね
でその期間を合計すると
一世紀以上にもなるということですから
それだけお札の顔になるんでしょですよね
気になりますよね
今日はそういったあたりを
まずは法隆寺
ゆかりの四方から見て行きます
奈良斑鳩後に建つ法隆寺
日本仏教の原点ともいえる場所です
法隆寺は飛鳥時代に建てられた
現存する世界最古の木造
その中心的な建物が近藤です
古の祈りの空間を
ほぼ当時のまま今に伝えています
正面には国宝釈迦三尊像
その右隣に安置されているのが
こちらも国宝薬師如来坐像です
展覧会では
その姿をひゃく
数十年ぶりに間近に見ることができます
アーモンド型の瞳に微笑みを浮かべた
また波紋のように広がった衣のひだ
飛鳥時代の美意識が現れた傑作
こちらは本堂の四隅に配置される四天王立像
現存する日本最古の四天王像です
項目てんは手に持つ筆で
悪事を書きつけます
四天王といえば
挑みかかるような体制の像が有名ですが
こちらは静かに直立しています
力を内に秘めた飛鳥時代特有の表現です
会場でひときわ注目を集める宝物の一つ
観音菩薩立像通商夢違い観音
何でも祈れば
悪夢が良い夢に変わるのだとか
ありがたい伝えのせいかとても人気があり
江戸に運ばれて
人々に公開された
という記録も残っています
国宝玉虫厨子飛鳥
時代の建物を成功に模した上部には
観音菩薩が収められています
透かし彫りの金具の下には
キラキラとした緑色の玉虫の羽です
作られた当時を再現すると
こんな感じにせん
ごひゃくまん以上の玉虫の羽が使われ
寿司が輝いていたことでしょう
地方の側面には
今日で大切にされている
教えが描かれています
こちらは捨身飼虎と呼ばれる他者のために
自分を犠牲にする
という心得を説いたもの
釈迦の前世の沙汰
祖父が崖の上から三女に腹を空かせた
虎の親子に自分の体を差し出しています
この寿司を用いて
仏教を教えていたという説もあります
展覧会では
今は法隆寺を離れた
ゆかりの品々も見ることができます
東京国立博物館所蔵の感情は
全長じゅーM以上あったという
大きなバンです
バントは法要の時に飾り付けられる肌のこと
織物であることが多いのですが
この盤は勤務銅板でできています
透かし彫りで表されているのは
仏をたたえて天女が踊る浄土の景色です
明治時代仏教を排斥した
廃仏毀釈から守るために
さんびゃく余りの宝物と共に
皇室に献納されました
こちらもその一つ
国宝流出胃病仏前に
水を供えるための水差しです
女にガラス玉をはめた竜の頭水を注ぐ時は
口が開きます
胴体には翼を広げたペガサスの姿が
長い間外国製だと言われてきましたが
飛鳥時代の仏像と
共通する技法や模様が見られることから
現電話日本で作られた
という見方が強まっています
時代の荒波を越え
守り伝えられた法隆寺ゆかりの品々が
久しぶりに一度をに回しました
ではゲストをご紹介しましょう
国立博物館主任研究員のみ高くゆきさん
そして漫画聖徳太子の著者
池田理代子さんですよろしくお願いします
お願いします
池田さんはいあのーvtrの宝物を裏になって
あのどのように触れなこと同じなりました
実は私の父の田舎が明日かなんです
ね自分寝とっての田舎ですので
ほんと小さい時から
法隆寺さんも
何回連れてってもらったかわからなくて
あのでもその時に見られなかったもの
とかが今回全部まとめて見られる
っていうのは素晴らしいことですよね
あのそもそも三田さんのいらっしゃる
東京国立博物館でも
法隆寺の宝物の一部を守っていらっしゃると
伺ってますから
法隆寺にどうして
そんなにたくさん宝物があるんでしょうか
あの法隆寺の文化財の凄さっていうのは
ですね奈良時代に記された法隆寺取材
町っていう財産目録が
ありましてその時代
奈良時代の財産のこれを買って
そこに持ってる作品が未だに伝わってるね
それが偶然触ったわけではなくて
平安時代は部屋に出て
何回もその記録を取り直していて
鎌倉時代室町時代もあり
江戸時代って国ずっとお寺で宝物のチェック
どういうものがどれ
だけあってどういういわれがあるかってのずっと
記録で残してるんですね
それをもうせんよんひゃく
年近く続けてきてるって言う事で
今の博物館に
もしかしたら
近い面があるかもしれませんが
文化財保護って言うと
なんか近代の考えのように思いますけども
法隆寺っていうの
はそういうことを創建以来ずっと続けてきて
聖徳太子様への祈りってのは
中心に行って
伝わってきただけなんですけども
そういう祈りの思いと共に
物をちゃんと管理して守る
っていうのを続けてきたからこそ
これだけのものがですね
伝わったその域っていうのがもうに
本に本を超えてやっぱ世界的にもですね
ほとんどそんな類例がないような
偉業であると思います
池田さんがはいま
作品にお書きになる時に惹かれた
その大使の魅力って言うと
どんなやっぱり聖徳太子にも少年時代があり
青年時代があって
普通の普通ではない人ですけどそう
いう時代があって
生まれた時から聖徳て配信ではなかっただろう
というのがなんとなくわかったよ
来週も良子のイメージが強すぎて
この人が子供だったとかとかね
寝られなにこの姿につけられた
じゃあその聖徳太子の人物像ですね
法隆寺の宝物宝物から見ていきましょう
ごひゃくななじゅーよん
年用明天皇の次男として生まれた
聖徳太子
その聡明さは
幼い頃から抜きん出ていた
と言われています
に歳の春には
東を向いて手を合わせて打つと
唱えなな歳で
朝鮮から届いた
ひゃく巻以上の経典を読破した
と言われています
東芝豪族同士の整理争いが続く
ただ中太子は二十歳になると
おばの推古天皇を助け
政治を執り行うことになります
三十一歳の時に制定したのが
憲法じゅーなな条
国の運営に携わる
役人たちの心構えを説いたものです
その第いち条は
和をもって尊しと為すはを大切にし
人と争わのようにせよ
第に条は暑くさん大山へ仏とその教え
そして僧侶の三つを敬いなさい
というものでした
太子は仏教をもとに
国を築こうとしていたのです
そしてさん年後に建てたのが
法隆寺新しい国づくりのための
祈りの空間でした
金堂に安置されているあの薬師如来坐像
その台座に同時の大使の志を探る
ヒントがあることが
最新の研究で明らかになりました
全体が黒ずみ何が描かれているのかは
占い大佐のA赤外線を当ててみると
手探りで進められた想定復元
手掛けたのは今回のゲストのみ高く
ゆきさんと京都の仏画市諸橋じゅー計算
お母さんが多分OK
これだと強調されすぎちゃうか
何度も来そうですね
ちょっと今まで現れたのはある人物でした
釈迦の弟子の一人
大火傷56億ななせんまん
年後に行って来る弥勒如来に
今朝を渡しなさいという
釈迦の言いつけを守っている場面です
台座に描かれた
仏の教えを守り抜く人の姿
そこにはどんな意味が込められているのか
復元に関わった三田さんにお聞きします
絵が台座に描かれてるっていう事は
どのように後考えたらいいんでしょうか
あのー大正にひゃく年ほど前にですね
難聴に令っていう国がありまして
そこに梁の武帝
っていう方がいらっしゃったんですが
非常に仏教に熱心な方で
あのこうてい菩薩と呼ばれたんです
中国ではその
工程に申告納める
人間が菩薩であらなければならない
盗撮の精神によ髪を統治する
っていう考え方が理想としてあった
わけなんですけども
そこに非常に憧れ
ってのがあったんじゃないか
なっていうのが
美術作品の様式からも
読み取れるように思います
見てもらうと
すごく山の形が被らもらっとこ
ちょっと動き出しそうなんですね
毛が生えてますけども
すごく心なくって
あの葉っぱの数がまばらなんですね
こういう漢字っていうのは
中国で言うと
ろく世紀の中頃ぐらいのスタイルなんですね
なのでこれが描かれた頃と考えると
ひゃく年ぐらいのタイムラグがあるんです
聖徳太子のために作られました
その金堂の釈迦三尊もですね
やはりそのろく世紀の前半から中頃の様式では
太子の時代からと
ひゃく年ぐらい差があるんです
やっぱり聖徳太子は
そういう古い様式って言うのより
良いものとして取り入れたと思うんですね
なるほどだがそれぞれひゃく
年ずれてるって事
意味がそこにあるわけないじゃないかな
と思ってます
宝物の中には対し
自らが仏の教えを実践していた
と伺えるものもあります
法華一乗仏教の重要な経典である
法華経について対し
自らが記したという解説書です
難解な内容や
国についての注釈が記されています
例えばこの部分
父を捨てて調整競という例えは
仏に背いて六道
迷いの世界をさまようことを表している
丁寧な解説が
いくつも書かれているのです
さらに書いた文字をこすって消した
まとや上から紙を貼って
修正した痕跡もありました
太子の人柄を筆跡から知ることはできないか
手書き文字研究者の盛岡講習さんです
古文書の分析から現代の筆跡鑑定までを手がける
この道40年のエキスパートに
分析を依頼しました
盛岡さんが注目したのは
薬という文字です
いい運動に長く突き出してる度合いがね
歴史を見ても
こんだけ長い人は非常に少ないんです
盛岡さんは長い横線から意志が強く
自信に溢れた人物と推測しました
こうなんだと確信度が強いとね
自分の園気持ちの表現のために
線がどうしても並みの水準じゃなくて
もっと突き出すはずだ
次に指摘したのは
極端に丸みを帯びた角
何だかちょっとユーモラス水分
それから柔軟性のあるガチャガチャって
出てるっていうところがあると思います
その在り方に
フロントになった
女の人じゃなかったと思いますね
清水から講義を行っている
絵も残されています
鎌倉時代に描かれた勝鬘経講讃図
大使を囲むのは
小野妹子や蘇我馬子ら
当時の政治を動かしていた人物
教えを説いているのは勝鬘経
その特徴は出家をせずとも
仏教に帰依すればあらゆる人が救われる
届いていること
そこには男女の区別すらありません
男子は遍く人が
救われる社会を目指していたのです
4月に行われた
ひゃく年に1度の大法要僧侶たちによって
唱えられるのは大使はさんです
日本の礎を築いた聖徳太子をたたえる歌に
令和と今響き渡っていました
最初の直筆と言われる方
今日はスタジオに
奈良県立図書情報館から
ぶりかの形でお借りしております
皆さんが気になるのは
どの部分ですかの
個人的な感想なんですけれども
この保険証ですね
投資で見てみると
その部分部分で微妙に位置が異なるんですね
もちろん同じ人の
筆跡なんですけどもにの気分が異なるんです
ここをご覧いただくと
それなりに太い一夕で素早く
あの代々と書かれてますけども
次横になると
急に文字が小さくなりますよね
随分小さくなって
また次へのもう少し大きくなるんですけども
先ほどほどの太くないちょっと細い細身に
なりますこのようにですね
その書いたとき
時の気分っていうものが
すごく表れてるんですね
こういったのは
やっぱりお経などは各専門の人間でしたら
もっと音の形が大きさも
いつも揃ってくると思うんですね
そういう文字を書く専門の人間ではなくて
パスを検討している
人の文字なんだと思います
またの一日で
朝から晩まで
その仕事をやっているわけではなくて
その自分の時間がある時に
そのやってるって言う事で
これやっぱなんか大丈夫じゃないって感じが続き
書かなきゃみたいな感じで
書かれたのかなーってそう言われると
なんか耳の
形とか大きさが微妙に違ったりするのが
納得しますよね
でも人柄とか分かるんですね
誰の筆跡っていうか今でもそうですよね
あのその人を表すと思うんですね
さっきあの子国
こっち側が丸型の取っ手もなんか
あの今の若い女の子の丸文字になるときに
参考にされたと言うか
非常に好影響を受けたという
あの作品があると
伺いそうなんですね
はいこれもね
1番左にいらっしゃるのがいい子なんですね
そうですねの毛がねあってすごく美しくて
私の中で皇太子のビジュアルを決める時に
とっても参考になったんですね
この時代はのみずら
こういう紙を
いろんな風に言っているんですがひょうたん
のようにしてみたり
花を飾ったり酷いのになると
その先に鈴何かついてたして
その若きプリンスというイメージが
私の中ではいて
やっと色々と動き出した
っていうところですかね
我々がイメージする聖徳太子って
そのさっき症にはのお札って言われました
けどもそのイメージで思っちゃってるんですね
体操っていうのが一般化したのは
明治時代以降何で事故むしろ
あの鎌倉時代から江戸時代までに至るまでは
この少年の姿の太子っていうほうがそうです
みんな
に一般的な若きプリンスそしての大獣かもね
あのその時代にしては
すごく新しいことに結構目を向ける
何て言うのかな
例えばクラシック一辺倒だった時代に
ロック伯爵ミュージックを取り入れるとか
そんな風なちょっとこう
やっちゃなところのあるすごくね
新し物好きって言うと変です
けれども進取の精神に富んだ
すごい素敵なプリンスだと思うんですよ
やっぱり各社的な側面っていうのは
やっぱある人な美術作品とかの考古
遺物を見ましても
聖徳太子の周りに行ったらって
飛び抜けて変わっていて
その当時の人が思いもよらない
ひゃく年後ぐらいにならないと
それがちゃんとした形になってこないものが
最初の周辺にはもう存在してるって言って
すごく不思議な人ですね
そんなに修行しなくても
出家しなくても
みんな仏様になれるんだよって
いうようなことをといてくださってるのかなあ
というふうに思います
しかもだけのままで成仏できるって言うのは
何かとてもありがたくなって
結局そういうことこそが
あの聖徳太子信仰っていうものが庶民に
広く広がった理由じゃないかな
と思うんですね
じゃあその後の世に生き続ける聖徳太子の姿
続いてみていきます
太子の子からおよそよんひゃくごじゅー
年平安時代後期に作られた国宝聖徳太子
絵伝太子の様々な人生の場面が
じゅー面の絵に表されています
中にはちょっと信じがたい伝説も
こちらは私が馬に乗って富士山をひとっ飛び
大勢の子供の話を
1度に聞き分けたことも
太子の障害を伝えるために作られ
送料がこの前に立って
説法をしていたと考えられています
没後ごひゃく年という
節目の年に製作された聖徳太子の像で
冠を買う威厳に満ちた表情
折衝として
政に臨む姿だと言われています
X線で中を調べてみると
なんと小さな観音
菩薩が収められていました
しかも観音菩薩の顔は
芦の口の位置にピタリと重なります
大使の言葉は
観音菩薩の言葉のようだ
というのでしょうか
鎌倉時代になると
ある太子の像が
全国で作られるようになります
教養と病に倒れた父を看病する
じゅーろく歳の太子手に持っている絵香炉で
一晩中香を焚きながら
祈りを捧げる親思いの姿です
全国にせん以上あるという聖徳太子の像や絵
そのなな割近くが共用
そうだとの調査結果もあります
東洋像が全国に広まるきっかけをつく足取りが
親鸞でした
鎌倉時代度重なる戦に人々が苦しむ中で
仏教が一部の特権
階級のものとなっていました
診断は原点に立ち戻り
あらゆる人を救いたいと浄土真宗おおしまい
その時頼りにしたのに対しの教えでした
新しい仏教の広がりとともに
大西の進行も全国編
その後太子信仰は各地の風習と混じり合い
根付いていきます
石川県能登にある浄土真宗の寺西教寺
鎌倉時代から餃子を祀っているといいます
第よんごー店舗
第三地域の人からは親しみを込めて
そう呼ばれています
毎年3月には大志を叩いて
この地方独特の団子巻きも行われます
本当にその素朴な願い
その孫の受験でしたか
そういう願掛けのような
あのことでお参り来られる方も多い
本当にあの親しんでいただいて
おるぞーやと思います
聖徳太子はなぜ
多くの人の心をとらえてきた
地元で調査を行った
浜岡信哉さんに聞きました
ドクターX亀さんでも
ナイス仏さんでもないって
退散自体が生身の人間だったっていうところが
逆に自分たちに近いって
思いがあったのかなと思いますね
いつから本当に自分たちと同じ人間なんだけど
すごいことができたんだ
からお願いしたら
叶えてもらえるかもしれないとか叶わないわ
でも相談に乗ってもらって
ちょっと気が晴れたよね
っていう思いが繋げやすかったのかな
と思いますけどね
聖徳太子って言うと
やっぱりどうしてもこう常人を超えた
様々な制度改革をもたらし頑張れましたけど
家の中にいたが
フライじゅー人の人の話をいっぺんに消えた
とかってそういう意味で
やっぱりちょっとね的なイメージとして
広がっていくこともある
と思うんですけれども
やっぱり私が思ったのは
とってもの人民弱い立場の人民のことを考えてらっしゃる
貧しい人力弱き人への子の気持ち
っていうのが
実際何かお願いすれば
聞いてくださるんじゃないかしら
っていう思いを
多分みんなが持ったんじゃないかな
と思うんですけど
漫画の中でもお書きに
なってましたけど無い方
岡山で植えた人に食べ物と衣を与えるという
有名なお話があるんですけども
困ってる人のところによって言って
寄り添うっていうような
大使のイメージっていうのは
もう日本書紀から連綿とあるんだと思います
けれども実はその本を司るばにもお
太子像が飾られているというので
今ちょっとこちらに出ましたが
これは1970年代まで最高裁判所
大法廷に開けられて
これどういうことでかけられてたんでしょうね
堂本印象画伯のこの聖徳太子が
憲法十七条をあのハプナサル
これからこれで設定いたしますってところ
お姿なん
ですけども法の理念のあの最高の姿として
アップルの聖徳太子の憲法十七条の精神
というものを掲げられたんだと思います
せんよんひゃく年前というと
もう遥か彼方もう明日かのもう遠い
遠い昔と思いますけれども
そういう意味では
今2021年でも通じることが伝わることが
たくさんある思ってもいいんでしょうかね
昨日その和をもって尊しと
なすもそうなんですけど
もうその仏教にしてもですね
あの有能な人間を採用する社会にしても
今我々が生活の中で当たり前だって思っている
日本の文化の形の原形っていうのがば
聖徳太子が種をまかれたと思うんですよ
大志のを持った理想っていうのを
どういう風に現実化していくかって動画
その後の時代のいろんな政治
の動きであったと思いますので
我々を規定しているのだから
普段何も感じないような
この国のかたちって言うと
この背後に聖徳太子っていう存在が
今でも生きてるんだと思います
だからのお札から消えた時は
実は私はものすごくショックでした
であのそのうちじゅーまん
えん札ができて最高額ですか
また復活されるだろうとか
思って待ってるんですけど
次は池田さんの書いた聖徳太子
じゅーまんえんのインフレですけどね
ほんと今日聖徳太子ってなんか人のなんかこう
大きさっていうか
法の理念を体現されてるような人だって
言うような空なんてすごくコマ
とうとういっていうか
やっぱりショックを
あの象徴的な意味をたくさん持たれてて
同時にその親孝行って
すごく人間的で私たちにおかしいところの
ある人だって言う
もうそれなんか聖徳太子のなんか
イメージが随分変わりました
改めて今回の展覧会を見に行かれる皆さんに
三田さんからはどんなメッセージがありますかは
このせんよんひゃく年っていうのは
本当に特別な機会で
このひゃく年に1度の展覧会っていうのを
今目の当たりに見ることができる
たとても聖徳太子なり
美術が好きな人間にとって本当に
幸せなことですね
もう本当にびっくりするような間近で
非常に柔和な表情を
あの拝観することができますので
皆さん近くでその感動っていうものですね
共有していただきたいと思います
はい今日はどうもありがとうございました
ありがとうございました