日曜美術館 「 広重 が描いた日本の絶景」

風景の叙情詩人と呼ばれる歌川広重の代表作の一つ、全国68か国の名所を網羅した『六十余州名所図会』。日本三景をはじめ、絶景、奇景にあふれる広重の絵を紹介する。

雨や雪など自然の変化を巧みに織り交ぜて日本の風景を情緒豊かに描き出し“風景の叙情詩人”と呼ばれる歌川広重(1797-1858)その晩年の代表作の一つが、全国68か国の名所を網羅した『六十余州名所図会』。日本三景の松島、天橋立、宮島をはじめ、渦潮が逆巻く鳴門海峡、奇岩がそびえ立つ耶馬渓など絶景、奇景にあふれている。番組では各地の美しい景色を広重がどのように絵にしたのか、風景と作品を対比しながら紹介。

【ゲスト】国立歴史民俗博物館教授…大久保純一,【出演】中外産業美術担当…小池満紀子,大阪市立大学大学院教授…菅原真弓,アダチ版画研究所摺師…京増与志夫,【司会】井浦新,高橋美鈴

放送:2017年4月30日

日曜美術館 「広重が描いた日本の絶景」

広重の晩年50代後半に描かれた「六十余州名所図会」山形県から鹿児島県まで69箇所に及びます。
広重はすべて現地を訪れて描いたのでしょうか。
まず、広重がたしかに現場を訪ねたとわかる絵から見て行きましょう。
山梨県の境を流れる桂川の渓谷を描いたと言われる絵。
猿橋は橋脚を立てずに両岸から支木を出す代わった工法で作られています。

この地を訪れた広重は旅日記にこう記しました。

「岩国の錦帯橋」は「木曽の棧(かけはし)」と並ぶ日本三奇橋のひとつです。長さ30.9m、幅3.3m、高さ31mのその姿は、橋脚を全く使わない特殊なもので、鋭くそびえたつ両岸から張り出した四層のはねぎによって支えられています。猿橋の珍しい構造の起源は定かではないが、西暦600年ごろ、百済からやって来た造園博士の志羅呼(シラコ)がなかなかうまくいかず難航していた橋の建設の最中に、沢山の猿がつながりあって対岸へと渡っていく姿からヒントを得、ついに橋を架けるのに成功したと言われています。

川面に降りて眺めた景色とくらべてみると、奥にある山々を除いて構図はよく似ています。 橋の上から見える遠くの山々を広重は絵の中に巧みに入れ込んでいたようです。

広重はいったいどれくらい現場を訪れていたのでしょうか。それを知る手がかりがイギリスの大英博物館にあります。
広重が描いたとされるスケッチ帳があるのです。 近年これを旅のスケッチと考える研究者も出てきました。広重はこれまで旅をしていないというイメージがありましたが、スケッチ帳に書かれた絵と実際の場所を照合することで広重の旅の軌跡に光が当たり始めています。
広重が榛名山を訪れて描いたと思われる風景。そそり立つ山の前にお堂と橋が見えます。「上野 榛名山雪中」と比較してみると構図がよく似ています。

こちらは神戸市にある舞子の浜。白砂青松の浜でとりわけ松の枝ぶりが有名でした。
スケッチでは遠近感はあまりありませんが、松の枝ぶりと海の風景がよく似ています。

広重は六十余州の多くの場所を実際には行かずに描いたと言われます。では、行ったこともない場所をどうやって描いたのでしょうか。

細密に描写された土佐のカツオの一本釣り。 広重が参考にしたと言われる絵があります。「日本山海名産図会」

広重の絵と比べてみると、乗っている漁師たちの人数も同じで、動作までよく似ています。

でも全体を見てみると構図は随分違います。広重は巧みに遠近感を出しているのがよくわかります。

瀬戸内海に面した愛媛県西条市の風景を描いた「山水奇観」

この絵をもとに描いたとされるのが「伊予西条」です。

手前に見える大きな帆先と空をゆく雁の群れを書き加えることで、平凡な構図の元絵を印象の残る絵にしたのです。

鹿児島県の海岸にそそり立つ2つの尖った岩。双剣石。27メートルもあります。

もとにしたと言われる絵「山水奇観」薩摩坊津其二と比べると双つの岩の存在感の違いがよくわかります。

広重が日本的情緒を醸し出すためにこだわったのが雨でした。広重の雨はほとんどが黒い色で表現されてます。

広重の絵は細かな変化を表現するため二十回近く色を重ねているのが普通です。

最初に輪郭線を摺り、その上に色を加えて行きます。

最後に雨を摺ります。

白の顔料である胡粉に墨をまぜ柔らかな白を作ります。

黒い墨で吸ってみます。実際にも後刷り(最後の方の摺り)では黒い雨が刷られています。

絵から受ける印象が雨の色が代わっただけで大きく変化することがわかります。

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