日曜美術館 「オスマン帝国 400年の美〜トプカプ宮殿・植物文様の迷宮〜」

2024.02.04.日曜美術館「オスマン帝国 400年の美〜トプカプ宮殿・植物文様の迷宮〜」

NHKはトプカプ宮殿のリニューアルに合わせ、特別に取材許可を取得。近年新たに発見された壁画のほか、立ち入りが禁止されてきた区域を映像におさめた。番組では、宮殿の装飾タイルや工芸品の多くに共通したモチーフである植物文様に注目。オスマン帝国の美術に革命をもたらした謎の異邦人や、最近明らかになった日本との交流などについて紹介する。専門家のスタジオトークも交え、オスマン帝国の美に秘められた物語に迫る。

初回放送日:2024年2月4日

日曜美術館 「オスマン帝国 400年の美〜トプカプ宮殿・植物文様の迷宮〜」

トルコ最大の都市、イスタンブール。アジアとヨーロッパを隔てるボスポラス海峡の小高い丘に佇むのが、世界遺産トップカプ宮殿です。オスマン帝国の君主、スルタンの居所として名を馳せました。その内部は、青を基調としたタイルをはじめ、植物紋様の装飾で彩られています。

去年はトルコ共和国の建国百周年を迎え、節目の年を前に宮殿の改修が進められました。このリニューアルに合わせ、NHKでは宮殿の撮影を依頼し、特別の許可を得ました。撮影を許された区域では、近年、植物紋様の成り立ちを知る手がかりが見つかりました。石膏に覆われた壁の中から、十六世紀の貴重な壁画が現れたのです。

描かれているのは、空想上の動物たち。龍、そして鳳凰。遠く中国や日本の絵画にも見られる題材です。調査の結果、この壁画の作者は植物紋様の「海の親」だと分かりました。

トプカプ宮殿の装飾を代表するのがチューリップの模様です。その歴史を紐解くと、イスラム教との意外な接点が見えてきました。オスマン帝国に花開いた様々な植物紋様を、およそ四百年の変遷を辿りながら、秘められた物語に迫ります。

イチオ美術館です。今日のテーマはトルコのトップカプ宮殿、そしてオスマン帝国の美術ということなんですけれども、小野さん、トルコには行かれたことがありますか?

「ありません。」

「そうですか。意外な感じがします。」

「でも名前しか知りません。今日は楽しみです。」

はい、「では早速、トップカプ宮殿の探検から参りましょう。」

トップカプ宮殿の植物紋様は、オスマン帝国の君主スルタンの私的な空間に数多く見られます。それが禁じられた場所を意味する区域、ハレムです。入り口を抜けると、早速、緻密な紋様が目に飛び込んできます。

ハレムの壁には、青を基調とした植物紋様のタイルが敷き詰められています。宮殿で最も美しい部屋の一つとされるスルタンの寝室は、十六世紀後半、スレイマン一世の時代に作られました。中央にはブロンズ製の暖炉があり、その周囲の壁は梅などの花模様のタイルで飾られています。花模様にふんだんに使われた赤サンゴ色は、現在の技術では再現できないと言います。

スルタンの寝室の隣にある控えの間は、スルタンの寵愛を受けた女性がここで呼ばれるのを待ちました。枝に挽回の花模様は、ハレムの装飾の中でも最も美しいタイルの一つと言われています。

宮殿の植物紋様の多くは、一人の卓越した絵師が生み出したと考えられています。その人物が手がけたと思われる作品が新たに見つかりました。

壁画が見つかったのは二千二十年。宮殿の一角にあるアーチを修復中のことです。アーチを覆っていた石膏をはがすと、色鮮やかな壁画が現れたのです。調査の結果、この壁画が制作されたのは十六世紀だと分かりました。オスマン帝国が隆盛を極めた時代です。

壁画のモチーフは体をくねらせた二匹の龍。鱗の一枚一枚まで丹念に表現されています。大きく開いた口には竹のような牙。鳴き声が聞こえてくるようです。さらに、龍の上には国際式の羽を持つ鳥が舞っていました。色彩豊かに描かれた竜や鳥、作者として浮かび上がったのが伝説的な人物でした。

シャークルとは何者なのか、オスマン美術史の専門家を訪ねました。シャークルの記録はほとんど文献に残っていません。唯一の手がかりが当時の帳簿です。宮殿で働く絵師の給料が書かれています。

シャークルが仕えたツルタンスレーマン一世は、十三回もの対外遠征を行い、ヨーロッパや中東で領土を広げました。東へと進軍するオスマン国を迎え撃ったのがイランのサハビー朝、ペルシャです。ペルシャへの遠征を描いた戦争が、オスマン帝国はペルシャとの戦いで多くの捕虜を連れ帰りました。壁画の作者とされるシャークルもまた捕虜の一人だったと考えられています。

その後、スレーマン一世に仕えたシャークルは頭角を表し、宮廷絵師のトップに上り詰めます。シャークルはイランなどのアジア各地に伝わる題材を宮殿の工芸に取り入れていきました。壁画に描かれた龍もその一つです。実はトップカプ宮殿にはこれとよく似た絵が残っています。

それが十四世紀に描かれたこちらの絵です。中央アジアのサマルカンドから伝わったとされています。うねりながら宙を舞う竜、奥に見える動物を狙っているかのようです。

一方、国際式の羽を持つ鳥も、こちらも宮殿が収蔵する絵画の中によく似た作品があります。古代ペルシャの民族衣装を題材にした絵画です。描かれているのはシームルグと呼ばれる巨大な鳥、いわばイラン版の鳳凰です。その姿は壁画の鳥と酷似しています。

古くからアジアで描かれてきた創造上の動物たち、シャークルと見られる壁画の作者は大胆にも取り入れたのです。さらに、シャークルは動物と植物のモチーフを組み合わせ、独自の模様を生み出しました。宮殿内の一角にある草食タイルには、ギザギザの葉を持つ草花とともに、二頭の動物が描かれています。想像上の生き物、キリンです。

植物紋様と動物を組み合わせたモチーフ、シャークルが生み出したこの表現はサズ様式と呼ばれています。サズとはアシの葉のこと。先の尖った葉のモチーフはサズ様式の典型です。広大なトプカプ宮殿を彩るアシの派の紋様、その背後には、たった一人の異邦人がいたのです。

では、ゲストをご紹介しましょう美術歯科のヤマンラール、水野美奈子さん、そして歴史科の小笠原博之さんですよろしくお願いいたします。

「小笠原さんに伺いたいんですけれども、今ご紹介したシャークル、外国人で、しかも戦争の捕虜であった人物の人材活用の仕方っていうんでしょうかね。その宮廷画家のトップにしてしまうという、こういったことがなぜ可能だったんでしょうか。」

「まずオスマン帝国と言いますと、トルコ人の国、イスラム教徒の国というふうにイメージされがちなんですが、その実態としてはですね、トルコ人以外でも、あるいは元キリスト教徒であっても、能力があれば柔軟に登用して要職につける、そういう人材登用のシステムを持っていた国でした。例えばオスマン帝国の精鋭部隊でユニチェリ軍団というのがあるんですけれども、それはもっとキリスト教徒の少年を徴用して、イスラム教徒に改宗されて鍛え上げ、新鋭軍に育て上げるという、そういう形をとっていました。このシャークルというのは、そういったオスマン帝国の人材登用のシステムの中で頭角を現した人物だというふうに思われます。」

「もともと捕虜で、イランから連れて帰られて、それで見せたらいい仕事をしているっていうことがわかって、じゃあもっと他に休憩で仕事をしなさいっていうような感じで、どんどん活躍していくっていうことなんですね。」

トップカプ宮殿の植物文様 様々な植物が登場しますけれども、中でも代表的なものがチューリップですトルコの人たちはチューリップをとても愛しているということで、続いてはオスマン帝国の工芸とチューリップの関係を見ていきます。

トルコ中南部の町、今夜。

古くからチューリップが栽培され、現在はトルコ随一の産地です。

今夜の街は、かつてイスラム教神秘主義が盛んだったことでも知られます。

イスラム教神秘主義の教えを守る人々はスーフィーと呼ばれます。

スーフィーが行う独特の旋回舞踊。

恍惚の中で、我を忘れ、アンダーと一つになることを目指します。

チューリップとスーフィー、一見無関係に思われる二つを結ぶ場所があります。

イスラム教神秘主義を広めた教団の聖地、ルーミーの霊廟が博物館として公開されています。

ここにはルーミーをはじめ、歴代の指導者が眠っています。

指導者たちの棺を覆う布にはチューリップの刺繍が施されています。

そして、壁面にもチューリップ。一体、なぜなのでしょうか。

謎を解く鍵は文字のつづりにあります。イスラム教の唯一神「アッラー」は四つの文字からなる単語です。この四つの文字の並び順を入れ替えると、「ラーレン」、すなわちチューリップを表す単語になるのです。一説によると、スーフィーの旋回舞踊もまたチューリップを表していると言います。

これは二百年余り前、スーフィーの指導者が描いたチューリップで、天に向かってまっすぐ伸びる葉や、螺旋を描きながら上を向く花びらの形は、天を仰ぎながら旋回するスーフィーの姿を彷彿とさせます。

チューリップを題材とする工芸はトップカプ宮殿にも見られます。その一つが生遺物法案で、イスラム教の海藻、ムハンマドゆかりの品々が収められています。壁を埋め尽くす緻密な植物文様のタイルには、アッラーの花とされたチューリップが鮮やかな赤で描かれています。

さらに、イスラム教の聖地にちなんだ品もチューリップを題材にしています。イスラム最高の聖地メッカのカーバ神殿、そのカギと女王です。オスマン帝国は十六世紀以降メッカを支配し、スルタンの即位のたびにカギと女王を新調しました。十七世紀半ばのスルタン、イブラヒムの女王には、チューリップの花をかたどった金細工が施されています。

チューリップの紋様は、スルタンの日用品や衣服にも取り入れられました。十七世紀のスルタン、アフメト一世の玉座の重さは1.4トンあります。花模様に使われているのは、削り出した真珠貝をはめ込む螺旋の技法で、チューリップがエメラルドやルビーなどの宝石を囲んでいます。

歴代のスルタンの中で、特にチューリップを愛したのがアフメト三世で、宮殿の多くの場所にチューリップの装飾を施しました。こちらはアフメト三世のために増築された食堂で、様々な植物や果物の絵が壁を覆っています。数多くのチューリップがひときわ大きく描かれています。

アフメト三世の時代は、オスマン帝国でチューリップの栽培がブームになった時期で、いわゆる「チューリップ時代」です。ヨーロッパで品種改良されたチューリップの球根がオスマン帝国に逆輸入され、栽培が盛んになりました。チューリップ時代には、オスマン帝国がヨーロッパとの融和を目指し、束の間の平和が訪れました。

アフメト三世の前で曲芸を披露する軽和雑誌や船遊びを楽しむ人たち、太平洋の一コマです。ヨーロッパの万物を進んで取り入れる気運も高まりました。それを今に伝えるのがスルタンの大広間です。ここでは伝統的な植物紋様は影を潜め、バロック様式などヨーロッパとの接触が見られます。ヨーロッパとの交流を物語る装飾も残されています。花模様のタイルですが、オスマン帝国の図柄ではありません。十八世紀にオランダとの交易でもたらされました。

ヨーロッパとの対立から協調へ。トップカプ宮殿の植物模様は、時代の変化をも映し出しているのです。

「オスマン時代のチューリップは、ずいぶんと形が異なりますよね。お馴染みのチューリップと、今このモニターに映っているチューリップでは、かなり違いが見られます。これは十八世紀に流行したチューリップの形なんです。

十六世紀ぐらいから、チューリップの花はだんだん人気が出てきて、品種改良が非常に盛んになりました。形もだんだんと細く見えてきて、花びらの質感も硬いんですよね。そういう形のチューリップが作られるようになったんです。」

「イスラム教におけるアーラーの花、つまりチューリップを物語る資料がこちらにあります。これは1582年頃の絵なんですけれども、ちょうどその当時、村田三世というスルタンがいました。王子の割礼のお祭りの様子が描かれていますが、よく見ていただくと、地味な服装をした人が多いですよね。

宗教関係者の行進の場面で、彼らがチューリップの花を持って行進しています。当時、品種改良を行ったのは知識人階級で、特に宗教関係者は教育を受けた人たちです。そのため、宗教関係者たちはイスラムの教えと関連して、チューリップを非常に大切にされていたんです。」

これ、品種改良してこの巨大なチェリップができたわけじゃないですよねそういうわけではないとすごく大きいですよねそうです、もちろんです これ、非常に高い背の高いチューリップで、模型ではない増加ですよねチューリップの増加です小笠原さんこの時代はチューリップ時代という風に言っても良いんでしょうか一般にチューリップ時代と呼ばれるのは、千七百十八年から千七百三十年の間ですね当時の名称ではなくて、うちの歴史家がそういうふうに呼んだんですけれども、この時期、非常にチューリップの品種改良、熱収集率がすごい盛り上がりまして、オランダ宇宙人のヨーロッパなどで品種改良された球根を非常に高額で買い入れたりですね、球根の核が非常に高騰して、一説には一つの球根に金貨五百枚の値がついたという説もある、それはちょっと大げただろうと言われているんですが、ただそれであまりに高騰したので、そういった登記的な 売買をやめさせるためには肯定価格というのを政府が制定せざるを得なくなるそれで、まああまりに白熱したチューリップ収集術をコントロールするということが行われたんですけれども、まさにね、バブルというかバブルですよねでもバブルは当然弾けちゃう、当然だったけど、弾けるんですよねただ、その後もすぐにチューリップの栽培熱そのものが、収集に栽培率そのものが消えてなくなったわけではないと思うんですけれども、オスマン帝国は十八世紀後半から十九世紀前半にかけて、西洋か近代化の 大きな波が来るんですねその時に、伝統的なチューリップ栽培であるとか、チューリップに限らずですね、 例えばあの細密がですね、いわゆるミネラルチュールとかの細密がであるとか、あるいは伝統的な音楽であるとか、そういったものがその十八世紀後半から十九世紀前半を境に徐々に亡くなっていって、新しい近代的なヨーロッパの影響を受けた文化というのが主流の種類になっていくと、チューリップ時代が終わる十 八世紀半ば以降、オスマン帝国は戦争や内噴が相次ぐ、そんな事態になっていきます。」

歴代のスルタンは外国の陶磁器を熱心に求めました。その一つが中国製の陶磁器です。トップカプ宮殿には中国の陶磁器の一大コレクションがあり、その数は一万二千点以上で、中国以外では世界屈指です。スルタンが特に愛用したのが「政治の器」です。実はそれには理由がありました。暗殺を防ぐためです。政治の器は、毒に触れると色が変わると広く信じられていたのです。

こちらは宮殿の宴会が描かれた作品で、スルタンの家臣たちが一堂に会し、大皿に盛られた食事を囲んでいます。一方、スルタンは家臣たちを見下ろす席にただ一人座っており、信頼のおける者に毒味をさせてから食事をとりました。スルタンが暗殺を恐れた背景には、嫁ぎをめぐる熾烈な権力争いがありました。そして十九世紀初頭、恐れは現実になります。第二十八代と二十九代のスルタンが立て続けに暗殺されたのです。後を継いだスルタンも暗殺されかけ、かろうじて命をとりとめました。

混乱のさなか即位したのが第三十一代スルタン、アブデュルメジド一世です。彼は身の危険を感じ、大きな決断を下します。十九世紀半ば、アブデュルメジド一世はトップカプ宮殿を放棄し、新たな宮殿に移り住みます。四百年にわたりスルタンの居場だったトップカプ宮殿はその役割を終えました。

アブデュルメジド一世が新たに構えたのがドルマバフチェ宮殿です。ヨーロッパ風の建物はベルサイユ宮殿に倣って設計されました。建物の中心にある大広間は、高さ三十六メートルのドームで覆われています。装飾にはバロックやロココなど西洋の様式が取り入れられました。ここにはかつてトップカプ宮殿を彩った植物文様が全く見られません。しかし、スルタンとその一族は植物紋様への愛着を抱き続けていました。

それを物語る部屋がハレムの一角にあります。通称「日本の間」では、スルタンやその一族が取り寄せた日本の工芸品が置かれています。その一つが漆塗りの飾り棚で、天に向かって伸びる大きな松、奥には富士山が見えます。油絵のように浮き上がる松には、漆の粉を盛り上げる技法が使われています。この技法は明治時代に日本で編み出されました。

漆塗りのついたてには、動物の骨を使った浮き彫りが施されています。咲き誇る菊の花、その下には鶏のつがいが写実的に表現されています。この釣り立てもまた、明治時代に日本から輸入されたと考えられます。

この宮殿の工芸品を調査しているジラルデッリ・アオキさんは、こうした工芸品を好んだのはスルタンだけではないと言います。

「シュルタンを去ることながら、実はハレムにいる女性たちの要素ってすごく大きかったんじゃないかと思うんですね日本の美術 工芸品 って、 本当にたくさんの種類の植物や 分物に溢れているんですよね私はハゲムにいる女性たちはああいうものを見て楽しんでいたんじゃないかなというふうに思います。」

ジラルデッリ・アオキさんは、研究者たちに呼びかけ、日本の工芸品を共同で調査してきました。その結果、新たに見つかった工芸品があります。場所はスルタンの離宮、ベイレルベイ宮殿です。

発見されたのはこの獅子の絵画です。一見描いたようですが、実は針と糸で縫い上げたものです。近づいてみると、様々な色の糸を使い分けながら、毛並みや陰影を巧みに表現しています。まさに超絶技工です。この新発見の手がかりとなった作品が日本にあります。

京都市の清水三年坂美術館では、幕末から明治時代に作られた様々な工芸品を展示しています。ここには、宮殿に残された獅子図と非常に似た作品があります。こちらが日本に残されている獅子図の刺繍絵画です。宮殿に残されていたものと酷似した獅子図で、明治時代に輸出向けに作られた四重絵画の一つです。

刺繍絵画の専門家、松原文さんがトルコの調査に参加した際、偶然、宮殿の指示図に目が留まりました。


「ベイレルベイ宮殿に刺繍があるということは実はわかっていなかったんですけれども、宮殿内を歩いていると、どう見ても日本の都市州に似た獅子図がありました。その時、あちらの学芸員が『これは油絵だよ』と言ったのですが、私は『違う、違う』と言いまして、結界があったんですけれども、それを外していただいて、みんなで近くで見たところ、やっぱり刺繍だということがわかり、こんなところにもあったという発見をすることができました。」

刺繍絵画は明治時代の京都で発展しました。当時、世界各国で日本趣味が流行し、明治政府の食産工業政策のもと、刺繍絵画の輸出が奨励されました。

下絵を制作したのは、当時京都画壇で活躍していた一流の画家たちです。その下絵をもとに、卓越した技術を持つ職人が刺繍を手がけました。

今回、発見の決め手となったのが獅子図の下絵でした。こちらが宮殿の獅子図のもとになった下絵です。獅子の武器が異なる二枚の下絵が日本に残されていたのです。獅子が右側を向いた下絵は「京都の獅子泉」、左側を向いた下絵は宮殿の指示図に使われたと考えられます。

「京都の獅子図を手がけたのは加藤辰之助という職人です。宮殿の指示図も、作者は加藤か、あるいは加藤に近しい人物と見られます。眉間や鼻の感じ、顔の立体感というのは、本当にこの獅子に結構即しているなというふうに感じます。ただ、その目の縫いによって命が吹き込まれているというのは感じます。

描くことでは表現しきれない毛並みや瞳の輝きといったものが、針と糸という不自由な表現の中でこれだけ完成されているというのは、本当に何度見ても素晴らしいなと思います。」

オスマン帝国に日本の工芸品が知られるようになったのは、バンコク博覧会がきっかけでした。千八百六十七年、江戸幕府や薩摩藩が出品して以来、ヨーロッパの万博で展示されるようになります。当時の日本のパビリオンには花瓶が置かれています。こうした展示をスルタンの一族が直接目にしたことが大きなきっかけになりました。

その後、オスマン帝国は衰退の一途をたどり、千九百二十二年に滅亡し、翌年にはトルコ共和国が建国されました。スルタンからドルマバフチェ宮殿を引き継いだのは初代大統領のケマル・アタチュルクです。この宮殿で執務にあたり、亡くなる直前まで使い続けました。アタチュルクの執務室が当時のまま残されています。

一方、こちらはアタチュルクの寝室です。建国から十五年後、この部屋で亡くなりました。アタチュルクが最後を迎えたベッドには、一対の同型の花瓶が置かれています。最近の調査で、この花瓶もまた明治時代の日本で作られたものだとわかりました。花瓶には、オスマン帝国の時代から愛された花や植物の装飾が施されています。

「日本のね、あんなにもたくさん記念されたトルコにもたらされてたということに驚きました。」

「そうですよね。やはりトルコ民族というのは、もともと中央アジアに行き、それが西南の方に民族移動してきて、最終的にオスマン帝国を築き、トルコ共和国になったわけですけれども、その過程において、彼らは中央アジア時代に中国の文化や技術、習慣などを知っており、非常に身近に感じていたところもあります。今、このアートチョルクの進出に飾られている過敏がありますけれども、魔法や植物の文様があります。保護であるとか、龍であるとか、キリンであるとか、そういった共通の美術が日本とトルコに中国を介して入ってきたということもありますし、文様のモチーフなども共有するものがたくさんあります。」

「日本とトルコは、すごく離れていますが、同じものを愛した。では、トルコが近代化していく中で、同じ時期に近代化をした日本をどう見ていたのでしょうか。」

「そうですね。まず、オスマン帝国の置かれた状況と日本におかれた状況が非常に似ているというのは、まず挙げられると思います。どちらも非欧米、非キリスト教諸国で、一応独立を保ちながら、西洋か近代化に向けて邁進したということで、歴史的な立ち位置が非常に似ているわけですね。ですから、日本に対して非常に同じ非欧米諸国でもこれだけできるんだという形で意識していたのは間違いないと思います。ただ一方で、オスマン帝国が現実に改革のモデルにしたのは、やはりドイツやフランスなんですね。だから、日本に人を派遣して、日本の近代化の様子を学ぼうとか、そういうことまではしなかった。しかし、全体として、その当時トルコでは、自分たちと同じように西洋列強をモデルにしながら国を新しくしようとしているもう一つ別の国がアジアにあるんだということをすごく意識していたのです。」

「それはそうですね。本当に当時の文献を読んでいると、ふと日本の例が出てきたり、よく見かけますね。」

「今日は小野さんは、トルコに行ったことはないけれど興味があるとおっしゃっていましたが、ここまで一緒に見てきていかがですか?」

「本当に驚いたのが、他の地域や文化、美術に非常に開放的であるということです。帝国というと、領土を拡大して自分たちの力を広げていくという遠心力のようなものを感じるのですが、やはり他のいろんな地域の文化や芸術を吸収していくという求心力も持った帝国であるということが印象深かったです。あと、何よりもトップカプ宮殿にちょっと行ってみたいですよね。あの植物の模様がたくさんあって、それぞれの親切を見てみたいです。回収が全部終わったら、どんなに素敵だろうと思いました。」

「今日はどうもありがとうございました。」

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