日曜美術館 「 かこさとし 最期のメッセージ 未来を生きる子どもたち大人たちへ」

去年92歳で亡くなった絵本作家かこさとし。最期のロングインタビューが残されている。だるまちゃんとてんぐちゃん、そして未完の大作。子供たちへ伝えようとした“想い”絵本作家かこさとし。代表作「だるまちゃんとてんぐちゃん」は、今も多くの人に読み継がれている。

去年92歳で亡くなったかこは、戦争で生き残った自分を恥じ、未来を生きる子供たちへ何かを残したいと、戦後、必死に絵本を描き続けた。その想いを記録した人生最期のロングインタビューがある。晩年に挑んだ未完の大作も初公開。そこには、宇宙や自然、動植物、そして人間が描かれていた。かこさとしが私たちに託した願いとは…

【出演】加古さんの娘/加古総合研究所…鈴木万里,青山学院大教授/生物学者…福岡伸一,海洋研究開発機構主任研究員…小栗一将,国立科学博物館研究員…齋藤めぐみ,芥川賞受賞作家/早稲田大学教授…小野正嗣,柴田祐規子

放送:2019年7月7日

日曜美術館 「かこさとし最期のメッセージ 未来を生きる子どもたち大人たちへ」

「だるまちゃんとてんぐちゃん。

小さいだるまちゃんと小さい天狗ちゃんが遊んでいました。

それなに。これは天狗のうちわだよ」

子供達が食い入るように見つめているのは絵本作家かこさとしの代表作だるまちゃんとてんぐちゃん。

165回版を重ねる大ベストセラーです。

去年92歳で亡くなるまで手がけた作品は600冊以上。

かこの絵本は祖父母から孫まで三代にわたり読み継がれています。

そのかこが亡くなる八か月前病を押して応じた最後のロングインタビューが残されています。

「一匹一匹が次の蟻とね、お前足踏んだだろうとか、おまえちょっと型がうるさいぞとか何とか言いながら会話をしたり何かしながら全体の動きをしている。

そんなのは子どもたちが喜ぶんです。そうでなかったらポイポイです」

絵本作りに捧げた生涯。

その制作の原動力とは何だったのでしょう。本人の言葉から真実を探ります。

そして人生の終わりに、すべての仕事を断り手掛けようとしていた大作。

かこさとし最後のメッセージに耳を傾けます。

日曜美術館「かこさとし最期のメッセージ 未来を生きる子どもたち大人たちへ」

かこさとしが暮らした神奈川県藤沢のアトリエを訪ねました。

晩年を支えた長女の万里さんです。

「私たちがつかわなくなったものを捨てないで使っていた」

「ライトテーブルで自分が描いたものをもう一度見ながら清書していました」

「緑内障で視野が狭くなっていて、手を握った隙間から見るくらいの視野しか最後はなかった。 曲線を一回で弾ききるっていうことが難しくなってきて少しずつ何回も刻んでってやってたんですよ」
お手製のライトテーブルの上から数々の物語が生み出されていきました。

狭い視野で描くことは困難でしたが、かこは絵本を作ることを誰よりも愛し、誰よりも楽しみました。

かこさとし。本名中島哲は1926年、福井県越前市生まれ。

子煩悩の父と働き者の母のもとで育ちました。

絵を描くことが大好きだったかこは画家になりたいと願いますがそれでは食べていけないと父に反対されます。

時代はまさに日本が太平洋戦争へと突き進んでいた頃。

多くの少年と同じくかこの夢もいつしか軍人になることへと変わっていきました。

しかし15歳の頃から近視が進み、教師に軍人にもなれぬやつとなじられます。

せめて科学で国に尽くそうと努力して東京帝国大学工学部に入学します。

戦争が終わったのはその年の8月でした。

最晩年は長時間座ることさえままならなかったかこ。

それでもつらかった戦争時代のことを噛み締めるように語り始めます。

「士官学校に行くと、こういうことができていいんだと。しかも戦争になったらすごいことになるんだと、お前たちはわからんだろうけど、すごい戦艦があってバンバンとやっつけちゃうんだと盛んに宣伝して兵隊になる。兵隊になった友達の半分以上が死んでしまった。僕も本当は死ぬはずの命だったのと、生き残ってよかったねという人もいるんだけど、本当は死に残りだとなんとも恥ずかしいと思ってね。なんとかして償いをせにゃいかんと思ってその道を探っていたんです」

終戦後に描かれた自画像。かこはこう語っています。

「敗戦。指導層と庶民の無定見。

節操のなさに目標を失いニヒルな自画像を次々に描いて憂さを晴らしていた。

自分たちは軍国教育の下で道を誤った。

しかし、事実を確かめることなくそれをうのみにしたのは自分」

かこはなにより自分自身が許せませんでした。

そんなかこを変えたのは多摩川河畔の川崎市古市場地区でした。

そこは戦後、工場労働者の家が軒を連ね子供であふれかえっていました。

近くの化学メーカーの研究所に勤め始めたかこはこの地区の子供たちのために東大セツルメントというボランティアの子供会に参加します。

「私も含めて大人ってのは全然信用ならんと。もういろんな戦争中いろんなこと言ってね。もうひどいことしてて、戦後になったらシャーシャーとしない民主主義だとかなんとか言って何の反省もない。でせめて自分だけは間違いを起こしたんだからその償いをしなきゃ。で償いをするのには大人に償いをする必要もないと自分も含めて。あとはいろんなことのね。そういうことはなかった子供だから。子供達にせめて私のような、このを判断力がない、そういう間違いを起こさない賢い子になって育ってほしい。それは自分で自分の力を伸ばしてかなければ」

かこの家には当時の子供達の絵や、ガリ版で刷った新聞などが今も残されています。

戦争を知らない無邪気な子供達。彼らと触れ合うことでかこの心は時解されて行きました。

子供達の為に生きること。そこにかこは一つの道を見出します。

吉田勤さんと森ミツコさんの兄弟は子供時代セツルメントに足繁く通いました。

「父親が2交代制の夜勤とかあるから昼間寝てるんですよね。そうすると外に出なさいと。何曜日って決まっていたかどうかわからないけど毎週行っていました」「人形なんか作ったりするのも与えられるのではなく、自分たちでつくっていたことは覚えています。いっしょになってやってた」「怒られたことはない。同じ目線でした」

「土曜の夜は半分徹夜で紙芝居を描いて、子どもたち喜ぶぞと。当時はラジオしかない時代。やっているうちに一人減り二人ヘリ、残っているのは赤ちゃんをおんぶしたおばあさん。そんな中でどこ行ってたんだというと、当時まだあたりは田んぼで、ザリガニやトンボが富んでいたからそれを追いかけていた。僕にいわせりゃそれはそうだなと、ザリガニやトンボに匹敵するような生き生きとした内容で彼らの心をつかむ、そういうものにしなきゃ」

子供たちの心をつかんだ紙芝居がこちら。あかいアリとくろいアリ。蟻の群れを見つけた子供たちがそれぞれのありにセリフをつけて遊んでいるのを見て思いつきました。

「ねぇ兄ちゃん待って一緒に帰ろうよ」

「嫌だよちびっこ1年生となんか一緒に歩いてやらないよ」

ちょっと意地悪なお兄ちゃん先に歩いていてギャング黒蟻にさらわれてしまいます。

探しに行った仲間たちが途中で見つけたのは大きなクッキー。わっしょいわっしょいと担いでいるとまたギャング達が現れ横取りされてしまいました。

しかしそのスキにお兄ちゃんの救出に成功。「僕らは赤あり大人も子供もどっちもいいぞ 泣き虫ちゃだめだぞめそめそするな」子供達の声に刺激され即興で歌を歌い大いに盛り上がったと言います。

「今日は半分まで謳ってそれを目標にしてね行ってきた。だから僕はね子供達から全部教わった。何を子供というのはどうすれば喜ぶ。どうすれば嫌なんだ。どんな内容がね、その大人がこれは必要だと言ったってね。これはごめんだよ。そういうのを出してくれてこれはもう幼児教育の本などね、僕も読んだけどねそんなことではないのがもう一度して出てこれはもう私にとっては宝の山。でもそういうことで子供達からみんな教わった。それが正直なところです」

セツルメントには大勢のボランティア仲間がいました。

美術史家の辻惟夫さんもその一人。手作りの紙芝居にも挑戦したといいます。

紙芝居を描いたり、絵を押したりするのに自分が絵が下手では申し訳ない。

かこは仕事とボランティア活動の合間を縫って絵を学びました。

モデルの多くは身近にいた労働者や家族たち。地下足袋に大きな意。人物の特徴を的確にとらえ大胆なタッチと色彩で表現しています。

かと思えば子供たちに大人気のこんなポップなスタイルも。

人も動物も楽しく踊り、平和を謳歌しています。

これを見た出版社から絵本を描いてみないかと誘われたのが、かこが絵本作家となったきっかけです。

デビュー作・ダムのおじさんたちは水力発電のダム建設がテーマです。

おどろおどろしい雲。激しい吹雪過酷な現場の迫真の表現です。

こちらの背景にもご注目。にじんだ墨色に乾いた刷毛で嘘を描くことによって川底や複雑な水の動きを表しています。

一方動物たちはくっきりと線描きにして子供たちが物語に入りやすいよう工夫しています。

爆発的な人気となっただるまちゃんシリーズの第一作。主役のキャラクターにかこはこだわりました。

それにしても何故だるまなのでしょう。

「戦後のことです。ソ連の子供向けの雑誌がマトリョーシカちゃんという、これがなかなかね、郷土玩具ばっかりで面白いストーリーになってる。こういうものを日本でも、郷土玩具をモチーフにして作ってみたいなと思ったのが皮切りで。日本の郷土玩具の代表としてもいいだろうと、それを達磨ちゃんにして、相手役には天狗だとかいろんなの連れて来らばいいだろう。たくさんのテーマができればいいと思ったんです」

第一作の試作を見るとかこがリアルな郷土玩具を意識していたことがわかります。

どうしたら面白く見せられるか。表紙を開くとだるまが歌舞伎のように口上をしてて足を伸ばす理由を説明する予定でした。

でも最終版では最初から手足を伸ばしただるまちゃんが登場。子供達に理屈は不要でした。

小さいだるまちゃんと小さい天狗ちゃんが遊んでいました。それなあに。これは天狗のうちわだよ。ふーんいいものだね。てんぐちゃんのようなうちわが欲しいよ。

大きなだるまどんがたくさん団扇を出してくれました。多くのものが画面を埋める物づくしの表現。それは戦争中一つの価値観に縛られみんなが間違ってしまったという後悔から生まれました。子供達にはたくさんの選択肢の中から自ら考え選ぶ力をつけてほしいと、かこは願ったのです。こんなうちわをじゃないんだけどなー。だるまちゃんは考えているうちいいことに気がつきました。

だるまちゃんのヤツデの葉っぱを見て、てんぐちゃんは、随分いいもの見つけたねと言いました。

からすのパンやさんではカラスのお父さんとお母さんが焼いた84個のパンで物づくし。

テレビパンに花瓶パン。雪だるまパン。私はこれ。僕はこれと選ぶのが子供達にとっては幸せな時間です。

「ぼくが大体幼稚なせいか、そういう細かいのがいっぱい描いてあるのがうれしくて、子ども時代から。だけども何の意味がなくずらっとしたわけではなくて、それは必然性があってずらっとしていると子どもたちがわかってくれるんです。細かいところまで見てくれる。すごい感性というか、大人の方がぱっぱっばとするけど、これは面白いと思ったら隅から隅まで見て、これちょっとおかしいとちゃんと連絡してくるんですね」

「お手紙が直接届くこともあれば出版社から届くこともあります。一生懸命書いてくださってるのを見るともなんか涙が出るほど嬉しいような顔してましたね。それでお子さんたちのお手紙って先生は何が好きですかとかどうやったら絵が上手になりますかとか、本はどうやったらかけますかとか、色々ご質問があるんですよね。それに全部答えてました。必ず書いてました。あのすごいお便りがありましてからすのおかしやさんていうお話があるんですけれども、お父さんとお母さんがちょっと留守の間にお兄ちゃんがお家の真似事をして自分でお菓子を焼いてしまう。でそのお菓子の焼き方を教えてくれたみみちゃんという友達のからすがいるんですけれどもそのみみちゃんが悲しそうな顔をしている。お父さんお母さんが帰ってきてちょっと困ったような顔をしてるね他の形お父さん帰ってきたよ帰ってきて嬉しそうにしてるのにどうしてですかって言うとね、それはその時初めてそのミミちゃんはカラスのお父さんとお母さんに会うのでちょっと恥ずかしかったのですね。その気持ちを絵でやんわりと表す。そしたらそれにちゃんと気がついたお子さんがいらしてでもすごく喜んでよく見てましたねっていうようなお手紙を書いてました」

過去の絵本のもう一つの柱、科学絵本。子供にはちょっと難しいと感じる科学や歴史を扱います。原稿を頼みに来た出版社が本棚にあった専門書を見て、科学に詳しいなら書いて欲しいと頼んできたのが始まりです。

食べ物が口から入って排泄されるまでを、栄養のカバンを持った食べ物たちの旅として紹介しています。不思議な広い胃袋公園にやってきました。周りからシュッシュッと噴水が出てきますただの水ではなくて食べ物を溶かす不思議な薬です。小腸ジェットコースターで下がったり上がったり。大事なものはどんどん周りに持って行かれたりすい取られたりします。

汗や水を吸い取られた食べ物たちは痩せてよぼよぼのカスだけになって残ります。その塊がうんこです。どうやったら子供が体の仕組みを分かるだろうとかこは知恵を絞りました。

取材先など

かこさとし 公式webサイト 

放送記録

書籍

 

展覧会

かこさとしの世界展 – 特別展 – [ひろしま美術館] 

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ガジェット愛好家です。世の中にあふれるモノゴトはすべてヒトが作り出したもの。新しいモノの背景にある人の営みを探るのが大好きです。発見した情報はまとめて発信しています。