日曜美術館 「失われたときを求めて〜 沖縄 本土復帰50年」

本土復帰50年を迎える沖縄。近年、戦争で失われた文化財を復元する取り組みが行われている。県民の四人に一人が犠牲となった沖縄戦では、貴重な文化財とともに、その技の担い手までもが失われてしまった。かろうじて残された仏像の破片や戦前に撮影された白黒写真などを手がかりに、かつての技術を取り戻す作業は、“失われた記憶”を取り戻す営みでもあった。文化を蘇らせ、後世に伝えようという取り組みを見つめる。

放送:2022年5月15日

日曜美術館

今日は沖縄にとって節目となる日です。50年前の5月15日、沖縄は日本本土に復帰しました
東京国立博物館では復帰五十年を記念し特別展「琉球」が開かれています。

かつて日本や中国と交易を繰り広げ華やかな文化を誇った琉球王国。その時代の工芸品・宝物など様々な文化財が一堂に会しました。

専門家の手によってよみがえった琉球の美。トーハクで3月13日まで展示 - Sfumart


こうした文化財の多くは、明治初めに東京に移住した琉球王家の宝物などです。その一方で、失われた文化財もあります。77年前の沖縄戦で、建造物や宝物など多くの貴重な品々が消失しました。沖縄では、戦争で失われた文化財を復元しようという取り組みが進められてきました。爆風で吹き飛ばされたものの、かろうじて残った仏像の破片や、戦前に撮影された白黒写真を頼りに、沖縄県内外の100人を超える美術家、工芸家、そして研究者たちが復元に挑みました。それは、かつての匠たちの技と思いに触れる作業でした。

「わかるまで、ずっとわからないかもしれないけどこうやるっていうのかな。それ少しずつでもいいから進めていく研究していくまたそこそれを踏まえてまた自分たちの新しい技にもつながっていくだろうし」

失われた琉球王国の文化。今に蘇らせ後世に伝えようという取り組みを見つめます

「失われたときを求めて〜 沖縄 本土復帰50年」

東京国立博物館で開かれている特別展「琉球」。かつて琉球国宝や重要文化財が集まる館内の一角に、「未来へ」と題されたコーナーがあります。ここには、戦争で失われた文化財を現代の人々が蘇らせた作品が展示されています。展示品は、染色を中心に三線、陶芸、そして漆芸など、八つの分野で65件に上ります。

77年前の沖縄戦では、激しい地上戦の中で12万人の県民が命を落としました。その中には、琉球文化の担い手も多く含まれていました。当時の写真には、銃を手に持つアメリカ兵の横に、琉球王国時代の石彫が横たわっている様子が映っています。戦火を生き抜いた博物館の人々は、焼け跡に散らばった文化財の破片を拾い集めました。これらの破片は「戦災文化財」と呼ばれ、長い間大切に保管されてきました。

この戦災文化財をもとに、琉球文化の復元プロジェクトを立ち上げた中心人物が園原謙さんです。

「この欠片をどのような思いで先輩方博物館の本当に戦後間もない頃、かけらを収集してきた方々はどのような思いでそれを収集をしてそこに残していったのか。それがコレクションとして我々を引き継いでいるわけですね。博物館人の心意気と言いますかそれをこの欠片をどのように
次の世代にバトンタッチしようかという意味っていうのが託されたような気がするんですね。」

園原さんのもと、7年前に発足した復元プロジェクトには、沖縄県内外からおよそ100人の美術家、工芸家、そして研究者が参加しました。プロジェクトで復元することになった文化財の一つが鬼瓦です。

この鬼瓦は琉球王国時代に作られたもので、角と顎の下が大きく欠けています。特徴的なのはその立体的な形状で、奈良や京都の鬼瓦とは全く異なっています。

鬼瓦の復元に取り組んできたのは、沖縄本島北部の大宜味村に暮らす夫婦、陶芸家の玉城望さんと若子さんです。彼らは30年以上にわたり、日常で使われる陶器やシーサーを作り続けてきました。途絶えてしまった先人たちの技を継承したいと考え、先輩の陶芸家と共にこのプロジェクトに参加しました。

「分かりたい分かりたいってことかな。沖縄の焼き物文化の中に自分たちのルーツのようなものがあるような。だからこう焼き物を通じて沖縄を知りたいと思ってるし、それをすることによって自分たちのなんなんだっていう気持ちもちょっとあるんですよね。」

もともと鬼瓦があったのは、琉球国王の菩提寺である円覚寺でした。首里城の横に位置していましたが、沖縄戦の爆撃でその原型は失われてしまいました。鬼瓦は魔除けの役割を果たし、18世紀から19世紀の間に作られたとされています。鬼瓦は遠隔地の屋根に取り付けられていました。

復元に取り組む玉城さんたちは、まず土の選定で難題に直面しました。遠隔地の鬼瓦に使われていた土は、沖縄特有の「ジャーガル粘土」と呼ばれるものでしたが、現在では上質なものを採取することができません。

「固まっちゃってるんで、これはあのこういうもん土をこれからあの砕いてクチャですね。」

二人は沖縄中を回り新たな土を探し求めました

「いくつかあの単身でまずテストして、それをまたブレンドして比率を変えていったりとかして
今は取れないから「島尻マージ」「国頭マージ」「ジャーガル」をブレンド比率を変えて」

鬼瓦作りは試行錯誤の連続でした。大切にしたのは琉球特有の鬼瓦の質感を出すこと。特に頬や目の周りの立体的な形状を再現することに頭を悩ませました。時には博物館に足を運び実物の鬼瓦を間近に見ながら制作を進めました

「手が違うんです。シワの入れ方とか、目の入れ方とかヘラとかちょっとずつ違うので、何て言うか仏師とか彫刻的なこう要素があってそういう仏師の人たちの最初は手を借りたんだろうなっていうのがなんとなく分かるんです。それを見本にしてえまた職人さんたちが作ってたんじゃないかなっていうのは思うんです。」

半年かけて最初の鬼瓦の形を作り上げました。十分に乾燥させ登り窯に入れ百時間かけて焼き上げます。しかし壊れてしまうものもあり納得のいく鬼瓦はなかなかできません。

「ブレンドがちょっとずつ違ったり、焼きも違うから全然色がちがうんです。同じ土でもまたでその時の窯によって違うよね」

その後玉城さんは土の配分や焼き加減を何度も変えました。取り組み始めて五年、ようやく完成にこぎつけました。

「そんな技術だなと思うんですよ。私たち何回も何回も作って失敗してるし、そんな簡単にパッと仕上げた作業じゃなかったんだろうなっていうのはね、自分たちが作ってみて思いました。そう簡単じゃなかった。沖縄の仕事、わりと大雑把だったりそういう感じで取られがちですけど
そんな雑じゃないって思うんです。割と沖縄の「てーげー」って言ったりするけど、それはそれで一生懸命本当に手も抜いてない。手抜きなものっていうのがないような気がする。まだ自分たちはまだわかってない。分かってないからもっとまたやらないと」

高い技術を誇った琉球王国とは一体どんな国だったのでしょうか。十五世紀に誕生した琉球王国。日本や朝鮮半島を始め中国や東南アジア盛んに交流した海洋国家。アジア各地を結ぶ中継貿易の拠点として大いに栄えました。琉球王国の中心だった首里城です。城の作りは琉球文化を象徴していると言われています。緩やかな曲線を描く城壁。まっすぐ伸びる日本の城壁とは異なり見る人に優しい印象を与えています。

「本土のお城だと角の方は直線的にひし形の石を置いてまっすぐ行くことが美しいのですが、沖縄のグスクではこういうような感じで角も含めて曲線的に作るっていうことで美しさを求めてるっていうところが違いだと思います。息の詰まるようなどこを見てもぴしっとしてる作り方ではなくて、なぜか琉球のものに美しいながらもほっとするようなきちんとしたところと、ゆるいところのコントラストがあることがそういう美しさにているのではないかという風に思います」

国王が政治を執り行った正殿。首里城には数多くの宝物が保管されていました。今回の特別展「琉球」には王国の重要な文化財が展示されています。戦前に本土に持ち込まれて戦火を逃れたもので国宝に指定されているものも数多くあります。

東京国立博物館 - 展示・催し物 総合文化展一覧 日本の考古・特別展(平成館) 沖縄復帰50年記念 特別展「琉球」

国王の冠たまんちゃーぶい。中国の皇帝から授けられました。しかしそこには琉球風のアレンジがあります。銀銀サンゴなどの飾り玉で十二の線を新たに加えました。現存する唯一の琉球国王の冠です。琉球王国最高位の神女聞得大君の使っていた簪。中は空洞でとても軽量です。長さ三十センチ余り。細部に金の細工が施されています。

東京国立博物館 沖縄復帰50年記念 特別展「琉球」 - YouTube

国の重要な儀式でのみ国王が着た衣装。中国風の絵柄を持ち、襟は斜めに合わせる琉球の伝統に乗って仕立てられています。

東京国立博物館「手わざ ─王国の文化─」高度な手仕事で製作された、琉球王国の模造復元品を展示 - ファッションプレス

琉球漆器の技術の粋を集めたもてなしの器とぅんだーぶん。高度な螺鈿細工ながらも竜の表情はどこかユーモラス。琉球王国は同様のものを中国の皇帝にも献上していました。

「いろんな国の文化を持ってきてまぜ合わせてできている風に言うんですけれど、やっぱりそこにはある取捨取捨選択もしっかりあって、一緒に同居しているように私は感じております。例えばよく言われますのが紅型の文様ですね。日本や中国の伝統模様を取り入れて、それを琉球独自の色合いで新たに表現している。さまざまなものを受け入れる懐の深さがあるのではないかなと思うんですね。きっちりかっちりっていう部分も物凄く精密にやってる部分もあるかと思えば
非常に不揃いな部分、でもその不揃いがまあいい加減ではなくてなんていうか、すごく自然なあの形に最終的には合わせていく。そこがものを受け入れる時の懐の深さであったり包容力のある人たちの形なのかなという風に思います。

琉球国王の菩提寺・円覚寺。ここにも琉球王国の懐の深さを示す仏像たちがありました。特別展琉球では戦後、円覚寺の瓦礫から見つかった仏像の数々が展示されています。中国から来た羅漢像。日本から来た文殊菩薩像。一つの寺で日本と中国の文化が共存していたのです。

戦後再建された円覚寺の惣門。そこにはかつて日本から運ばれた仁王像がありました。しかし今石の台座にその姿はありません。復元プロジェクトを立ち上げた園原謙さん。仁王像は地元の人たちにとって身近な存在だったといいます。


「手なんですけど、これはこの材とは違う材です。はい、それは内側ですね。沖縄の人たちは、向かって右側の方を仁王様(ニオーブトゥキー)、左にあるのはマカーブトゥキーと呼びます。子供が誕生したら、健康祈願として周囲の人たちは参拝をするわけですよ。ですから、庶民にとってニオーブトゥキーやマカーブトゥキーは非常に親しみが込められていました。」

園原さんが復元プロジェクトを立ち上げたきっかけはこの日本語像の木片でした。


「戦前、仁王像をご覧になられた先輩方がいらっしゃる中で、ぜひ復元をしてほしいと強い声を私たちは聞きました。そういう思いを託されたのです。一番下に針がある仏さんなので、それをぜひ復元したいなと思っています。」

しかし仁王像は十三の木片が残るだけ。顔は全く残っていません。手がかりは木材の材質。科学調査をしたところ室町時代のものとわかりました。

「こういう色が付いてますけども血管の表現筋肉の表現ですとか。」

近世の仏教彫刻に詳しい長谷洋一さんが監修にあたり、仁王像は京都の仏師集団琳派が作ったたものと推定に至ります。そして同時代の作例の仁王像が石川県にあることを突き止めました。この仁王像を参考に2015年復元作業はスタートします。数々の文化財修復を手がけてきた岡田靖さん。今回の復元では木を直接彫るのではなく、保管されていた木片を頼りにまずは粘土で像の原型を作ります。


「復元としてはかなり難しい復元となりましたけども、ただ四つの部材が一部に集中していたというのは、ある意味良かったところがありまして、とにかく体の幅や奥行きというものが分かったということが、まず一つ大きなポイントになりましたし。」

細やかな修正を重ねながら腕、顔衣装を復元。室町時代の仏像特有の重量感ある造形を目指します。

円覚寺の仁王像はいくつかの木材を継ぎ合わせる寄木造り。検証に基づき最新のシミュレーション技術を使って再現しました。岡田さんと共にを担当したのは彫刻家の杉浦誠さんです。残された木片と同様にのみで内彫を施し木材の乾燥と軽量化を図っていきます。今回仁王像のために作られた二十余りの部材。岡田さんと杉浦さん。二人の手で各部材を接合し仕上げていきます。

沖縄戦で大破の仁王像復元 10月19日から九博で展示|【西日本新聞me】

六年かけて完成した二体の仁王像。力強い肉体の陰影が刻まれました。

「クオリティが高くてそこを合わせていくのが非常に手間取りました。本当にうまいですよね。」

「作り手にとっても、今持っている最高の知恵を結集して、その残されたものを理解するということは、とても良い経験だったと思います。平和でないと、実はそういう営みはできないと思うんですね。これが戦時下でできるはずがないわけですから。いろいろな多様性の時代と言われていますけど、それをいかに自分たちのプライドを持って継承していくのかが、博物館が使命として人々に発信するメッセージだと思います。」

沖縄の文化財復元プロジェクトに大きな役割を果たしたのが香川県出身の鎌倉芳太郎です。戦前の沖縄で美術教師をしていました。鎌倉は沖縄の美術工芸、民族、芸能に至るまで幅広く調査を重ねました。自身の記録の中に次のように記しています。

廃藩置県後の変遷で首里も荒廃の極みに達し
王国時代の文化の実相だけは広く伝えなければならない

「鎌倉芳太郎さんが見た沖縄というというのはどんどんそれまでの伝統的な文化がなくなり
危機感っていうのを非常に強くお持ちだったんじゃないかな。」

沖縄の文化の実相を伝える。その思いから鎌倉は各地を巡り記録写真に力を注ぎます。今回の模造復元に使われた鬼瓦や琉球国王の菩提寺・円覚寺などの写真も鎌倉によるものでした。特別展「琉球」にも鎌倉が撮った写真が展示されています。かつて首里の王族の家に保管されていた絵画を写したものです。歴代の琉球王の肖像画「御後絵」です。この王の御後絵はおよそ230年前に宮廷画家画家が描きました。鮮やかな色彩で描かれた御後絵は戦争で燃え尽き鎌倉の写真だけが当時を伝える唯一の資料です。

この写真をもとに復元模写に取り組んだのが東京芸術大学の保存修復日本が研究室です。現存する琉球王国の衣装などをもとに色彩を探りました。二年かけて復元された御後絵です。

「琉球絵画っていうのは日本絵画の影響というよりは中国絵画の影響が強いですね。むしろ中国絵画の一環として捉えるようなものなので、どうしても日本日本絵画の歴史の中で捉えてしまうと
塗り方とかあと顔の表情そういったところの表現の仕方っていうのが違ってきてしまうということが大きな壁というか課題でした。」

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こちらの写真も鎌倉が戦前に首里で撮影したものです。「四季翎毛花卉図巻」。琉球の絵師たちに強い影響を与えたそんおくという画家が描いたものです、

九州国立博物館 手わざ 琉球王国の文化

東京芸大の保存修復日本が研究室が七メートルに及ぶ復元模写を完成させました。このプロジェクトには沖縄の画家たちも参加しました。喜屋千恵さんと平良優季さんです。琉球の画家たちが手本としたこの作品が果たしてどのようなプロセスで描かれたのか。制作の過程を後世に残すために、作業の段階ごとに見本を作りました。墨線だけを使った下書き。画面を裏側から着色する裏彩色。色の深みと立体感をだすため表側から幾重にも絵具を重ねていく表彩色。そして細部を描写する最後の仕上げの着色まで四段階の工程見本を作りました。

「自身の創作とはまた違って後世に伝えていくっていう思いもやっぱ自分自身の責任を任せて頂いたっていう責任もあるので緊張しますね。」

日本画家として活動を続けてきた喜屋千恵さん。喜屋さんは本土復帰の少し前のアメリカ統治下に生まれました。途絶えかけていた琉球絵画に出会ったことで芽生えたことがあると言います。


「私の世代ぐらいまでは、本土に対しての劣等感、変な言い方なんですけど、偏見とかがまだちょっと残ってた時代で、自分自身になんかこう自信が持てないところが私たちの世代にはちょっとあって。琉球の絵師だったり、そういうものを調べ始めた時に、素晴らしい作品もいっぱいあって、すごい先人がいたんだと自分も感じて。これからも描いていく中で、そういう誇りを自分のこの足元を掘ってみようっていうか。」

今回のプロジェクトに参加することで改めて当時の絵師たちの手技を見つめ直すことができたといいます


「当時の絵師の模写をすることで、筆のスピード感や息遣いを体験することができました。その時に、当時の絵師たちの気持ちに思いを重ねたような気持ちがしました。これが波動となって、どんどん繋がっていく、広がっていく感じが非常にします。この経験をさせていただいたことは、とても良かったと思います。」

喜屋さんたちは今沖縄で危機に瀕する文化財を守ろうとしています。石垣島の重要文化財の宮良殿内。ここにある絵の復元模写をしようと考えているのです。

宮良殿内の板戸絵は琉球王国時代に描かれたもの
しかし長年の月日の経過で痛みが激しくなっていました

「鷹の顔だと思われるんですけれどもあの体の部分はほぼほぼ線が残って、目視では見えないんですが顔の部分はくちばしと目と部分が残っています。」

ここでも頼りにしたのが鎌倉芳太郎。彼が撮影した写真を参考に作業を進めます。


「沖縄本島の板戸絵は、戦争の際にほとんどが焼けてしまいました。その中で宮良殿内の板戸絵が残っていることは、色彩や貴重な情報を復元したり調査するために非常に重要なものだと考えています。沖縄の宝であり、次の世代に伝えていくことが自分にできる役割だと思っています。」

復元プロジェクトで鬼瓦に取り組んだ玉置さん夫婦。登り窯の片隅にはまた新たな鬼瓦がありました。

「自分たちとしてはまだもうちょっと足りてないんで本当はもっとやりたかったんですね。もっと土も吟味したかったし焼きもあと二回も三回も焼きたかったんですけど、ちょっとここはこうしたほうがいいっていうのはまだまだ出てるのでまたやってるっていうことです。」

さらに玉置さんが取り組んでいることがあります。琉球伝統の菊花皿です。鎌倉写真に残る琉球王国時代の匠の技を習得しようとしています。

鎌倉芳太郎さんの写真は三十三弁花びらがあります。

「花びらを作る際、これは型づくりではなく、もう一つ一つ手作りしたんだろうなと思われます。そのため、私も一つずつ手作りする方法を取っています。昔の人はどうやって作っていたのか、作業工程はどのようなものだったのか、そういうことを考えながら作業を進めています。やっぱり昔の職人たちに少しでも近づきたいという思いがありますし、それは勉強ですね。学ぶことがたくさんあり、自分の作業に生かしたいと思っています。でも、なかなか彼らに近づけていない気もしますが、近づけるように努力していくしかありません。もし、私たちの仕事が、将来私たちが年を取った後も、若い世代の人たちが玉城さんたちの仕事を参考にしてくれたら、それは本当にありがたいことですし、嬉しいです。また、私たちが亡くなった後、100年経っても私たちの仕事を検証することがあってもいいなと思っています。」

沖縄が日本に復帰して五十年。琉球の文化は次の時代に向かって新たな歩みを始めています。

「半世紀以上経った今日いまだにその沖縄戦と同じように大量兵器によって街があの村が破壊される。本当に愚かな行為だと思いますよねそこにはやっぱりこう人を失うということは文化そのものを喪失することにほかならないですね我々がやったのは戦災文化財の復元というものでもありますけども、琉球が置かれた歴史的な背景をきちっと自分たちの誇りある文化として次に託さないといけないと思うんですね。」

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