日本人の心のふるさと、 法隆寺 。金堂には、飛鳥時代の珠玉の仏像とともに、世界に比類のない仏教壁画が伝えられてきた。明治、大正、昭和と真摯に仏の姿を模写し、壁画に向き合い続けた画家たち。記録事業の際、ひそかに貴重なカラー写真での撮影に挑戦していた撮影技師。ひとりひとりの熱意が、戦後思いがけず火災で焼けた金堂壁画の再現へとつながっていった。開催中止が決まった東京国立博物館の展覧会の様子も紹介する。
【ゲスト】有賀祥隆、篠原ともえ、荒木かおり、稗田一穂、山内崇誠
【司会】小野正嗣,柴田祐規子
放送:2020年4月12日
日曜美術館「法隆寺の至宝〜金堂壁画をよみがえらせた人々〜」
奈良、斑鳩の法隆寺。
五重塔と並び立つ金堂は世界で最も古い木造建築として世界遺産に指定されています。
本堂の釈迦三尊像。
創建した聖徳太子の姿になぞらえています。
珠玉の仏像を生み出した飛鳥時代。
絵画の世界でも超一流の壁画が生まれました。
仏像の周りを高3メートルを超える大きな壁画が囲みます。
浄土の世界や菩薩の姿を鮮やかに描いた金堂壁画。
大小12面にわたり仏教絵画が並びます。
しかし昭和24年1月27日。金堂から出火。
無残にも壁画は焼け落ち、仏の姿も、かつての華やかな色彩も消え失せてしまったのです。
もはや復元は不可能と思われました。
その時、一縷の望みを託されたものがありました。
多くの画家たちが長年書きためてきた模写です。
大きな壁と対峙し、この上ない仏画を後世に残そうと筆を振ってきたのです。
そして火災から18年が経った昭和42年。
名だたる画家たちが集められ金堂壁画をよみがえらせようという大事業が始まりました。
画家たちの拠り所となったのが火災前に撮られていた写真でした。
当時の最先端の技術によって貴重な色彩が記録されていたのです。
模写に携わっていた日本画家の稗田一穂さん。御年99歳。
「やるからには上手くやりたいと思う事が一生懸命で。非の打ち所がないようにしたい
と思いましたけどね」
そこには仏の微笑に魅せられた人々の物語がありました。
緊急事態宣言を受けて開催中止となった展覧会の様子を特別にご覧いただきます。
スタジオ
日曜美術館です。私たちは上野にあります東京国立博物館に来ています。たくさん仏像がありますけれど。
本当ですその中でも目を引くのがこれ。百済観音です。
近くで見ると大きいですね。
口元に微かに笑みが浮かんでいる。
1300年前の微笑みだと思うと深みがあります。
そうですね本日のゲストをご紹介しましょう。仏教美術がご専門の有賀祥隆さんです。
「法隆寺の金堂壁画っていうのは前にも後にもない、優れた仏教絵画だと思います。金堂が描かれた時代のインド、敦煌などの仏教絵画と比べても別格っていう。国宝の至宝。絵描きの中でも一番トップクラスの絵描きが描いたんではないという位に質の高いものだと思います」
金堂の壁画を仏様の仏画で囲むのはなぜ。
「仏教世界を絵で描いて示すこと。菩薩もあれば如来もいる」
仏教の思想が壁画と合わせて表現されている。
「そういう意味合いが強い」
金堂の壁画を多くの画家たちが模写して伝えてくることによって、今私たちが1300年前の姿を見ることができます。
まず明治時代の模写の様子から見ていきます。
ロンドンにある大英博物館。
世界中の貴重な美術品が収集されてきました。
この中に法隆寺運動壁画の模写があります。
明治の初め一人の外国人の依頼によって描かれたものでした。
日本美術に熱い視線を注いだその人はイギリスの外交官アーネスト・サトウ。
日本滞在中、法隆寺の壁画に魅せられました。
描いたのは大坂の絵師桜井香雲。
その後、明治政府も文化財保存の目的から模写を依頼します。
シミや傷もありのままに描くという現状模写。
精度の高い仕事が求められました。
暗い金堂の中、ろうそくの明かりだけを頼りに12面をおよそ2年の歳月をかけ
描き切ったといいます。
大正に入ると、誰からの依頼でもないのに金堂壁画を描き続けた人がいました。
生涯、無名を貫き、仏画一筋に人生を捧げた鈴木空如。
12面の壁画を実寸大で生涯3度も描きました。
いったいなぜ3度も壁画と向き合ったのか。
空如は画家を目指していた17歳の時、日清戦争に召集されました。
17歳の多感な少年が見たものは悲惨な戦争の現実でした。
「二時間交戦。捕虜240名即時に処せられし者34名を見る。日日死屍
累々。足のつき場もなし」
復員した空如。25歳で念願の東京美術学校に入学。
その頃から仏画の世界に足を踏み入れた空如。
導かれるように法隆寺金堂へ向かいました。
何度も通いつめ、壁画の模写に励みます。
空如が描いた大量の下図が残されています。
仏の顔や手を執拗に描いています。
こだわったのは線でした。
仏を描くには欠かせない鉄線描という手法です。
同じ太さの張り詰めた線。
その手法の極意を文化財の修復や模写を手がける荒木かおりさんに見せていただきました。
「古い時代の仏様の姿を描く時ですとか、本当に神聖な姿っていうのを表現するために使いますんで。その線に意味を持たせないっていう意味で、均一な線で描ききるっていう感じですかね。
特に法隆寺の壁画の中での鉄線描っていうのは、本当に見事な線が引かれてますので。邪念もなく怒りですとか喜びとか感情を持たない心がまっすぐな線っていう感じがいたしますね」
無の境地で鉄線描を我が物として行く空如。
研鑽を積みより高みを目指す空如にまた死の影が。
最愛の一人娘を5歳で亡くしたのです。
空如は修行僧のように壁画とひたすら向き合います。
薬師浄土図。
大正11年の最初の模写
仏の姿とともに壁の傷や汚れまで残らず描こうとしています。
2回目は損傷部分の表現が弱められています。
3度目になると背景の傷は目立たず、忠実に書いた1回目より仏が浮かび上がって見えています。
顔の輪郭や鼻スジの線がくっきりと。
仏の美しさを表現したいと願う空如の心が映し出されているようです。
「34年来。命をかけて天命を果たすべく壁画模写によって仏が一尊でも増えることを
何よりの喜びと悪戦苦闘の決心」
スタジオ
ゲストは篠原ともえさんです。
「仏画は経験がないんですが、お寺さんに伺った時に写仏という仏様を書き写すという体験をしたことがあるのです。それでも自分の感情が入ってしまったりすごく難しかったですね。なるべく写経のように心を取り冷ましていうすごく穏やかな気持ちになった」
今私たちが見てるのが空如が描いた模写の絵。
これお金をもら模写するわけではなくやってたんですね。
「先生は個人的にこの1回目2回目3回目の壁画のどれがドキドキしますか」
「一番最初の壁画。原本をより忠実に写し取る。そういう気持ちが強かったんだろうと思います」
「写真の一番一番オリジナルに近い」
「劣化するそういう時間そのものも映してるわけですよね」
「特に衣のドレープのところ。ちょうど真ん中の所。襞が波打ってるところとかが、どうしてこんな彫刻のように立体感があるんだろうって思うんですけど」
「衣紋線というものがあって、茶色の近いところを隠しておいて薄くするとだんだっでこぼこに見えます」
鈴木空如さんが3回も模写をしたということを聞くと、篠原さんはどんな風に思いますか。
「私は大変というよりも心地よかったんじゃないかなっていう風に思うんです。模写という体験を通して祈りにも近いと言うか、祈りと模写が空如の中でリンクしていたその集大成なのかなって眺めてしまいますね」
「空如さんはその従軍経験したりとか娘さんを亡くしたりとかしてるじゃないですか。そういう自分の悲しみとか心のみたいなものを浄化する作業でもあったのかなっていう想像もしました」
京都。
文化財の模写や修復を手がける荒木かおりさん。
二条城の障壁画など貴重な文化財を創建当時のままに甦らせてきました。
京都で三代にわたり文化財の修復に携わってきました。
法隆寺の金堂壁画に深く関わったのが祖父でした。
京都画壇で活躍していた日本画家入江波光。
昭和15年。国が行った金堂壁画の模写に強い使命感で参加しました。
「是非とも京都画壇としても参加したいっていう事を強い思いを持っていたようで、何度も文部省の方に足を運んで、陳情っていいますか、お願いっていうか、懇願に行ってたって言うなことは母から聞いております」
金堂の解体修理に合わせて昭和15年に始まった模写事業。
この時の模写事業には画期的な出来事がありました。
日本で初めて蛍光灯が使われたのです。
昼間のような明るさの中で波光が描いた模写です。
今まで見えなかった細かな描写や鮮やかな色が現れたのです。
その時の感動を波光は伝えています。
「驚きますのはこんな隅の下からは目の届かない所まで実に丹念に小豆粒大ほどの模様さえ色わけして克明に描き菩薩の髪の毛までも一本一本細く描いて美しく流れておる事なんです」
この時代原画や写真を敷いて描く模写もありましたが波光にはこだわりのやり方がありました。
それがあげ写し。日本画の伝統的な手法です。
下絵の上に和紙を重ね、和紙をめくった時下絵を目に焼き付けながら写し取るという技。
一筆一筆写し取ることで作者の細かい筆遣いも読み取れると言います。
「波光としてはすべて人間の目で取り込もうという。すごく努力というんでしょうかね。根気のいる作業だと思うんですけど。伝統的あげ写しの方法っていうのをどうしてもやりたかったんだろうと思う。それしか考えられないという思いだと思いますね」
波光の言葉です。
「一切自分を捨てて原画を描いた作者の気持ちになりきってしまってこそ本当の意味の模写はできる。作意がどこにあるか。どこに表現の主眼が置かれているか。それをできるだけ忠実に再現することが模写の目的であり命であると言わねばならない」
金堂壁画の模写には波光と共に荒木さんの父・稜一も取り組んでいました。
昭和15年に始まった模写事業。
日本が戦争へと突き進んでいた時代です。
稜一は壁画に思いを残しながら戦場へ向かいました。
戦地から模写を続ける仲間に書いたハガキが残されています。
「もうこの頃は金堂へお籠もりですか」
「この言葉だけなんですけれども、皆が金堂の方にこもって模写をしている姿を思い浮かべながら自分ができなかった悔しさみたいなのが現れてるのかなと思って」
終戦から1年後。
再び法隆寺に戻った稜一は模写を再開します。
壁画は既に波光をたちの手で大方仕上がっていました。
残されていたのは汚れや剥落が進む下の部分。
そこには化粧菩薩という小さな仏の姿がありました。
稜一はかすかな痕跡も丁寧に描きだしました。
「法隆寺壁画の美しさの中に染みですとかヒビですとか、時代をまぜ混んだ美しさを表現しようとして金堂壁画の方に向かいあったと思うんですね」
昭和23年。波光は全ての壁画の完成を見ずにこの世を去りました。
翌年の昭和24年。その日がやってきます。
「1月21日午前7時頃。世界で最も古い木造建築物奈良法隆寺の金堂から出火。8時頃
ようやく鎮火しました」
出火の原因は模写作業中に使っていた暖房器具の消し忘れではないかと言われました。
日本中が悲しみと喪失感に打ちひしがれました。
しかし幸いなことに金堂の最上層部と仏像は解体工事のため別の場所にあり、無事でした。
この日稜一は京都の自宅で惨事を知ります。
「模写をしてるっていう作業の中で起こってしまった事故であったということもあって、父なんかは法隆寺の壁画の火災って言うことを、すごく重い一生の中で引きずっていたと思うんですけど。その後文化財の修理文化財保護のに身を尽くすっていう思いがあったようですね」
戦争で中断を余儀なくされた模写事業は火災により突然の終焉を迎えました。
未完のままになった壁画も残されました。
時代に翻弄されながらもひたむきに描き続けた画家たちの執念と無念が刻まれています。
スタジオ
私たちがいる後ろ側に見えているのがその入江さんが手がけた阿弥陀浄土図。
「海軍から調達した蛍光灯を使ったっていうこと。だから桜井香雲が描いたものは、おそらくろうそくか何かで明かりを採ったのでしょうか。全体に画面が暗いっていうか。この差は大きい」
光が蛍光灯になってからは明るくなってるのがよく分かりますね。
「腰の辺りの装飾が細やかに描かれているなあと思って。柄なんかも全部わかる王冠の中に仏様が」
「波光さんの熱意というものが。一点一画おろそかにしないというか。なんかそんな感じがする」
偉大な偉大な絵師への尊敬の気持ちを込めて、実際にあった状態に忠実に模写をするっていうことだったんでしょうかね。
「人の心を一回通して筆が動くということで、何かそこに温かみ。温度感みたいなものを感じます」
「阿弥陀さんがいる、そういう世界を書き表すっていうか何かそういう感じはするんですね」
こういうものが火事で焼けてしまった。文化財に対してどうやって守っていけばいいかみたいなことはその焼けてしまった昭和20年代年にはまだあまりなかったんですか。
「本堂が焼けて、昭和25年に文化財保護法が制定される機運になった」
「何かが起きなければ小文化財っていうのはいつもそこにあるもんだっていう
風にも思いがします」
法隆寺の境内の一角に火災から2年後にできた建物があります。
焼けた壁画が柱と共に、在りし日のまま置かれています。
およそ70年の間。
誰に見られることもなく静かに佇んできました。
紅蓮の炎の中で色彩は失われわずかに仏の姿をとどめるばかり。
金堂にもう一度飛鳥時代の壁画を迎えたい。
火災から18年後の昭和42年。
壁画再生のプロジェクトが始まりました。
日本画の大御所安田靫彦を監修に、前田青邨など精鋭の画家たちが集められました。
4つの班に分かれ12の壁画の制作が始まります。
ベテランも若手の画家たちも思いを一つにして取り組みました。
この時参加した日本画家の稗田一穂さん。99歳。
より正確な模写を行うため取り入れられたものがあったといいます。
「思い出というのは、写真。それを美濃紙に転写したその上に描きましたからね。こういう方法の模写は全然初めて」
和紙に壁画の写真を印刷し、それをつなぎ合わせ下図としました。
京都にある老舗の写真工房です。
文化祭などの貴重な文物を精度の高い印刷技術で記録しています。
この工房が下図に使われた写真の撮影を担当しました。
当時の技術の粋を集めた原寸大の写真です。
昭和10年。文部省の国宝保存事業の一環として行われた撮影。
主任技師の佐藤浜次郎は巨大な壁画を一体どのように撮影するのか長年にわたりその方法を探っていました。
そして壁画の全てにピントが合うように42分割して撮影する方法を編み出したのです。
「この壁から90センチの距離を保ったところに足場を組んでその設定に5日かかり
そこから2日をかけてピントなどの精度どを立ち上げて八日めにして撮影が始まったと聞いております。しっかり構図を決めてなおかつ端から端までピント精度を合わせながら2ヶ月半をかけて撮影に臨まれたことは大きな苦労だったと想像します
分割撮影にはガラス乾板が使われました。
フィルムに比べ解像度に優れ。何世代にも残すことができる耐久性を持つなど
大きな利点がありました。
感光性のあるゼラチンをガラスに薄くコーティングしていきます。
そのゼラチンに撮影した乾板を焼きつけます。
コロタイプ印刷といい、ガラス乾板の情報を忠実に再現することができるといいます。
ガラス乾板に記憶された線の一本一本が息づき、精度の高い下図として模写の大きな力となったのです。
75日をかけた金堂壁画の撮影。
主任技士であった佐藤浜次郎はこの時独断である挑戦をしていました。
壁画の色も残しておきたい。
まだカラー写真が確立していない時代。
4色のフィルターを使い色のデータを記録したのです。
浜次郎が密かに撮影していた貴重なガラス乾板です。
4色に色を分解して撮影しておけば、後にそれを重ねることで壁画の色が再生できると
浜次郎は考えたのでした。
「昭和10年ですね。当時の技術の中で出来る限りのことを浜次郎さんはやっておきたいなあというふうに考えられたのかと思います。相当素晴らしい彩色絵が残っていたんだと思うんですけれども、どうしてもそれを自分だけの目に焼き付けるのではなくて、広く皆さんに見て頂きたいなという気持ちがあったのかと想像しますね」
「私は誰から頼まれたわけではなく、自分の発意で12壁を原色撮影しておきましたが今ではこれが唯一の貴重なかたみになりました。この乾板さえあれば火災前の色彩に復元することが十分できると思っております」
その言葉通り、昭和42年の再現模写では浜次郎の残した色のデータがカラー印刷となり威力を発揮しました。
日本を代表する画家たちを集めた制作。
共同で行う模写作業ならではの苦労があったといいます。
「今回の模写が4つの班が全然バラバラになるとそれも困ると、個性をなくすために、線をぎゅっと引くんじゃなくって、細く点描で繋ぐっていうそういう作業でしたからね。やるからには上手くやりたいと思うことが一生懸命でね。一つの画面として非の打ち所がないようにしたいと思いましたけどね」
画家たちはただひたすら、飛鳥の美のために筆を振るいました。
飛鳥時代の絵師たちに思いを馳せながら。
何人もの手によって壁画は完成します。
昭和43年。壁画が金堂に収められました。
仏像と壁画は一体となり、法隆寺金堂に壮大な仏教世界が蘇りました。
スタジオ
一流の画家たちがチームとして直して行ったわけですよね。
「名だたる先生も自分の気持ちを抑えて描いたっていうのが、すごく面白いなあと思ったんですけど。点描で描いたということは、それくらい完成形により近づいて行きたいって思いがあったんでしょうかね」
「前田青邨さんは鈴木空如さんの模写も参考にされたっていうことなんですね。それまでは空如さんはどんな絵描きさんだったかっていうのは全然知らなかったんですけども、その時に一躍脚光を浴びたっていうことにもなったんですね。模写する人は先人の模写っていうか、学ぶところは学ぶっていう形で写し伝えられたんだろうと思います」
使命感みたいなもんなんでしょうね。
「実は1949年。昭和24年。焼けたときの境内がそのまま保存されているんですね」
77年前のその彼の姿のままってことですね。
「実はお仕事の関係で見せていただいたんですが圧巻でした。その焼け焦げた柱もそのままなので入った途端にこげの香りさえまだあるんですよ。それが心がグッと痛むんですけどでも私はそれでも残っててよかったなって。確かに目の前に居てくれてるそういう感じがあったので、決して失った状態ではないっていうのは私は受け入れたいなーっていうふうに思うんですけど」
「多くの方に見ていただいて一つの文化財として後世に伝えていければと思ってます」
「保存されてそれを見る機会ってものが我々に与えられれば、その中から何か雑多なものを受け取って自分たちが保存っていうものに心から関われるようになるって思いますけど」
「私たちは実際に何もできないけど、見ることが守ることに繋がっているのかなって思うんですよね。文化財の保護ってたくさんの難関を乗り越えて、今に残されている宝だと思うので。見ると同時に会いに行く」
「多くの方に見てもらって、それで今の模写とか見ていただくと、思いが深くなるんだろうと思います」
今日どうもありがとうございました。