日曜美術館 「落慶 唐招提寺御影堂 〜鑑真和上と障壁画〜」

日曜美術館 「落慶 唐招提寺御影堂 〜鑑真和上と障壁画〜」

6月5日、約1250年に及ぶ唐招提寺の歴史に新たな一頁が加わる。 唐招提寺御影堂 の7年に及ぶ修理が完成、落慶法要が行われるのだ。開祖・鑑真の命日の開山忌では、久しぶりに国宝・鑑真和上坐像が公開される。8Kで丹念に撮影した映像も含め、鑑真和上坐像を細部まで鑑賞。御影堂内を彩る東山魁夷渾(こん)身の障壁画空間を味わいながら、〈寺を信仰する人々の寄進を重ねて成り立ってきた〉唐招提寺ならではの歴史の物語をひもとく。

放送:2022年6月12日

 日曜美術館 過去の放送 | 風流

日曜美術館 「落慶 唐招提寺御影堂 〜鑑真和上と障壁画〜」

今日は奈良の唐招提寺です
千二百五十年の歴史があるお寺ですけれども
今年一つの大きな節目を迎えました
きれいですきれいなお寺でした
六月五日東証大地のメイドの修理が完了し
落慶法要が営まれました
に映像は開祖
元の生き写しの像が祀られている
建物七年ぶりに
本来の場所での公開となりました
今日は漢字和尚のための特別な空間
東証大事に栄道の美を訪ねます
ええ早速東証大事に参りましょう
もう本当に門をくぐった
それだけでもう千年の歴史を一気にタイムトリップ
急に雰囲気が変わるんですけれど
小野さん行かれたこと
ありますかってことがある
どれぐらい前なんだよね
あ何かそういうの柱の間
この柱がね
太くてもうすっと立ってるんですよね
その歴史が長時代の建物ですからね
ちょっと困ってるわけですよ
そしてこの金堂の中が
仏様たちがいらっしゃるんです
真ん中に見えてきたのが盧遮那仏座像大きいでしょ
おっきいです最近です三メートルはい
もう見上げる高さでした
右手に薬師如来左手に千手観音で
この盧遮那仏は
宇宙の真理で
この世を照らして悟りを導くという仏様ですけど
後ろ見てください
ちっちゃい仏様そうなんですよ戦隊いらっしゃる
そうですよね
で今もく体の仏像がいらして
すべてが国宝に指定されている全部高校です
はいそうなんですよ
本当に専門の手がはい
境内の多くのをひときわ静かな空間
そこは改ざん五秒
東証大地を作った勧進
和尚が眠っています
五度の失敗を乗り越え十二年越しで海を渡り
日本に戒律を伝えたガンヂー
その道場として七百五十九年
東証大臣が開かれました
元仁和尚に捧げられた建物が
今日訪ねる御影堂です
七年に及ぶ修理が終わり
六月五日落慶法要が営まれました
境内の随分奥までやってきました
この建物が見え堂々と聞いてやってきましたけれども
どうぞよろしくお願いします
東証大地を研究してきた
美術史家の内藤栄さんです
今日の三重塔はどういう建物なんでしょうか
はいえーこちら元仁さんのですね
肖像を暗示している王道なんですがえ肖像
つまり見えを暗示しているためにえ
見える音を呼んでおります
ここは唐招提寺において
混同にまあ匹敵するような
大事な場所としてですね
えーこの厚く信仰さ
れているんです
今こう見ますとねあってますけれども
ここは普段ははい
ここは普段は公開しておりません
で年二日だけ
ちょうど元仁さんの命日を挟んで
三日だけま一般に公開されております
じゃあ今日は特別に中に入れるということで
ご案内お願いします
はい柴田さんは入りました
女は行きませんでした
でもあの回収したばかりだから
畳が新しくて
もういい香りが
草の香りがしてくるんですね
これ元々はほんとにただ見栄を違うんですよ
それは後ほどのお楽しみですはい
そしてすごいこの部屋は
ここ突然海が始まりましてね
ここがあの東山開学が描かれました
住まいなんですね
これは日本の海の姿を描いていまして
まさにここがあの元仁さんに捧げた
この日本の景色まず一つなんです
これはやはりあのー
元和尚が五回のこの渡航によって
目が見えなくなったとですので
実際には日本の景色を見ておられないと
その元旦那さんのために
ぜひ日本の海を見ていただきたいと
そういうお気持ちでえーこの東山さんはですね
この海の絵を描いたと御影堂で
一番大きな
部屋
神田の間を彩る東山会員の統制画面
右から打ち寄せる波と
それに抗う岩一本の松が
波と風に耐えています
それは苦難のとこを果たした元の象徴
波は左に進むにつれて
穏やかになっていきます
へえそして麺が変わり
静かな波となって浜辺に至ります
あのー統制っていうことだから
日本の海の音もそれがん人
ラジオは外人さんはその目が見えなかったから
こう聴覚はでもね
音が聞こえていたはずですから
まその海の音が中国と日本で違うのか
僕には分かりませんけども
でもやっぱりこの絵は
日本の海の波の音をまその
患者さんに伝えたいっていう絵ですけども
そういう音も
こう伝えされてるんじゃないかな
って思います
まさに本当にここに立ってると波がね
打ち寄せる音が聞こえてくるような
そんな空間でした
東山会は千九百七十年
六十二歳の時に
この障壁画の制作を依頼されてで
全部で六十八年にも及ぶ仕事ですから
十年がかりだったんですって
時間かかるんですね
でも六十二歳の時に引き受けたというのが
またねすごい覚悟ですよね
で一年間は
日本全国各地を訪ねて写生を繰り返したとで
やっぱりその地に立って体で感じることが
創作には欠かせない
という考えからだったそうです
読む各地をいろんな場所で波を写生してうん
そしてまふ住まいですから襖開くんです御覧ください
全く違う映画あるんですね
今度は山の上ですけども
色味がこの緑色に対して
恋全くこの別世界ですね
さっきまでこう
海辺に立っていた気持ちが急にこう
霧の深い山の中に迷いこんだ
ような気分になりますね
床の間のある上段の間を埋め尽くすさん統制とともに
千九百七十五年に完成
奉納されました
うんへー東山海と言えば
青霧が立ち上る神秘的な
山の風景を描いています
落ち着いた色調は鮮やかに発色する
群青を焼いて黒くし生み出しました
これをちゃんとかけられることが
聞こえてくるような遠くにねそうなんだけど
やっぱり五感に訴えかけるような目を
こう実現されてるっていうのが
やっぱりそれはやっぱ本当
日本の各地いろんなその多分山も運用
色んな所に行かれて
自分の身体を通してる
その経験を絵に描かれてる
から東浜さんのなんかそのこう
こう体験してきたものを
我々はこう体験するありがとうございます
くそ前の向こうご注文ください
唐招提寺の階層勧進
和尚の生き写しの像が
ここに安置されているんですね
神田の間の
北松の間と呼ばれる部屋なんですけれども
ここに安置されていまして
六月六日が元仁和尚の命日で法要が営まれ
前後の合わせて
三日間だけ公開されるんです
元仁和尚坐像
今も元人その人であるように
敬われています
あのーこうやって向き合おうと
本当に元仁さんが座ってる
ぐらいのイメージがありますね
まだ生きてらっしゃるんじゃないか
っていうようなそんな印象があります
うん日本最古にして最高の肖像彫刻とされる
国宝元仁和尚坐像
そのリアルさは驚くばかり
まつげや眉毛一本ひげには白いものだ衣は古い布を再生した群像へ
糸の色まで再現されています
ところがこの像には不思議な特徴があります
例えばひざの部分
表面の仕上げが荒いのです
眼前和尚坐像の模造の制作に携わった
小林裕一さん勧進和尚像の右膝になります
技法的には
オリジナルと同じ方法で作っております
像の中は空洞元人は上座像
阿佐布を漆で固める
だっ活乾漆という技法で作られています
だっ活乾漆で作られた仏像の代表作が
興福寺の阿修羅像です
その表面は滑らか
それは告訴というペストで
表面を整えているからです
ヘラで朝布に国葬を守り
表面を均一に整えるのが
一般的な乾漆像の仕上げ方うんへえ
ところが元仁和尚坐像の表面は滑らかではなく
不均一です
ヘラではこうならないはず
ああ一体どうやったのでしょうか
この衣の皺を再現しようとした場合
このようにつまんで行くと
この形になるんですね
実際に政策を行ってみて
考えられる方法を試した結果
この指でつまむという放送であれば
この形に一番近い表現ができたという
そこから元人は
醸造は恐らくは
指先で作られた御像ではないか
という風に想像しております
国葬を指で伸ばしてみます
こちらがヘラで均一に整えたもの
こちらは指元人は
上座像の不均一な表面が再現できました
指を使ったと想定するのであれば
指を使う理由が
そこには多分あったと思うんですね
その理由を考えると
もう元人わ醸造
その体に触れるような感覚でお姿を写したい
というふうに願った方が
きっといらっしゃったんじゃないかと
そうなるとやはり身近におられたお弟子
さんたちの存在っていうのが
まずは浮かぶんではないかな
という風に思います感じで
その人が亡くなったとしても
生きているままの姿を残したい
子を思うべし
たちの思いが込められていました
うん実はこういう風な先生の御像をつくる
つくってそれをまお祀りするという習慣は
日本にはございませんでした
でこれはやはり
中国の仏教の習慣と言うんでしょうかね
それをま中国の間からやってきた
願人さんのお弟子たちは日本でですね
まあ中国と同じような形で
先生の御像を作ってで
それをお祀りしていきたい
というふうに臨んだ訳なんです
ですのでこれだけあの非常にこの写実的なもう
生きているようなお姿で
えー元仁さんのお姿を
残そうと考えられたわけですね
じゃあそれまでは
こういう写実的な彫刻像はなかった
まさに日本の肖像
彫刻の最初の御像なんです
そういうことを
その後ここれを
何でこの例を本にして生まれたんだから
そうすると大切な人を思って
その人の姿を止める
それを神坐像
あるいはまああの彫像として残すとっていう看守
そういう伝統がここから始まったと
元人は戒律だけでなく
当の先進的な文化を伝えました
ただ来日の動機は
日本へのシンパシーしだけではないと
内藤さんは考えています
外人さんはどうして日本に来られたのか
というのはこの元仁さんが教えた戒律に
実はあのー厳しくあのー書かれているんですね
この外人さんが教えていた戒律のこれ
梵網経というテキストがあるんですけども
その中にこの仏教者が自分を訪ねてきたら
最大限もてなさないといけ
ないとですから
外人さんのところに
日本のまお坊さんがやってきて
そして教えてほしい
日本に来てほしいと言われたらですね
これは突っぱねることはできないんです
つまり自分が教えている戒律を
自分が犯すことになってしまうんですね
ですから元仁さんは命を賭けて
でもそれに
答えなければいけなかった
外人さんは日中友好の架け橋になりましたが
それは世界に目を向けて
それこそ仏教者あらゆる仏教者に対して
この自分のできることをしなければいけないと
そういう理想を持って活動されていた
本当にあの仏教者として自分に厳しく
そしてそれを実行された方
もう素晴らしいその
今はこの我々も師と仰ぐべき
そういう存在ではないかと思います
眼前和尚に捧げられた
御影堂の空間を演出するのが
東山会の障壁画
御影堂の間取りを確認すると
神田の的上段の間
青い空間は南側の部屋癌腎臓が安置される
北側にも部屋が並びます
そちらはどうなっているのでしょうか
神田の間を出ましてに
えー道の北側の部屋にまわりました
するとそちらにはさっきと全然違う世界ですね
この御影堂の北側は
三つの部屋があるんですが
全て中国の景色なんですね
御影堂で最も大事な部屋勧進
和尚坐像が安置されている
松の東山会は
ここに元のふるさと洋酒の風景を描きました
うん地方全てに湖を書き
元人は故郷の湖の中にいる
という構成になっています
穏やかな風が柳を揺らす故郷
長い旅路の果てに
異国で亡くなった元人に贈る安らぎです
隣りの部屋には
中国を代表する風景を描きました
西側の桜の間には
断崖絶壁がそそり立つ講座
仙人が住むという鉱山は
山水画で好んで描かれる課題です
はい一方東側の梅の間に描かれているのは
豊かな川が祈願の間を流れる名称経理
それは山水画の
もう一つの大きなてま
豊かな水の表現です
元人は上座像が安置される
北側の空間には
中国の美を水墨で
その魂を慰めようとしたのです
内側にあるえっと実際には見えない
その記憶の中の故郷の風景と外側にあるこう
見えないけどリアルにある日本の風景
その二つのそのものが同時にあると
内側ソフトにその風景がある
っていうことが
肝心さんの生きてリアリティだとしたら
やっぱりこれ東山さんの書かれた
その日本の
風景をまそのあのこれまでの技法で書き
そして水木を使って
中国のあのガンジスさんの故郷の風景を書いた
ってことは本当になんか感じさんそのものを
やっぱり近衛によって
表現されてると思います
東山会が十年をかけた民営道の障壁画
実は制作中に
放送の大きな変更がありました
ええうんうん障壁画の制作の最中に書かれた
エッセイ東証大地への道に
ちょっと驚く一説があります
上段の間新年の間の北側に並んでいる
佐倉のま松の間うめのまについては
これらの名称を生かした構想を考えたい
お厨子の安置されているのが
松のまであって
神田の襖絵が海になれば
ちょうどここは松が良いと思われる
書かれたのは
千九百七十三年から七十四年
この時は中国の風景は
考えていなかったようです
一体何があったのでしょうか
当時東山会議は統制十三うんにかかりきり
北側の襖絵には
全く手を付けていません
その頃アトリエの外では
大きな変化が起きていました
千九百七十二年九月日中国交正常化
それまで禁じられていた
中国との交流が可能になったのです
千九百七十六年
北側のふ住まいに着手していた東山買いに
中国を訪れる機会がやってきました
東山会議を研究する尾崎さん
ちょうど五十年前の日
中国交正常化が
課題の変更につながったとみています
恐らくあの文章を書いた七十三年
さっき言った七十三年
七十四年の前半ぐらいまでは
向こうへ行けるいうようなことは
思いもしてなかったんだろうと思うんです
いけるというところの感触が出てきたところで
やっぱり構想自体も
かなり変わってきたんだろう
二か国語聖書化っていうことと
それによって人の交流ができるようになった
ということは
これがなかったら恐らく書けなかった
やっぱりあのー実際に風景を見て
あのその風景の中に身を置いて
っていうことが
東山先生の場合には一番大事なことなのでへえ
中国を訪れた東山会話
それまでにない試みに挑みました
この度に出発する時
私は風景の写生を
水墨を主にして試みたいと考えた
一応祭式のための絵の具は
用意しては
板がやはり中国の風景に接した瞬間から
私は水墨による方が
その印象がつかみやすいと感じた
いや水墨でなければ
表現しがたいとさえ思ったほどである
三年にわたり三回の報酬といく
どもの試作を繰り返し
元人の故国中国の風景を
水墨の技法で描くことにしたのです
祭式がの技法に慣れている
私がこのような対策を墨一色で仕上げる
ということも至難の技である
しかしながらがん順和尚に捧げる障壁画として
どうしても象徴としての意味を持つ
日本の風景と中国の風景を描かなければ
両国を文化の上で結んだ
元仁和尚の精神を表わすことはできない
また和尚の霊を慰める障壁画には
なり得ないと思ったはいうん
水墨での政策は大きな挑戦でした
東山は独特な手法を編み出します
紙の上に一度白い胡粉を塗って下地を作る
という書き方です
はいぼかしは
ひたすら筆を重ねて表現しました
水墨画の特徴であるにじみという偶然を避け
全てを自分の筆でコントロールするため
でした
なるほどなるほど東山さんがそれまでやってきたあ
技法とか風とかっていうものを非常にまとめ
うまくまとめているっていうか
あのー用いて
画面をまあのそういうま
今までのものの集大成である
っていうことの一方でま初めて
あの中国でのお弟子さんも
スケッチ結びでやったしとにかく墨
で書いてみると
新しいチャレンジしたっていう両面性を持ってる
唐招提寺の小営業っていうのは
それはあの量的なっていうことだけじゃなくて
質的な意味でも代表作だと思います
どうして東山会は中国に行ったら水墨画
白黒で書きたくなったんでしょうね
やっぱりそこがこう
今まであらゆる場所は訪れる
ってことを大切にされている人だからだから
ただ見てるだけじゃないですよ
多分五感を通じてその土地っていうのと
その土地の文化とか歴史っていうのを感じ
てらっしゃると思うんですよね
だからその人が
身体全然全身が中国っていう場所に行った時に
なんかその受け止めたものが
今までの感覚が違うんだっていうふうに
何かそういうものがこう土地の声じゃないけど
そういうのを感じられたんじゃないか
と思うんですよねうん
はい元仁和尚のための民営道ですが
実はもともとここにあった建物ではないですね
はい昭和三十九年に移築された
ということで
この建物自体が重要文化財になっています
今度はちょっと建物の魅力を見て
いきますね
さあ外に出てそうなんですよ
深い庇の下に広い縁側がありました
まず気がありますけどね
もともとどういう建物だった
えーこの建物はですね
興福寺一乗院という他の建物なんです
でこの一定員というのは
ま皇族や貴族のですね
えー子供達指定がこの出家いたしまして
そこで生活をするまそういう場所なんですね
ですのでお寺でありながらこの貴族
たちの住まいそれをそのまま
こう写したようなところに
住んでいた訳なんです
見る度は本は江戸時代の初期に作られたま
高貴な家柄の僧侶のための興福寺
一乗院にあった五点ということで
ここに来るまでに
非常に好きな運命があったんです
ご存知なら公園もともと興福寺の境内でしたが
明治時代の廃仏毀釈で
公共の公園となりました
その北側にある奈良地方裁判所
ここが興福寺一乗院の跡地です
あ裁判所はいでちょっとご覧いただきましょう
これ戦後暫くした頃の同じ場所の写真ですけれども
もんの多く見てください
さっきの見えどどこにあったんです
つまり明治時代
国や県のものになって
県庁や地方裁判所として見え
土を使われていたんですね
でこれが上段の間
ちょっとこのまま潰されてしまい
畳も外されてしまいはいもう土足で出入りする
そんな使われ方をしてたんです
はいでも昭和三十年代には話をしよう
ということが決まってたんです
でこんな貴重な目建築を
それで良いのかと胸を痛めていたのが
東証大地の森本教授ん
そうだったんですね
で元人は上没後
千二百年の記念事業として
壊されるはずだった
数上位の五点を譲り受け
そうそういうことなんです
譲り受けてで
まあ移築にあたっては
本来の大きな建物として
復元しようではないかとで
上段のまま貴族出身の僧侶が
一般の人と面会する時に座る
お座敷ということで
このような形に
復元してなったわけですね
ですから目処は大変なすでに日本に寄ってきた
元人は上安置するのにふさわしい
高い格式の建築にしようということで
そういう形で復元していったことが見る
どうもあの歴史の荒波をこう頭ながら
今の場所に移動した
移築したっていうとこなんでだからやっぱり凄い
それはこう規模
の男子はともかく
全てがやっぱりこうがんじさんのこう障害にこう
ある種こう重ね合わされてるっていうところは
すごい素敵な話だなと思いました
だからこう取り巻くすべてのものが
元仁和尚のためにっていうことで
こう繋がっていく感じで
周りの方がやっぱり
その患者さんのこう精神
というのをとても大切に思っていると
そこにこう皆さん心を寄せて
それぞれができることをやってきた
っていうことの率な訳ですね
この建物本当に面白いものがあるんです
それもこの床の下に
他の人に床の下をですね
見ることができまして
ここにこの建物ができる前の地下遺構が
まああるんです
絶対なになに例えばそうだな
叩いてずらすんですよ
そうやって開けるですね
出てくるちょっと暗くて
よく見えないかもしれません
あっ何ですか
これこちらの方に
瓦がこう積んでいるのが見えますかね
これ瓦を焼くための珠名です
これで顔お願いしそうな奈良時代の末から
平安時代の初め頃
というふうに考えられています
それは何か
お寺にとかいろんな建物
使ったってことですか
東証大事は自分のところで作っていたと
これはとてもあの興味深いところなんですね
えーこの唐招提寺というお寺はですね
この元仁さんがお作りになられた
私の寺なんですね
でバックにはこの有力の貴族であるとか
あるいは後続がいたわけではございません
ですので例えばお寺を作るお寺を修復する
というのも自力でやらないといけないことは
大分大分あったと思うんですね
そのために変わる訳
そういうことも
自分たちでやらざるを得なかった
そういう点ではあのー
東証大地の造営ま
経営を考える上では
大変興味深い以降な訳ですね
貴族や豪族などの後ろ盾がないのに
東証大地が存続できた理由
それは他の奈良の寺とは違う
唐招提寺ならではの特質にあります
創建当時からある行動
実は平城宮の庁舎を貰い受け移築そうです

境内で一番古い建物
日本最古の校倉造りの胸像は
もともとこの地にあった
貴族の屋敷の倉庫を貰い受けました
あります東証大事は
創建当初から元を慕う人々から
寄進で成り立ってきた寺なのです
象徴とも言える近藤の仏像群を
様々にお付箋を集めて作られた
とされています
うんまさに東証大地は多くのお堂がですね
あるいは仏像が
この寄進によってできていく訳なんです
ところがこのキチンという行為は
このお釈迦様の時代のインドにまで遡りますと
実は一般的に
行われていたものなんです
まさにこのお釈迦様の
この教団というんでしょうかね
生活というのは
この味一般の人たち
信者さんたちがこの支えていて
そしてえー成り立っていた訳なんです
ですのでこの唐招提寺は
このインド以来のお釈迦様の時代
以来の姿を伝えて来たと
それは当時の日本人奈良時代の日本人
にとってもおそらく非常に新鮮な
そして多くの人たちには
これこそ仏教の真髄であるということが
この伝わったのではないかと思います
こういう風なこのガンツさんの理想というのを
そのまま唐招提寺のお坊さんに
引き継がれていきまして
それこそ昭和三十九年に
この建物を東証大臣移築する
まさにえー壊されてしまう寸前まで行った
この建物を引き
あのそのままこちらに移してくると
これもこのガンツさんのこの教えを
ですね守ることによって
えー実現したことなんです
患者さんって基本的に何やったか
与えるってことじゃないですか
つまり壊れて
自分の持っている経験や知識
っていうものを
日本に与えに来たわけじゃないですか
それはそれはキチンっていう
言い方しないかもしれませんけど
でも持っている自分の持ってるものを出し
いい味を出し
惜しみせず全てを与えると
誰かのために自分を求めてくれるものの
ためにってそしたら
それを見た人たちがお弟子さんもそうだし
その周りで患者さんの教えに触れた人
でもそうだし
それから患者さんが亡くなったと
その後の人たちも
みんな自分たちがその持っているものを
なんかできる範囲でそれを与えると
東山皆さんもご自身が思ってる
その画業っていうその絵の何ていうか
こう全てをそのこの何ですかね
あの患者さんのためにっていうかね
そういうこう人々の何ていうですかね
なんか誰かを何かを大切に思う
っていう気持ちを
やっぱりそれがこう全部集められて
このあの唐招提寺ってあるんだな
っていうことを作ると感じました
その思いに触れにぜひ