1930年代、東京の風景や人々を描いた画家 長谷川利行 。簡易宿泊所などに寝泊まりする生活。現場で猛烈な速さで描く絵。長谷川利行の独創的な絵の魅力を探る。1930年代、東京中を歩き回り、機関車庫やガスタンクなどの風景をはじめ、盛り場の踊り子やウエイトレスなど名もなき人々を描き続けた画家、長谷川利行。街角やカフェなどの現場で猛烈なスピードで描く利行の絵は、独創性に溢れていた。簡易宿泊所などに寝泊まりしながら、描いた絵を惜しげもなく宿代や、酒代として売った利行。長谷川利行の破天荒な暮らしぶりを浮かび上がらせ、その独創的な絵の秘密と魅力を探る。
【出演】美術評論家…原田光,星裕典,大衆演劇研究家…原健太郎,不忍画廊会長…荒井一章,福井龍太郎,伊東敏恵
放送:2017年3月12日
日曜美術館「今が いとおし~鬼才 長谷川利行(はせかわとしゆき)~」
昭和初期の東京を、誰にもまねできない独創的なスタイルで描き留めた画家がいます。長谷川利行。通称、利行と呼ばれました。利行は簡易宿泊所などに寝泊まりしながらひたすら街を歩き絵を描きました。
大東京を描く画家
大時計が取り付けられて評判になった上野駅の地下鉄ストア。
当時最先端のビルは、画家の荒々しい筆さばきで形もゆがんでいます。
利行の絵の多くはその現場で描かれました。
街角や酒場、劇場に中が利行のアトリエでした。
安来節を歌う芸人をかぶりつきに陣取り、歌を口ずさみながら描いた絵です。
その筆さばきは猛烈なスピードでした。
この喫茶店の女性の絵はわずか一時間でできあがりました。
利行は描いた絵を酒代や飯代などわずかなお金で惜しげもなく売りました。
これは宿代代わりに置いていった絵です。
「なんで早描きして、アトリエもない状態で描いて、こんなものができるのか。それ不思議だな」
利行はこんな短歌を残しています。
「人知れず くちも果つべき身一つの 今かいとほし 涙拭わず」
妻もなく子もなく、家もなく。
ただ絵を描く。今をいとおしむように生きた画家・長谷川利行。
絵と人生を見つめます。
昭和初期、東京は関東大震災からの復興に取り組んでいました。
国会議事堂を代表とする建物の建設。道路や橋などのインフラ整備。
近隣の町村を合併するとともに、地方から人々が流入し、大東京と呼ばれました。
長谷川利行が東京に住み着き、画家として活躍を始めたのはそんな時代です。
利行が絵のモチーフに選んだのは大東京を支える目新しい造形物でした。
隅田川沿いにガスタンクが並ぶ東京ガス千住事業所。
当時一般家庭にも急速に普及するようになったガス。
ガスタンクは円筒形でした。
利行は現場に赴き、道ばたにイーゼルを置き一気に描きました。
ガスタンクを真正面に見据えた光景です。
利行が描く姿を見ていた人物がいます。
親しい友人だった詩人で画家の矢野文夫です。
「利行はそれこそ台風のようなすさまじさで、チューブのまま絵の具をビュツビュツとなすりつけ、ナイフで削り、ウォッウオッと咆哮しながら描き続けた。赤朱緑の原色。爆発するような筆勢の激しさ。見ている私も圧倒された」
昭和初期。すでに環状運転を始めていた東京の山手線。
その駅の一つ田端駅付近の風景も利行のお気に入りでした。
構内には機関車の車庫がありました。たくさんの蒸気機関車が並ぶこの風景を履行は絵にしました。
赤茶けた地面と機関車庫。その前に塊うごめく真っ黒な機関車。
渥美清は戦後この絵を展覧会で見て魅了されました。
「仕事が思うようになかったあの頃。西日が差し込む田方の下宿の赤茶けた畳に寝転んで、あー金があったら。仕事にありつけたらと、鬱々としていた。ふとしたことで惹かれるように見た「田端機関車庫」という絵があった。このヒトが、この絵を描いたとき、田端は寒かったのか?お腹がすいていなかったのか?あの仕事がなかった田端の夕暮れを思い出すと、いしかそれは、長谷川利行の田端風景となって浮かんでくる。私に絵などわかる訳はない。ただいつまでも忘れられない絵がこの世にあるものだと思う」
画家・長谷川利行
明治24年。京都に生まれた長谷川利行。
もともと文学青年で20代は絵よりも短歌に打ち込み、歌集も出しています。
大正12年に起きた関東大震災。この頃上京していた利行は死者・行方不明者10万人を超えた大震災を経験します。
利行が本格的に絵を描き出すのはこの大震災の後からでした。
そのころ、こんな言葉を残しています。
「宣言をする。本当のことだけの仕事をしていのちの無駄遣いをやめる」
30代になり画家として活躍を始めた利行。
田端駅にほど近い民家の離れの物置小屋で暮らしました。
その様子を矢野文夫はこう回想しています。
「部屋の中一面に白いモノが散らばっている。それはデッサンの紙が部屋一面に雪のように散らばっていたわけである。利行はどこにいるかというと、部屋にテントを張って、その中で新聞紙にくるまって寝ていた。「どうして家の中にテントなんて張るんだ」といったら、どうしても雨が漏ってしょうがないのでといって、かすかに笑った。そこいら編に七輪があり、バケツがあり、そこで魚を焼いたり、米を炊いたり、自炊していたのです」
利行は昼間は下町一帯を歩き回りながら絵を描き、夜は酒場に入り浸りました。
特に好んだのが浅草にある「神谷バー」でした。
デンキブランを何杯もあおったといいます。
「アルコールは芸術である」
天井が高く太い梁が目立つ室内。
肩を寄せ合うように大勢の客たちが酒を飲んでいます。
この店で絵を描く利行の様子を友人の画家が回想しています。
「浅草のバーに、ガスタンクの横町に彼はガランス(茜色)を塗り、エメラルドを塗り、白を塗っていた。しかも、子供のように無心に喜びを持って。日暮れ、エメラルドやガランスに輝く絵をテーブルにのせて酒を注文する彼は実にうれしそうであった。絵を描くこと。酒を口にすることの刹那刹那が彼の人生であった」熊谷登久平
大東京の盛り場の新しい風景を次々に絵にしていった利行。
日本で本格的に走った地下鉄の光景も描きました。
浅草駅の構内。改札口付近の人だかりです。
和服姿の女性やはっぴを着た職人たち。都会にうごめく群衆の姿です。
刹那刹那に生きた利行の生活は次第に周囲を巻き込むようになります。
「私の家の玄関に座り込んで、絵を買わなければ金輪際動かなかった。根負けしてわずかばかりの小銭をつかませると最敬礼して引き下がるのだが、四五日すると絵に加筆したいからといって持ち出し売り飛ばすということをやった。その手口は誠に言語道断で、長谷川が来ると女房もなりを潜めて玄関に出ようとしなかった」
親友の矢野文夫の紹介で利行は岸田の肖像がを描きました。
「あるとき、『先生ほどの大家が私にくれる小金がないはずはない』と居直り、『それでは、そこの書棚の本を持って行き給え』と岸田氏が突っ放すと、『ああそうですか。ちょっと大風呂敷を貸してください』といい、利行は書棚の本を片っ端から大風呂敷に投げ込んで悠々と立ち去った」
歌人の前田夕暮は肖像画を押し売りされました。
「夜の十時頃、突然30号大の画布を担ぎ込んできて、私に肖像を描かせてくれというので私は少し驚いた。明日にしてくれと行ったが、是非今夜描くといって聞かない。書斎に上がってみると画布を壁に立てかけてじっと待っていた。そして籐椅子に腰を下ろした私の顔をしばらく凝視していた彼は、たちまち嵐のように画布に絵の具をなすり始めた。
私はこのとき、彼のすさまじい原動力を持った縦横無碍の霊ある手を見た。彼の手はただ凶暴に暴れ回り狂い回った。そして約1時間半で描き上げてしまった。それから私は全く彼を不気味なる天才と呼ぶようになった」
酒癖が悪かった利行はその素行がマイナスに評価される画家です。
しかし、利行はいつもデッサンに励み西洋の巨匠たちから学んでいたと、収集家の星裕典さんは考えています。
「図書館に通い詰めていたわけです。ダリだとかミロだとかピカソ、ブラックなどを勉強しています。技法的なものを学んでいるのではなく、むしろ精神的なもの、絵画とは何かをつかんでいったと思うのです」
後輩の画家・靉光像。利行は靉光の古いキャンバスとパレットを使ってわずか30分で描いたといいます。
画家デビューしたばかりの若者の希望と不安とを併せ持つ表情が描き出されています。
利行は絵を売って酒代や宿代を稼ぐ生活を続けました。
「酒場ではよくゴールデンバットの空き箱やボール紙に絵を描いては客に売って飲んでいたそうだ。案外義理堅いところがあって人になんかさせると必ず絵をくれたものだ。これから絵を売りに行くのだが、そこまで行く電車賃がないから貸してくれという。貸してやると、ではこれを取ってくれとほかの絵を差し出すのだった」熊谷守一
利行はわずかな金で自らの絵を惜しみなく人に与えました。
「彼は自分の絵を十銭でも二十銭でも夜店のバナナのようにたたき売った。書き捨てた作品はすでに彼にとって何らの魅惑でもなかった。彼はまた新たな創造の中にまっしぐらに全霊を打ち込んでいけばよかったのだ」矢野文夫
利行の再評価
様々な人の手に渡った利行の絵。
近年になって様々な場所から発見されています。
福井隆太郎さんの家には利行のものと見られる絵が物置小屋に放置されていました。
父親の代に家は間貸しをしていて、一時部屋を借りた利行が宿代として絵をおいていったと聞いていました。
その絵がカフェ・パウリスタです。
福井さんはテレビの鑑定番組にこれを出し、本物の利行作品と認定されました。
現在は美術館に収められています。
「で払ってくれないのであの出てってもらった訳ですね。そして清算の時にですね、代わりにお金の代わりにその絵を置いていったわけです。そういう風に親に聞きました。野辺の絵描きさんというほどしか親から聞いてなかったのって聞いたら良かったと思うんですけど、いまさらだから」
美術展や画廊が集まる日本橋。
利行の展覧会を開いたことのある荒井さん。
数十年来行方が分からず幻の作品と言われた絵を関西のある家で見つけました。
「利行と称する絵が親の代からずっと今にかかりっぱなしになってるんだと。それでそれを見てくれませんかと
そういうあの知らせがあってね。でもま見た瞬間、もうこっちももうすっかりもうえー熱気が上がってねま、これはもう何もかもとにかくまっすぐ買いたいという欲しいという一心でね、それ以来ずっと持ち続けているんですけどね。見れば見るほど素晴らしいだなと思ってね」
隅田川のところに作られた
東京市の水泳場関東大震災の復興事業の一つでした
泳いだり飛び込んだり
大勢の人々のやっぱり僕はこれはあの庶民の喜びをね
歌い上げたと思うんですよね
もう生き生きとしたね
生命の生命賛歌っていうんですか
そういうものがこの中にあると思いますね
でもやっぱりこういう庶民の気持ちっていうのは
いつの時代でも同じでえーそれを掬い取って美しく書いてくれた
震災後に急成長した信仰の繁華街新宿施設が次々に開業し
西へ西へと膨張する東京の中心地でした
以降は昭和十二年頃新宿の木賃宿に住み着きます
そして新宿の街と人々を書きました
新宿の大通りの風景です
ビルが立ち並び
電柱や看板などが目に付く通り
黒く小さな人々の群れが蠢いています
履行
が新宿に来たのは一人の人物との出会いからでした
新宿に画廊を開いた天城俊彦リコーの才能を見込んで絵を描かせ
次々に個展を開きました
近くの喫茶店のあの彼の店員だった女性天城は
こう思い出を綴っています
のあのあの少女は午前中はタイプを習いに学校へ行き
午後は働いてローブを養っていた
ある日朝から店に出てきて彼のモデルとなった
彼は疲れた人のように鋭く深くモデルを凝視しつつ
絵筆を握った区では対象を掴んで走る
筆を捨てるといきなり絵の具を指につけて擦る
チューブが筆の代わりに赤黄ブラックの原色を褒めさせた
では一時間にしてなったこの頃
履行は天城の庇護もあって精力的に書きます
風景を一生物やぬとなど多彩な絵を手がけました
青い布と黄色い背景
その間に女性が気持ちよさそうに横たわっています
これは伊豆大島の風景幾筋もの波の線
そしてその上に一本だけひかれた山野線
生き生きとした簡素な線だけで風景が鮮やかに浮かび上がります
ますますなんかこう描くってことが身体運動みたいな筆じゃなくて
身体であのいつも赤くみたいなんで経験と技術を最後になって
えー瞬間的に開放してるっていうかねうん
とてもきわどくって未完成だったり駄目じゃないかこれでは
えーにならないんじゃないかっていうその義理のよう
にも見えながら
本当に大胆に何でっていうと今を生きるっていうことなんですかね
今しかないみたいな何かあると思うんですね
それがうん新宿の画廊はやがて閉鎖され
リコーはまた
隅田川に程近い簡易宿泊所に寝泊まりするようになります
朝八時には宿を追い立てられる
小さな絵の具箱を抱えて即興的に射精し制作し巷を方向し
その日の糧を得るために友人知人を訪ねる
そうした日にちを死ぬまで履行を続けたリコーが
矢野文雄とともに頻繁に訪れたのがこの荒川付近でした
これは利口が数多く手がけたガラスに居を描くガラス片
荒川にいくつもの船が浮かび
白と青の水面に鮮やかな赤が添えられています
この辺りには
昭和三十年代まで火力発電所の四本の煙突がそびえていました
見る場所によって一本になったり二本になったり
三本四本にも見える
あのお化け煙突荒川と荒川放水路の作る三角州の中にそびえている
理子と私はよくこの堤防に散歩に来た
リコーは冬でも荒涼としたこの放水路の堤防のあたりをさまよって
写生をした
お化け煙突はリコーの好みのモチーフでした
荒川の向こうに遠く四本の煙突が見えます
手前には煙突に呼応するかのように電柱が立っています
夕暮れ
なのでしょうか空も川もほんのり赤く
染まっています
リコーは荒川の歯を残しています
引き潮の荒川の流れを見つめている
寂しいボークイン
白い泥は乾き上がって健康を損ない会える岩井田一切この頃
リコーの岩が癌に侵されていました
昭和十日中戦争が始まりました
戦争は泥沼化人々の暮らしは厳しさを増します
簡易宿泊所に泊まりながら
毎日歩いて絵を書いていたり後しかし医の元は容赦なくりこを蝕み
昭和十五年ついに路上で倒れます
以降が生涯付き合い続けた
親友の矢野文雄の肖像激しく吹きすさぶような筆のタッチです
病に倒れたり後は矢野にはがきを出しました
至急来てくれないと死亡する動けないのですが
何か甘い菓子ひとりください
死別として
以降が入院した
東京板橋の養育院なのは
お土産を持って見舞いに訪れました
側は擦り切れた白衣を着て寝ていたが
ムックと起き上がった庭に出ようと
長谷川はいいよろよろ立ち上がった葉桜が強い風に吹かれていた
白衣から三四寸露出した脛が火のように細くなった
花畑には白いマーガレットの花が一面に咲いていた
その鼻の中にしゃがめを一枚太郎一枚写すと彼は突然大声を発した
くそ死んでやるか
穴の中に仰向けにひっくり返った白目を向いて
えぐるように私をするどく凝視したよろよろと
彼は起き上がろうとした体に全く力がなかった
幾度も無駄な努力をしてそのたびに鼻の中
に転んだリコーはこの養育院でひっそりとなくなりました
四十九歳でした
あらゆる虚飾をかなぐり捨てたもの赤裸々なもの
つまり人間の本質的なものに直に触れえるんですね
理子と付き合っていると
だから彼の絵を見ていると
こっちまで素っ裸にされ
ちゃうような爽快感を味わわされるでしょう
彼には過去もない未来もない
ただ今を生きた今書きたいから書いたリコーの芸術って
そんなものですよ
世の中の役になんかたちはしないんだそう美しいのだと思いますね