日曜美術館 「目指せ!天下一の絵師集団~ 狩野元信 の戦略~」

2017.10.08.日曜美術館「目指せ!天下一の絵師集団~狩野元信の戦略~」

四百年続く狩野派の基礎を作った室町時代の絵師・ 狩野元信 。プロデューサー、経営者としての才能も発揮し、狩野派を天下の絵師集団に育てたその手腕に迫ります。

元信は集団での制作体制を確立し、表現様式を3つの型に分け、絵手本の粉本などを作り、弟子たちの人材育成を図りました。さらに、絵を描いた扇面や絵馬などの商品を制作して販売し、工房の収入を安定させ、本業の絵でも従来のやまと絵の色使いと漢画の線描表現を組み合わせ、和漢融合の傑作を次々と生み出しています。

放送:2017年10月8日

日曜美術館

今から五百年前に描かれた障壁画「四季花鳥図」。日本の絵画の歴史を大きく変えたある絵師の代表作です。狩野派二代目・狩野元信。室町時代末期、いわゆる戦国時代に狩野派の礎を築きました。元信は狩野派を発展させるために色々な才能を発揮しました。その一つがプロデュサーとしての活躍です。水墨画の表現様式を三つの型に分け、絵の注文に応じて使い分ける工夫をします。集団で絵を制作する工房体制の下で、絵の品種を守るためのものでした。

「人間が美に対していろいろスタイルのものは欲しがるんですよ。そういうようなものを応じて
ま基本的にこの三つのパターンを作ってるんではないかと思いますね。」

さらにもう一つ優れていたのが経営者としての才能です。水墨画だけではなく絵馬や扇など新たなジャンルにも取り組みます。その結果注文主はあらゆる階層に広がっていきます。

「戦国時代ですから生き抜いていかなきゃいけないんですね。そのためには万人受けする画風と豊富なバリエーションと、それから迅速に対処できるための集団的な作画システムっていうのが必要だったんですね。」

さらに元信は絵師としても革新的な表現に挑戦します。日本伝統の鮮やかな彩色と中国から伝わった水墨画の描写を融合させます。そして金箔を貼ったきらびやかな絵を生み出したのです。絵師としてそしてプロデュサー経営者としてマルチな才能を発揮した加納元信。天下に名を馳せた絵師集団を育んだその戦略に迫ります。

「目指せ!天下一の絵師集団~狩野元信の戦略~」


東京六本木のサントリ美術館可能もの展覧会が開かれています
水墨画や人物がそして絵巻などの代表作を集めました
本部が若い頃に書いた
水墨画の代表作曲がりくねった木々や垂直に切り立っ
香山山のふもとの小さな庵やそこに暮らす人々の営みなど
中国の有限な世界を描いています
狩野派は元々中国のなんそう
現時代の水墨画になってカンガを得意とする流派でした
狩野派が歴史の舞台に登場したのは
この山水図を描いた本の分の父正信の時代でした
男性で気品に満ちた画風が時の権力者気に入られました
室町幕府八代将軍足利義正です
銀閣寺を造営し
東山文化を築いた義昌正信を幕府の御用絵師に取り立てたのです
その地位を受け継いだ本信狩野派をさらなる飛躍へ導くと
知恵を絞ります
当時は応仁の乱に始まる戦国の世となっていました
今日の名前今年は荒れ果てます
やがて自社や屋敷などの債券が始まりました
それを元の分は狩野派のチャンスと捉えます
当時一般的だった書院作りでは
襖や衝立に絵を描くという需要が大いに見込まれたのです
そこでヨブは絵の制作体制の整備
品質管理人材育成など言わばプロデュサとしての才能を発揮します
大量の絵の注文を受けるためには
多くの優れた意志を育成しなければなりません
そのためには様々な方法を考え実践します
その一つがえーて法を作ることでした
ここにはさまざまな種類の鳥と
その羽の特徴まで緻密に描かれています
こうした手本を作り弟子たちの技量を上げようとしました
更にはえーを効率的に仕上げるためのある工夫をしました
中国の水墨画で学んできた絵を整理して
三つの方いわゆるがたいを作ったのです
僕はそれを身体業態総体と名付けました
この新山水図は
本部が身体として描いたものかっちりした明快な輪郭線を描き
細部まで丁寧に描写しています
これは業態による作品です
リアルな緻密さではなく柔らかな筆遣いで描いています
総体の場合は余白をふんだんに使い
山や岩の表現はなだらかで待機に溶け込むようです
こうした三つのがたいを確立することで
可能はは大量の絵の注文にも対応できるようになりました
可能は研究の第一任者京都国立博物館の山本秀雄さんです
戦国時代ですから生き抜いていかなきゃいけないんですね
そのためには
やはりその番人ウケするヤフーと
それから豊富なバリエーションと
それから迅速に対処できるための集団的な桜システム
っていうのが必要だったんですね
実際三つの絵の描き方にどういう違いがあるのか
新山水図の木々や岩の部分を
それぞれのがたいで再現してもらうことにしました
引き受けてくれたのは画家の大竹匠さんです
長年水墨画を描き大学でも教えています
まず身体がです木の葉を描くところから始まりました
身体が実際で言うと
例えば先を核にしてもこのスピードを出したり走ったりするより
ゆっくりゆっくりしてました
今と医師とこういう組み立てのことね
身体側ものすごく固まるということをすれを横になっている状態で
岩の表面の質感を出すやり方ですね
線と面の組み立てなんですね
同じ部分を業態で描くとどうなるでしょうか
こういう風に柔らかいの方に
こういう岩を
こういう風に丸みを出すような感じに変わっていくんです
これ輪郭線で形を整えていくのではなく
ではなく一歩でそのままですものの勢いはものすごくます
それで触れたちでものをよく語ってくれる
そして総体の岩の描き方はさらに違ってきます
双対はこういうそのまま面で筆を走らせてものを語るの
筆たちがかなり自由時代というか
筆に任せているのような感じがしますね
身体は輪郭線です
きちんと形をつくり岩の質感にもこだわった緻密な表現
業態は緻密さよりも筆の勢いや心の動きを重視しました
双対は細かい部分が省略され自由な筆の動きで描いていました
やっぱし筆の走らせるという気持ちの良さを絵を描く
人を自分の楽しみだけじゃなくてみる人も
そのような楽しみを感じさせる人間が美に対して
いろいろスタイルのものは欲しがるんですよ
そういうようなものを応じて
ま基本的にこの三つのパターンを作っているではないかと
思いますねそれをうまく使ってるのは
まもとのぶ最初ではないかと考えます
そして狩野派としての大きなチャンスがやってきました
京都大徳寺大仙院の襖絵の仕事です
この時下の分三十六歳
自分が作り上げた絵師集団の実力が試されました
請け負った仕事は寺の四部屋の襖絵四十名本部が采配を振り
その襖絵を集団で分担して描いていきました
その中で本信自身が担当したのがこの四季花鳥図です
全て身体表現で描かれています
鮮やかな色彩の鳥や
四季の草花くねった松とタキが交差するダイナミックな表現
変化に富んだ構成は人々を驚かせ
従来の水墨画とは一味違う味わいを演出しました
この大口受注の仕事を見事にこなしたことで
絵師集団狩野派の名声は大いに高まりました
展覧会場でこの四季花鳥図と対面したのは
アニメ制作会社スタジオジブリのプロデュサ鈴木俊雄さんです
ここで働かせてください
心広というのか方が
洋画含めた日本歴代興行収入一位を記録した
千と千尋の神隠し監督の宮崎さんと二人三脚で
数々のアニメ映画の名作を世に送り出したプロデュサです
会社を長年運営するプロデュサとして可能
下の分の仕事に興味があると言いますリアルですね
住専ではありますが
かなりだから
そういうリアルなものと
ああいう中に浮かぶっていうのが合体してて面白いですよね
宮崎は作る人でほんでまあ僕はそれを出会ってね
パトロンをそれこそ集めて
あとでやっているかで
そういうことで言うと二人で分担してる訳ですよね
でもこの本の分っていう人は
自らプレイングマネジャーな訳でしょうま
大変な人だなと思いましたねええ
狩野派の歴史について書かれた資料本朝歌詞
そこには元の文について
天下が後の長全ての絵師たちの頂点に立ったと記されています
化合はは天下にその名を轟かせたのです
可能は四百年の歴史の中
どこの狩野派の絵師を見ても
必ずこの真行草っていうのは色濃く表れているので
やっぱりそれだけその本を作ったの
その大絵師っぷりっていうのがやっぱり感じさせられますね
別紙でやはりそれをこう活かしていく戦略家であったという
その辺なんですけれども
ゲストをご紹介しましょう
とかにもご登場いただきました
スタジオジブリのプロデュサ鈴木俊雄さんです
よろしくお願いします
その下の分はあのその初めていろんなことをやっていく
中の一つとして
その真行草というのが体を発案していったんですけども
その発想っていうのはどのように感じる
ま僕もジブリに置き換えてねちょっと考えちゃったんですけど
実を言うとひとくちにアニメションって言っても
色んなやり方があるんですよ
だから例えば宮崎文の場合でもね
要するに今回は漫画っぽくやろうとかで
一方で今回リアルにやろうってね
実は真ん中もあるでこれどういうことか
って言うとね
その漫画っぽいのの代表例がルパン三世カリオストロの城
これでねちょっとリアルにやろうってこれを言ったのがね
その後の風の谷のナウシカ
これで真ん中トトロですかね
真ん中が取ってると
ああそっバランスだから毎回ね方針決めるんですよこれ
みんな集団でね
みんなやっていくときにもね
それをみんなね
頭の中に入れながら書かなきゃいけないんではいを表わす共通のね
今粉本っていうのはねまああれは僕は非常に
面白いと思ってたんですけれど
実はスタジオジブリっていうのか
アニメションの世界でも
要するに集団でみんながやらなきゃいけないから
やっぱりえ見本必要なんですよね
今日ちょっとお持ちしてたんですよちょっと見てくださいこれはね
あの宮崎平野の風立ち
ここにまずキャラクタが色々出てくるので
そうすると総勢何十人っていうスタッフがね
同じキャラクターを描くための下の絵なんですよ
これを見ながら書けばある程度統一性が取れるんででないと
みんな勝手に書いたら大変ですからね
だからそこは見てて面白かったですよね
あでもこれまさにですよね
さっきのあの大製品のね
あのー四十年ねあれ見ながらちょっと思ったんですけどね
本当は一人で書きたいんじゃないかなとかね
でも要するに工房を作って
みんなでやったってのは
一体どういうことだったんだと僕は思ったのは
もしかしたら宮崎入る
と同じでどういうことかって言ったらね
宮崎早くだったら本当は一人で作ることも可能だけど彼はね
みんなと一緒に集団で作ることが大好きなんですよそうで
みんなで朝会社に来て
これで夜までワイワイガヤガヤやりながら作っていく
もしかしたらねこの本っていう人もねそういう
側面があったのかなと
まだから一言で言うと寂しがり屋っていうんですけど
そういう側面を持っていただくと同時に好奇心が強かった
つまりあれもやりたいこれもやりたいでやってるうちにね
多分でっかい工房になった訳じゃないですか
でその重さもね結構大変だったんじゃ
ないかな
いや僕自身もそうですよね
元々のあのープロデュサとしての能力っていうのは
鈴木さんご自身の仕事とこう重ね合わせてみて
どのようなとにかくあまあなんていうんですか
人を使うのが上手だったんでしょうねほいで
またそれが楽しかったんでしょうね
それともう一つあるのは
何と言っても何と言っても乱世乱れた世の中じゃないですか
そうそういう中でまあっちにも目が行き
こっちに目が行く実を言うと
もしかしたら現代もそうかなって
なんかダブルような気もするんですよ
そういう中であれもやりたいこれもやりたい
なんてそういうことがね繋がってたんじゃないかなとかね
いろんな勝手な想像しました
京都の路地の一角この場所にかつて狩野派の工房がありました
元の分はこの地でえーに関わる様々な商品を制作し
経営者としても手腕を磨いていきました
その証が今回の展覧会にも展示されています
本部が力を入れたものの一つが贈答品として広く人気があった
洗面いわゆる音義です
当時扇は専門の扇谷が販売するのが普通
顧客をもっと広げたいと考える下の分は
積極的にこの分野にも進出しました
裕福な顧客用のものでしょうか
金箔の貼られた豪華な二十四枚一組で売られ
その後江戸時代に屏風に張られたものです
経営者としてのしたたかさを示す資料があります
扇谷の組合が幕府に提出した要望書です
ここに本部の名があります
いつの間にか組合の難波津の座に就いていたのです
そして扇の政策の権利を持つ者以外が勝手に扇子を作ることを
幕府が停止するようにちゃっかり要求を出したのです
可能はというその流派はそこで制作される作品
洗面も含めてですけれどもすごく質が高いということですね
これはあのえー注文主
あるいは購入者にとってはすごい安心できることですよね
つまり今の企業で言えば
品質管理が抜群であった
という風に考えていいんじゃないかと思います
ですから値段も高かったんだろうと思うんですけれども
えーそれを店頭になれないして売ってたわけですね
すごい儲かったと思いますね
その屋台骨を支えていたのは
鮮明政策だったと言ってもいいんじゃないか
さらにこんな分野にも手を広げました
大願成就を期して人々が奉納する絵馬です
これは兵庫県室角賀茂神社に天台したもので下の分の署名入りです
今の発注者は
裕福な商人や地方の漁師など
狩野派が顧客を様々な回想へと広げていたことがわかります
静岡県富士山反古浅間大社に伝わる富士曼荼羅図
人々を参詣に誘うことなどを目的に描かれました
富士信仰が一般大衆の間で高まるとは
こうした曼荼羅図も作っておりました
地方の神社にまで狩野派は販路を広げていたのです
さまざまなジャンルのものづくりに積極的に取り組んだこと
信その秀でた経営手腕によって経営は安定し
全国ブランドへと成長していきました
御用絵師だけにとどまらずこう
さらにその仕事の枠を広げていくっていうところに何かこう
謎の多い人物像がちょっと感じられるんですけれども
その元のそういったあの経営手腕っていうのは鈴木さん
どのように今見ながら思ったのはそういえば僕らもね
轟ぬいぐるみを作るとかそういう
ことは色々やってきて実際にはね映画を作り始めるとね
予想に反してお金が余分にかかったりすると
当然赤字になるわけですよね
それそういう時にね
トトロのぬいぐるみが頑張ってくれたんですよね
素人考えかもしれませんが
プロデューサーとやっぱりお金のことって結構重要かな
なんて思ったりしてね
その下の分がこういう大木をたくさん作ってそれが屋台骨を支える
それでもっと冒険的な仕事がねそのそれを試験にしてた
あのヒットしちゃったっていう
そういうことと関係あるじゃないですかね
と同時にもう一つ僕思ったのはねま下っていう人はまそれはね
あらゆる面でお琉舞オルランドにできる人なんですけれど
たぶんねそばに僕みたいなやつがいたんじゃないかなと考えて
そんなことを考えるん
ですよ
本のその確信として行動力っていうのはあの僕なんかもね
実を言うと映画を作りながら一方でずっと考えてたのはね
どっかにパトロンの人いないかなってね
パトロンさんいればそんな色々ね
努力しなくても好きなものが作れるじゃないですか
ところが今回ノブさんっていう人をね
ずっと見てきて
そしたら僕の想像以上に苦労されてるじゃないですか
なんだろ今と変わんないんだと思ってね
すごい親近感を感じたんですけれどね
僕はやっぱり偉い人のためにだけ絵を描くっていうんじゃなくて
なんか広く一般に流布するものそういうものもやってみたいその
欲求の現れだったんじゃないかなって気がするんですけどね
本信っていう人もまずもって人に見せるもので
人が喜ぶのを想像するやっぱそこですよね
自分で例えば描いたり
その扇を作ってねいいでしょって見せたいんですよ
だから多分子どもっぽいですよね
ま無邪気っていうか羨ましいですよね
そういう人は僕の側にもいますけどね
は絵師としても
後世に大きな影響を与える革新的な挑戦をしています
江戸時代歌舞伎の宣伝用に作られた錦絵にそのヒントがあります
を主人公にした芝居です
あらすじはある娘との悲恋の物語
平安時代から続くへの流派と左派の棟梁の娘です
事実と酒の家系図では
元の分が棟梁と三つの分の娘と結婚したことになっています
そしてそれには理由があったと思われています
土佐光宣が描いた土佐はを主流とする
日本へは平安時代からの伝統的な絵画様式で
鮮やかな祭式と柔らかな表現が特徴でした
はその土佐派にあえて近づこうとしたのです
これは声楽結婚以外のないものでもないわけですけれども
元の文にとっては
今まで自分のところでかけていた日本へのテクニックだとか
あるいは図柄ですね
そういうものを土佐幅ずっと長い年月に渡って
その粉本を持ってるわけですね
それが狩野派に流れてくるということも期待でき
たわけです
狩野派は水墨画が得意でしたが
祭式については知識も技術も未熟でした
それゆえと酒の娘をもらってまでその技を手に入れたかったのです
こうして本部は祭式の技を手に入れ絵師として大きく飛躍します
四十五歳で描いた代表作シュテンドウジ絵巻
日本への鮮やかな算式と
神田の美しい線描表現を巧みに組み合わせた和漢融合の作品です
この絵では背景の急峻な山々やかけは看過風の明快な線で描き
奥行きある有限な風景になっています
それに対して手前の人物は色彩豊かで日本です
こうしたわと感が見事に溶け合う表現によっては
稼働は独自の新しい祭式表現を作り上げたのです
その三十年後の七十四歳晩年の分は
絵師としての集大成となる和漢融合の傑作を生み出します
四季花鳥図屏風長さ七メートルを超える対策です
奈良の興福寺からの依頼で制作しました
花鳥図という水墨画に多く見られる課題を
あえて日本への祭式で装飾性豊かに表しました
取りに近づいてみると宦官のようなリアルな緻密さで描いています
滝や松の構図はまさに水墨画です
さらに屏風をより華やかに仕立てたのが
全体を覆い尽くす金の雲です
金箔や禁令を豪華に使った金北京の誕生でしたの表現が
時代に合わせて変化したと語るのは
日本画など中世日本美術を研究する並木正志さんです
大山の絵で求めたようなこう
実物通りの色に書くっていう現実感から
今度はそのより装飾的な世界
特に金で彩られた装飾的な世界に展開していったというのは
非常に特筆すべきことだと
何が求められているのかとか
何が必要なのかっていうことをやっぱりきっちり察知して
それを表現に落とし込んでいき
なおかつそれをこう周辺に浸透させていってこうちゃんとしたこう
組織を作っていくっていう意味ではあのー
非常にやっぱりこう優れた才能を持ったべしということ
は言えると思います
絵師としても盤石の地位を築き上げた本の最後に力を入れたのが
後継者の育成でした
ときつぐきょうきという公家の日記に
新将軍への年賀の挨拶に訪れた人物の名前が記されています
絵師狩野砲丸と書かれているのが
下のその下に孫を同伴した記述があります
この孫こそ彼が後継者と見込んだ狩野永徳です
提督は十七歳の時までえーの指導を直接受けるんです
お父さんの唱詠ではなくて
おじいさんから英才教育を受ける
それぐらい見込まれてたらしいですね
特にが持ってたあのダイナミックな空間構成っていうのをえ得は
見事に受け継いでますね
の薫陶を受けた英徳はやがて傑作を生み出します
檜図屏風時の天下人豊臣秀吉の命で描かれました
巨大なヒノキが画面いっぱいに公開に枝を伸ばす様はの金平
飢餓の表現を更に大きく発展させました
そして織田信長や秀吉に認められた英徳は
狩野派の絶頂期を築いていくことになるのです
はい京都名各地ここに可能下の墓があります
八十三年という人生を賭けては四百年に及ぶ可能はの意志性を築き
天下一の絵師集団に育てあげたのです
いやスズキさん
あのカンガと日本へっていう全くこう違う技法をあのま合わせて
新しいものを生むっていうこのの発想って
どのように感じますか多くの人がね
実は現代もやってるんでどういうことかっていったらね
一種こらラジオですよね
これでま今現代見ててもね
もうこれえーだけじゃなくて
小説も映画も音楽もみんな何ていうんですか
色んなところから引っ張ってきて
それを再構成するそういうアレンジの時代ですよね
だからこのこの時代にね
室町の後期そういうことが起きてたっていうことに
すごい僕は面白さ
を感じたんですね
その男性っていうのはね
本来全然別種のものを一緒くたにしてそれで一つのね様式を作る
そういう事が起こる時なのかなと思って
しかもその日本画っていう技法を手に入れるために結婚結婚まで
だから粉本が欲しかったのでそのためにそのぐらいしますよね
それはそうですか
欲しいものが手に入れてね
それで書きたいって事ですよ狩野派っていうね
その枠の中でなんか住むことをやろうというより
当時の日本の絵画のねその何だ
それこそ骨格を俺が作ってやるみたいなね
そういうものを持ってたんじゃないですかねそのためには
中国のものも取り入れる日本画も取り入れる
それでそれを自分なりに咀嚼して
一つのスタイルを作る様式を作るって
そのことに成功した人でしょうすごいですよね
だからまあえてその言うならね
宮崎っていう人も実はヨーロッパが大好きで
ヨーロッパの色んな歴史そして文化それに自分が
触れてだから昔の言葉で言うと西洋かぶれから彼って最初はね
そのあのヨーロッパを舞台にしたお話ばっかりに作ってんですよね
ところがある年代になってそれのやっぱりね
日本に置き換えるっていうのをね
実を言うと途中からやってきた人ですよね
それで言うとあの下の前も
ねね今の中国のものをどうやって日本化し
それを日本へとどうやってくっつけるか
それで最後はあの近辺
飢餓でしたっけあんなところまで行くわけでしょうね
あれってそのスタンダードになって
その後延々続くわけじゃないですか
でも彼の誇りはおれが最初にやったって多分それ
ですよね確かねわかん融合でしたっけ
下の方の場合はそれ言ったら宮崎の場合はね
明治以来続いてるんですよね
だから基本的には同じようなんですよ最後
その孫を後継者として育成することに力を入れた
このどういうこの先のその工房のこと
やっぱり自分にも子供がいたわけじゃないですか
でこのモデルから全部知ってますよね
そしたら当然選ぶのは次は孫ですよねそういうものですよね
まあ宮崎あやだってね
なんて言ったってまほうが生まれたとき
本当嬉しくて何色鉛筆持って
駆けつけたんですけど
そこで握れないってに鉛筆で無理やり持たせたらしいんですよね
そうすると持てないんだけれどやっぱり期待値があるんですよね
今新作をやってるんですけどねもう孫のために作ってますよね
お爺ちゃんはね行っちゃうけれどね
作品を残すって可能は四百年の礎を築いたこのお鍋
今日は本当に現代の視点からもいろいろお考えいただきました
改めてこのタブのすごさどんなふうにお感じになっていますか
だからまいろんな時代あるけれど
それが今今の時代の僕メッセージにもなるけどね
どんな時代であろうが楽しんだほうがいいって
それを彼は言ってるじゃないですかね
でもなんかあの僕の今日すごい
そのまた新しい発見としてジブリと狩野派を重ね合わせてか
あの狩野派を見たっていうのが
僕の中ではものすごい新鮮なことだったんですね
でジブリ可能は語彙できるっていう風にも
僕も全国の一ファンとして僕もそれはすごい言わなければと思っ
て僕はどうせその時には生きてませんからありがとうございました
ありがとうございましたありがとうございました

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aerith
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