日曜美術館 「うつくしき理想を描く 鏑木清方 の“築地明石町”」

鏑木清方

近代美人画の最高峰と称されながら半世紀近くも行方知れずだった「築地明石町」。3年前の再発見は大きな話題となった。作者は日本画の巨匠・鏑木清方(かぶらききよかた)。名作誕生の舞台裏を探っていくと、明治・大正・昭和と生きた作者の時代や社会へのまなざしと理想とした美のかたちが浮かび上がってくる。戦争の時代にあえて美人画ばかり描いていたという清方。没後50年を迎える今年、あらためて清方芸術の本質に迫る。

初回放送日: 2022年5月1日

 

日曜美術館 「うつくしき理想を描く 鏑木(かぶらき)清方の“築地明石町”」

長きにわたり幻とされてきた美しい姿
鏑木清方作「築地明石町」
美人画の最高峰と称されながら、1975年の展示を最後に44年間行方知れずとなっていた名作です
振り向き様の一瞬
そのあでやかな姿
白い背景に黒々とした羽織が冴えます
憂いを帯びた表情
視線の先には何があるのでしょうか
どのようにしてこの絵は生まれたのか
築地明石町をめぐる物語です

物憂げな表情で目を伏せる遊女
その先には踏絵が置かれています
「ためさるゝ日」
江戸時代キリシタン禁令のため長崎の丸山遊郭で行われた絵踏の様子です
力の入る指先に表わされた心の動き
思い詰めた表情で順番を待つ遊女たち
物語の一場面のような作品です

「隅田河舟遊」
隅田川をゆく豪華な屋形船
横幅七メートル以上の大作です
船の中では大名の一行が人形の舞を楽しんでいます
三味線や鼓の奏でるお囃子が聞こえてきそうな華やかな場面
人形の前に見える人々の中心にいるのが大名の姫君です
精緻で色鮮やか優雅なひとときが感じられます

江戸の昔と変わらず絶え間なく流れゆく隅田川
明治11年東京に生まれた清方
隅田川に程近い現在の東銀座周辺の下町で幼少期を過ごします
父は江戸時代、人情本の第一任者として活躍した條野採菊
採菊は明治に入って新聞も創刊し、多くの文化人と交流がありました
芝居好きな母文
そうした文化的な環境と下町情緒の中で清方の感性は育まれました

清方は13歳になると父の勧めもあって挿絵画家を目指し絵を学び始めます
挿絵の世界は競争が激しい上、自らの画風も定まらず、なかなか目の出ない日にちを送ります
明治34年
清方23歳の時に転機が訪れます
小説家・泉鏡花の熱烈な愛読者であった清方
鏡花本人と対面を果たしたのです
鏡花は五つ年上でしたが初対面から意気投合する二人
鏡花は著作の最初に入る絵、口絵を清方に依頼します
鏡花の死まで40年近く続く人の交友

「三枚続」
その最初に生まれた作品です
浮世絵などを売る店を営む少女
その姿が初々しく表されています
緻密な文体による幻想的な小説を書く鏡花
それを忠実に絵にすることで清方は画風をつかんでいきます
鏡花が記述し清方が描く妖艶な女性の姿
清方の挿絵は人気を博します

同じく明治34年
清方は若い挿絵画家たちと日本画の団体を結成
本格的に日本画を書き始めます
つぶらな瞳で真っすぐ前を見つめる少女
その手に山茶花を渡そうとしているのは蜆売りの少年です
初期作品「佃島の秋」
写実的な描写によって漁師町に漂う哀愁が情緒豊かに表されています

「嫁ぐ人」
園遊会で友人たちから結婚の祝福を受ける花嫁
娘たちは華やかな衣装に身を包み、当時流行したアクセサリを身につけています
初期清方は挿絵で身に付けた描写力によって、主に同時代の社会や風俗を描きました

神奈川県鎌倉市
清方は晩年の二十年近くをこの地で過ごしました
その住居跡に建つ鏑木居方記念美術館
館内には作品展示の他にアトリエが再現されています
清方の在りし日を思わせる愛用の品々
清方が生涯の創作の源になったと語る作品が所蔵されています
二十代半ばに描いた「一葉女史の墓」です
鏡花の小説とともに愛読していた樋口一葉
清方はスケッチブックを携え一葉の墓を詣でます
その時墓に凭れかかる少女の幻影が浮かんだと言います

「この絵はですね、樋口一葉の小説たけくらべの主人公美登利が、
作者である一葉の墓に、抱くようにして立っている幻想的な世界を描いています
幻想的な部分と言いますと、大きく冴え冴えと光る月の部分ですよね
こうしたあの月を描くことでまだ明け方でえー空が暗い時間帯に緑の姿が浮かび上がる
というような幻想性を強調している訳ですね、緑の携えている推薦の増加なんです
けれどもこれはたけくらべの最後で思い人から推薦の動画を送られるんです
けれどもそうしたシーンは小説の中には描かれてなくって、清方がたけくらべを呼んだ後に膨らませた清方
独自の創造の世界だということが言えますよね
この肉筆画では清方自身が自分の物語を絵画世界に築いていったところいうところで
大きな彼の転換があったんだと思いますね」

泉鏡花の小説「通夜物語」から想を得て描いた作品です
虚ろな表情の遊女です
火鉢に凭れかかるその姿は人魚のようにも見えます
小説などから受けた感動
清方はそれを元に場面やポーズを自由に発想し持ち前の描写力によって絵にしていきます
自らの創作による一片の物語のような絵画
独自の世界を作り上げました

その後も研鑽を重ねる清方
昭和2年。49歳一つの到達点が「築地明石町」でした
東京の隅田川沿いの町、築地明石町
朝その路地に佇む女性
この作品は帝国美術院賞を受賞
発表当初から高い評価を受け
美人画の最高峰とも称されてきました
その姿に宿る色気や情緒
泉鏡花も賛辞を惜しみませんでした
憂いを帯びた表情に謎めいた眼差し
薄い水色のペンキの塗られた柵には朝顔が咲いています
朝霧に霞む明石町の対岸には帆船が停泊しています
品のある香りの高い絵を描きたいという清方ならではの美しさ
その表情からは様々な物語が連想されます

今日は東京国立近代美術館の鏑木清方型の展覧会に行ってきました
主任研究員の鶴見香織さんに解説いただきましょうお願いいたします

この絵にはモデルが実はいたんですね
江木ませ子さんと言ってあのご夫婦揃って泉鏡花という小説家の大ファンでいらした方でした
泉鏡花の紹介で清方さんに弟子入りをして絵の手習いも習っていたりしています

似てなくもないけどそんなにそっくりではないですよね目元などにちょっとこう面影が感じられますが写実的に写し取ったわけではない
さまざまな小説のイメージだとかもこの作品には重ねられているとも言われています
ここに描かれている風景女性は明治三十年代の明石町のイメージで描かれている
この女性、髪型の夜会巻きだったりする
鹿鳴館のパーティで女性が結っているような髪型ということで洋髪だったんですけれどもね
そういう髪型も当時を思い起こさせる風俗だったりするんですね
黒は羽織です裏に赤い布が縫い付けてあるというのがチラチラと見えるというのが好きですよね
これはかなり正確にその当時の風俗は再現されている
再現されています
そういうのをきちんと描くのも清方の特徴の一つでもあります
おろそかにしないってことですね
しかも朝顔を見てください柵に絡まっている朝顔ですけれども
もう下のほう葉っぱが黄色くなっている
秋風が吹いているから朝顔も枯れかかってるわけですよ
だから女性は寒いちょっと寒い朝少し秋風が吹いていて寒い
一枚でこれだけ色々話ができるのが本当に魅力ですよね

 

築地明石町ここには
清方が発見した伝統的な日本の美の様式が様々な形で反映されています
その発見のきっかけとなった「曲亭馬琴」
築地明石町から遡ること二十年
清方が写実的な表現を追求していた頃に描きました
江戸後期の戯作者馬琴は晩年目が見えなくなってしまいます
義理の娘に一から読み書きを教え口述筆記によって物語の完成を目指す場面です
耳の中や、ほくろから生える毛の一本まで細部に至る緻密な描写
明暗の表現など隅々までリアルに表されています
明治四十年
文部省美術展覧会が開催
心血を注いだこの作品で応募します
しかし結果は落選
その衝撃は大きく
清方は進むべき道に迷い、試行錯誤が続きました
清方が新たな表現の拠り所としたのは江戸の浮世絵の世界でした
鳥居清永の版本を見た清方は、美しく豊かな線描に心惹かれたと言います
その後鈴木春信や勝川春章など浮世絵の優美な表現に傾倒していきました

清方の女性像は必ずしもリアルな人体に即したものではなく
型あるいはこの様式美により形作られています
清方はそれに触れて写実を超えた形の美しさのようなものに目を開かれたのではないか
それまで対象の細かなでこぼこですとかディテールにこだわっていたところを
一気に強い輪郭線を引くようになります
浮世絵の線はシンプルですけれどもその中に清方はその豊かな美しさを強さを見出して
それをこうエッセンスとして自作に取り入れていたようです

清方は造形面だけではなく浮世絵の世界観にも影響を受けます

浮世絵が型であるとかその様式美を持って描いてきたのは繰り返される日常の幸せであるとか
季節感といった世界だったと思います
その中でその人が渾然一体となって非常に調和された一つの世界を形作っていると思うんですが
今日方もそうしたこう絵のあり方に非常に強く引かれて自身の作画に取り入れていったのではないかと思います

夏の日まだ朝露が消えないうちに一人たたずむ女性
しなやかな線描によって表された女性はしどけなさの中にも気品が漂います
左隻には風になびく朝顔
青緑の葉に群青色の花びらが生え清々しい朝のひとときを感じさせます
植物と女性は画面の中で調和し互いを引き立てあっています
人と自然が響きあう浮世絵の世界観が踏襲され、芳醇な空間が表わされているのです
一方で清方は写生を欠かすことはありませんでした
よくものを見つめ自分が強く惹きつけられたところを的確につかんで書き写すという鍛練です
植物や人物旅先での風景などさまざまなものをスケッチしています
築地明石町のために描いたスケッチ
めったにモデルを用いなかった清方ですがここではリアルな表情を掴もうとしています
築地明石町は江戸の様式美と写実表現の絶妙なバランスの上に生まれた作品でした

日本画家で技法や画材の研究をしている荒井経さん
築地明石町には隠れた奥深さがあると言います



築地明石町のま私が感じる魅力っていうのは
すごくこう緊張感とえー
開放感部分だと思うんですね
その寄与方が大事にしていた顔の表情とか
そういった所にはものすごく気を使って
えー繊維一本を本当に厳選して
えーこれでなければいけない
っていう書き方をしてるんですが
一方で手足とか
彼はそこまできちんと書き込んでなかったりえ
背景の部分では
全く違ったスケッチ風の船を書いてみたりとか
えーそういう何か
大事なところだけは押さえていって
きっちり見せて
他は相当後緩みとか遊びとか
そういったものをふんだんに取り入れてるっていうところが
もう全く
清方の懐の深さというか
度量の大きさ
ということだと思うんですね
えーを引き締める緊張感
画面に強い印象を持たせるため
背景の白く見える部分にだけ
古墳が塗られているといいます
この塩豚という
伝統的な技法が使われていることを
荒井さんの研究チームを発見しました
塩豚ってちょっと聞き慣れないと思うんですけれども
まあ今よく使われる言葉で言うと
マスキングという方法になります
絵具塗りたくない部分に
ワシを仮に張っておいて
それで大きな刷毛で塗って絵塗り終わったら
その和紙を剥がしてやると
わしがかぶってたところだけが繰り抜けて
絵具ガ乗らない
乗ってない状態になるんですね
全体にその時塗りをしてしまうと
書き心地が変わってしまうんですね
特に規模方が大事にしていた
線描細い線描とか
あとデリケートなぼかし
というものが
なかなかなかうまくいかなくなってしまう
まあ面倒と言えば面倒
でもその面倒をいとわずにやったというのは
やっぱりそれをすれ
ばえー自分が大事にしてる
角の線描っていうのを残していける
っていうことで
やったんだと思うんですね
いやだからすごいね
あの技術的なあのー工夫っていうか
細部にまで一緒に詰まってるんだって
いうことなんですけど
美人画家と言われる人たちというのは
女性の間入りわりあのー
一生懸命あのー命と言われたり
あとはあのお顔の描き方が
あの生命線だと言われたりするんです
けれどもえーとそれぞれの作家さんによって
火のようなものを開発して
自分のものにしていた
という風なところがあります
清方の場合は
仁川の成分は定量通り使うんですけれども
もうそれを絵の具を薄くして
それを何層も薄く
薄く重ねるような
乗り方をしていたようです
ま蒲田あの薄く塗っていく中に
あのうす紅色だとかを
ちょっとずつ混ぜることで
肌の質感というのを作ることができる
色味もねほら
耳たぶのところがちょっとピンク
本当にわずかな差で
あのー塗り分けたりとかしてるわけそうですね
めちゃくちゃ細かいですよね
この着物のもからもそうだし
あのー下駄の鼻緒
足が踏んでる部分
畳表高下駄を履いていますので畳の面ですね
一つ一つの奥行きが
一回味わえるような表現の仕方なんですけれども
築地明石
町を各四年前
政策の動機の一つとなる
大きな出来事がありました
関東大震災です
壊滅的な被害を受ける
東京江戸や明治から続いていた町並みや
人々の生活は
断ち切られたように
変わってしまったのです
明治三十年頃の
四季折々の情景を十二枚描いた作品です
昭和になると清方
かつて身近にあった
明治時代の風俗を
主題の一つとしていきます
正月振り袖姿で羽月をする妹
うん姉は訪問客のための
かるたの準備をしています
うん花の名所向島の包みお面をつけ
芸妓の見習いがはしゃいでいます
四月の暖かな陽気が伝わる
色鮮やかな一服です
浴衣姿で氷を削るかき氷屋の娘その姿は
見る目涼しいものであったと
清方は言います
うん温かなランプの灯火
その下で男の子は学業に励んでいます
傍らではお茶をいる母の姿
姉は針仕事に精を出しています
秋のささやかな暮らしの一コマです
年の瀬雪の降る晩
人力車の客が冷えぬよう
膝掛けを乗せる引き雪はしんしんと降り
一年が暮れて行きます

中央区明石町
ここには明治の後半まで
外国人の居留地があって
洋館が立ち並んでいました
うん当時を偲ばせるガスと清方は
家の近所であったこの町の少年
時代の思い出を描いています
天気の塗られた作はなはだ
帆船の帆が立ち並びます
ま回しをする外国人の少女たち
しかし居留地にあった羊羹は
関東大震災で倒壊しました
異国情緒あふれる明石町は少年時代の憧れの街
築地明石町には
特別な思いがあったのです
うん清方は三年後
築地明石町都
構想を同じくする作品を二枚描きます
播磨町は明治の末
清方が住んでいた町踊りの稽古の帰り道
娘は暑さを思い返し
反復しているようです
大きな房の付いた簪を指す少女
その表情にはあどけなさが残ります

蛇の目傘を指し
道を行くのは新富町の傾斜です
花街のあった新富町は
清方にとって小学校の通学路でした
はいはい雨の日に履く下駄はい
香りには白い点で表わされた花模様
袖口から覗く菊と紅葉の順番が鮮やかです
はい清方はそれぞれの思い出の街に
女性の姿を描き分けています
新富町の方も
浜町河岸の方も築地赤必要と同じで
明治三十年代を舞台にしているんですけれども
それを象徴するようなモチーフというのが
それぞれに描き込まれています
浜町河岸の背景に描かれている火の見櫓などは
関東大震災までは立っていて
それ以降はなくなってしまった
というふうに言われています
それから新富町の背景に描かれている
新富さんも関東大震災までは
営業を続けていたんですけれども
震災の後に亡くなってしまった
という風なことでした
でもう一つ興味深い要素としては
浜町に書かれている
女の子は十代なのかな
っていうふうな若さなんですね
それが好きじゃかっ
非常に書かれている女の人はちょっとこう
生活の疲れをにじませたような
二十から三十代に当たるのかな
みたいな女性が描かれていますで
新富町に描かれている
芸者さんというのは
もうちょっと年かさかもしれませんので
この三人がそれぞれ世代が違う女性が同じ
明治三十年代の同じ
隅田川沿いにある三箇所に
それぞれ描かれているということで
あの女性三杯とでもいうような構想が
清方の心の中にあったのか
ななどと思わせるところも興味深いですね
で彼女たちがそれぞれに
何でもない日常を送っている
その何でもない春が何よりも美しい
みたいなことを
清方はこの三部作の中で言わんとしている
そんな風に考えることも
できるかもしれませんね
戦争もまた東京の街の様子を
一変させます
昭和二十年の東京への空襲下町は
焼け野原となり清方の自宅も焼失しました
戦時中清方は時代に抗うように
女性の姿を通して
自らが信じる美を描きました
終戦の翌年に発表された
春節武家の女房の凛とした美しさが
際立ちます
なるほど空襲警報謎が出ると
意地になって
綺麗な姿勢中を書いてましたね
戦ねなんか活気になりませんからねうん
ただ綺麗なものは綺麗に
汚いものは汚いものに見えるだけで
他に何もないんですがそしてね
どうも絵を書くのに
嫌いなものっていうのは
書けないと思いますね
風景を掛け花を核にしても
人を核にしても生活を核にしても
自分の絵になって現われているものは
自分のま好きなものだと言えますね
清方七十歳の代表作
朝夕安居よう明治二十年代
築地界隈の夏の一日が描かれています
まさに自分の少年
時代を物語にしたような絵巻です
朝もやの立ち込める中
道を掃き清める娘み
豆や佃煮を売る行商は毎朝やってきます
うん共同の水汲み場では
それぞれが朝の支度をし
活気に溢れています
はいうんうん
季節ごとに暮らしの形があり
人々の触れ合いの中に生活があった時代
少年の日にちを単に改装するのではなく
えーの中で生き直すかのように
清方は生き生きと筆を走らせています
ただ明治というのは
幸せな時代だったと思いますね
あの時代を若く感受性
煮込んだ時代に過ごしてきたのは
私の恐らく一生の一番幸せだった
と思ってますね
夏の夕暮れの不正っていうのは
ちょっと今は
感じられない女性だと思いますね
同じさんまの匂いでも
その頃の三名の方が
今の山門よりは豊かな感じ
名人の庶民生活というのには
季節感が大変豊富だったと思いますね
生活が季節から出ていたことが
言えると思うんです
幼い頃清方と暮らしたこともあり
その姿を目の当たりにした孫の根本さん
私小さいななつか
その頃からごろだったと思うんですけども
画質で見せてもらったもんですからね
いろんな説明を受けて
その煮豆屋さんなんていうのも
こうやって昔は売りに来たんだよ
なんて言って説明してくれましたからね
やっぱりこれは懐かしいです
それと私その時に印象
的だったのは
この女性が水を気を組んでいくところの
この水の重さっていうのが書き方だけで
こう出てるんですよね
これもう小さい時にも感心しましてね
あのーとても信念が強いというかですから
これは絵を描くにあたってもそうですし
普段のあの生活上でもそうですし
あの優しいですけれども
ひとつあのこれと思ったことは
その筋は通しますね
画家ぜんとしたところがなくて
とにかく市井の中の一市民で
絵描きという言葉が非常に
清方好きでしたしよく使いましたね
自分はもうそれこそ穏やかな町の中で
皆さんと一緒に生活をしている
一人の絵描きなんだよ
っていうようなことを
多分口では言いませんでしたけれども
目指してたと思います
昭和四十六年
清方は九十三歳で亡くなります
美しき美の理想を描き続けた障害でした
うん物語を思わせる表現線や形の追求
明治という時代への思い
清方のエッセンスが凝縮された一枚
それが築地明石町でした

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aerith
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