江戸時代までの諏訪大社は、境内に多くの仏教寺院が存在する「神仏習合」の空間だった。しかし、明治の「神仏判然令」で仏教施設は破壊され、仏像も散逸した。今、諏訪では失われた仏像を再発見するプロジェクトが進行中。残された庄屋の古文書などから、仏たちの数奇な運命が明らかになってきた。さらに、破壊を免れた仏像の修復も進む。この国の「神仏習合」の歴史は古く千年を越える。よみがえった仏たちは何を語りかけるのか?
放送:2022年11月13日
日曜美術館 「よみがえる諏訪の仏たち」
長野県諏訪で七年目ごとに行われる
柱際山の上の宿る巨木を郷におろす勇壮な神事
巨木を境内に建てていきます
諏訪大社は全国におよそ一万社ある諏訪神社の総本社
こんもりした山を背負うようにいくつもの社殿があります
でですね雑誌があってごらんになったのは
本物方みたいな実物みたいな一がこう静まるような
そういう場所だと思います
空気がちょっとね今ですねこの辺
江戸時代は全く違った風景だったということなんですが
はいでその当時はどんな状況だったかということをさまざまな角度
から振り返っていこうというプロジェクトがあるそうなんです
今日はそのあたりを一緒に見ていきます
ちょっと山登りになってきましたね
うちの拝殿の南東にある空き地のような場所
実はこの辺江戸時代にはいくつもの建物があったそうなんです
でも本当に何もないただの今日もよろしくお願いします
お願いします情報工学が専門の三男さは直さん最新のテクノロジで
かつての諏訪大社の境内を再現しています
画面には蘇った
江戸時代の風景
目の前には不言堂と呼ばれる間口九メートルほどの道中には
仏像が祀られる仏教の施設でした
さらに登ってきた山を下っていく二重ここをくぐり
その先で神社に続く参道へ
左右に並んでいるのは宿坊や人です
再現するのに参考にした資料がこちらは江戸時代の人になります
今いる場所がここ神社のエリア
江戸時代までは諏訪神社と呼ばれていた諏訪大社社殿の周りには
たくさんの人や同等が建ち並んでいました
これらの仏教施設は神宮寺と呼ばれています
先にはかつて五重の塔がありました
当時の光景を体感できるソフトを見ながら近付くと
地元が近づいてきたすごいすごいすごいすごいすごい入んないあれ
どうやって入るんですよ
先生が入ってきましたよ
私ほらもうだってここほら入ってる
入ってる五十の頭の中には仏像が祀られているしました
仏の五つの知恵を
表わす五智如来です
かつて諏訪大社神宮寺に祀られていたものの
その後失われた仏たち波乱に富んだ運命を紐解きます
長野県諏訪かつて諏訪大社にあった仏像を調査し
市内各地の人や博物館で公開する諏訪
神仏プロテキストを進めています
諏訪大社の神しゃと下社
江戸時代まではそれぞれの境内で仏像が祀られていました
しかし仏像は明治時代に散逸一部は周囲の人に移されました
失われた仏像が一斉に公開されるのは初めてのことです
素足博物館ではごじゅうのとうの本尊が公開されています
墓地如来坐像
明治時代五重の塔がなくなった後市内の寺院で守られていましたが
今から三十年前博物館に移されました
この仏像を擦りディ化する試みが始まったのは
通話神仏プロジェクトが始まった三年前でした
担当したのが二小沢さんのグループです
に小沢さんたちは
五体の仏像を一回ずつ
様々な角度からおよそ百枚の画像に記録しました
画像
で他をパソコンに取り込みます
好きですねあそうですね次は仏像をごじゅうのとうの中に配置
しかしなかなか思うようにいきませんでした
って横に並んでるんですよ
なのでこうやって並べていくと
ごじゅうのとうの中がここなわけなんでキツキツなんですよ
学生たちの意見に従って横一列に置いてみると
仏像が台座からはみ出てしまったのです
試行錯誤を繰り返す中
ヒントになったのはある住職のアドバイスでした
五智如来が祀られる空間は
立体曼荼羅として表されているというのです
そこで参考にしたのが
京都当時空海が曼荼羅の世界をよりリアルに伝えるため
仏像を立体的に配置しました
口に習ったところうまく収まりました
再集計はやはりそのその当時あったそのものに戻したいと
でもそれって出たが残ってるでしょ
実際のだからそうするといくつかやってみて
その中の一番妥当なもの
あるいは皆さんの記憶の中に
あるものを掘り起こしていって決めていくという
そういうそういう作業になってみ小沢さん
たちの作業はこの後も続きます
通話の人々を訪ねて代々伝えられてきた
江戸時代の記憶を掘り起こし
さらに修正していきたいと考えているのです
通話代謝にあった仏教施設神宮寺それはなぜ失われ
仏像たちが散逸したのでしょうか
諏訪市の古刹仏法じ
ここに仏像たちが辿った運命を知る手掛かりが残っています
かつて諏訪神しゃにあった仏像です
あかさおよそ五十センチ獣の世には
知恵を司る文殊菩薩が
現職の
岩崎さんです
こちらの正面の仏様は
左目を見ていただきますと左目は削られております
武蔵の名は何故削り取られたのでしょうか
起きは幕末時代は大きな転換期を迎えていました
十五代将軍徳川義宣は政権を朝廷に返上
翌慶応四年明治元年新政府は
新しい国づくりのために神道を国教化する方針を打ち出します
神社を人から独立させようと神仏判然令が出されました
その
内容が明治政府の精霊をまとめただ上るいせに記さ
れています
仏像神社で奉ることを改めること
参照仏具なども早急に撤去すること
これをきっかけに
各地で仏教を排斥するいわゆる廃仏毀釈が起こります
地域によって激しさは異なりますが
鹿児島版では千円余りの人が破壊され仏像も壊されました
ま神仏判然令自体は
そもそもそういう暴力的な物自体を
元々通達としては持っていませんので
ただそれをどんなふうにして実現させるかっていう中で
壊すっていうような声が起きた時に
そこにさらに火がついてっていうようなことで
廃仏毀釈が起きるっていうことになると思います
諏訪では神仏判然令にどのように対応したのでしょうか
大正時代に編纂された資料
神仏判然令によって起きた出来事を
全国的に調査しまとめたものです
この中に通話の庄屋笠原五右衛門の日記があります
六月十五日京都から神仏分離を監督するため
新政府の役人が来られた
神社周辺の仏教施設を取り払うよう言われる
このとき何が起きていたのか藩の役人
伊藤主膳の日記にはこう書かれています
取り壊しに集められた人足の一五十人百人
しかし人足は一向に手出ししない
地元の百姓から手を出したら撃ち殺すと言われ
皆逃げ去ってしまった
思うように進まない
取り壊し村役人達は
新政府の役人に農繁器を理由に秋までの猶予を願い出ました
この期間村の人たちは神宮寺を守ろうと様々な手を尽くします
中心になったのが仏法時でした
その計画はどのようなものだったのか
仏法時に神仏判然令の対応の記録が残されていました
えーこちらのあの両者仏閣ものそう
人は居場所版というのがあの廃仏毀釈の日記になっておりまして
神宮寺の道東をどこのお寺に移転するか
ということまで全部決めていました
場所を移し道東を再建するお許しを頂きたい
仏法じの住職は移転先を選び
自ら費用を工面通話を治めていた高島藩に願い出たのです
しかしその願いは叶いませんでした
雪
は秋に
村役人は
村単位に呼びかけ払い下げの入札を行います
ましの村がふ言動ごじゅうのとうを五十両で落札
取り壊し始めました
他の仏教施設も若者たちによって壊され
家の修理や薪に使われました
五重の塔を壊し始めたのは
十一月三十日取り壊し終わったのが十二月十九日でした
この時の様子が
大正時代に行われた聞き取り調査で報告されています
五重の塔を破壊する際は人が集まり皆涙を拭っていた
妊婦たちは天罰を恐れながらも破壊痛ましく悲しい状況だった
やがて神宮寺は全て破壊されました
なぜ移転再建という人々の願いは叶わなかったのか
それは戊辰戦争によって日本中が揺れていた時のこと
高島藩は幕末に藩主画廊住職につくなど砂漠の立場にありました
明治維新の神仏分離の命令を受けたのは
新政府側につくことを決めて間もない頃でした
あちこちで申請うーんとまあ爆型とか戦いを繰り返してる時でで
そういう中で新政府の力がこう徐々にこう見えてくるっていう
そういう時期にですね
なのでやっぱり伺いを立てないで勝手にまはんの判断でやった時に
もしだから後で咎めを受けたらっていうような
そういうような状況で
は多分あったろうと
諏訪大社の仏像はあるものは壊され
ある者は市内の寺に移されました
それらの仏像は長い間本格的に調査されることがありませんでした
諏訪で仏像の調査が進み始めたのは二十年ほど前のこと
その過程で注目された仏像が仏法時で公開されています
こちらがとても大切な仏様早速いただきました
どうしましょう表情もすごいそうですね
お顔はとても優しい表情をされてますから
普賢菩薩騎象像明治時代に諏訪神しゃから移され
七年前に修復されています
高さ一点五メートルゾウの背に坐す
普賢菩薩女性を救済する仏としても知られます
明治
時代仏法時に移された時はこんな姿でした
目の部分がえぐられ元通りも失われています
仏像を修復する時大きな発見がありました
修復を手掛けた物資の長谷川交流さん
仏像の頭の内側を見た時のことでした
その書きつけが出てきまして
こちらで本地佛であるふれんさんで
諏訪の御本尊であるっていうような発見がありまして
信州諏訪の本尊なりという言葉がこの後ろの方に出てきます
こんち普賢菩薩普賢菩薩は
諏訪神者の本尊諏訪大明神であることの明らかな証拠でした
だから普賢菩薩様ではなく
その当時は大明神大明神
皆様多分明治時代までお参りしてた方は
普賢菩薩としてお参りするよりも
諏訪大明神としてお参りしてたんだと思います
でこれはじゃあ
そのこのお姿をえっと拝見することができてわけですか
当時ができなかったですが
できる特別な近くで
当時は秘仏として厨子の中に安置されていました
目がなんかこう半月形って本当だ
とてもかわいらしい可愛らしい楽しそうににっこり笑ってらして
それでこう対照的に変貌ささんのなんか表情が非常にこう
穏やかで静かに座ってらっしゃるという本当声質ななんかこう
空気がこう全体ただやってらっしゃる
このポッドキャスト様は今この形であるというのは
どういう経緯を建てられた
家のこの廃仏毀釈の時の日記があるんですけど
はいこちらの仏様ですね
実は神宮寺村の村人の蔵の中に一度隠されているんです
で廃仏毀釈がだんだんこう激しくなって
本当に全部壊されてしまう前にですね
村の中に隠しまして
でそれで村人たちが守っていた守ってるという仏様です
仏像は密かに土蔵にお入れしていた
外には仏像を壊そうとする荒くれ者がいるので
夜の間に運んだそう書かれています
いやでもね傷つけられたよくまここまでって思いますね
先先代はこのお堂を建てましたし
仙台がこの仏様を直しましたし
そして今回こうやって
皆様にお参りしていただけるようになりまして
だんだんだんだん普賢菩薩様のお力が
もう一度諏訪に行きわたってるのかなと思って
三年前に指導した諏訪神仏プロジェクトは
近年の調査の成果を取り入れながら
神宮寺の全貌を解明しようとしています
今年十月プロジェクトの目は
この総持院で新たな仏像に出会いました
それではどうぞ実はこの寺は二十年ほど前に長野県が調査し
神宮寺の仏像があることを報告していました
今回プロジェクトが問い合わせたところ見つからないとの返事
ところが実はあちらにあげます
厨子の中から見つかったんですけども
数日前住職は何の気なしにこのずしを開けました
この建物がもう二十年になりますけども
その新しくなった時から
もう既にあそこのところの間にはありました
ただ一回も開いたことがなかったんです
私もあの寿司は言われてみると床の間にあったわよねっていう話
亡くなった先代は
県が仏像の調査をしていたことを家族に伝えていませんでした
直径三十センチほどの丸い板その上二十一面観音の姿があります
まあ気持ち的本丸調査に当たるのは
プロジェクトの企画局長石の美智子さんと仏教美術の専門家
小田貴之さん
諏訪では滅多に見られない仏像です
やっぱりちょっと肉眼では見え見にくいですね
これって裏には
諏訪下宮つは下社で
祀られていたことを示しています
日本で生まれた独自の仏像水晶体と呼ばれています
吊るしたりかけたりして拝むことができるよう
穴が開けられています
神社でも鏡が祭られていることが多いですけど
その鏡にからその仏様が現れるっていうのかなあのー
いわゆるに招待っていうのは
部屋時代ぐらいから本格的にこうあの作られたんですけど
十四状態の丸いいたわっ神が宿る鏡を表しています
古い時代は鏡そのものに仏の姿を刻んでいました
ま日本の神様っていうのは
そもそもその容易に姿を現さないものであって形がないというかね
その鏡に宿ったりとかその目に見える形のものではないとで
それが交わることによってま姿を表わせるようになっということで
この神様がね仏教が海を渡り日本に伝来したのは今
からおよそ千五百年前六世紀のこと
やがて日本古来の神と仏が密接に結び付きます
平安時代になると本地垂迹という考えが広がりました
それは神は仏が仮に形を変えて
この世に現れたものとするしそうです
神仏集合っていう考え方はですね
その二つがこううまく得と
この日本のま生活の中にうまく混じり合っていった状況
みたいな信仰のあなたの信仰の形態ですね
なので神様仏なので
神社にはお寺があってもおかしくないよねっていうことで
神社の中に音が出来等ができてそして
お坊さんもいるっていうような風景がえーと作られていく
プロジェクトの調査ではメンバを驚かせる発見もありました
市内に古くからの神仏集合の形が残されていたのです
無人の王道町の人々が管理してきた方向いんです
裏の中に仏像が保管されていました
かつて
諏訪下社で祀られていたものです
高さ十二センチの金銅薬師如来リュウ
そう鎌倉
時代から神宮寺に祀られてきたと考えられています
仏像の表面はただれて表情もよくわからなくなっています
年に一回クラから出して祭ってきました
二十代で私ここに入ってたんですけども
やっぱり先輩たちますから
そういうふうに言われて大切なものだと
守ってくるという形で教わってきてるんですから
調査に来たメンバを驚かせたのは方向イン飾り付けでした
天井から四方に白い紙が下がっています
小僧だと思いますけど
この口腔インという存在自体がやっぱりすごくね
初めてられましてですねま
面白いとこだなっていう感じなんですけどもね
神仏集合の形というのがえいや
よくここまで残って
白い霧が実は憑代神が
ここに降りてきます
祀られているのは不動明王その前には神が宿る鏡
五色の語弊は仏の五つの知恵を表します
神宮寺の仏像を守ってきた小さなほど
ここには神仏集合の姿が色濃く残されていました
チェックとの調査で
地元の寺に移された仏像は百体に及ぶことが分かってきました
体拭く時には十一回の仏像がありました
その中の一つ等身大の阿弥陀如来坐像作られたのは
鎌倉時代破壊の後はほとんど見られません
ぐ
っぽう時に買ったのは高さ三十センチほどの
普賢菩薩騎象像
後輩の表現が繊細です
つば
神しゃから移されてきました
小工事ここに諏訪下社の本尊
諏訪大明神として祀られた仏像が残されています
諏訪下社では秘仏とされていたため
この寺でも大切に守ってきました
その仏像が今回のプロジェクトで初めて公開されることになり
事前の調査が行われました
真ん中のお休みしてますの秘仏を収めた厨子の扉は
本来は六十年に一度だけ開けるものです
そういうさんあけた方がいいです行けます行けます
現れ
たのは三体の仏像中央に高さ
十二センチの千手観音菩薩脇士の毘沙門台
そして不動明
ぶら
れたのは遡れば平安時代と考えられています
六十年に一度のご開帳を待たずに
秘仏を一般公開してもいいもの寺では悩んだと言います
仏像って誰のものなのかなっていうのを結構考えましたね
まあの信仰の対象の仏像ですから
やっぱみんなのものなのかなと
地域の人たちの信仰をしてくださっているとか
このお寺を守ってくださっている人たちのものなのかな
っていう風に思うとその人達がこの仏様と
対面するというのは良いことというか必要なことだし
求められたらそれは拒むことじゃないのかな
っていうように思いました
この日物に関わる意外な情報がプロジェクトにもたらされました
そっくりな仏像があるというのです
今年七月調査を行いました
仏像を所有している上山市です
自分の家の大事なものぐらいな存在だったのが
なんとなく光が当たってね
他の方たちも興味持って観てくださるものだって思って楽しい
嬉しいね
中央には十一面観音
そして両脇には
毘沙門天と不動明王プロジェクトの小田さんが仏像を確認します
戸惑いましたよね
なんでっていうのをまず正直なところなんで
そんなその神宮寺のその本当と瓜二つの仏像が
そもそも出てきたのかっていう比べてみると
逗子のデザインはほぼ同じ
中央の仏は千住観音十一面観音と異なりますが
作りも大きさもよく似ています
が全く一緒ですよ
いや僕あのやっぱりどっちかがこう
あの出来栄え劣るとかそういう可能性があるのかなと思ったけど
まあどっこいどっこい何のために
秘仏そっくりの仏像を作ったのでしょう
ちょっと調べていく必要があると思います
何があったんですね
その千六百年千九百八十年代の頃にこのスラッシュって何があって
それでえっとまあどこまで真相に迫れるかなんですけど
この仏像が作られた頃に何か大きな災害が起きたのではないか
その時普段は拝めない秘仏に変えて
もう一つの仏像が造られたのではないか
太田さんはそんな仮説を立てています
今回紙屋町で見つかった仏像は
ここ諏訪湖博物館で公開されています
仏像を秘蔵してきた神山家は
代々諏訪大社神宮寺で住職をしていたことが分かっています
だからほんと細かい表情がこちらこっちは活気見えるんですよ
でこっちなんか本当細かくてでも積率が決まりますね
やっぱり自分の家にと言うかま秘密の場所っていうと変ですけど
こっそりと大事にしてたっていうのはどういうことだと思われます
メディ政府の意向でシングルの住職
は新色になるんですが代謝ます
当時諏訪神社ですけどで
その際に侵食になったのに
切り離された神仏の仏像の方を密かに持っているっていうのは
あんまり公言できなかったと思うんですよね
記憶を残せないじゃあまさに秘仏ですね
そうですねまあの大事にしながらひっそりと守っ
てきたんですよね
でもあれですよね
その多分そのご住職からするとその二つの信仰同じものだから
この片っぽだけをこう何ていうんですかね
こうないっていうことにはできないということで
大切に持ってたっていう想像もできますよね
瓜二つの仏像
今では見ることができない
神宮寺の歴史に新しい光を当てようとしています
じゃあこの後
このプロジェクトとしては
どんな風にこう展開していきたいと思ってらっしゃるそうですね
やっぱり定着させていきたいと思ってまして
ま今回基礎を作ってこれで全然終わりじゃないので
これだんだん積み重ねていくことができるのかなと
でそれがあの一つのねモデルケースになればいいな
というのは本当に思ってまして
やっぱプロジェクトで
こうやって地域まお寺と神社っていうのつながりで
それぞれにかかっている人たちがこう繋がり
それが変わっている人たち一人一人がよく考えたら
そのおしゃれ生活の中で実はその
あの神仏集合っていうか
その仏さんもかみさんも同じこう
地平の中で一緒に暮らしたっていう鍵のないものだっていう
隔たりのないものだっていうことなのに
それを言葉にしようとした時に
そこまで言葉になってなかったことをねこのプロジェクト
それをみんなが言葉にする言葉に
するそのことを意識すると
意識することによって
こう新しいアイデアが生まれて
新しい繋がりが作られていくっていう
それが今度また一つの歴史の層を作って
未来をこう重ねられていくっていうのは
素晴らしいなと思いますよね
今年九月諏訪の町二百五十年ぶりの光景が蘇りました
総勢七十名の僧侶が諏訪大社へ
寝食に迎えられました
諏訪大社ゆかりの仏像の公開を神前に報告する
神事です
披露される仏教の声明
かつて諏訪大社の神前で唱えられていた響きが再現されました