日曜美術館「カワイイの向こう側 デザイナー・ 上野リチ 」

日曜美術館「カワイイの向こう側 デザイナー・ 上野リチ 」

カラフルな色彩と自由な線で描かれた鳥、花、樹木。ウィーン出身のデザイナー・ 上野リチ は、日本人と結婚して来日。二つの国を行き来しながら、テキスタイルや身の回りの小物など、数々の「カワイイ」を生み出した。さらに、建築家である夫と手を組み、斬新な住宅や店舗を手がけながら、社会をもデザインし直そうと試みたリチ。カワイイの向こう側に夢見た“世界”とは。

初回放送日: 2021年12月19日

 

日曜美術館「カワイイの向こう側 デザイナー・上野リチ」

 

元気いっぱいのカラフルな建物
街の賑わいが伝わってくるようなはい
こちらはエレガントはいくるくると伸びるツルハ軽やかです
うん実はこれらおよそ百三十年前に生まれた作家の手によるものなんです
うんデザイナー上野リチウィーン生まれ
日本人と結婚し京都を拠点に活躍しました
今っぽいというか昔のものを見てる感じじゃない
感覚になりました
とてもカラフルな感じでファンタジーみたいなかわいかったです
すごくあのうきうきするというかあのー叶うことなら
どこかにおうちにかけたいなぐらいの感じで

かわいいデザイン
そこにリチが壮大な夢を託していたことが近年発見された資料から明らかになっています
やはり埋もれさせてはいけない
単にかわいいだけではない
やはり心を打つところが
ま彼女のデザインがあるんだ
という風に思って
はいデザインには何ができるのか
今日はリチがかわいいの向こう側に見た夢をご一緒に

リチがその生涯の半分以上を過ごした街
今日今ここでリチ的の作品が一堂に会する展覧会が開かれています

秋の京都にやってきました
タレントのりりこさん出身はスウェーデン立地と同じくヨーロッパで生まれ日本で活躍しています
わかわいい
これデザインしてるんですよね
これも立地のデザインみたいな
喋ったタイムみたいな感じで
ここでみんな取りませんか絶対取りたいです
もう何が始まるんだろうっていう
こういう日曜日ですか
今までにない形でしたね
ふふふはいいろんな写真がね
これはいやもうこの
一枚の写真を見ただけで
ちょっと分かっちゃいますよね
もう裕福でしたよね
でこの時代でこんな洋服もそうなんですけれども
アクセサリまでもつけられる
しかも写真が撮れるっていうのもね
まだまだ早い時代ですからね
可愛いチャーミングな子ですね
千八百九十三年
芸術の都ウィンに世話を受けた
梨地元の名はフェリつエリックス
両親はユダヤ系
礼装用の小物を扱う店を経営する
裕福な家に生まれました
毎日馬車で一流レストランに
朝ご飯を食べに通っていた
というエピソードもあるほど
千九百十四年第一次世界大戦の発達
経済封鎖により食料事情は私
街には近隣から多くの移民が集まります
そんな中理知的には憧れの存在がありました
はいうん二十世紀の
新たな美学の想像を掲げたデザイン集団
ウィーン工房へえ
そのポリシーは過去の名品の模倣ではなく
オリジナルの追求
小物から壁紙や食器まで
生活のあらゆるものをデザインし
製作販売していました
うん率いていたのは
ウィーン分離派の建築家ヨーゼフホフマン
ホフマンは地元の名門工芸学校と連携して
若者の育成に力を注ぎました
既存の価値観を疑い
新たな美の基準を作り出そう
としたのです
はい十九歳で
憧れの工芸学校に入学した梨地
ホフマンのもとで
デザイナーとしての第一歩を歩み始めます
うん今見てるのがま理知がテキスタイル
デザイナとしてもう確立する前の段階
まだ若い頃の作品
なんかこう指し色みたいな感じで
パープルを入れるっていいですよね
理知がテキスタイルをデザイン
工房の仲間が仕立てたドレスです
変化に富んだ幅のストライプ
鮮やかな紫をしろと
色調の微妙に異なるぐれが引き立てます
うんうんタイトルがダボスダボス
会議のちょっとこうなぜ
ダボスっていうタイトルなのかは
ちょっとそういうダボスアルプスの山とか
そういったところからイメージして
こういう配色とかになってるのかな
とは思いますけれど
この同じ時代に様々にデザインをした映画
こちら側にあるということなん
ですけどあのー実はこれ
千九百十四年
十五年ぐらいのポートフォリオなんですね
こちらは政府主催のファッション店で
攻防が販売した株立地は
まだ工芸学校の学生ながらも
デザイナーとして抜擢されました
この中に二点どれでしょう
小野さんどれだと思います
えーとねこれとこれあ違う残念これじゃない
本当によくお若いですねこれですよね
でどうして分かったんですか理子さん
ちょっと豪華なんか
やはりなんかお金が終わりだったんじゃないか
なっていう
これになるともう一個これになっちゃうそうですね
はいりりこさん
ご名答本当にこれとこれなんですけど
本当にすごいいやすごい
これが一個だったら絶対これですよあそうと
ちょっと似てますよね
あのー理恵子さんが見事に宛てた
梨地作品ですが
他の方と比べて特徴って他の方たち
本当ファッションポトレとっていうと
こう一人の女性がこう
服を着てっていう構図のものが
やっぱり多いんですね
こういう一人の女性とを書くっていうスタンスと
ちょっとやっぱ違って確かにやっぱ
その画面全体がデザインされてる
っていう感じがすごくします
工芸学校を卒業すると
理知は晴れて
工房の正式メンバーとなります
テキスタイルのためのデザインが
夏の風うんそよぐ風に
うつむき加減に花を開いているのは
朝顔でしょうか
くるくるとどこに伸びていくのかわからない
鶴の奔放さが
自由な線で表わされています
僕はちょっとこれって何なのかな
っていうのは興味がありますけど
一体何なんでしょうね
このタイトルが稲光稲光を想像しますよね
あの多分これだけだったら
稲光って言われてもおかしくないんですけど
中にこう色々書かれているのが同意
ナビだと関係があるのかこれも空
の下であのーおこの形だって
まあ多分普通白に見えると思うんですけれど
てくるけどその中の
色んなことを感じたんですよ
これは抽象的に
彼女の一つのファンタジーなんじゃないかな
と思います現実一人じゃなくて
そっかってことですよね
本当本当本当うんファンタジア触れる
独自の世界で
工房の中で確固たる地位を築くようになった
梨地三十一歳の時運命の出会いが訪れます
うんそれは工房の関係者が集まる
とあるパーティでのことでした
建築家上野伊三郎ドイツ留学を経て
ホフマンの建築事務所で働いていました
はいそのときパーティで起こった
ちょっと変わった事件
その様子を人を知る人物が
今回手紙に書いて教えてくれました
とあるウィーン工房関係のパーティ
上野先生が糊を持っていったら
糊を知らない人々は皆
ペッペッと吐き出してしまいました
うんそれを見た立地先生は
大変悪いことだとお怒りになりました
そのことを聞いたうえの先生は
翌朝花束を持って
立地先生に会いに行かれました
二人は翌年結婚
そして千九百二十六年伊三郎の故郷
京都に移り住みます
ウィンと京都をまたにかけ
理知の新たなステージが
幕を開けようとしていました
この右手にですね
非常に素敵なものが
たくさんある方な色がきれいうわなんか
西洋せられるよ
真ん中に綺麗な子なんでしょうか
これ一応タイトルがクレムリンまして
あのーこれワイン工房時代の理知のテキスタイルで
プリントでですね作られたあの布地になります
であの当時読みん工房
は結構こう世界の有名な都市を
タイトルに持ってる
布地がたくさん作られていまして
まそれがこの一つで可愛いスカーフにしたい
そうでしょうねなんかねうん
そういうものとして使われてたんですか
多分この細かい文様のものって
おそらく副次であったり
スタッフであったりっていうので
大きい柄になるとか点とか
壁紙とかにも使われますよ
これでも壁紙になったら
すごいにぎやかな部屋って感じがそうですね
ちょっと落ち着いていられるかどうかですね
そういうものなんですよ
ヨーロッパって壁紙をすごく派手にして
その前にちょっと箪笥を置いたりとか
だから一部が隠れる
ことでその一番いいところが出て
そのはっぴを心の中に
あのープレゼントしてくれるんですよ
壁紙が見てたらちょっとハッピーな気持ちなので
そうやっぱりね
あのーヨーロッパとかって
やっぱ冬が長かったりとかする国が多いので
冬をどういうふうに過ごそう
という家の中をおうちの中
をきれいにするっていうのが
ヨーロッパの方の
あの永遠のテーマなんですよ
あっちに壁紙もあるようなネットの壁紙たち
ちょっと特にこちらですね
こちら非常に見覚えがあります
はい多分知り合いの家にあったのか
こういう壁ありました
あのこの壁紙千九百二十八年に
あの理知的がデザインして作られた
壁紙なんですけれども
まあ当時非常に人気があったものだった
とは思います
小さなうち場のように
可愛らしく描かれた
花びらや豊かな実りを
祝福するかのよ

まこういうデザインってあのいい仕事っていうかなんて
重要な仕事をされてきた方はまこの辺
全部ウィーン工房のあのー
一員としての彼女の仕事なんですけれども
テキスタイルデザインだ
百三十種類ぐらい製品化されていますので
やはりそれだけ人気があったという
こちらは先程の色違いはい白地に黄色にピンク
鶴が青くてなんとも幻想的
夏の平原はい
黄金色に実った麦畑を闊歩する小鳥たち
なんだかちょっとご満悦
これこれすごくきれい
彼女のテキスタイルって
同僚にすごく人気があって
あの同僚たちが
彼女のテキスタイルを使った服を
たくさんデザインしています
これは男性のあのデザイナーが
デザインしたテキストを使ってそうですそうです
これは女性のシガレットかっこいい
その総のとこを引き抜いて
いただけるそこちょっと引き出しになって
たばこたばことか千とかそこそこのお家で
それはあの尻尾の蓋のところが
七宝作品になってます
あのーこういうのをインコものって
当時読んでたそうなんですけれど
これちょっと可愛らしい小さな部屋で
使うようなものを
たくさんデザインして売ってた
この頃人気デザイナー理知の元には
様々な仕事が舞い込むように
なっていました
祖国を遠く離れた日本で率には
人とともに成し遂げたい
と願う夢がありました
伊三郎が中心となって立ち上げた
日本インタナショナル
建築家ヴァルターグロピウスやブルーノタウトも
名を連ねました
目指したのは神聖なるローカリティ
日本固有の風土を
インターナショナルな合理的な手法を用いて
解決することを目指しました
その射程は建築を超える
人間の生活に関する全てとされました
絵画や彫刻などのファインアートファッション
そして食事に至るまで
生活に関するあらゆることをデザインし直すことで
世界を変えようとしたのです
伊三郎はその理念を
妻梨地とともに形にしようとしました
建物を伊三郎が設計し
壁紙など内装を理知的が手軽二人三脚で
次々と斬新な空間を生み出していきます
兵庫県西宮市に作られた個人の家
モダニズム建築特有の大きな開口部に
西洋風の調度品
銀色に輝く壁は
一流に解釈した床の間でしょ
こちらの住宅ソファの横に置かれているのは
なんと洋服うん
この時期理知派ウィンで培った経験を
日本特有の形式や
素材に応用しようとしていました
梨地おなじみの鳥や植物が金屏風に
そして二人の名を世界に知らしめたのが
京都の場外観はシンプルですが
天井に理知の描いた動植物が
ランボする店内は華やか
銀の天井に光が反射し
中央には盆栽が鎮座する空間
日本の風土を
最先端の手法や技術で切り取って見せた人は
ニュヨク近代美術館の展覧世界に出店
世界に潜って出ました
ヒトラー率いるナチスドイツが台頭すると
状況は一変します
ユダヤ系であったり
血の一族は亡命帰る
家を失ったり
父ウィンと行き来しながら
作品を生み出すことはできなくなりました
理知と伊三郎が身を寄せたのは
群馬県高崎でした
地元の素材や技術を使って
新たな製品を生み出す工芸所の所長として
伊三郎が招かれたのです
そこにはあのブルーノタウトもいました
喜三郎とは日本インタナショナル
建築界での動詞ここで
再びデザインの力で
世界を変えようと誓い合います
ヨーロッパのアフタヌーンティには欠かせないサンドイッチ
そのトレーを
理知的は地元に有り余る丈夫を使って
デザインしました
粗く編まれた竹編み方に変化を付け
軽やかな印象を与えています
トレーには長さ二十八
センチにもなる
竹のフォークが付けられています
ありがとうございます
はい何に使ったでしょうか
さらにはこんなものもこけしです
はい理知の軽やかでユーモラスな作品は
東京や軽井沢のアンテナショップで
よく売れたといいます
はいしかし理知の生み出すデザインは
タウトの目指す方向
性とは相いれませんでした
ブルーノタウトとエリカさんが中心にこう
座っている写真でま本来
この人が主役の写真だと思うんですけれども
なぜかこの間に終わって
真ん中にいるのがいちななんです
でまご主人の伊三郎さん
右端の方がおられるんですけれども
あのま私がデザイナよっていうような
ちょっと
いいよを感じる
ブルの他とは
あまり地のデザインはあんまり認めなかったのは
やはりいわゆるモダニズムと言われるあのー
ファンクショナルで
シンプルで機能を優先したような
彼から見れば
そのワイン工房のその装飾的なあり方
っていうのはちょっと時代遅れである
ということであまりこうま
評価してないっていうか
いいっていう感じではないなかった
という風に伝わっている
その中でやっぱり真ん中に来ちゃうっていう
余計意味ありますね
さらにうんでもね
もちろん分かってはいたんですよね
そのあんまりよく言われて
思われてないっていうのが
だからどこかに月がうん
入ってたんじゃないかなと思いますね
結局三年で工芸上を去ることになった
梨地と伊三郎デザインの力で
世界を変えようとしてきた人の夢は
ここでつ言えるのでしょうか
理知は再び京都に戻りました
千九百三十五年に
あの立地が京都市染色試験場という
新しい技術開発であったり
試作品を作っていくような
知見上がだったんですけれども
そちらの食卓技術
嘱託ということで採用されましてま
色んなデザインを行っていたんですね
そうそうこのデザインなんですが
京都市染織
試験場の当時の一つのミッションというか
そういったものの中に
輸出先食品のデザイン
改革っていうのがあったんですね
でその中でも特に戦争が激しくなっ
売り先がなかなか難しい
贅沢の禁止令なんかも出ますので
その中でやはり占領地域南方の国こくとか
まあそういったところへの
輸出品のデザインっていうものの
研究っていうのを
この試験場でやっていてですね
でそのデザインの左下に
ちょっとスタンプがあると思うんですけれども
そこのところに南方行き
っていう風に書いてあるんですが
これは南方向けに彼女がデザインしたなので
これはちょっとま直接的にどうぞ
となんかだからぞっていうデザインうん
こういうの全部そうですよね
だから動物ですよ
アフリカって書いてありますね
西陣の織物協会が設立したこの職場には
着倒れの町京都が誇る職人たちが
所属していました
理知はこの職人達と
新たなデザインに取り組みます
うんこちらは
友禅染めの職人と生み出したもの
イチゴさくらんぼ武道
きっと見たこともない
着物が出来上がったことでしょう
この頃職人たちの現場に
頻繁に足を運んでいたという
理知的右に書かれた番号は
色の指定なのだとか
十七色もの
意図を複雑に組み合わせるデザインということ
理知派織や染めの技術を学ぶことで
新しい発想を生み出そうとしていました
はいこれもすごく面白いですよね
先だけでそれあのー擦りのデザインなんですね
なので擦り寄りなので
ちょっと涙腺がそういうことなんですよね
線だけでこんなに綺麗に鳥を描くことも
あるかなって思うぐらいそうですよね
何かいいかなと思ってね
これに騙されましたね
多分これを取りスタイルにするんですよね
かさにだから一部しかデザインしないけど
それを大きく作り変える訳ですよね
繰り返していく
だからこの子の足が
床にそうなっちゃうんですようん
そうこれは繰り返しのデザインこうする
とうん小野さんわかりましたか
なるほど一回飲みに行こうかな
なるほどなと思って確かにね
確かに確かに
自由が失われた
日にちの中で描かれた鳥
あの心の状態は
もしかしたらあんまり良くない国に帰りたいけど
帰れないねもやもやがいっぱい詰まっている
ただどこかやっぱり仕事を感じる
でも日本からインスパイアされたものを
何とかしてハッピーで返したい
心の中の状態が良くなくても
やっぱりそれをね
ストレートに見せるのは海外
にお邪魔してる味としては
見せたくないんですよ
私も今やっぱりスウェーデン人として
日本にお邪魔してるんですね
彼女はウィンから日本にお邪魔しててで
色んなことを
もちろん幸せな結婚はしてるんだけれども
いろんなものにインスパイアされて
いろんなものを書くんだけれども
そのやっぱり自分の国
自分のふるさとってとっても大事
本当に帰りたいんだけれども
だからといって私帰りたいです
っていう顔を見せません
親も心配兄弟も心配
家族みんなスウェーデンでもあのーですよ
日本にいたくないですよって
絶対言わないですもんね
何とかして自分の状態を一番よくさせて
おいて自分をあの挙げて
あのものを表現しよ
うっていうふうに常に考えてるんですね
それはやはりたくさんの仕事を与えてくださってる
この国に対する感謝でもありますし
何か仕事をしたいです
必死で仕事をする人って
多分もうあの心の中がもう男に振られて
ズタズタになってても
なんかはっぴな絵が書けるんですよ時代
時代に合わせて
ものづくりはちょっとずつ違うんですけれども
色合いもちょっとずつ違うんですけれども
常にみんなに提供しているものが
なんか幸せっていう風に感じられるものだから
そこだと思うんだけど
仕事がとても好きな方だと思う
感じますねうん
戦後理知は新たな活躍の場を見つけます
うん美術大学で
デザインの教育に
携わることになったのです
はい千九百五十年
伊三郎は京都市立美術大学の教授に就任
翌年理知も講師として採用されます
五十七歳新たな人生のスタートでした
来日して二十五年経っていても
日本語は苦手だったという理知は
その日の課題を出すと
あまりしゃべりません
その印象は学生たちにとって強烈でした
日本語は喋られないドイツ語一本ですから
あそうなんで初めて
その実践性を受けたときは本当にね
なんかちょっと本当に近付き方は何かなんか
どっかで見たことのある模倣をしたような
作品を提出した
学生にはあなたにデザイナやめなさい言って
すっごい大きい声で言われるの
実践性と日本語喋れるんやっていうね
思いもあって
それでその学生がいい作品を作った時は
それこそまたあのジャグっていうその言葉が出て
いやそれこそね興奮されたらもう金切り声だ
九割ぐらいでも体の表情もね
顔も兵として凄かったですよ
大学では六十七歳で教授に昇進
その二年後のことでした
理知的に大きな仕事が舞い込みます
はい東京有楽町に
日本を代表する劇場を立てようというプロジェクト
ああ設計は後に迎賓館を手掛ける
村の頭部村野は
劇場の内部全てをうねるような局面で構成する
という野心的なプランを立てていました
そこに併設されるレストランの壁面装飾を
理知的に依頼したのです
その壁と天井も局面で繋がっていました
理知はその全てを境目なしに
カラフルな植物で覆うデザイン案を立てます

驚くことに理知は
壁に絵を描く
実際の作業を教え子たちに任せました
自分は時々覗くだけ
しかもほとんど口を出しません
現場を任された一人芸術家
木村秀樹さんです
ものすごい感激しましたね
エンドレスの世界なんで
今まで考えられなかったからね
その天井からずっと続いてる世界なんてね
なんかかっこいいなドームで買いましたけど
なんかやっぱりなんと何でも家なんか世界やな
という風に思ってましたねうん
一年後学生たちは
壁と天井が
一体化した空間を作り上げます
その出来栄えは
依頼した村の道具を
満足させるものでした
うんしかし理知は
それを確認するために
現場に来ることさえなかったと言います
あなたはもっとフライな気持ちでね
作品を作りなさい
ドイツ語でフライと言えば自由なという意味です
降りてそれで自由な気持ちを持って
下手でもいいから
自分の創作を
ということを言われたんです
もっと楽しく自由に自然にというそれ
先生の根幹ですから
素直に自分が自分がで
いや書けるものを書こう
本当になんか子供になったような
いつも子どもになったなんか無心っていうのか
そういうところになんか導いてくれるというか
今はもう取り壊されて
なくなってしまったレストラン
しかしその壁紙は丁寧に剥がされ
理知が教鞭をとった
大学でいまも大切に保管されています

最後ですね
こちらに大きな理知の
晩年の写真があるんですよ
お疲れさまこれ結構大きな写真大きいですね
これは何歳ぐらいの時の恐らく
六十代半ばぐらいの写真です
でもあの先生もされてたじゃないですか
とにかく怖かったんだけど
生徒たちはそれを聞いてま付いていった
っていうかなかった
人がいたと思うんですけど
やっぱりやっぱり愛
は感じたと思うんですよね
多分そこはきつく
言うっていうことは
愛があると思うんですよね
その向こう側にだって愛の反対って無関心なので
なんとも思わなくなったら
もう何ももうふってなっちゃうから
それをこう違う
よっていうことを言うっていうことは
その生徒さんがもうちょっと
自分の頭で考えて
じゃあどうしたらもっと良くなるのか
っていうチャンスを与えてあげてると
思うんですよ
まあ彼女が決してまあ許さなかったのは
やはり人のものであったり
他人のものだって昔のものであったり
とにかくどんなにうまくできてても
真似をしているものは絶対に許さ
なかったどんなに下手でもいいから
自分らしいものがを作ってほしいっていうま
そういう叱咤激励的なところはあったと思うので
あのーまあ和は
学生さんたちに伝わっていたんだけど
と思います
ずっと書き続けてた
手を動かし続けていたっていう
お話ありましたけど
例えば大野さんがものを生み出す
あのま翻訳も含めて
小説も含めてそのものを書き続けないと
生きていけないような感じっていうのは
なんか共感するところがありましたけど
楽しいからじゃないかと思うんですよ
ね手を動かしてやることが楽しいからだから
本当今日のりりこさんがおっしゃったことは
とても大切なことをずっとおっしゃってて
やっぱり気になると
つまり自分も自分がやっぱりはっぴであるから
その周りにはっぴを分け与えることができる
っていうことになると思うので
やっぱりこう手
を動かし続けることによって
自分のはっぴっていうのを確かめて
出したんじゃないかな
っていう気がしますねはい
でもなんか最後なんかちょっと日本人ぽくなってる
っていうかあのー
最初の子子供の頃は
やっぱり外国人の女の子の写真なんだな
っていう風に思いますけど
最後はもうなんかずっと長く日本にいたおばちゃん
みたいな感じになってますよね
道おばちゃんになってますねうん
いやでも本当にご本人の言葉が残っていない
けれど今日一緒に買ってきたら
何か上野リチ像が
こうふわって立ち上がってきて面白かった
結局彼女が残したものと
そのテキスタイルの中でのデザイン
そこに全部やっぱり
彼女がうんいるんですよね
だから言葉がなくても
そこは心で感じるものでしょうね
やっぱ芸術家は作品で自分が残すっていうことですよね
教壇に立つかたわらリチは作品を作り続けることをやめませんでした
年を重ねてもそのかわいいは衰えるどころか輝きを増すばかりです

生前理知派制作途中の姿を夫にさえ見せなかったと言います
亡くなる三年ほど前に撮られた写真
そこには無心でペンを握る理知の姿が写っています