今年北京の美術館で、日本で腕を磨いた画家の作品が注目を集めました。それは祭りの水墨画。湖北省の端午の節句の賑わいです。中華人民共和国となってから長い間祭りは禁止されていました。近年ようやく復活。そのことを喜び祝ったものです。
作者は傅益瑤(ふえきよう)さん。37年前から日本に移り住み、各地の祭りを水墨画にしてきました。そこには近代中国指折りの水墨画家であった父の死が関わっていました。父の教えを受け継ぎ描いた和歌山の那智の火祭り。勇壮な那智の滝とたいまつを運ぶ人々。父から学んだダイナミックな筆が生きた作品です。これまで30年かけて日本の祭りを描いてきました。そしてこの夏から秋にかけ100作目となる徳島の阿波踊りの水墨画に挑みました。祭りの絵で日本と中国を結びたい。傅益瑤さんの創作と思いを見つめました。
【出演】水墨画家…傅益瑤,【司会】井浦新,伊東敏恵
放送:2016年11月27日
日曜美術館「祭りの水墨画」 日本と中国を結ぶ 傅益瑤(ふえきよう)の挑戦
なぜ祭りを描き始めたのか。そのには父と娘の悲劇の物語が関わっていました。
傅益瑤さんは1947年、中国・南京で生まれます。父は20世紀中国水墨画の巨人といわれた傅抱石。
父から水墨画を学びます。父は北京の人民大会堂の壁画を描くほどの腕前でした。
これは戦後中国を代表する水墨画とたたえられている代表作「江山多嬌」。伝統的が第を繰り返し描いてきた中国水墨画で写実的でダイナミックな表現を打ち出しました。
しかし、悲劇がおこります。1960年代中ばからはじまった文化大革命です。古い文化や伝統は否定され、水墨画や祭りさえも消滅の危機を迎えました。傅抱石は文革の嵐が近づく中61歳で心労でなくなりました。
傅益瑤さんも文革の渦に巻き込まれて行きます。当時、黒いものは悪とされ、水墨画はその最たるものとして筆を持つこともはばかられました。著名な水墨画家を父に持つ傅益瑤さんも反革命分子とされました。中国南西部の農村に追いやられ過酷な労働を課されます。父から教わった水墨画でいつかは画家になろうという夢を抱きながら耐えました。
文化大革命が終わったのは1976年。その3年後、日本で絵を学び直そうと留学します。平山郁夫などに師事し水墨画と日本画を学びました。
1996年比叡山延暦寺に奉納した「仏教東漸」です。仏教画や山水画を得意として、永平寺や三千院などの壁画も描いて行きました。
しばしば絵にしてきたのが中国の黄山。
仙南が住むという幻想的な風景です。「たとえ石でも絵にするなら必ず生命を宿すこと」という父の教えが息づいています。さらに、父から受け継いだ早い筆遣い。迷わず走る線が生命観をあふれさせています。父から学んでいたことをもっと生かしたいと悩んでいたとき、運命的な出会いがありました。それが日本の祭りです。
傅益瑤さんが初めて水墨画にした山形の花笠祭。傅益瑤さんの家庭は節句などの伝統行事をとくに大切にする家でした。それが失われた悲しさの中で出会った花笠祭です。
ふだんは物静かな日本人が熱く祭りにのめり込むさまに、傅益瑤さんは驚愕します。この時の発見きが「日本の祭」シリーズの創作のきっかけとなりました。
各地を訪ね始めた傅益瑤さんは祭りがいかに独特の気配に包まれるか気づきます。諏訪大社御柱祭。7年に一度の聖なる儀式。神が宿り降るといわれる巨木の先頭で滑り降りることは、この上ない栄誉です。
傅益瑤さんは御柱に立ち向かう男たちに神の気配を感じ1100人をすべて違う動作で描き上げました。父から学んだダイナミックな筆遣いがエネルギッシュな祭りの場面を捉えています。
やがて祭りの水墨画に転機が訪れます。青森ねぶた祭です。花笠をつけ着物を着て、若者たちと一緒に跳ねました。すると祭りのエネルギーをさらに感じたのです。以来参加できる祭りには必ず参加して描いています。
傅益瑤さんは、祭りが始まる前から現地を訪れます。それぞれの風土を知ると踊りの魅力をさらに伝えられると考えています。
夜。町の至る所で聞こえてくる音。阿波踊りの練習風景です。記念すべき100作目。傅益瑤さんは自ら踊りを覚えようとしていました。
訪ねたのは美しい踊りが定評の天水連です。
阿波踊りはしなやかで優美な女踊りと、激しい男踊りがあります。
どうやら細い指先の優美な動きがカギのようです。傅益瑤さんは2日間練習を繰り返しました。
阿波踊りの本番。スケッチを始めます。
祭りの現場にいるからこそ感じられる踊りの熱気を捉えて行きます。
「今描いたものは本番で修正はしなくてはいけないけど、これがあれば現場に戻ってこれる」
踊るとき浴衣や帯はどう見えるのか取材します。菅笠はどういう角度でかぶるのか。
最後に、阿波踊りの動きを体にたたき込みます。
天水連は徳島を代表する踊り手たちです。実にしなやかで優美な動き。習った手の動きができるように懸命に踊りました。
全身で感じた強烈な熱気。それをどう描くのか。まずは準備段階です。
迷わず筆を運べるようになるため何度でも練習します。指や手の動きを一つ一つ繰り返します。
そして踊りの動きを決めて行きます。少しずつ動きの違う絵を並べ、躍動感のある集団を目指します。この準備だけで一ヶ月。完成までまだ二合目です。
日本に来て37年。傅益瑤さんはいつも父と一緒だと言います。
いつも使う硯は父から譲り受けました。石ではなく木製で金を混ぜた漆が塗られています。「父の形見。だから常にそばに置きます」
今回「阿波踊り」のために秘蔵の墨を準備しました。父から譲り受けた200年前の墨です。
筆は中国で特別にあつらえました。弾力性に富み、先がしっかりしている筆です。阿波踊りの繊細な指の動きを出すのに欠かせません。
10月、いよいよ本番に取りかかります。
「墨は一筆描いたらもうチェンジできない。何回も練習して手が自然に動くなるようにならないと欠けない」水墨画は一度描きだすと失敗は許されません。線一本でも気に入らないと一からすべてやり直しです
。
指のしなやかさ。菅笠の角度。父から受け継いだ素早い筆で踊り手の動きを生み出します。筆の運びには何が大切なのでしょう。
「やっぱりリズム。人物の上品さは線の上品さから生まれる。」
今回、自然の風景を一切入れませんでした。
踊りの風景を人物だけで描ききるのは日本の祭100作めで初めてのことです。
「表情は全部違います。現場では自分も踊ります。踊っている人の顔をすべて覚えることが重要です。絵の主役は腕です。指は芸術として存在している。今までは祭りは自然との関わりがあったが、徳島はちょっと違う。人だけで描いたのは、徳島は大地と空、天地が育てた人間を感じた。彼らは自然のエネルギーを心の中に持っているから自然が描かれていなくても違和感はない」
祭りを愛する日本人に見せられて100作まで積み上げてきた傅益瑤さん。踊り手の表情に祭りを描く喜びが重なっています。