日曜美術館 「そばにいつも絵があった 妻が語る画家・ 神田日勝 」

日曜美術館 「そばにいつも絵があった 妻が語る画家・ 神田日勝 」

朝ドラ「なつぞら」に登場した山田天陽。そのモデルとなった夭折の画家、神田日勝。32歳で亡くなった夫を支えた妻のミサ子さん。わずか8年半の夫婦生活。北の大地での開拓、子育て、牛馬との暮らし、そして絵。地方から最先端の絵を知ろうと必死にもがく姿。目まぐるしく画風を変えながら、やがて独自の絵を生む。牛馬への思い、ベニヤ板に刻んだ絶筆「未完 半身の馬」に込めたもの、そして50年目の夫婦のズボンの意味とは?

放送:2020年10月11日

日曜美術館 「そばにいつも絵があった 妻が語る画家・神田日勝」

新聞を張り巡らせた部屋に一人膝を抱えて座り込む男。

描いたのは北海道で開拓農民として生きた画家・神田日勝。

男は日勝自身とも言われます。

絶筆とされる作品。

ベニヤ板に馬の半身が描かれたまま残されています。

顔から胴体へと描いていた時、日勝は32歳の若さでその生涯を終えました。

日勝が絵を書いている姿を間近で見ていた人がいます。

妻の神田ミサ子さん。

わずか8年半の結婚生活でした。

家族の姿を描いた貴重な一枚。

妻のミサ子さんは日勝と交わした言葉を、亡くなって50年経った今も鮮明に覚えています。

「僕は世間と生きるつもりはないから。君がいてくれれば何もいらないって。水に浮かんでる一滴の油のような感じを受けたんですよ。常にみんなと一緒に行動したりするけれども絶対交わらない」

今回撮影中に日勝の心の内が分かるものが見つかりました。

画家としてどう生きようとしたのか。

模索する姿が浮かび上がります。

共に生きた妻ミサ子さん。

没後50年を経て語られる、神田日勝の世界をたどります。

去年の連続テレビ小説「なつぞら」

主人公に夢を与える山田天陽のモデルとなったのが神田日勝でした。

「俺も単純に好きな絵を描きたいと思ってるだけだよなっちゃん。だけどそれは世の中で一番難しいことかもしれない」

脚本家の大森寿美男さんは20代の頃。

日勝の新聞を張り巡らせた男の絵に衝撃を受けました。

「真ん中にいる男の人が、非常に何か苦悩を抱えてるようでいてそれも含めて非常に精神が自由に解放されてるように僕には見えて、開拓者という厳しい生き方の中で生きる力を得るエネルギーとして創作の力もきっとあったと思うし、生きる力と創作する力が全く同じという存在として山田天陽という存在を描きたかった。それが神田日勝さんに対する自分のイメージだったりするんですけども」

神田日勝はどんな画家だったのか。

日勝が暮らした北海道十勝の鹿追町訪ねました。

今年は日勝が亡くなって51年。

その足跡をたどる主要な作品が一堂に集められました。

わずか15年に満たない画業の中で残した作品は180点あまり。

その画風はめまぐるしく変化します。

小野さんが一枚の絵に注目しました。

「なんかちょっと怖いですよね。見ようによっては。銃殺刑にされる人が壁を背景にして立ってるような。なんか決定的なことが起こる直前の風景のようにも見えなくない」

壁の前に顔だけが描かれた《一人》。

執拗なまでに書き込んだ石壁。

その壁に張り付くように描かれた男。

擦れ剥がれ落ちた石壁とまるで同化するように同じタッチで描かれた男の表情。

日勝の自画像とも言われています。

神田日勝。

昭和12年東京練馬で生まれます。

日勝が7歳の時、一家は北海道十勝に入植します。

畑仕事を手伝いながら子どもの頃からひたすら絵を描いていました。

日勝が北海道に入植したのには理由がありました。

東京大空襲で一家全員が焼け出され、父親が開拓団に応募したのです。

しかし約束されていた国からの援助はなく、農業の経験もないまま荒れた原野を切り開くしかありませんでした。

日勝も大切な働き手でした。

唯一の楽しみが油絵を描くことでした。

二十歳の頃の作品。

《馬》

一家が初めて手に入れた農耕馬を描きました。

しかし馬は買って程なく死んでしまいます。

商人に騙されたのです。

日勝は痩せ衰えた馬の肋骨を克明に描写しています。

空の餌箱に顔を突っ込み力なく食べようとする物悲しい目。

しかしなぜか足だけはごつく太く描かれています。

働きづめの農耕馬の姿に開拓農家の厳しさを重ねたのでしょうか。

この鹿追町に日勝の妻が今も暮らしています。

「おはようございます」

神田ミサ子さんです。

二人が出会ったきっかけは地域の農村青年団でした。

ミサ子さんは祖父の代から続く農家の生まれ。

日勝の家より前に入植し、子どもの頃から畑仕事を手伝っていました。

日勝の存在を意識し始めたのは親睦を兼ねた野球大会でのことでした。

「当事男の人みんな結構お洒落してたんですよ。背広着て革靴履いて野球やるとかね。そんな感じの頭リーゼントでおしゃれにしていて、そしてそんな中で日勝は野球をやらないで応援席の方に座ってたんですよ。まったく異常な感じがしたんですよ。他の人はちゃんとした靴履いてるのに彼だけ下駄履きだったんですよ。変わった雰囲気だったんですね。ランニングシャツ一枚ですよ。あどけなさって言うか、正直さと言うか。自分にかっこつけてるって事は何もないと言うかそんなように私は受け取ってましたね」

当時、美佐子さんは深い悲しみを抱えていました。

中学生の時に相次いで弟と妹、姪をなくした辛い記憶がずっと言えることなく続いていたのです。

「なんでだろうって。そんなみんな自分より若いね子どもが死んでいく。じゃ自分が何のために活きてるんだろうって。その頃から私の悩みが始まった。常に何なんだろうどうしてだろう。そんなことばっかり考えて生きていた」

そんな悩みを抱えていたミサ子さんが日勝の家に遊びに行った時、一枚の絵を目にします。

初めて見た日勝の絵でした。

それまで美しい風景や花などが絵画だと思っていたミサ子さんにとって、その絵は強烈な印象を放っていました。

「これはびっくりしました。結婚する前に神田の家に、日勝の妹と友達だったから、行った時に茶の間に置いてあってね。ものすごい臭いを感じたんですよ。なんでこんなもの茶の間に置いてあるのって。私にすれば一番強かったのドラム缶から出てくるの石油のような匂いですね。昔缶で石油とか使ってたりしましたから。あと革靴なんかも疲れて腐ったにおいとか。本当に臭いするって事は描いたものじゃなくて本物だって言うんだから生きてるって感じしましたね。私もそれだけ自分の好きなこと持ってる人ってのはものすごくうらやましいというか幸せというか、自分自体が何しに生きてるんだろう。私は何したらいいんだろうってそれが悩みの種だった中で日勝が好きな物を持ってるってそういうことがやっぱり。それなら協力してやろう。そうそう思いましたね」

ミサ子さんが初めてこの絵を見てから1年後。

二人は結婚します。

「畑はこの辺。行ったりしてちょっと行ったとこその電柱あたりですか」

しかし日勝との生活は重労働の連続でした。

神田家の畑は、先に入植した人が開拓を諦めた劣悪な場所だったからです。

「仕事するには非常にやりづらい土地だったんですよ。根っこ掘りなんかやったしね。畑にある大きな切り株百個ぐらいありましたから。8年半の間でなんとかなくなりましたけど」

その後その畑では何を作られたんですか

「デントコーンだとか芋だとかビートだとか」

収穫が見込めない年もありました。

結婚して3年目は冷害でほとんど現金収入がなかったといいます。

「豆狩り。秋になったら枯れるんだけど、これくらいしか伸びてないから。鎌で豆狩りできなかった時ありました。それは昭和39年です。だからその時の家の収穫は息子だけ」

この年に描いた作品。

子どもが生まれて一家団欒の様子が描かれています。

テーブルの上にあるのはビール。

日勝は酒を飲まなかったと言います。

グラスを手にしているのは妻のミサ子さん。

しかしこの絵は日勝が想像して描いたものだとミサ子さんは言います。

「こんな雰囲気のことはほとんどないですね。仕事終わって家入ってきたら、当時で記憶に残ってるのは八時ぐらいですからね。あの搾乳やら何やら全部終わって家に帰ってきたらそれからご飯食べてお風呂入って、子どもたちの事したらもう11時か12時になっちゃう。のんびりする時間は全くなかったですね。

だから、こういうことがあったらいいなと思って日勝は作品にしたんじゃないのかなと私がそう思ってます」

朝から晩まで農作業に明け暮れる毎日。

1日の仕事が終わってからがようやく絵と向き合える時間。

日勝はペインティングナイフを使って深夜まで絵を描きました。

その頃の日勝をよく知る人を訪ねました。

画家の徳丸滋さんです。

いつも日勝の家を訪ねては絵のことを語り合っていたという徳丸さん。

お互い描いた絵を交換しあうほどの中でした。

これは日勝が家の周りを描いた風景画。

ペインティングナイフを使った強いタッチが気に入って、本人からもらいました。

「これベニヤ板なんですね。これによってこすると音するんですよね。なんかこういう音に魅せられて描いててもあるんじゃないかと思うよね。削ってくるように描いてたと思うんですよね。なんか感じるでしょう。僕も独学だからねなんとなく共通点はあるのかなと思うけど、やっぱり自分で確かめながらやってくしかないんですよね。絵を描きながらね。だから人より、他の絵描きよりもすごい自分が思うことできるまでに時間がかかってくるんじゃないかと思いますよ。試行錯誤であーでもないこーでもないと画面を通してやってくしかないですよね。だから今になってみれば命を刻んでたのかなと思いますよね」

農家を続けながら、独学で自らの表現を見出そうとしていた日勝。

その足跡がたどれる貴重なものが残されています。

「これが日勝が使っていたスクラップブックです」

日勝お手製の作品図版。

ゴッホやセザンヌなどの絵葉書、雑誌の切り抜きは、本物を見る時間もお金も無かった日勝にとって表現を模索する唯一の手がかりでした。

「日勝は独学の作家ですので、どういう絵を描くべきかっていうところで自分を導いてくれるような存在が欲しかったのかもしれない」

初期の画風に大きな影響を与えたのが在日朝鮮人の画家、チョ・ヤンギュです。

資本主義社会の労働者の現実を描く社会派リアリストとして当時注目を集めていた画家です。

《密閉せる倉庫》

倉庫番をしていた時の情景を描いたとされています。

チョ・ヤンギュ自身、政治運動に関わって警察に追われ、日本に密航。

誇りも尊厳も奪われ、ただ生きるためにだけ働かざるを得ない現実に目を向けていました。

図版の切り抜きだけを見て描いた日勝。

チョ・ヤンギュの描いたテーマに影響受け、自身の表現を獲得しようとします。

「チョ・ヤンギュの作品というのは社会の周辺に置き去りにされたものだとか、捨てられて忘れ去られていくようなそういう存在に目を向けてそれを克明に描いているので日勝自身もおそらく社会に対する自分の立ち位置としての疎外感ですとか、孤独のようなものを感じていて、その描き方についてチョ・ヤンギュのスタイルを真似することによって自分自身の置かれた現実、状況を絵に描こうとしていたんだと思います」

当時は高度成長期。

都市と農村の格差が広がり、鹿追でも離農が相次いでいました。

そうした中、日勝は鹿追に止まり、自分にしか描けない農家の現実を絵にしようとします。

「細い迫力ですね。お腹裂かれているから。亡くなって死んでいる牛だと思うんですけど、内臓がまだ暖かさが感じられるってすかね、生身の生き物の持っているそのぬくもりっていうか、その顎を伝ってくるような絵ですよね」

ともに働いてくれた存在の死。

肌触りまで感じられる毛並み。

そして鮮やかな赤を使って描いた切り裂かれた腹。

家畜が死ぬと溜まったガスを抜くために腹を裂きます。

かけがえのない牛に訪れた死という現実をとらえた日勝の眼差しです。

2年後。

「急に画風が変化して前衛的になっている感じですよね。それでもすごい絵の具ですね。こうなるともう中の一人の芸術家が新しいことに挑戦してみたいって言うな感じがしますよね」

色鮮やかな絵の具を縦横無尽に走らせ、ほとばしるような命を描いた新たな表現。

当時日本の美術界を席巻したフランスの抽象表現の影響が色濃く表れています。

絵の具をコテですくい、そのまま腕を振って画面にぶつけた激しいまでのタッチ。

牛の死に対して鮮やかな色彩で表した命のエネルギー。

絵とは何かを問い続ける日勝の探求です。

勢い余って同じ部屋に置いてあった、あの家族の絵にも飛び散るほどでした。

この頃から農作業は牛や馬からトラクターに変わります。

日勝の絵も売れ始め、その収入でトラクターを持っている農家に畑仕事を頼むようになりました。

「いっぱい描かなきゃならないこと、時間が増えてきて、夜自分で描きながらその自分の畑その友人に頼んで起こしてもらったりとか、そういう時俺は農業失格だなーってことは言ってました。開拓してきたんだっていう、この土地は俺が耕したんだ。男の意地みたいなものはあったと思いますよ。そこ原生林を自分の手で互いをしてきた。そのその葛藤みたいなものがあったんじゃないかなって」

自らを農業失格と語った日勝。

そんな夫を支えていこうとミサ子さんが決心した二人の会話がありました。

「絵描きたいってどんな気持ちって本当に馬鹿な質問ですけどね。そしたらちょっと一瞬間を置いたらね、僕にとって描きたいのは排泄行為だ。その時言ったんですよ。排泄行為だって。そしてどんな大人だってね、我慢に我慢して我慢しきれなくなったらね、誰だっておしっこ漏らすだろうって。どんな大人だってね。それと同じだって。排泄行為だって言われたらもう我慢させるわけにはいかないって」

日勝には芸術論を交わす仲間がいました。

帯広の画家たちです。

彼らに悩みを漏らすこともありました。

自分は農業失格だと思っているのに世間からは農民画家と言われ、もてはやされることに割り切れない気持ちを募らせていました。

「番組に出演する時でもさ、農民画家なんて言われてさ、それをまとめで言われることが一番辛くて、農家をやって厳しい中で、特別扱いしなきゃならないのか。そういう赤裸々というか」

絵を交換していた画家の徳丸滋さんにも日勝は心境を吐露していました。

「手紙が出てきた」

50年以上前日勝が徳丸さんに宛てた直筆の手紙です。

「手紙には日勝の生き方みたいなのがわかりますね」

手紙には芸術とは無縁の地で農民として生きながらたどり着いた自身の有り様が綴られていました。

充実した生活などというのは絵描きにってとっては芸術的堕落

絵描きはある程度の社会的敗北者。孤立者で閉鎖的な世界を持つ必要があるのではなかろうか。

くよくよネチネチと悩み考え、クタクタに疲れげっそりと痩せてしまうといった不健康な状態が表現者にとっては最も良いコンディションだとは言えないでしょうか。

原色を自由奔放に使って徹底したレアリズムを表現するのが現在の僕の最大の目標です。

日勝が亡くなる年に描いていた作品があります。

《馬》(絶筆・未完)

馬は日勝が北海道に入植して以来、ずっと描き続けてきたモチーフです。

頭から描き始め腹のあたりまで毛並みが緻密に描かれていますが、描きかけのまま終わっています。

後ろ足はむき出しのベニヤ板に鉛筆の輪郭線が残ったまま。

今回改めて調査してわかったことがありました。

「この馬は今まで描いてきた馬とは描き方を微妙に変えているところがすごく面白いところで原色の色彩を使っている。今までとは違うやり方

開けてもらえるこう

アルファとも実写動画ちか

まるくんだ本当だ本当だよく見れば

つながっているわけですね。自身の画業が。

独自の画風が刻み込まれた馬。

それはミサ子さんにとって忘れられないものとなります。

日勝がこの絵を書いていた時、ミサ子さんは子どもの頃可愛がっていた2頭の馬の記憶が鮮明に蘇ってきたというのです。

「学校から帰ってきた時に、馬が一頭死んでいたんですよ。二頭しかいない。そして死んだ馬を生きてる馬にそれを引かせていたんですよ。それでその時の私の馬がかわいそうでどうしようもなかったです。馬だってものすごい力はあるけれども、毎日一緒に隣の所にいる馬が死んで、それを引っ張らされたら、馬にもそれなりの感情があると思ったんですよね」

これを見た時に過去の記憶が蘇ってきたんですか

「何頭か馬描いているけど、この馬の目だけは特別な感じがしてどうしようもないですよ。この前にくると本当にその目がいつも何か語りかけてくる感じがする」

この作品を描きかけたまま、何故か日勝は別の作品に取り掛かります。

《室内風景》

日勝最後の完成作です。

裸電球がぶら下がる奇妙な空間の中に浮遊しているかのように存在する一人の男。

男の周りに散らばっているのは日勝の身の回りにあったものと言われています。

狭い部屋の壁を埋め尽くしているのは新聞。

当時のニュースから、流行りの商品の広告まで、細かくリアルに描かれています。

同時激しさを増していたベトナム戦争。

動き出した原子力発電。そして地方の農漁村の話題まで。

高度経済成長の時代、その姿を急激に変えていった地方の農村の現実。

男は溢れる情報に取り囲まれ押しつぶされそうにも見えます。

何を見つめているのでしょうか。

「これは一瞬身をすくめてるような風にも見えるますよね。でもまあそういう姿勢だから。

すごい座り方がだけどなんかやっぱりふぉー

目の前に僕じゃなくて

もっと遠くを見てるするってのは世界に

囲まれてなんかすごいと遠い地平を眺めてる

そこにやっぱりなんか粉ミルクを容易に

その内面に入って来た

できないってのは僕の感じ方ですか。そういう風に思います。真ん中に座ってるこの男性は日勝さんなんですかね

自画像って言っても

心理的時間心理的なことは

全くなかったしてる時自体は

たまに鼻歌歌ってることもあったから楽しかったんでしょうね。よく歌ってたのが有楽町で逢いましょうという歌が流行った頃なんですよ。あれを鼻歌で歌いながら。夜中が多いですよね。起きて頼みたいことがあるからって。何かなと思ったら、モデルになってくれとか。

ラーメン作ってくれた

これこれじゃないです

ミサ子さんが

なんでこうしたかったと聞いたらズボンのシワが見たかったからって。本当に面白い人でしたよ。悲しくは見えない。なんかいろんなものを含んでるんでしょ。悲しみも喜びも何もかも入ってるんじゃないのかな。だから相手なっちゃうかなあいう顔にしたんじゃないかなと思って

日勝の絵に若い頃出あった脚本家の大森寿美男さん。

室内風景はその後の創作の原点になりました。

その真ん中にいる男の人が

非常に何か苦悩を抱えてるようで言って

それも含めて

あの以上に精神が

自由に解放されてるように

ゴーヤ見えて

その基本にあるのは生きることがその基本だと

その自分が生きていく上で問題となっていることが

あのー創作の源になっていて

生きる力が創作の源だ。才能よりも生きる力なんだって

それこそ神田日勝さんのように

粉土を耕すことの厳しい季節の中でその

喜びや苦しみを感じるっていう

そのことが捜索と直結してると言うか

結びついて生きているって言う事の方が

創作者としては基本的な姿だと僕は思うんですよね」

室内風景を完成させた後、日勝は描きかけだった半身の馬に再び取り掛かろうとします。。

しかしその矢先突然病に倒れます。

10日後ミサ子さんは医者から助からないと告げられます。

「救急車の中で血圧測ってくれたんですけど、最高血圧が60度。もうダメだって言われて。万が一助かったら目が見えなくなるとそう言われて、その時に私自身が日勝自身が農家だってことは頭から消えてました。これだけ絵が好きな人が見えなくなって苦しんで生きるんだったら楽になって頂戴って、本当に心でそう思いました。後のことはどんなことでも私は引き受けるから」

ミサ子さんが大切にしているものを見せてくれました。

日勝が室内風景を描いている時に頼まれてはいたズボン。

「これなんです。あのズボンが。50年以上たったら腐っちゃうかも知らんけど」

日勝の絵の具の跡は50年経った今も消えあせることはありません。