日曜美術館 「武士か!絵師か!桃山 孤高の巨匠 海北友松(かいほうゆうしょう)」

桃山画壇の巨匠・海北友松。大迫力の龍、豪華な牡丹、独自の画風で武家から朝廷まで魅了した。60年ぶりに帰還する最晩年の傑作「月下渓流図屏風」の神秘的な世界に迫る。

桃山文化、狩野派、長谷川派が画壇を席けんする中、独自の画境を開いた絵師・海北友松。武家に生まれた友松は刀を絵筆に持ちかえて活躍。雲間から妖しく現れる「雲龍図」、金碧に濃い色を施した豪華な「花卉図屏風」など独自の画風で、武家から朝廷まで魅了した。最晩年の作品「月下渓流図」は、“奇跡の名画”とも称される傑作。戦後アメリカに渡り、今回60年ぶりに里帰りするこの神秘的な絵の魅力に迫る。

【出演】画家…山口晃,京都国立博物館 学芸部長…山本英男,【司会】井浦新,高橋美鈴

2017年4月23日

日曜美術館 「武士か!絵師か!桃山 孤高の巨匠 海北友松(かいほうゆうしょう)」

この春60年ぶりにアメリカから日本に奇跡の名画が帰ってきました。「月下渓流図屏風」。早春の夜明け前の一瞬の輝きをとらえた作品です。

春を告げるつくし。松の木の幹は霧に覆われ幻想的な雰囲気です。戦乱の時代を生き抜いた絵師、海北友松が最晩年に描いた水墨画です。

海北友松は1533年。戦国時代のさなか、琵琶湖の北を治める浅井家の家臣の家に生まれました。

しかし、三歳のとき京都の禅寺・東福寺に預けられます。父が戦で亡くなり、海北家の血筋を守るために出家することになったといいます。

友松には絵の才能が備わっていました。最大の絵師集団・狩野派に入門。棟梁の永徳に直接師事するほどでした。

友松のもっとも初期の作品と言われる「菊慈童図屏風」。この作品には狩野派。とくに永徳の影響が色濃く見られます。

葉の一本一本まで丁寧に描きこもれた松。端正な画面構成は永徳が得意としたものでもありました。

岩の打ち込みはこれでもかというほどの勢いですが、この表現は永徳が得意としたものです。狩野派の中で高く評価されていたという友松。永徳に代わって絵を任されることもあったと言われています。

友松41歳の時、海北家の使える浅井長政が織田信長との戦いに敗れます。海北家の家長であった兄・海北大膳が命を落とします。友松が残したという言葉があります。誤りて芸家に落つとは、自分は武士の血を引いているのに絵師となった。武士の本文を全うできない我が身が嘆かわしい。こうした思いが影響を与えたのか、友松の画風が変わり始めます。

60代はじめに友松が描いた「花鳥図襖」 。幼い頃から寺で様々な文化人と交わったことが独自の感性を育んだのでしょうか。余白を大きくとった画面構成は可能はとは一線を画す新たな表現方法です。

「松に叭々鳥図」 からは友松独自のスタイルが見て取れます。左席中央には濃墨で描かれたつがいの鳥が静かに留まっています。松の枝は力強く一気呵成に引かれています。一方で、薄い墨で描かれた太い幹。幹の上下は霧に包まれたように途中で消えています。大胆に余白を用いた構図は友松独自のスタイルとなっていきました。

友松の個性は豊臣秀吉の心をも捉えました。秀吉は既成の価値観にもとらわれない 新しいものを探し求めていました。

重臣として秀吉を支えた米沢藩主上杉景勝。その生涯を記録した上杉家文書に海北友松の奇才が残されています。

景勝が京都に建てた邸宅に、主君・秀吉が訪れる御成がありました。互いの信頼を確認する重要な場で、秀吉が景勝に贈ったのが友松の屏風絵だったというのです。天下人にふさわしい絵は超一流の絵師が任されたと考えられます。武士として一家の危機を救えなかった友松は絵筆を手に戦国の世を戦っていました。

***

「ここからは今回の展覧会を企画した京都国立博物館の山本英夫さんにも加わっていただきます。よろしくお願いします。頭に連なるは一連の作品でそれが印象に残るんですけど。」

みきの表現もそれから枝ぶりももう本当にあの優勝。武士の家柄ですが、武士の魂みたいなものがこの中に表されてるんじゃないかと思える。あの鋭さが印象的ですね。
もうそういう字を大きく使っても腕だけって足から入ってるよ
七保世もありますけども
鳥やり方にはこだわってないと思うんですね。
必要であれば平気で二度引きもするしてそれが二度引いた
死んだ星にならなければ全然構わない。」
「次に今日の潔さんって言うんでしょうかね
それ見て取れますねその全体の構図としてはいかがですか。」
「予約がほとんど支配してる
鈴木博ではあの背後からで
抱えたものを支えるという働きも一つあるんですけれども。」
友松の場合はそういう働けよりはむしろその余白をうまく使って空気感を出す。家とか霧とかへと転換させるのが抜群
に上手い
ハノイワルツの余白になっている。」
部分ってのは薄くなってると思うんですが開かないとね
よかったらその証明をちょっと低いとこから当てていただくと
その菌がどう惹かれてくるかどうかを隠すように金が引かれてる
金で光含むとふわっと前に来ますからそのすぐ下は引き残しですね
他に被らないそれと同じ光を含んでもらってこの奥に行くんだよね
そしてお前の金で間の右後ろの金でで
負荷が多くと前に行くっていうのが書き残しではないですね
あの書かないことで言ってはなんて書くかどうか
落語であの女人ほど長いんですね
同じ頃セリフをしゃべるんでもそのまま入れて一拍遅れただけで
そこに笑いが生まれるかってなっ
ちゃうかでそういう間なんですね
今日は気玉が抜けるけども
このままだとそこが不可になりありがちめになるって言うんで
それでは載ってないけども意識は自立してるって言うところです。」
「狩野派から離れたいこの意味のあるよ
短い間に気を付けたってのはどうしてるんですよね。」
「おそらく元々の場合は
あのあまり細かく細かく
そのモチーフを詰め込んでいく
絵があまり好きじゃなかったんだと思います。
それがちょうどあのーえーとから離れて
その自分の書きたいを書くときに
どういう方向にしていくのかと言うた時に
おそらく最初から方向性としては決まってた
ようなそんな気もするんですか
そもそもそういう気質のあの友松が
狩野派で胃がいる
一つの形っていうスタイルをカチカチにこう
詰め込んで言ったからこそ
その反動で床がはげる
ぬけぬけが良かったっていうのもあるのかもしれないですよね
そうですね申し訳了解お迎えた

1599年、友松に大きな仕事が舞い込みます。京都最古の禅寺。この寺の建物のその一つの部屋だけに龍を描くというものでした。その数50面。墨を自在に操り、余白を用いた、まさに友松の面目躍如たる仕事でした。実行された十数面の襖絵の中で、最高傑作と呼ばれるものもあります。襖の巨大な龍がこちらに飛び出してきそうな姿は、水墨画の傑作として後世に大きな影響を与えた友松の代表作です。

この友松の龍に魅せられた画家がいます。日本画家の土屋仁応さんです。土屋さんが友松の龍に出会ったのは48歳のとき。ある寺の依頼で龍の襖絵を手がけることになった際、準備のため日本や中国で描かれたあらゆる龍の絵を調べる中で、最も惹かれたのが友松の龍でした。

想像上の生き物である龍を、友松はなぜこんなにも生き生きと描けたのか。土屋さんは、友松の筆遣いにその秘密があると感じています。

の中で一番初めに書いたウィリアム
どうにもならない海を上からこうやっても
結局下の階段に出てきちゃったね
それは書く前に覚悟が決まってないとなんだろう
ちょこちょこよーダメダメだっていう書き方では
趣味は生きてこなきゃね
画面の左龍の背景に流れ落ちる水の後
友松は偶然流れた墨の後お家の一部として取り組んでいたので
ちょっとやってる感じがしないのが魅力的だと思う
この前食べたことは予想外で
この竜のリズムってのは生きるなと思ったんで明日って感じするね
生まれてくる喜び
ってどっかでいつも期待してる人手を生かそうと思った感じは
絵に描ける友松の才能じゃない
僕はそのニュースを見てるとね
まさしくなんか絵が呼吸してる感じがあって眺め書であった夕食は
きっと急に出会ってるでしょ
牧のうどんだし顆粒だと思うときあるけど
りゅう見てたんだと

思い
ます
気にするので
一番太い線どれ買ってみてみるとそんなことがないですに
センチかにセンチぐらいで泊まれて
あんな風でじゃないわけですよね
その単位の筆でこんなで大きいを持たせるって言うんですかね
気持ちもしようと思うんですよね
それをこう空間と輪郭線をつなげてくださっていますかね
それはまあこういうぼかしとぼかしてコンクリート人
あの技だと思うんですけど
何とかの買ったんだってやってんじゃなくてあるとこだと
9月スト最新速報雨が物凄い
様々なリズムがで構成されてるんですか
何か書く方の性分なのが
どの順番でどの範囲に行くからついて考えちゃうよね
そこから始めるとご連で鳴き読み読みたい
絶対明日来て吐き出し残っちゃうとか水を引いた方がいいのかと
韓国は引かないで後からちょっとそう
そういう船の後を追っていくと笛を入れる一番
させてこれあの辺りかなこの辺りのような気がするんですけどね
から始まったとしたら天皇のスケールはちょっとぞっとしますよね
それとするけど楽しそう
九州のうっていうのを止めて真っ暗に暗い照明にしてるんだよ
昔は安藤の光で映画を見たと思いますので
もしかしたらこんな感じかなということで再現してみた
ちょっと神秘的でした
そしてこちらはあの建仁寺の雲龍プリモ後に描かれたというの
北野天満宮の雲龍図
屏風ということなんですが顔がいいですね
顔が普通はこういう言葉とかなの
海はお金できないような存在なんですけど
会話ができそうなという人間のような顔にも見えるんですね
そんな私なんか
これで言うと
多分めんりゅう顔ダニから伺われる部分なんでしょうけどなんか
ある種の姿勢とか感情とか
そういったものを感じさせる後に人間的な知性でこちらを見てる
そんな気がしますね
ケーキとですか述べたようなとったらこのありますけれども
よく見ると結構ありますね
でないですよ
これ手でやろうとすると
上で水が多ければもそういうこと思ってなんだ
この建物はとうとうになりますし
少ないと別に行こうとその前に乾いちゃいますとも
その重力に引かれて
水が少しずつちはちはちはちはちはちばって言うと
勝手に蜘蛛の巣柄のもこもこが
再現されて上は上でこんな暗い墨が食べてくんですね
ちょっとまた今度が違うんかいという覚悟の連なりができて
それがなんとも手でやったんでは出ない
膠原病な要素になってでただそういうことですからね
あんまり思った通りに入ってくれないって言ってくれないと
また面白いわけですけど

水墨画の名手として名を馳せた友松。しかし、幸福な時は長くは続きませんでした。建仁寺の室内を描き終えた後、関ヶ原の戦いが起こります。この戦いで、友松は我が身を引き立ててくれた豊臣方の友人を失います。

悲しみに暮れる中、新たな支援者となったのは宮家や公家など、宮中の人々でした。当時、平安時代以来の古典文化の復興に力を注いでいた宮中の人々が、友松の腕に目をつけたのです。宮内庁に収蔵されている「浜松の屏風」も、その一例です。

この作品は、宮中の人々の求めに応じ、金箔を施した美しい松の浜辺を描いたもので、友松らしい大胆な余白の使い方が見られます。また、「網干頭」では、浜辺で子供たちが網を引く風景を描き、宮中の人々が愛でた四季の移ろいを、一双の屏風に差し込みました。画面右側には、秋を告げる風景が描かれており、夏から秋、そして冬へと続く季節の移ろいが感じられます。

宮中の人々との交流の中で、武家社会との関わりだけでは得られなかった新たな画風を開拓していきました。その後も友松は次々と新しい挑戦を続けていきます。

荘厳な佇まいを誇る禅寺・妙心寺。友松は、この寺で年に一度行われる重要な法要のために作品を描きました。

ベラの魚包丁年に一度ここに飾られた空間を一変させましたよ
金屏風を待っておりますけれども
その上に登ると並べられるわけですね
綺麗に残る記録をもとに話し方を再現しました

の屏風がはめ込まれたおもしろ

友松は
狩野派の重鎮さんびゃくと共に出かけました
左のまに描かれたのは優勝の作品中
最もゴージャスと言われる感じさせきわ大きく余白を用いた
友松。した以上含んだ苔に覆われた庭で
ダンをくねらせる梅の木がひゃくどるします
スタイルが試みられています
満開のボタンが
一つ一つの花の大きさや開き具合が描き分けられていた
この時代の絵師としては
異例の事態に基づいたものと考えられています
そのうち走ってきな描写があるで近代絵画を思わせます
日に新たな息吹を吹き込みました
国の故事を題材にした作品このような作品で
人物は厳しい表情で描かれます
ご覧の通りどこか軽やか

ニュースをnoteに書くと落ち着いてそばにいる二人も気持ちよさそうに眠っています
を言ってます土時代に翻弄された海北友松がたどり着いた境地です

してみた結果渓流釣改めてからいただきましたが
晩年の作ということですよね
趣味と時は思わなかったですけど
何でしょうねわりと技巧的と言うかそれが俺じゃなくて
あの方からなんかじゃあ気を抜いてって言ってんすかね
本当にも消えちゃうみたいな化粧本人も消えてしまうけども
優勝自身であるっていう映画だから彼の絵ですらなくなって
なんか昔からあったもののような
不思議な人との物体になってるってですかね
飲むような心持ちですね
愛おっぱいだけ見てから来るんだそうかどこだかの

山口さんが「本人の存在感を感じさせない不思議な作品」と語る「月下渓流図屏風」。しかし、この絵には友松が生涯を通じて培った技術が駆使されています。雪解けの水を湛えて流れる川は、上流から下流へと、たおやかに流れ、その大胆な余白とともに描かれています。

また、帰りにはタンポポや春を待ちわびた命の姿が、どこか親しみやすく描かれています。一見すると白く見える余白にも、よく見ると淡い墨の濃淡が微妙に表現されており、友松の巧みな筆運びが、光と影の交錯する一瞬を見事に捉えています。「月下渓流図屏風」は友松の技術の集大成ともいえる作品ですが、他の作品とは一線を画しています。その謎に、多くの専門家が魅了されています。

美術研究家の川井正朋さんは、この作品が和歌などに通じた極めて教養の高い公家によって注文されたのではないかと考えています。「『闇はあやなし梅の花、人こそ見えね香や隠る』という和歌がありますが、これがもしかすると、この作品の背景にあるかもしれません。注文主の教養を満足させるようなものであったのではないでしょうか」と述べています。

当時の文化をよく知る山科時親さんは、豊臣家と徳川家が対立する中で、友松の存在に注目していた若き公家たちが、新たな文化を生み出そうと依頼したのではないかと見ています。「友松という名前とその実力は、当時から広く知られていたのではないでしょうか。雪解けの川の流れは、時代の変遷や新たな平和な時代の到来を象徴しているのかもしれません」と語ります。

そして、友松に惹かれ、今も水墨画を描き続けるCRHさんは、この作品に友松が生涯の最後に表現したかったものが込められていると感じています。「何かを次の世代にバトンタッチするために、命の輝きを伝えたかったのではないでしょうか。この作品に込められた思いは、自分の人生を超えて、未来に向かって広がっていく、懐かしい過去と未来を繋ぐ空間の広がりを感じます」と述べています。

孤高の絵師が最後に描いたこの作品は、時代を超えて今なお見る者を魅了し続けています。


周りを取るのが上手い感じですかね
こうなんか多分
そのエネルギッシュさをパンと来る前に
はいとちょっと塾を崩して
また来てもしょうがないなーって言わせちゃうような
なんかそういうところがあったような
人なのか知らんっていう声だけ晩年まで人があのよってきてね注文
を受けてっていうのは答えあるけども
なんかそれに周りが辟易しないというか
むしろ熱いやどうしたんだろうと言わない
なんでちょっと今とそんなふうだ
動画勝手にも巧みに描いていくっていうような
あの住所のスタイルが確立していく中で
その次のステージってこういうことなのかなーって
今その自分の答えも言って
口で言えばこう切らずして相手を切る
みたいな書かずしてを開いて行く
のちゃんところ見せてくれてるのが
高速ひだのかなっていう風にちょっと書いてましたね
最晩年のこの境地ですよね。」

「山本さんはこの絵をどのようにご覧になりますか。」

「水墨画で描く場合、普通は中国の風景が多いですよね。でも、その絵を見ても、この風景が中国だとは多分誰も思わないでしょう。本当に日本的な風景だな、という印象を受けます。それはまさに友松がたどり着いた境地で、日本的な水墨画を完成させたのだと思います。

そこには友松の波乱万丈な人生が反映されているのですが、全ての余計なものをそぎ落とし、必要なものだけを画面に残していった。その結果、極限にまでシンプルに研ぎ澄まされた絵になっていると感じます。澄み切った心境がそのまま絵に託されているようで、それが友松の気持ちの表れではないか、そんな気がします。」

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