美術史に革新をもたらした二人の巨人を特集する2回シリーズ。第1回は、今年92歳、今も研究を続ける美術史家の辻惟雄(つじ・のぶお)さん。伊藤若冲や曽我蕭白など、忘れ去られていた江戸の画家たちに光をあてた名著『奇想の系譜』で日本美術史の常識を覆した。その世界を、辻さん自身の言葉で探訪。本の枠を超え、辻さんが注目する若冲の新しい読み解きや、辻さんが現代美術の傑作と評する奇想の漫画へと物語は広がっていく。
初回放送日:2024年6月2日
日曜美術館 「美を見つめ、美を届ける(1)奇想の系譜 辻惟雄」
「言わずと知れた江戸の天才絵師、伊藤若冲。そして前代未聞、空前絶後の異端児、曽我蕭白。今や大人気の絵師ですが、以前は忘れ去られ、その名を知る人はほとんどいませんでした。そんな彼らに光を当て、江戸絵画史、いや、日本美術史に変革の一撃を加えたのがこの一冊、『奇想の系譜』です。」
「唯一無二の強烈な個性を放つ画家たちを取り上げ、現代アートになれた読者をも驚愕させました。著者は今年で九十二歳になる美術史家、辻惟雄さんです。」
「『奇想っていうのはやっぱり普通でない、面白さを持ったもの』と辻さんは語ります。『奇抜な表現とか、ただ明るく言うボラスがふざけた、おどけたものだけではなく、何か歪んだものもそこにあって、もうちょっと切実なもの、人間のドラマがそこに生まれている』と。今回、日本美術史に革命を起こした辻さんにロングインタビューし、奇想の画家たちの魅力を新たな視点を交えて語ってもらいます。」
これはね、 私は
「誰もまだ注目してないけど、ねこの人の論文はやっぱり実施家がちょっと読んでみなきゃいけないのじゃないかと」
さらに辻さんはこの人の作品にも注目します。
「真っ奇想の漫画家っていうのがこうなってくると、これは現代美術の方に入れた方がいいんじゃないかと思いますけどね。」
現代にもつながる奇想の系譜。辻惟雄さんに誘われ、日本美術の大胆で奥深い世界へ。
「これがその山中時、 あの、こういう場面ですよねこういう場面、有妻子の頃だからずいぶん昔のことですけども、これを初めて見て、それは衝撃でねその日の昼に宿屋から持ってきた弁当の数が鮭の切り身だったんですねそれが食べれなかった。」
辻さんの著書「奇想の系譜」で最初に取り上げたのが、源の義常。牛若丸の伝説を描いた山中時は物語絵巻母常磐御前を殺された牛若丸が、敵である盗賊たちを討ち取る物語です江戸初期の絵師、岩佐又兵衛が描きました。辻さんが又兵衛と出会ったのは、大学院で日本美術を学んでいる時でした。指導教官に終始、論文のテーマを又兵衛にしてはと勧められ、この絵巻を見たのです。平安や鎌倉の優美な絵巻物とは程遠い千見泥のシーンの連続。しかし辻さんはそこに現代人の興味をくすぐるエキセントリックな魅力を見出したのです。奇想の系譜にはこうあります。中でもショッキングなのは常磐殺しの場面である画家は七頭も同じ場面を当て、必要な反復描写によって、その経過を常磐の肌の色が刻々と変わっていくところまで生々しく描き込んでいる画家の態度には異常な視覚的情熱が感じられるさらに興味をそそるのは樹木の表現である常磐が刺される場面に描かれた庭の松は、幹が苦痛に身もだえし、苦しむかのように激しくうねり、葉は一方に向かって張り詰めている次の場面では同じマツがミキモ葉も力なくうなだれ、まさに消えようとする常磐の生命を暗示している岩佐又兵衛の自画像です父は戦国武将の荒木村重、母は幼い時に処刑されました村重が主君であった織田信長に反逆を企てたため、見せしめに一族祭司は殺されたのです幼かった又兵衛は運良くその難を逃れ、後に絵師となりました又兵衛っていうのは、二歳の時に母親が六票側に連れ出されて言われたと成因してからでしょうけど、そのこと教えられたとやっぱり普通の真理でいられるわけじゃないですよねいくら戦国の世の方がいれば、自分の海の母親はそういう目に遭ったんだっていうのを知って、やっぱり一生懸命心の中のトラウマになっていたものそういうのがこの時計殺すの、こういう場面なって表現されているということになんかここに又兵衛が沖縄御殿と自分が母親と重ねているんじゃないかという南国に殺されながら、非常にこの顔には気品があると、そういうことを思い出してから、ますますちょっとこれにこだわる し つこくこだわるようになったっていうか、こういう絵ってのは、ちょっと日本の美術も海外人も、エマキン氏の中でも海外資の中でも類がありませんからねはい、桃山の巨木の痙攣老人の解読職の幹は、金字の輝きの中をさながら見もだえし、のたうち回る巨大な万龍のように上昇し、下降し、屈曲 し、痙攣する桃山の巨木は、ついに奇怪な幻想の世界に映されてしまった自然の形態からよく観察はしてるんだけども、そのままにはかない それを自分の好みの形に合わせて歪めてしまうっていうような、なんか幾何学的な形に弱心はそうだし、北斎がそうなんですよねそれがモメモノ代表式を継承する過程の中でそういうものが出てきてしまってのはこりゃすごいことだろうね桃山時代、信長や秀吉に仕え繁栄してきた狩野派その継承者であった三節は船団の時代運命に翻弄されますやっぱり狩野派の運命というか、天下分け目の関原以後の神奈川の取った戦略ですけども、どっちになるかわからないと、天下は豊臣方になるか、徳川方になれば、どっちかに着いたら、もうそっちが負けたらおしまいでしょだから、あの鹿の葉を二つに分けて、片っぽをという髪型に使って、片っぽを徳川に踏んでるという作戦をとったんじゃないかと、豊 富側に着いた三節は命ばかりは助かりましたが、エリート絵師としての道は閉ざされますもともと人嫌いだったという三節は、失意の中家にこもり、ただただ絵画に没頭するなんか妙な歪んだものを持ってた人だと思うんだよね僕の叫びじゃないけど、ああいう病的なものがあの世話は人間でも中心になっているこちらは日本の予想じゃなくて、地獄が中心なんですよ特に桃山時代は、ここは人間に受け入れられた地獄だと思ってみると面白いと思うんですよねそれを私は軽減という言葉で表したんだけど、このグロテスクな巨樹の痙攣が単に桃山の時代精神の断末魔の象徴的表現であるだけでなく、この後一世紀以上遅れて登場する弱虫松白京都奇想派のいわば戦区としての意義をも持つように私には思われる美術歯科辻伸雄さんは千九百三十二年、名古屋市に生まれました産婦人科医であった父の後を継ぐべく、医者となるため東京大学に進学しかし夢中になったのは美術でした心からじゃない、一生懸命五本の餌を勉強してた時ですけど、美術に熱中する一方、もともと苦手だった理数系の成績は下がり、二年続けて留年辻さんは大きく進路変更します教授たちと相談し、二十二歳の時、文学部の美術史学科を選択しました、石垣に入ったレンズは、あの、大体八割ぐらいが西洋ビスで、二割ぐらいが日本一に大きな地獄という、そういう割合でしたし、同然性をやると思ったんですけども、西洋美術の専門家になるには、やっぱりパリに留学しなきゃいけないとそのためのお金もまた、これまで世話になった親父、さらに留学の日を前に出させるってわけにいかないと思って、あまり深く知らなかった日本美術しかし学んでいくうちに夢中になりますそして終始過程白紙、家庭へと進み、助手を一年余り務めますその後、上野の東京国立文化財研究所に入所、本格的に美術歯科としてのキャリアを積んでいくのですそして三十七歳の時、奇想の系譜が出版されます辻さんは後にこう語っています平穏無事な江戸時代、絵画師にいささか刺激となる毒をもろうという私の企み辻さんを昔からよく知る人がいます美術歯科で岡田美術館の館長、小林正さんです通算によって、江戸時代の退屈な携帯的な時代という印象は、美術の世界でガラッと変えてもらえたと思うんですね当時は非主流というか 合流のおいおいやんちゃわなテストの地で、水産自身がやんちゃなんですねだからあの私、あるところで生産っていうのはこういう人だ私がこの世の中であって一番風変わりで、しかも面白くて親しい意味をもう覚える人だっていったことが書いたことがあるんですけど、知り合ったのは小林さんが大学生の時その後一緒に調査旅行に行くなどし、同じ江戸絵画を研究するものとして交流を続けています五十年以上の付き合いですとにかく何かしょっちゅう考えている頭の中でしょっちゅうっていうかある考えが浮かぶと、もうそっちの方に頭が行っちゃう方だと思うんですねで、本郷から帰る時に本郷三丁目のそのここら辺に当時は切符を買う、地下鉄の切符を買う買ったすぐここが改札のに、もうない、どこかへしまっちゃったんですねバタバタバタバタやってるけど出てこないでまた来てそういう忘れ物の話はもう大変誰に聞いてもいくつも話せると思うんですけど、ということは何かというとしょっちゅうなんか考えてるんだと思うんですよそしてもう一人の奇想の画家と出会いますアメリカ人コレクタージョープライスさんが集めていた伊藤弱虫ジョープライスというアメリカのお金持ちの大野蔵氏が用途でたいヨットで独身で太平洋を乗り回していると、それが日本に乗り込んできて、訳注はないかないかと言って京都大阪 の歌唱に聞いてもらってるとなんていう、あの突拍子もない話が聞いてきたんで、こりゃちょっとただならぬことだと思ってね辻さんは小美術賞を訪ね、プライスさんが買う予定の二つの絵を目にします当時、弱虫は日本では忘れ去られていた画家でした辻さんも本物を見たことがありませんでしたそして驚きます密度の高い彩色形の無限な反復と広がり江戸時代にこうした画家がいたのか、日本語ばなりしていると、非常に画面の密度が強い 恋と物の存在感自体がはっきりしているとしかも形に対する特殊な思考という好みがあるこの人は、やっぱり物を見ることに関心のない人では決してなかったと思う我々は万全と木の葉を見てるんじゃなくて、その花が赤ほど見てるんでしょうねそしてその中から、自分にはこうでしか見えないというような形を見つけ出すその一番深いところにまでジャクソンが行ってるんじゃないかっていう幻想の博物誌伊藤弱虫中国画の素養を持つ彼が、ひとたび手本から離れ、物との独自な対話を始める時、そこには全く弱虫自身のものとしか言いようのない特異な映像の世界が現実するのである大洪水の画面で波打ち際に這う何頭の南隊動物か、アミーバの触手のような生き物メーター表情に注目していただきた い、シルレアリスムの作品を連想させるようなこの驚くべきイメージは、全く弱虫のオリジナリティに属するものなのだ軍系図では、中小模様に置き換えられた羽のパターンの幻想的な公共と、その間に散りばめられた登坂の赤い妖精を思わせるフォルムの反復とが、制作意図のありかを示しているこの人はね、画面をね、あの端から端までね、どこにアクセントを置いて、どこを手を抜くかってことね、全然しないでね、ずーっとこう、高く人なんですねで、端から端までねって言ってね、それを徹底させると、本当に不思議な世界が出てくるんですよねこれは一体何だろうっていうなこれをどうやって書くかということについては自閉スペックドラムという難しい言葉で言うから、何べんたって忘れちゃうけど要するに、あの gsベクトルの特性については、この前には弱虫を、弱虫がまさにそうだということで私に論文を送ってくださったんで、辻さんに論文を送った花園つとむさん精神科医としての経験を通して、認知特性とアート表現の関わりを研究しています五年前、弱虫の絵画表現に特定の発達特性を持つ人との共通点が見られることに注目し、論文にまとめましたディレイスペクタル部というのはですね、細かいとこ ろに注目して全体を見ないという特徴がありますこれを細部への焦点化っていうんですけども、それはですね、全体を俯瞰するように総合的に見るんじゃなくて、細かいところだけに焦点を分けて集中するという見方をすることがあります弱虫もやはりそういう特性を持っていたのではないかと例えば難点有形図っていうのがあります初代は鶏でしょうけれども、背景の難点と その強調するところがですね、同じ密度で同じエネルギーを持って強調されているので、背景とその主題の差があまりないんですねその難点の身にしてもですね、一つ一つがかなり細かく描き分けられていて、中にはですね、難点の実の一つが熟しすぎてちょっと黄色いところが出ていると、そういうところまで描き分けているんですねそういう蔡英文の商店化っていうのがはっきりと見られますもう一つはですね、反復繰り返しっていいまして、驚異的な集中力を持って同じことを繰り返していくっていうのも一つの特徴なんですねそういうのが弱点の作品の中に垣間見られるということが言えますこれがつい先生のお手紙、私としてはですね、ちらっと目を通していただけるだけでもありがたいなと思ってたんですけども、驚いたことに詳細に読み込まれてですね、その自閉スペクトラムという科学の鍵を用いて、まあ弱虫の秘密の部屋を次々と開けていくその手腕に、目から鱗の落ちる思いだというふうに書いてたんですね辻先生のようなオーソリティがですね、そういうものを呼んでですね、目から鱗を落とすというその能力といいますかね、そういうことに逆に驚いたわけですそして去年、花園さんはもう一つの論文を発表十九世紀末から二十世紀にかけて活躍したフランスの画家アンリルソウについてです失踪の系譜の弱虫の章の最後だったと思いますけど、アンリルソのことで勧めかくられているんですねアンリルソのような純粋な目を持った画家の刑務に蛇口も連なるんじゃないかというようなことを書かれています西洋の油絵と日本の二階とは十分違いますけど、丁寧に塗ってあるというところがよく似ているし、緑だって二十色使ってたそうですその二十色を混ぜ合わせるじゃなくて、 ねここの部分はこの色、この部分はこの色で、駆け上げてるジャクチュウの絵の 特徴とアンニューソン映画特徴は本当不思議に似たところがあるんですよね私は臨床医としてゼヘイスペクトラムの特性を強く持っている方をたくさん見てきて、それが必ずしも生涯とか弱点弱みではないということがよくわかってきたわけですね弱虫だとか、物騒だったとか、アーティスト、あるいはテクノロジーの最先端でイノベーティブな仕事をしている人たちの中でも見られるそういう人たちが非常にたくさんいるそういうことをですね、やはり私たちはちゃんと理解しておく必要があると思うんですね狂気の里の千人たちこれまで想像したこともない猛烈な代物に、最近お目にかかったソガー少伯の軍船図描部がそれであるとりわけ表現の奇想天外なことは、この種の画題を扱った古今の作品を通じ、まず空前絶望と言ってよいだろう薄着布打ち輪越しにヤブにらみの周波を送る西欧母の表情は、最末期の浮世絵美人以上に博打的だ水死体のように青ざめて膨れた腹の妖怪風ガマ千人が、美人に耳垢を取らせているのもかなりの悪趣味だ鳳凰に賞を吹いて聞かせる官能のしゃがんも、強撃の役者が熊取りしたように人間離れしている後に辻さんは、正気と狂気の狭間にあるこの作品と出会わなければ、奇想の系譜は生まれなかったとも言っていますそれで 問題は早期で書いたのか、狂気で、いわゆる狂った狂気で書いたのかという問題に結局なるんですけども、 当時の 時代に流行した、京都で流行した思想というか、文人の間の軍人、地域層の間に有効した考えというのがあって、それはですね、教員こそが聖人聖なる人間に近づく最もいい法教授になるということが最もいい方法だという極端な質問ですけども、養教っていう言葉があってですね、これは人間に羊、羊を描いていようということで偽るという意味ですね東京 京を偽るという伝統が中国には来るからあるらしいですそれは王朝が変わった時なんか、前の王朝に仕えてた人が、これちょっと自分の立場が危なくなると思って、それで狂人を偽って罪を免れるという、そういう伝統がずっとあってですね、それがまた異質の知識と結びついて、東京町 こそまさに成人への道であるという、そういう考えが、この小学生が生きていた時代に流行ったっていうんですねどうもそういうものに詰まったと例えばこのワーッと手を挙げている人の専任の紙のこの部分ですけども、ものすごく細い線で、その細かさたるや強靭なせるような技とは思えないんですけどね、非常に冷静にこの絵は設計されていて、ものすごく繊細ですねちょっと思い出したんですけれども、初めての絵画という本があって、これの中でですね、こういうのがあるんですねこれ、私もあっと驚いたんですけど、ポイントは赤、 青、 黄色三原色の説明してるんですそれが三原色のマティスが、フェルメールが出てきて、ここに宗派が、これが出てくるんですよ ああ、やっと驚いたんですけど、確かに赤は大きいなんですね、青に白、 この 黄色、赤って、みんな非常に手箱が欲しいようなお互いに参議院職を使っているから大事効果でもってお互いの色がより派手に見えるという効果もあるんでしょうけども、そういうところまで計算に入れて書かれた絵なんだということもだんだんわかってきて、私は日本に続いていくと随分と昔から豊富にあるように思うんです今から三十五年前、東京大学の教授をしていた時の辻さんです研究室の書棚には日本美術の資料とともに漫画がずらり、その中でも夢中になった作品があるといいますすげー吉原ガロッカローに書いてた頃から知ってましてねあの画廊を撮り始めた頃、次は usr はスキーマンが書いていて、その中にネジ式が入ってたんですねネジ式が入ってて、これはすごい漫画ができて、できたと思ったんだけど、千九百六十八年に発表された一話完結の漫画作品ネジ式と、ある海岸でメメクラゲに左腕を噛まれ、静脈を切断された男が主人公医者を求め村をさまよう数々の不条理な出来事に遭遇そして、ついに女の医者を見つけ、手術を受けるのですがこれはなんかめめくらげなんて面白いなと思ってるんだけど、めめくらげって言葉に象徴されるようなわけのわかんない不思議なカットがついていて、連続性があるかどうか、物語性があるのかどうか、全然支離滅裂で欲しいメッセージなんだし、シュールやリズムの世界に近いところもあるかもしれないけど、この番組はこのあの機関車なんかもよくかけてると思いますねこれね、細密なんですねものすごく細密だとこれ、ペン別さんでしょう 今日もピッチングのような鋭い描写だと思いますねこれが出ていて、この女の人はこれこうところ来るところではありませんよ 私は限界ですもん ってなんか 得意でいっぱい飲んでる後ろに何ですか これは日本海海海戦か何か太陽戦争が流したけど、こういう設定っていうのはどこから来たのか知らないけど、お前じゃないなと思ってなんかこの人はやっぱり私と五年年したら問題で、だいぶその戦争体験というものが削っているということがありますねそれで最後の最後のこのネジを締めると、私の台風 では締めるようになってしまうこれ、なんだかんだ最後でこれであまりっていうのは不思議なんですよねもう一つ不思議というのは、本当にこの不思議な漫画ってのは見たことないんで、真っ奇想の漫画家っていうのがこうなってくると、これはやっぱり漫画の世界に入れられる、こちらの現代美術の方に入れた方がいいんじゃないかと思いますけどね。」
辻さんは奇想の系譜の後書きにこう書いています。
私は奇想というものを、江戸時代、絵画の特産物としてだけでなく、時代を超えた日本人の造形表現、大きな特徴として捉えたい。
日本美術の新たな魅力を世に広めた辻さん、その辻さんが会いたいと願った人がいます西洋美術史研究の第一人者、高品修士さんです。
辻さんと高品さんは同じ東京大学出身。その後同じ時期に東京大学でそれぞれ日本美術、西洋美術の教授として教訓を振るったこともありました。辻さんの寄贈の系譜が出版されたのは千九百七十年。同じ頃、高品さんも西洋美術史の指南書としてロングセラーとなった名画を見る目を出版します。日本と 西洋、ジャンルは違えど、同じ美術史家として互いの仕事ぶりに注目してきました。
「大変なこのこの映画を見る目っていうのも面白い本ですよね本当に改めてこれと私の基礎のゲームが本当に面白いことに同じ時期に出てそうなんですよ私はね、朝日新聞の中にこれいい表が出てたんで、これはいいふうにしてくれたと嘘弁で誰かわかんないね、あの子らで後をやってね、あれは僕が書いたんだよっておっしゃって、それであった、踊りのいいや、あれだってと思った日本の絵画の味方を変える本だーんて褒めてくれて、それでありがとうございますあの書評で、美術式っていうもの、ずいぶん自分でも役に立ったっていう私はね、 偶然図描画っていうのを書いたんですよねで、訓練図ブログって、私とっても今でも訳のわからない存在で、これは一体どういう絵かっていうのは今で思った 本当にこれかしげてんですけども、やっぱり一番ボイラスの言葉としては今日狂いっていうことはですよねはい、俺はやっぱりそういう 今日を演じているのか、実際今日なのか、そうなんですね、その強化っていうのは北斎が妥協老人っていう、あれがね、僕はあの江戸の、あるいは日本の文化今日というのとそれから漫画の漫画の漫画もなんか子供向けみたいに思うけど、そうではない北斎漫画って書いて、で、京都漫画、日本の文化の元かなという司書さんは、今日について芸術 狂気人間っていう、そうそう今日今日、教育人間っていう方を書いてらっしゃる んで、それまた今日はヨーロッパとのアレで言うとアナーキーという、つまり稲木へ秩序がない無秩序の世界ヨーロッパきちんと秩序を抜けたい、しかし芸術家はそういう秩序を超えちゃって、自分の書きたいものを書くと、それがあのプラトン以来の問題ですねで、実際に芸術家見て書いてるみたいだけど、実は自分のイメージだけ追っかけている芸術家、 あの見ているのはアナーキーな世界だというので、プラトン芸術論というのは芸術美学としてヨーロッパで基礎ですけれども、芸術家は自分の国からは排除するということをプラットフォーム言ってる芸術家いるとめちゃくちゃになっちゃうからだから、これは しかし芸術は大事だよって言いながら排除する現実とは違う世界で、それが今日っていう国際華僑老人の今日もそういうアレかなと思って、やっぱりアメヨーロッパ人もあのそういう意味での国際の今日というのはやっぱり認めるわけですねそうだと思いますね、ブラッドイライの認めるそういう美学者が それを政府があるわけですそうなんですよ、医学の系譜として