大阪在住の現代美術家・三島喜美代さん。新聞や空き缶などの「ゴミ」を、焼き物で、本物と区別がつかないほど精巧に作る。しかも50年続けている。なぜそんなことを?本人曰く「ただおもろいから」。そんな独創的で不思議な作品への評価は、今やウナギ登り。88歳にして現役。体力の限界などお構いなし。果敢なる新作作りの現場に密着!
初回放送日:2021年6月27日
日曜美術館「三島喜美代 命がけで遊ぶ」
この人にかかるとこの世はなんだかおもろく見える。
「これがかけてあったんや。これが昔のタグなんですね。ずっとかけてあったんですね。それ見てて、あ、これ面白い」
なんとこの札自体が割れ物です。
「あのあまり計画性ないです。私はなんかこれ面白いと思ったらパッとやってしまう」
65年住んでいるアトリエの中にはけったいなものがズラリ。
「これも拾ってきたもんですね。道で面白いなと思って、これ何かわからないけど、これを作ろうと。これ缶切り」
拾ってきて50年たったのもあるのだそう。
現在、東京六本木で開かれている展覧会。
時代に先駆け、活躍してきた女性アーティストが紹介されています。
三島喜美代さん。88歳。
その展示がラストを飾ります。
うず高く積み上げられた新聞や雑誌。
全てこれは焼き物です。
こちらのゴミ箱でも中に入っているのは焼き物。
空き缶ひとつひとつを手作りし、色をつけています。
大量生産。大量消費。
そこから生まれる膨大な廃棄物。
それをわざわざ手の込んだ作品として造ってみせる。
どんな仕事を50年以上も続けています。
「世界的に見てもこんなことをしている人は三島さん以外にいないだろうと思う。本当にその独自のスタイルで評価をしていて、ずっと長いこと新しいもの試みたいことをやってみる、好奇心でわくわくしてるっていう感じが伝わってくるところが最大の魅力じゃないかなという風に思ってます」
今も枯れることのない創作意欲。
「ただ単に遊びだけじゃない命かけて遊んでるような感じで、それが面白いんだと思いますよ」
命がけで遊ぶ。
この方要注意。
大阪の下町、十三。
ここに三島さんのアトリエはあります。
2月。展覧会に向けた新作づくりに取り組んでいました。
取り出したのは粘土。
一体何が出来るのか。
「薄くするのがなかなかできなくて。もう本当に薄く作りたい。どうしたらいいのかな
と思ってた時に、おうどん。手打ちうどんやってはった。これやというて。どうしたらいいのか知りませんけど私はこういうのしかできません」
こちらはシルクスクリーンの版。
これは粘土に文字や柄を写し取る特殊なフィルムなんだそう。
「このフイルムは400度ぐらいで全部溶けてしまうんです。あと文字だけが残ります。
できるだけこれをピタッと完全に小文字が綺麗に着きます」
続いて取り出したのは厚みのあるケント紙。
先ほどの粘土を挟んでぐしゃり。
そしてこのまま乾燥させます。
いったい何ができるのか。
88歳の今も一日十時間以上アトリエで立ったまま過ごすこともあるそうです。
「ただ面白いけどやりたい。なんか遊んでるつもりなんですね。なんか命かけて遊んでるような感じで、あのレーサーと一緒ですよね」
三島さんは一人暮らし。
炊事も洗濯も家事は自分で行います。
「キャベツを適当に切って入れます。焼豚の味がおいしくなります。なんかぐちゃぐちゃでなんかいやらしいないっていう人もいます。ようこんなの食べてるね」
食事はできるだけ簡単に。
作品づくりが第一です。
「今日はだいぶ余りました。これに言っちょっと足して、ラーメンかなにか。それでお昼は済みます。脳の中で隙がない。仕事の事ばっかりが頭にあって、それをどうしようああしようそんなばっかりがこう。それがいいか悪いかはわかりません。ちょっと無茶して体の方を考えずにやってしまうんでこういうことになるんだと思います。何種類あるんだろう。これは痛み止め。これは胃。足が腫れ上がったりむくんで」
足の痛みがひどく薬が手放せません。
「作家にとってはどっちとるか言われたら作品ですよね。体はなんとかなるかという感じで、自分で我慢したり治したりできるけど、作品を成功させるか自分の体を提供するかどっちかです」
乾燥させた粘土が焼き上がりました。
くしゃくしゃになった新聞。
この不思議な焼き物を二か月後の展覧会までに100個以上手作りするのだとか。
気の遠くなるような作業が続いていました。
三島さんの作品が常設が展示されている場所があります。
こちらです。
これはゴミはこれですね。ゴミ箱にたくさん缶が入っている。
この枠に入ってなかったらゴミ箱にしか見えないですよね。
ちょっと缶が大きくないですか。
ここは元々倉庫だった建物を改装して作られたアートスペース。
三島さんのキャリアを代表する作品やインスタレーション21点が展示されています。
ここが入り口ですね。古紙集積所みたいです。
外国の新聞もありますね。
新聞がうず高く積み上げられたインスタレーション。
どっち行ったらいいですかね。
暗闇の中をあっちへうろうろ。こっちへうろうろ。
合成樹脂の上に写されているのは、長年三島さんが旅行先などで集めてきた新聞の記事。
圧倒的な量の情報が暗闇の中で見るものに迫ってきます。
今日は三島喜美代さんにお越しいただきました。
よろしくお願いいたします。
今迷路を経験してきました。すごい面白いんですけども両側から新聞紙が迫ってくる感じで怖いっていう感じを受けましたけどもなぜこのような作品をお作りになられたでしょうか。
「その新聞っていうのが親しみがあるんですね。情報とかなんかがあって。それが毎日、あの時分はちょうどを毎日送ってきてましたから、これをもしも溜まっていくとどうなるかなと。ごみ溜めの中に私がいるような感じになるなと思ったのです。それでこういうことやりたかった。はじめは本物でやろうとしたんですけど集められなかった。貸してくれないのです。新聞社が。もっと有名だったら貸すけどもあんたはダメと言われて、しょうがないからやるにはどうしたらいいかと。それでこういうことやったんですけど、これも数なんかどうでもいい。何かワッと欲しかったんですね」
姿を見てますと重労働だなと、しかも何時間も。
「1日何時間も。朝食事済んでお昼ご飯の間だけちょっと休んでも食事の時だけです。休むのは。あとはやってます。面白いからやるんであって、これを成功させたい。やっとできたと思った時に足がだんだん動かなくなってきてんのがわかった。医者に言うとそれはちょっとめちゃくちゃでもね作品ができたんだからと笑われました」
1932年大阪十三に生まれた三島さん。
戦後の混乱が続く中、酒店だった実家は商売上手な母親の元、キャバレーの経営やサイダーの製造などにも進出。
一方で父親は娘を連れて飲み歩く自由人。
そんな家族のもと、小さい頃の三島さんは自分の興味をとことん追求していました。
「いつも顕微鏡でなんか見るのが面白くてね。押し入れで並べてあるんです。蜘蛛、アカハラトカゲ。ずっとねカイコやらいろいろ飼っていた。それ見てるのが面白くてね、自分の毛をちょっと取ってみたりで。あんたシラミいるよ言われて、シラミを取ってみてプチッとしたら血が出てきた。顕微鏡で見たりして遊んでました」
美術作家となるきっかけをくれたのは22歳で結婚したお相手。
美術家であった夫の茂司さんは当時としては珍しい考えの持ち主でした。
「うちの主人は女性でも解放すれば才能を持ってる者は伸びるって言うかあって、それで私を自由にしてくれた。何でも何しても何にも言わない」
のめり込んだのは幼い頃から興味を持っていた美術でした。
様々なイメージや印刷物をコラージュする作品を作るようになった三島さん。
31歳で独立美術協会の最高賞を受賞。
大阪や京都で個展を開催するなど美術界で存在感を高めて行きました。
おびただしい新聞広告の数々。すべてのマスコミュニケーションはメーカーや販売業者の宣伝に動員されています・・・・
1970年。
38歳のある日のことでした。
アトリエでの制作中、足元に転がっていた新聞紙に突然目が釘付けになります。
「絵を描いていて、新聞などをコラージュしていたら、ちょっと物足らない。その時分はちょうど情報時代とか言って、情報情報いってましたから、もうちょっとなんか強烈なものないかなと思った時に、ふと割れる新聞面白いなと思ったんです」
割れる新聞。
生まれては捨てられ忘れられていく膨大な情報。
その儚さを陶器として表す。
「72年ぐらいのかな初めて作った」
どうやって割れる新聞を作るのか。
ガラス、土。様々な素材を試し、新聞の転写方法も独自に開発しました。
もはや情報を伝えるメディアであることを止めた新聞の姿。
タイトルはパッケージ。
その後三島さんは様々な種類のゴミを焼き物として作っていきます。
読み古されたコミック誌。
役目を終えた輸入果物のダンボール。
ふやけた質感までも再現されています。
しかし斬新な作品はなかなか評価されませんでした。
「あの時全然売れなかった。不思議と」
53歳。
現代アートの最先端ニューヨークへ留学。
しかし三島さんの興味は変わりませんでした。
毎日町を歩いてはゴミの写真ばかり撮っていたといいます。
「外国行ってもゴミ溜めとかそんなとこ見て歩きました。面白くて。やっぱりゴミってそこの地域とか国の臭いがあるんですね。ニューヨーク行っても、ヨーロッパ行っても街の裏裏へ回ってました」
帰国後もゴミばかり作っていた三島さん。
そして70代。
ある作品を瀬戸内の島に置きました。
アートの島として知られ世界各国の作品が点在する直島。
その作品は山道に突如として現れます。
巨大なゴミ箱。
高さは4.5メートル。
背丈をはるかに超える新聞とチラシの山です。
この作品はゴミをリサイクルした素材で作りました。
当時瀬戸内の島ではゴミの不法投棄が問題になっていました。
三島さんはゴミをリサイクルした作品なら直島にぴったりだと考えて作品を置かせてもらうことにしたのです。
「ただ最初は大きなゴミ箱ができて、これ何のゴミを捨てるのだろうと思うくらいの感じでした。名前、作者そんなの知らん」
それから16年。
地元の人を驚かせた作品は今や島の人気スポットになりました。
「インスタで調べてこれ目的にここまで来ました」
ゴミをゴミで作る。
自分の興味をとことん貫いた情熱の結晶です。
着想が驚く。作品自身が壊れものとして新聞。情報ってのは儚いものだ、壊れやすいものだっていうことを表現されている。それを語る三島さん自体は嬉々として喜んでる。嬉々として危機について作ってる時は多分鬼気迫る感じだと思う。
「陶芸家の人は邪道だと言ってましたから。邪道でもいい。私は陶芸家じゃないから、何をやってもいいんだと。私は美術としてやってるんだから、美術の畑で始めから。考え方が違うんですよね。美術でやってるのと陶芸家でやってる人と。だから私はそれでいいんだと思います」
3月。三島さんの新作作りは山場を迎えていました。
35年前から岐阜県にもアトリエを構えている三島さん。
大阪で作っていたあの焼き物の新聞、130個にまで増えていました。
「それ反対向けてもいいよ」
今回の新作ではひっくり返ったタンクから新聞が溢れ出る姿を作り上げると言います。
手伝ってくれるのは孫ほども年の離れた若手美術家や陶芸家たち。
三島さんを慕って遠方からも駆けつけています。
「本当に作品のことしか考えてないですよ。うーん。びっくりするほど。だもんそこら辺はやっぱりかっこいいし」
「もうちょっとスケールが違うぞというのはもうその最初の印象ですね。三島さんけろっとしてて、割れたら割れた時みたいな感じで。もうケロッとしちゃって。全然なんかやっぱり怖れないっていうか。もうお金が足りなくなっても心配しないし、壊れても心配しないし」
三島さんが立ち上がりました。
新作に使うもう一つのタンク。
ここに何を入れるのか。
当初は焼き物で作ったゴミを入れるつもりでした。
しかし方針転換。
本物のゴミを次々と放り込んでいきます。
「錆てんのが面白いなぁという感じ。だからみんな錆びさせた。錆が好きなんです。長いことここ30年放ってある。古いの勝手に30年置いてるから。ただ欲しい思って買った。何使うか考えてない」
手に入れてから30年も放置されていたというゴミ。
うかがい知ることのできない三島さんの頭の中。
「もうちょっと高いって」
言われるがままに作業は進みます。
「これで行こ。初め陶器入れるはずだったんですよ。でもちょっとね違和感がね。入れよ思って作ってたんだけど、ちょっとあわん。本物ばっかりも面白いな」
「形が綺麗すぎると面白くない。ガチャガチャって。何かこうランダムにはとある方が面白いから。何でもこう積み重ねる。でも綺麗に言うとしない。ガチャガチャっと」
一時間後もう一つのタンクが完成。
88歳。
即興で作り上げたゴミのアートです。
こっちの作品がレンガが1万個以上敷き詰めてある。
レンガ一万個を敷き詰めた巨大な作品があります。
その一枚一枚には20世紀の百年間、膨大な新聞記事の中から三島さん自身が気になり、選んだものが写し取られています。
これなんか三島由紀夫ですよ。三島由紀夫。僕生まれた年です。
そうですか
25日ですよ。11月。
そういう新聞もあれば時代がね。
ほらヒトラーが表舞台へ。
高まるファシズムの足音。1923年です。
ドイツ語だ。
でもこのシンガポール陥落の上がチェルノブイリだけど、その隣が自分に正直な着こなし。
7日で楽々5キロ痩せるヨーグルトダイエット。
上から見たら街に見えません。
ひとつの都市が。
これだけの量ですよ。
何年ぐらいかかったんですか。
「32以上かかってますね。やんのが面白かったってね。どうしようとか考えたことない。ただやってるいうことが面白かった。途中でやめようと思ったことなかったですね」
レンガはどこから来たレンガですか。
「これはあの私のお願いしてる工場があったんです。その窯を潰すということなって、その潰した後の台車があるんですね。その台車の上に大きい作品乗せて焼くんです。その台車の耐火煉瓦です。捨てるのに莫大なお金がかかると言われて、じゃあ私が引き取るとゴミを引き取ったのです。でこれを何とかできないかなあと思ってこれをやったんです」
新聞記事っていうのはどのような新聞記事なんですか。
「図書館でマイクロテレビでマイクでニュースをやってあの新聞からとったんですけど、私が思うニュースがないんですよね。でも広告とかそんなんはやっぱその時代の広告ですから、それもいいかと思ってそれも一緒に入れました」
これ三島さんの面白いなあと思った31年の問い。すごいね一つ一つが問いって言うか、自分の世界に対する問いかけみたいなものが煉瓦として具現化されてる感じがします。
「軽いのもありますけどね」
30年かけて一つ一つ記事を写し取った1万600個のレンガ。
そのすべてを並べ作品として完成させることができた裏にはある人の存在がありました。
今日は三島さんの作品を常設展示しを広いところでいつでも見られるようにしようと思われた方にもお越しいただいています。
水嶋龍一郎さんです。
水島さんはどういうことから三島さんの作品これはイケるという風に思われたんでしょうか。
「大阪の人やし、昔から知ってるし、そういうところがあるから食べ物のクオリティがわかってるのよね。何が美味しいとか、なにがまずいと知っている人少ないのよ。美味しいものはわかってることないなことでね。そんなことを通じてたまたまそうなったんちゃうかな」
なんだかちょっと不思議な回答ですが、水島さん。
実は名門アートギャラリーの経営もしていた美術商。
その審美眼を買われ、倉庫を改装して作ったこの場所のプロデューサーを務めました。
この空間があって振ってここにふさわしいその芸術家誰かってことを考えになられたってことですか。
「三島先生といけんなと思って一人でなかなかこの空間をしめるの難しいよ」
もともと作品はご存知だったんですか
「そうよ。少しは知ってたよ」
三島さんが最初に見つけた時って。
「大変だったのよ。作品が全部ブルーシートに包まれてたのよ。でもブルーシートそのもの開けてないの。長いこと画商やっているからわかる。だってあれだけの畑を借りて、あんだけのものがあんねんから、やろうと思ったのよ」
「ただ何だって言われてあれ作品ですって言ったら、そうやっていった」
信頼関係があったことですね。
「分かりませんね」
「うんそうですよね。これだったらどうやと思ってしまった。あのゴミだから捨てないで良かった。捨てる寸前だった。交渉していたんです。ゴミ屋さんと」
面白がって作ってるけど出来上がったものに執着されないって素晴らしい。
「それはありますね。それは皆さんに迷惑かかると思って、後は片付けてあの世行こうと思ったんです」
三島さんの新作が仕上げの時を迎えていました。
「きれいに並べすぎやから、こっちの方の上にもうちっとあってもいいかな。ここから流れてるから」
三島さんの新作《作品21A》
タンクから溢れ出る情報のゴミ。
増えすぎて、もはや収まりきれないとでも言うかのよう。
傍らには本物のゴミを入れることにしたあのタンク。
長い年月の中で錆びた鉄くずや一斗缶はまるで化石のよう。
命がけで遊ぶ現代美術館三島喜美代さん。
88歳の現在地です。
「作りたいので今まだ考えてませんけど、この足がどうなるかですね。もしも動くようになってしたらまた次の作品作ります。でももうこれが駄目でどうしようもなくなって、頭だけ動いてると現代音楽でもやろうかな。音楽作ることもできますかそんなんでね、現代音楽をそんなも考えてますけど」
今後何を考え何作りたいかとか言うことないでしょね。だって基本的には無計画だとおっしゃっていた。
「もう60年。知らない間に自分の年も忘れてました。何歳ですか言われて1932年生まれですって言って80代で」
僕としてはお体に気をつけて頂いて我々を驚かせる作品を今後も作っていただきたい。
「作れるか透過わかりません。頭が動いてればなんかできると。本当に今日は楽しかった」
取材先など
三島喜美代 @ ANNE MOSSERI-MARLIO ギャラリー (バーゼル) & tagboat ギャラリー (東京)