美術史に革新をもたらした二人の巨人を特集する2回シリーズ。第2回は、西洋美術史研究をけん引し続ける美術史家・高階秀爾(たかしな・しゅうじ)さん、92歳。その著書『名画を見る眼』は、ルネサンスからモダンアートまで、巨匠たちの傑作を丁寧に読み解き、初心者にもわかりやすい最高の指南書として読み継がれている。ベラスケス、マネ、ルノワール、ピカソなど、巨匠たちの魅力を、高階さん自身の言葉で探訪する。
初回放送日:2024年6月9日
日曜美術館 「美を見つめ、美を届ける(2)名画を見る眼 高階秀爾」
西洋絵画といえば、何を思い浮かべますか?
あのルノワール、それとも20世紀の巨匠ピカソ?
単に西洋絵画といっても、多種多様です。
そんな名画を、美術初心者にもわかりやすく解説し、累計82万部にも上るロングセラーとなった本があります。「名画を見る目」。
一つ一つの名画を時代に沿って丁寧に掘り下げ、その魅力を分かりやすく伝えてくれる、いわば西洋美術の指南書です。
著者は、美術史家の高階秀爾さん、92歳。
「その絵を見るときに正すのは、男の人の名前があるだけではなく、その男の人、女の人がこんなポーズをしていますよ。それはどういう意味があるのか、天井からシャンデリアがぶら下がっていて、これが単なる飾りではなく、何か意味があるのかというようなことを皆に知らせたかった。それが絵を見る、さらに言えば絵を読み解くことだ。そのことを『名画を見る目』という本でやりたかったんです。」
今回、戦後の西洋美術史を牽引してきた高階さんにロングインタビュー。
ルネサンスからモダンアートまで、時代を変えた珠玉の名作を高階さんに読み解いてもらいます。
「戦後の日本の西洋美術研究の確固たる土台を作られた、そういう存在だと思いますね。読みながら名画を見るということは、歴史を歩くということだと気づくみたいな。それは当時、知らなかった見方として驚いたことだったなと思います。」
シリーズ「美を見つめ、美を届ける」
第2回目は、「名画を見る目」の著者高階秀爾さんに誘われ、西洋美術の扉を開きましょう。
東京上野にある国立西洋美術館。
高階さんが発足当初から関わり、以前は館長も務めた美術館です。
「全部揃っているわけではないけれども、この辺かな。まずはファン・エイク『アルノルフィーニ夫妻』。大変輝かしいというかな、まず最初の印象としては、個々のものが非常に輝いて見える。」
高階さんが著書『名画を見る目』で最初に取り上げたのが、15世紀に活躍した画家ヤン・ファン・エイクの**「アルノルフィーニ夫妻の肖像」**。
ファン・エイクは油彩画の創始者と言われています。
「現代まで続く西洋絵画の多くが油絵の具を使った油彩画であることから、ファン・エイクの作品を最初に取り上げることにしました。そのシャンデリアも輝いて見える。これはもちろん油絵の技法によるもので、従来のテンペラなんかとももちろん日本画とも違う。足元の犬、これも大変輝いて見える。そして、その輝きが、調べてみると、つまり天井のシャンデリアも輝いている。しかし、ロウソクが立っていて一本だけ火がついている。このロウソクの意味っていうのは、一本だけというのは婚約、ないしは結婚の意味があるんだと。それから犬っていうのは忠実、誠実という意味がある。この二人が単に犬を飼っていたのかなというだけではなく、それぞれの部分、部分に意味があるんです。」
『名画を見る目』では、この絵を徹底した写実主義の作品として紹介しています。
特に言葉を尽くしているのは、中央にある鏡です。
『名画を見る目』にはこうあります。
「よく見ると、この凸面鏡には、画面には描かれていない手前の部分まで含めて、部屋の様子がそっくりそのまま映っている。その二人の後ろ姿のちょうど間に、この部屋の入り口が映っており、二人の人物が入ってきたところまでが克明に描かれている。二人の来訪者のうち一人はファン・エイク自身であるかもしれない。凸面鏡のかかっている壁にゴシック風の見事な装飾文字で『ヤン・ファン・エイク、ここにありき』と。つまり、自分はここに来たんだよということをはっきり示す。これも単に自分がこの絵を描きましたという署名ではなく、保証人というか、証人として。何の保証かというと、二人の婚約だ。男女二人が物々しい格好で手を組んでいる。あれは婚約の約束事を二人がやった証人としてファン・エイクたちがやってきた。保証人としての署名。それを絵の中に入れちゃった。鏡というものの面白さ、空間がずっと手前にまで広がっていく。それから、あそこにサインがある。だから、あの絵は平面を描いているけれども、空間につながっているという意味を、あのサインと鏡で見せているということなんですね。」
ボッティチェリ『春』
「神話的幻想の装飾美。この名作ぐらい、春の美しさと優しさとを見事に表現し得た作品は他に例がない。ボッティチェリは、大勢の登場人物たちをそれぞれ然るべき位置に配置し、その役割に応じて動きをつける。優れた舞台監督のようである。これは物語を描いている。右側の女性は大地のニンフクロリスというんだ。彼女が西風の神に追いかけられて、その西風がほっぺたを膨らませて出てくる。西風は春のシンボルなんです。ヨーロッパでは西風が吹いてくると春が訪れる。そうすると、春が来たことで、クロリスの口から花がこぼれ、その花が彼女をフローラという女神に変えていくという物語なんです。」
中央でこちらを見つめるのはヴィーナス。その横で踊るのは愛欲、純潔、美を表す賛美者たちです。ボッティチェリは、15世紀のイタリア、フィレンツェで活躍し、愛と美をテーマに官能的で幻想的な世界を描きました。
登場人物は全部で9人おり、彼らはほとんど前後に重なり合うことなく、ほぼ一列に平面的に並んでいます。これは、鏡のトリックまで使って画面の奥行きを強調したファン・エイクの『アルノルフィーニ夫妻の肖像』とは全く異なる装飾的な世界です。
ボッティチェリは、悲しいまでに美しい理想の美の世界に憧れる抒情詩人だったのです。
続いては、『ラス・メニーナス』。17世紀、スペインの宮廷画家ディエゴ・ベラスケスが描いた傑作です。
「非常に印象的な絵ですね。真ん中にいるのは王女様マルガリータ。この絵は、ベラスケスが彼女の肖像を描いている瞬間を捉えたものです。王女様はまだ6歳。じっとしているのが難しいので、侍女たちがなだめている場面です。そこへ国王夫妻がやってくるのですが、そのことは、奥に描かれた鏡に夫妻の姿が映っていることでわかります。このように、宮廷での一瞬の出来事をベラスケスは見事に一つの画面にまとめています。」
鏡を描いたといえば、15世紀のファン・エイクの作品が有名ですが、200年後、絵画は進化しました。ベラスケスの場合、さらに空間を広げるために、奥の扉を一つ開けています。アルノルフィーニ夫妻とは違い、鏡に加えて、空間を奥へと広げる効果を得ています。
また、この二つの絵の違いは画家の存在です。ファン・エイクは鏡に映る小さな姿とサインで自分の存在を示しましたが、ベラスケスは堂々とした自分の姿を描き、こちらを見つめています。この頃には、画家の地位が大きくなってきており、ルネサンス期の職人から芸術家へと変わっていきました。
さらに違いがあるのは筆触です。ファン・エイクの作品は綿密に仕上げられており、筆使いの跡が見分けられません。しかし、ベラスケスの作品では、筆の跡がしばしば画面にそのまま残っています。これは、200年後の印象派を予感させるものと言えるでしょう。
高階さんの留学時代の写真です。
1932年、東京生まれ。留学の機会を得たのは、東京大学大学院在学中のことでした。
「あの頃は、やたらに外国に行けない時代で、保証人が必要でした。向こうには誰も知り合いがいないので、その保証人の代わりになるのが、フランス政府の旧日留学生制度でした。日本では、みんな行きたがるので試験を受けました。フランス語がある程度できて、理解できるなら、試験に合格できるという仕組みでした。私も試験を受けて、何人かと一緒にフランスに渡りました。お金はないので、フランスに着いたら、奨学金で学生食堂に行く程度の資金があり、学生寮にだけは住むことができました。それで、絵を見て回ることもできたのです。」
高階さんが何より感動したのは、それまで古い図版やモノクロの絵葉書でしか知らなかった西洋画の「本物」を目にしたことでした。
「今まで見ていた絵の感じとまるで違うんですよね。実際に美術館に行って見ると、まずスケールが違うし、色彩の輝きも全然違う。そういうものを見て、美術というものが、今まであの複製、しかもいい加減な複製で見ていたものではなく、非常に奥深いものだと感じたんです。」
5年間、フランスだけでなく、ヨーロッパ中の名画を見て回ったと言います。そして帰国後、開館したばかりの国立西洋美術館の主任研究官に就任しました。美術館の仕事をしながらも、留学中に見た名画の感動を多くの人に伝えるべく、あの本を執筆します。
1969年に出版された『名画を見る目』。この本を愛読してきた人物がいます。美術史家で、大原美術館の館長、三浦淳さんです。
その当時の美術史学というのは、やはり
洋式論が中心だったんですよねルレサンスとかバロックとかロコ子とか、そういった様式の展開をたどるというような美術館主流だったんですけれども、高品先生はこの本の中で、
個々の作品を
詳しく面白く読み解いていく手法があるんだということを示してくださったんですね細部に至るまでどんな意味があるのか、また当時の社会文化の中でどんな意味を持っていたのかとか、様々な視点から我々に絵を面白く見る方法を教えてくださったんだと思います高品先生のこういったお仕事がなかったら、ちょっと西洋美術史、どこだったんだろうかなりこれは遅れたんじゃないかなと思いますねまさに同時代の最新の情報をどんどん我々にですね、与えてくださったという意味において、戦後の日本の西洋美術研究の確保としては土台を作られた、そういう存在だと思いますね私だって、もしも映画を見る目を読まなかったら、まあ美術研究者にはなっていなかったんじゃないかなと自分でも思いますね現代の若い作家にも影響を与えていますアーティストの伏井倫太郎さん
絵画や映像、
自作の詩など、
多彩な方法で独
自の表現を追求している伏井さん
高校時代に
名画を見る目を読んだといいます
やっぱり目次に
直接
年号が振ってあるとか
そういうわけじゃないのに
読んでみると、
前から後ろに向かって
時代が、歴史が進
みながら、
最初の一生のファンの内科で喋ってた話が、
後のベラスケスの方で生きてきたりとか、そういう形で歴史がつながってるんだっていうことを、なんかこう自分が気づく島読みながらその名画を見るっていうことは、その歴史を歩くってことだと気づくみたいなそれはなんかこう、当時知らなかった見方として驚いたことだったなっていうふうに思いますかねその一方で、不思議な表現も印象に残ったといいますそれは十九世紀のフランスの画家マネの作品についてオランピアには今にも崩れ去ろうとする壮麗な建築を最後の一点で過労死で支えているような緊張感と不安感とがある
まず絵画は
建築じゃないですし、その介護は建築じゃないのに、絵画が建築として、その建築が崩れ去るのを可能時の一点で何かが支えているでもその何かが支えているっていう、その支えているものは示してくれなくて、でもなんかそこはやっぱ読み解くしかないそんな緊張感と不安感っていうのを彼はオランピアについて感じていると同時に僕はこの文章からも感じたりして、生で見たこともないボランティアっていうのが何
か忘れられない一枚になるためのきっかけとして自分の中に残ったのかなと思ってますねベッドの上に悠然と横たわって、じっと我々を見つめているこのラフくらい発表された時に大きな騒ぎを引き起こした作品は、西欧美術史の上ではちょっと他に例が少ないギリシア神話の女神が裸で横たわっているのなら、喜んで干渉する人々も、街の中で出会う少女をそのまま裸にして晒し物にしたような作品には激しい非難を浴びせかけるのであるそれは結局は同じことだと言ってもボッティチェリの春、そこには肌をあらわにした女性がいますいえ、女性ではなく神なのですだから許されました同じヌードであっても、しかし彼女は神ではありませ んだから許されなかったのです同じードであっても、そしてそれだけではありません風紀的な観点から見れば、オランピアは当時の社会に対する反逆であったが、絵画表現の上から言えば、それは西欧四百年の歴史に対する反逆だったと言っても良い十五世紀の名画と十七世紀の名画です二人の巨匠が生み出そうとしたのは空間ですつまり、画家たちはずっと二次元の絵画で、いかに三次元の現実世界を表現するかに努力を重ねてきましたしかし、マネは色を平坦に塗り、輪郭線で囲い、
まるでトランプの絵札のように
平面的に描いています
それまで培
われてきた絵画の常識を
覆すような表現、
今にも崩れ去ろうとする壮麗な建築を、
最後の一点で辛うじて支えているような
緊張感と不安感とがある
最後の一点は
言葉では尽くせないものかもしれません
しかし、それがあるからこそ、
名画として残った
真似の絵は、散々
サロンという当時の
正式のところに出すと、最初はこっちで、そのうちに入ったやつが市民たちの、これはこんな変なよっていうことで、あのオランピアはサロンに入るんですけれども、それは絵がうまいからじゃなくて、こんなひどい絵だということを示すために、サロンの審査員たちが入れてるんですよ見せしめ に、そのためにスキャンダルになるんですよねお客はこんなひどい絵っていうので、傘でついたりするから、もう少し高いところに置いたしかし、真似は平気なんですよね
変な絵でも大丈夫だ
要するに真似は
これ、
最初見ると変だと
思うかもしれない
とにかく見てほしい、
見ているうちに
自然にわかってくるんだろう
こういう
見方、あるいはこういう
世界があると
いうことを
見てほしいちょっと見ると、なんかひどい世界と思うけれども、見ていくうちに分かってもらえるんだと それが確かに歴史の転換になるんです真似以降、印象派は真似から出てくるということになるわけです実際に真似の言う通り、当時評判が悪かったオランプ屋にしても、今見れば非常に一般作品になっています絵画というのはそういうものであるという ことは歴史的に証明され、
絵画の歴史が
あそこで大きく変わってくるマネが開いた新しい時代を引き継いだのが印象派ルノワールはその一人印象派の画家の 中で 比較的早く売れたのがルノーアルなんですよねボランティアなんかだと、とても自分の部屋に飾れないけど、これはお嬢さんに立派な人が
ピアノの稽古だ
ですから、
市民社会に
非常に早く
受け入れ
られていった
背景は緑と赤
のカーテンで
つまり
色としては
いわゆる捕食の関係 そして 二人の
少女の髪の毛の色も
服装も違う
絵画としても
絶え見事なんだ
非常にうまかったと思います
構図に関しても
自然に
できるでしょう
胸よりも
構図、大変うまいですこれはやっぱり画家としての点です構図ではセダンヌが非常に見事、あるいは苦労してああいう構造を作るルノワールは平気でできちゃうわけですよそういう意味では面白い人ですよね画家としては、ルノワールの描き出す世界には、全ての人を惹きつけずにはおかない平和な輝きがある無邪気な子供、そして何よりも女性ある意味では通続的な主題であるしかし、ルノワールの作品は、継続的であることが決して偉大であることを妨げない雄弁な霊称であると言って良い実は高品さん、最初の西洋画体験がルノワールだったと言いますこれはですね、体験というかつまり、まだパリどころか大学にも行ってない電車に乗って学校に通ってた その電車の乗り場所の近くに古どう屋さんが電車があるまでちょっと覗いてみると、そこでいろんな 古道具すること半分壊れたような棚だとか、あるいはお盆だとか、昔はそういうもの、
もう戦後で
何もないんで、
結構
商売になった
らしいんです
それの中で
額縁があって、 その中 に、
これは額縁ですよということを示すために、
ルノワールの
ラフ
カレンダーが何から切り取ったやつ
入れてたん
で、それを見て
もう周りは汚
いフル道具ばっかりだけれども、こんなに美しい絵があるというんで、思いっきりこのいくらですかって言ったら震え、これは売り物じゃないんだよ
売り物は額縁
の方なんで
汚れてた
それで
中学生早々に引き下がっちゃったんです
デルソレルノアル体験
ですよね
それでそれはたぶん
複製で、しかも
必死の良くない複製だったと思います
しかし、自分の知らない世界がそこにある
というので、
フランスに行きたいなと思った
わけですね
絵画の歴史には、
時に奇跡
としか言いようのない
不思議が起こることがある
様式の発展とか
時代の動きなどというものとは全
く無関係に、
思いがけない傑作が、
まるで別の星の世界から突然やってきたかのように、我々の目の前に出現する場合がある幕の下の時に文を聞いてみたいつまりヨーロッパの歴史の中で流れの中に入りきらない画家辻さんの奇想のわかったぞ著書奇想の系譜で絵画の常識を打ち破るようなアバンギャルドな画家たちにスポットを当てた美術史家辻信夫さん辻さんの専門は日本美術ですが、フランスの画家ルソウにも注目していました、そんな辻さんとじっくり武装について語り合いますこれこれ、いや、これは家です家ですよね要するに
黒い顔の女の人が
寝てる
砂漠かどっかに寝てる
みたいだけれども
で、
その衣装は
非常にいろんな色が
綺麗に並んでるんですよね
木とか赤とか
色が
三つに見事に
ずーっと並んでるし
という感じでねいい a だなそしてライオンが登場してくる非常に不思議な絵ですよねこれはつまり 現実リアリスムではないよと絵っていうのはリアリズムだっていうのは
生は非常に
ギリシャの昔からあるんだけど、
そうではなくて
一種
夢のような世界、あのレアリズムではないと思いましたけど、やっぱりこの絵もあのライオンの伊達上中道、すごくリアルな感じもそうなんですがそれでこの映画もまた幻想世界カットリアルのつないでいるようなまあ日本にはソロゴッドっていう言葉がありますかねそれだからやっぱり日本人の理屈に現実にこだわって、この木は
まあ
木こりが一生懸命着地
してるのに
削った
のが地面には何もないと
おかしいっていうと、それはやそろごとだっていう辛いわけねえしということで、その後という言葉があればそういうのが全部片付いちゃうわけでその点では西洋も日本も同じことで、アキレスとカメ競争すると、アキレスは決して神に追いつかないとかね理屈ではない世界、それが 美術理屈ではないしかし我々にとって非常に大きな心に訴えてくるというか、理屈を超えて訴えてくるものがあるそれがあの美術の優れた面であり、
面白さの面だと
いうことですよね
近さなんかもその辺に乗っかってくるんですよね
そうなんですよね
ルソーとも信仰があったというピカソが二十世紀の初めに書いたアビニョンの娘たち西欧の長い芸術の歴史においても、これほどまで官能的魅力に乏しい、さらに言えば醜いラフ像が描かれたことはかつてなかったと言ってよいアビニョンの娘たちは、従来の伝統的な空間構成や携帯把握をあらゆる点で否定した記念碑的作品だったのであるアビニョンとは、ピカソが少年時代に過ごしたアルセロナの下町の通りの名です娘たちとはそこの娼婦のこと当初は彼女たちを見たまま描こうとしたと言いますしかし、途中から変化します現実の再現ではなく、新しい形を生み出すこれは 人の体というよりも造形的な問題だピカソという人は形のどんどん変えていくのが見事な作家なんですよね 形態の変貌というのは、大変見事な
ことをできる
絵画っていうのも音楽と同じで
人に何か訴える
訴え方を
形でやるわけですからね
その歌い方を
形をうまく
使う人なら
berrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrr
rrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrr
rrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrr
rrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrr
rrrrrrrryzモンドリアンブロードウェイブギュウギ第二次世界大戦が終わる少し前の作品ですモンドリアンはピカソの作品に刺激を受けましたそして垂直線と水平線の組み合わせだけで絵画を生み出しますこの絵は七十歳を超えたモンドリアが踊りながら描いたといいますニューヨークの風景ですこれはですね、ただ、だからニューヨークの街の感じがまるで違うパリと違ってパリは街がまとまっているしかしニューヨークというのはバラバラなんですよバラバラでそれを統一するのは照明なんですはかりであの車や、なんか信号だとか、なんかで、四十二丁目がなんかミュージカルがいっぱいあるちょっと隣に行くとなんか貧民街があったりいうイメージですよねそれをまとめるのは光なんです縦横完全に垂直水平で、色も赤、 青、黄という三つの色だけで、形としては実に整然と作っている彼は垂直に天空にそびえ立つマテンローの冷たい幾何学的構成を愛したと同じ程度に生々しいジャズのリズムを愛し、七十歳を超えた高齢にもかかわらず演奏をお聞きに出かけたりしたブロードウェイ・ブギウギにはそのような生き生き とした生命のリズムが感じられる名画を見る目は、このモンドリアンの章で締めくくられますあとがきにこうあります中小絵画といえども、決して不意に生まれてきたものではないつまり、画家っていうのは、自然を見て風景を描くんではなくて、先輩の絵を見て自然を描くそういうそれは空間表現でも何でも、先輩たちの絵を見て受け継いで描いているその先輩もまた先輩から来ている美術というのは、歴史のつながりとして
作品が
生まれてきている
ということで、 歴史に
つながるわけですよね
だからその
先輩たちの歴史が
ずっとかめられてるんで、美術
史が成り立つわけですよね
まあ、あの
美味しかっていうのは
やっぱり道楽
道楽本だという
私も実は
医者になり、そこにいて
民主化になったんで、
昔はそういう
金
お金も一応お坊ちゃんの
道楽仕事だっていうふうに
思われてて、面が
しかしどこも
今になってみると、
そうだけじゃなくて、やっぱり
大事な役割があるんですよね
あの作品
一つにしても、やっぱり絵っていうものは、人に見られて初めて絵になるっていう感じ仕事が書かれただけで、ただのものをボーンとして終わっちゃうわけで、それを、ものを絵にするのがあの人間の目であって、その人間の目にものを誘導するの が、美味しかった役割じゃないのと知事さんのおっしゃるあの同じことで絵に永遠に語らせるんですよね僕は美術館の役割は語らない商人一商人、商人に語らせるのが役割だと絵っていうのは書かれた時代、その時代の承認なんですよねこう見ていてね、これなんだろう、これを あの、我々は見て、綺麗だとか美しいでなくて、ここにいる変な人、何喋ってるんだろうと
いうことをこれも辻さんのお話、我々の歴史、美術史っていうのをやる役割なんですよねあ、この、これは、こういう人はこれを喋ってるんだよと絵は何も言わないで終わってると、それをなんか必ず語らせるっていう、確かにそうですよね、水産のおっしゃったのそれで歴史が成り立つわけですよね