天才と呼ばれつつ28歳でこの世を去った画家、青木繁の傑作が初めてパリへ。明治の洋画はかの地でどう受け止められるのか。俳優石橋凌*1が名画を追ってフランスに向かう。
名画「海の幸」で当時の西洋画壇に旋風を巻き起こした青木繁。しかし満を持して発表した「わだつみのいろこの宮」は酷評され、一気に転落の道へ。追い打ちをかけるようにのしかかる親や恋人、子どもの扶養。「海の幸」で見せた情念を封印し、放浪の画家となった青木。結核を患いながら九州各地をさまよう。心の奥に留学への思いを秘めながら創作を続ける。それからおよそ1世紀。「海の幸」は初めて海を越えた。
【出演】石橋凌,【司会】高橋美鈴
放送:2017年7月23日
日曜美術館 「魂こがして 青木繁~海を越えた“海の幸”と石橋凌の対話~」
パリ・オランジュリー美術館 「ブリヂストン美術館の名品ー石橋財団コレクション展」開幕(2017.04.28)
海辺を行く男たち。大きな獲物。しかし、歓喜の声はそこにはなく、不思議な静けさが支配しています。青木茂がこの絵を描いたのは美術学校を卒業したばかりの頃。青木繁の「海の幸」は初めて海を渡りパリにやって来ました。
天才と呼ばれた男の運命はこの絵の後急転していきます。やがて貧しさに喘ぎながらの放浪のはて28年という短い生涯を終えます。
「かつて私はミュージシャンとして行き詰まりを感じ、故郷久留米に戻ることを考えていた。その時松田優作に出会い、役者をやってみないかとチャンスをもらった」
青木繁と同郷の福岡県久留米市出身の俳優・石橋凌さんは、22歳の時ロックのボーカリストとしてデビュー。その後俳優としても活動をはじめました。
「優作さんも、”もっともっと”というものが会ったと思うのです。でも夢が絶たれた。しかし、それは今生きている後続のものが継げばいいと思うのです」志半ばで倒れた人の思い。いつしか二人が重なっていたと石橋さんは言います。
石橋さんが青木繁のことを深く知ったのは一年ほど前。青木の縁戚にあたる高山さんに会ったのがきっかけだった。
明治15年。久留米の下級士族の長男として生まれた青木。父の反対を押し切り17歳で画家を目指し上京。東京美術学校に入ると瞬く間にその異彩を開花させます。青木のデビュー作「黄泉比良坂」。日本の神話を題材としたこれまでにない独創的な表現。当時青木の担当教授だった黒田清輝率いる白馬会に出品。みごと白馬賞に輝いた青木は新進気鋭の画家として注目されます。
古事記などの神話を読み漁り、心に浮かぶ情景を絵にした青木。明治維新後急激な西洋化の中で居場所を失う日本人。その根源に迫ることこそ青木の目的。絵は手段でした。
青木が記しています。
「我はいかにして人事をつくすべきか考えてみたのが哲学であり宗教であり文学であったが、最後に来たったものは芸術であった。それと同時にその実行であった。芸術的創作ということが非常な響きをなして胸に伝わり、ハルトマン(ドイツの哲学者)の『物の社会は物がこれを造り、ただ仮象の社会のみは人がこれを創作し、人類のみこれを楽しむ』という言葉がわが稚なごころに血潮をわきかえらせた。これこそ男子の事業だ。そしてこの中に千万の情懐を吐露し得るのだ。われは丹青の技(画技のこと)によって歴山(注:アレキサンダー大王)帝もしくはより以上の高傑な偉大な真実な、そして情操を偽らざる天真流露、玉のごとき男子たり得るのだと、こう決心した。」
これが今でいう高校生の抱えていた問題意識とすると唖然としてしまいますが、青木繁という人物が学生時代から自分の中に潜む能力に気付き、それに見合う人生を模索していたのかがわかると思います。空前の大帝国によってほぼ世界征服を成し遂げたアレキサンダーと自分を比較して、それ以上の功績を絵画において達成しようと志しているのですから、際限のない情熱と野望に充ち溢れていたことが伝わってきます。
筑後川の辺りの町福岡・久留米。
「久留米のゴールデン街」を歩く石橋さん。目指すのは学校をサボって入り浸っていたジャズ喫茶です。
石橋さんが青木繁の絵を見たのは今から50年も前のことでした。
「市民会館。ここで青木の絵に出会った。それは舞台の緞帳に描かれた巨大な海の幸だった」
青木繁の「海の幸」緞帳
青木繁と俳優・石橋凌さんはともに久留米出身。青木繁の代表作「海の幸」をめぐっては2017年6月、「海の幸」を再現した緞帳をめぐる記事がある。
「初めて見たときに圧倒されたのです。外国の画家の絵かなとおもったら、担任の先生だったかが実は久留米の先輩だよと聞きまして。私にとって緞帳こそが青木繁だったのです」
海のない久留米のシンボルがこの海の幸だったのだ。
千葉・房総の海に面した館山市。今から113年前、美術学校を卒業した青木は仲間三人とともにこの地にやってきました。
そして青木を天才画家にした「海の幸」が生まれたのです。
「其後ハ御無沙汰失礼候。モー此処に来て一ヶ月余になる。この残暑に健康はどうか?僕は海水浴で黒んぼーだよ、定めて君は知つて居られるであらうがこゝは万葉にある「女良」だ、すく近所に安房神社といふがある、官幣大社で、天豊美命をまつつたものだ、何しろ沖は黒潮の流を受けた激しい崎で上古に伝はらない人間の歴史の破が埋められて居たに相違ない、漁場として有名な荒つぽい処だ、冬になると四十里も五十里も黒潮の流れを切つて二月も沖に暮らして漁するそうだよ、西の方の浜伝ひの隣りに相の浜といふ処がある、詩的な名でないか、其次ハ平沙浦(ヘイザウラ)其次ハ伊藤のハナ、其次ハ洲の崎でこゝは相州の三浦半島と遥かに対して東京湾の口を扼(ヤク)して居るのだ上図はアイドといふ処で直ぐ近所だ、好い処で僕等の海水浴場だよ、上図が平沙浦、先きに見ゆるのが洲の崎だ、富士も見ゆる、雲ポッツリ、又ポッツリ、ポッツリ!波ピッチャリ、又ピッチャリ、ピッチャリ!砂ヂリヂリとやけて風ムシムシとあつくなぎたる空!はやりたる潮!童謡「ひまにや来て見よ、平沙の浦わアー西は洲の崎、東は布良アよ、沖を流るゝ黒瀬川アーサアサ、ドンブラコツコ、スツコツコ!」これが波のどかな平沙浦だよ、浜地には瓜、西瓜杯がよく出来るよ、蛤水の中から採れるよ、晴れると大島利島シキネ島等が列をそろえて沖を十里にかすんで見える、其波間を漁船が見えかくれする、面白いこと、」
夫れから浜磯では、モクツ、モク、アラメ、ワカメ、ミル、トサカメ、テングサ、メリグサ、アワビ、ハマグリ、タマガヒ、トコボシ、ウニ、イソギンチャク、ホラノカヒ、サヽヱ、アカニシ、ツメッケイ(ツメガヒ)杯だ、
まだまだ其外に名も知らぬものが倍も三倍もある、
また種族が同じで殊類なものもあるのだ、今は少々製作中だ、大きい、モデルを沢山つかつて居る、いづれ東京に帰へつてから御覧に入れる迄は黙して居よう。
八月二十二日 繁
満雄兄」
青木繁《海の幸》保存会: セクション
青木たちが滞在した布良は、明治の頃日本でも有数のマグロ延縄漁の基地だった。
青木たちはこの村の網元であった小谷家に世話になり、多くの作品を描き上げた。
小谷家住宅は、明治20年代の漁村を代表する建造物として評価が高く、2009(平成21)年秋、館山市有形文化財に指定されました。
「青木たちがこの漁村にやってきたのは日露戦争が始まった1904年。そんな時代になぜ若者たちが海辺でのんびり過ごせたのか。疑問は次々と湧いてくる」
青木たちの一団には女性も入っていた。
青木の恋人福田たね。当時18歳。 男三人に女一人。奇妙な一団を村人たちはどう受け入れたのでしょうか。
「うちの母が、誰もいないしこっちの部屋には人がいるんだけどねと覗いたら、女の方が裸で絵を描いていました」
裸の女性は福田たねだろう。青木の絵に心惹かれたたねは、自然と青木と行動をともにするようになります。やがて二人は恋仲になり、たねをモデルに青木は絵を描くようになります。いつしかたねは神話の中の女神のような存在に変化していきました。
絵の舞台となった布良では地元の漁師たちならではの絵の解釈が生まれてきました。
そのひとつが地元の神社、布良崎神社の神事の光景です。
命を謳歌する神輿はまさに海の幸の本質と重なるのではという。
「海の幸は想像絵だと思う。想像して描いた絵。というのは銛の絵・銛ざおの舳先が先を向いている。漁師は絶対そういうことはしない。コケたら人の頭を突いちゃうじゃない。だから絶対舳先は後ろの方に向ける」
それから、担いでいる銛ざおの長さ。6メーターの竿は振り回しきれない。ですから、この担ぎ棒も銛ざおじゃなくて違うもの。では何かと考えると神輿は6メーター58」
「神輿の棒ですから担ぐのは当たり前」
海の神々と恋人・たねへの思いが一つになり、青木の創作意欲は高まっていきました。
傑作と讃えられた「海の幸」。青木は発表後も大胆に筆を加えました。
こちらに目を向けた白塗りの顔。恋人・福田たねだ。
青木のもう一つの代表作と言われるのが「わだつみのいろこの宮」です。
一気呵成に描かれた「海の幸」とは違い、下絵を何枚も描いて構図や色を十分に検討し、賞とりを狙った作品でした。
ふたつの絵の違いをフランスの担当者はどう受け止めたのか。
「その違いは青木の能力の証明であり、描写能力の高さを示しています。どんな絵でも描けると2つの絵は語っています」
「ふてぶてしささえ感じる豊かな画力が絵に溢れています」
この絵の出来栄えに青木はよほど自信があったのでしょう。
親友の梅野満雄への手紙に鼻高々な言葉を並べています。
「今度の博覧会の洋画は全体としてなかなかの好結果。好成績にて候。こうなってみると、もうフランスのサロンに認められる作品のみとあいなること疑うべからず」
「今なら文部省の留学選定でも来たら拝んで喜ぶ。この堕落を黄身は喜んでくれると思う」
青木はヨーロッパへの留学を望んでいたのでしょうか。
「油絵は彼にとっての方法ではあったけれども決してヨーロッパの油絵が達成しているものに自分も連なりたいみたいな感じではなかったと思うんです」
満を持して臨んだ東京勧業博覧会。審査結果は三等末席。
青木の持ち味だった奔放な表現が影を潜め、物足りないと酷評を受けたのです。
思ってもみない結果に青木は激怒。痛烈な皮肉を雑誌に投書しました。
今日の大家と為るには資格を要す、法螺達者にして技術拙劣なる可し 大家は退化なり、画が描けては大家になれず、貯財せずば大家になれず、困ったものなり
青木繁25歳。天才の顔に深い陰が落ち始めます。
時同じくして、故郷久留米から父危篤の知らせ。
実家の父が多額の借金を残し他界 田舎の家族の生活が長男の青木茂に背負わされることになります。
生活力のない家族が青木を待ち受けていました。
その一方で恋人タネと、彼女との間に生まれた我が子への思い。
術なき自分の情けなさに青木は途方に暮れます。
絵にするために絵を描いてしまった天才の油断。
表現の本質を見間違え、血迷ってしまった結果でした。
フランスパリ。この街に青木が「大好きだ」と明言した画家がいました。
その画家は自らの屋敷を美術館にするという遺言を残しました。
ギュスターブ・モローは、聖書やギリシァ神話を題材に幻想的な絵を書き続けた画家です。
彼はその人生の大半を屋敷の中で絵を書き続けて過ごしたと言われます。
現実を写し取る写実派や印象派の絵を嫌い、自らの心に去来するイメージを描くことに没頭しました。
「モローの絵と青木の絵はどこか重なるところがある」と石橋さんはいいます。
神話の画家と言われた青木。
色も形も約束事はなく、思い描くままに絵筆を振るう。
その目は何を見ていたのでしょうか。
故郷に舞い戻った青木は二度と上京することはありませんでした。
その後青木は神話を描いていません。
食うために絵を描く。青木の現実でした。
「漁夫晩帰」
海の幸ともシウ汁構図ですが、つつましく収まった絵です。
一日の仕事を終え、家路をたどる漁師たち。
画面に漂うのは海の恵みへの感謝ではなく、生きていくという現実の重さのようです。
この絵にも遠く離れた恋人の面影が描き込まれています。
さらに、成長したであろうわが子の姿も。
その恋人が結婚したという噂を耳にすると、青木は久留米を離れ、佐賀、天草、熊本と九州各地を放浪します。酒に溺れ生活は荒れていく一方でした。
そして行き着いたのが唐津の海でした。
結核に侵された青木はこの地で生涯最後の作品を描きます。
青木繁の絶筆「朝日」。
北を望む唐津の海に朝日が上るはずはありません。
青木の目にはどんな海が見えていたのでしょうか。
この絵を描いた半年後青木は息を引き取ります。28年と8ヶ月の生涯でした。
青木がなくなって106年。生まれ育った家は復元され保存されています。
廊下の板材は当時のものです。
17歳の時この家から青木は大志を抱いて飛び立ちました。
これまでにないみずみずしい心を持った新しい絵を描いてみせる。
天才と呼ばれた青木はその志を果たせたのだろうか。
青木は遺書でこう記しています。
小生は死に逝く身故跡の事は知らず候故よろしく頼み上候。火葬料位は必ず
枕の下に入れて置候に付、夫れにて当地にて焼き残りたる骨灰は序の節高良山の奥のケシケシ山の松樹の根に埋めて被下度、
小生は彼の山のさみしき頃より思出多き筑紫平野を眺めて、此世の怨恨と憤懣と呪詛とを捨てて静かに永遠の平安なる眠りに就く可く候。
是のみは因縁ありて生まれたるそなた達の不遇とあきらめ此不運なりし繁が一生に
対する同情として、是非是非取り計らひ被下候様幾重にも御願申上候
「けしけし祭」
久留米市出身の画家、青木繁(1882~1911)をしのび、毎年青木の命日である3月25日に筑後川や櫨(はぜ)並木を見下ろす兜山の山頂に建立された歌碑の前で営まれる式典。久留米出身のミュージシャン・俳優の石橋凌さんや連合文化会関係者らが歌碑に酒をかけ、天才画家に思いをはせた。