戦後の写真表現を切り開いた 奈良原一高 。1950年代後半、極限状況にある生を見つめる「人間の土地」「王国」などのシリーズによって、戦後日本の新しい写真表現を切り開きました。池田満寿夫、靉嘔ら新鋭画家のグループ「実在者」に参加。池田龍雄や河原温といった芸術家や瀧口修造らとも交流を深めました。自らのアイデンティティと真摯に向き合い、独創的な作品を生み出します。その孤高ともいえる表現に迫ります。
【司会】小野正嗣,柴田祐規子
放送:2019年12月15日
日曜美術館 「写真家・奈良原一高〜魂の故郷を探し求めて〜」
プロローグ
60年前。
過酷な労働を強いられた炭鉱の様子を捉えた写真。
人は一人もいない。なんだかわからないが何か圧倒される。
そんな一枚が写真会を大きく揺るがしました。
奈良原一高。戦後の写真表現の最初の1ページを開きました。
「見る人に何かを問いかけてくる。言ってみれば詞に近いもの」
報道写真とは一線を画し
写真を芸術に高めたと時代の寵児となります。
しかし楢原は日本を捨てるのです。
カメラを片手にあてどもない旅を続ける。
時にユーモラスに。時にエキセントリックに。
「自由人ですね。どこかに帰属するとまた自由を手放すことになる」
奈良原を長い旅へと駆り立てたのは何だったのか。
奈良原一高の魂の旅を見つめます。
報道から芸術へ
長崎県端島。通称軍艦島。
1954年、22歳の奈良原はこの場所を訪ねます。
石炭採掘のために世間から隔絶されて働く人々の姿を写真に収めようとしました。
デビュー作「人間の土地」 奈良原は多くの人が過酷な情景を思い浮かべるこの場所で、全く違う写真を残します。
笑みを浮かべたくましく生きる労働者。
無邪気に遊びに興じる子供たち。
そして誰も居ない情景。
70点あまりの軍艦島の写真。
そのおよそ半分がこうして人のいない光景なのです。
何を説明するわけでもない写真。
これが物議を醸します。
先頭に立って批判したのは当時写真界を牽引していた土門拳でした。
「生活から遊離した抽象化はやりきれない。抗議のカメラアイを受けなきゃいけないよ」
日本の写真史を研究する金子隆一さん。
奈良原の新しさは土門の批判の中にあると考えています。
土門の代表作「筑豊のこどもたち」
閉山が決まった炭鉱で暮らし続ける人々の姿を見つめました。
同じ炭鉱を取材したこの二人には大きな違いがあると言います。
「この1枚の写真というのは人間の土地と筑豊のこどもたちをもう典型的に表しているものであると言っていいと思います。こちらは子供達は大変なんだよかわいそうでしょ。つまり、一番弱い存在である子供たちに社会問題が最も典型的に現れているとして撮ったの土門拳の筑豊のこどもたち。こちらを見て炭鉱問題を誰も見ようとしません。奈良原一高がそういった物を撮ろうとしたのではないってことは、この写真がこの人間の土地の中に入っているって言うことでそのことが証明されてるのではないかなと私は思います」
社会問題を広く伝えようとした土門とは全く違う奈良原の写真。
「わからないということが大事である。わかりやすい写真はもういいって言ったんですよね。なんでかって言うと分からないってことはこれ一体何だろうということを見る私たちにかけるということを促すわけです。奈良原ならさんの写真の最大の魅力っていうのは見る人に何かを問いかけてくる。言ってみれば詩に近いものという言い方で言った方がいいのかもしれません」
多様な解釈に開かれた写真。
奈良原はそれまで報道を基本とした写真を芸術へと高めたのでした。
四年後楢原は再び作品を発表します。
舞台はやはり世間から隔絶された場所。
北海道にある修道院。
そして和歌山県にある女子刑務所です。
奈良原は足掛け2年通いました。
日々の人々の動きや光の移ろいを計算した上で絵画的な写真世界を構築します。
規律が支配する世界の静かなドラマ。
芸術写真家・奈良原一高の名はこの時不動のものとなりました。
スタジオ
詩人の文月悠光さん。そして島根県立美術館学芸員で長年奈良原一高の研究をなさってきた蔦谷典子さんです。文月さんは写真を見ながら詩作をするというスタイルをお取りになっています。写真を見てどんな風にお感じになりました。
・写真を見て解釈の余地を残しているっていう点でも余白のある表現だなあと感じていて、分からなさだったり、何か問いかけてくる部分。余白的なところに写ってるものだけじゃなくて、見ている人の心も重ね合わせることが出来る余白というものを私は感じました。
これはの炭鉱を取材した一枚なんだけれども、この作品を見たときに感じることというと。
・誰もいないがらんとした空間があって、何かその場所とか時間というものから切り離された、まさに現実から遊離したような空間だなという風に感じます。
奈良原は写真っていうのを芸術の域に高めたと言われてます。
・1931年、昭和6年の生まれで現在も東京都在住です。戦後の写真を大きく変えたということだと思うんですけれども。戦前から続く写真の流れを断ち切って、戦後のスタートをまさに切った人で、写真界に与えた激震というのは神話にもなっています。
・人間を疎外している。疎外しっぱなしじゃだめだと土門は言いますが、奈良原の方は、そういうことが言いたいのでは亡く、人間の存在をもっと抽象化したい。人間の存在をもっと浮きだたせたい。という考えでやっているわけです。自分のコンセプトというものがはっきりあって、一点一点の写真と言うよりも、人間の土地と言うことで、何を現したいか。ちょうど詩を作るように、自分のコンセプトを構築していく。二つの場所を見て、その場所の大変な生活を撮っていくのですけど、それが目的では亡くて、その中で生きている肯定する気持ち。生きると言うことのたくましさ。逞しさということを超えていると奈良原は言うのですが。
試作という視点を詩を作る立場から見たらどう思いますか。
・その場所にいる。場所を選び、どのような事情や背景があったにしろ、その場所に住むことになった人々の気持ちを否定しない視点を私は奈良原さんの写真から感じていて、その場所そのものとかその場所にいる人そのものをフィルターをかけずに撮ろうとする意識なのかなと感じました。
奈良原の原点
東京国立近代美術館。
今ここに奈良原の原点と言える作品が展示されています。
無国籍地。デビュー作人間の土地が発表される2年前に撮影された作品です。
当時早稲田大学大学院で美術史を学んでいた奈良原は偶然通りかかった軍需工場の跡地に心奪われます。
持っていたカメラのシャッターを夢中で切りました。
その心を駆り立てたのは何だったのか。奈良原が生まれたのは1931年。
幼少期を長崎で過ごします。
検事だった父親のおかげで何不自由ない裕福な生活。
日本が戦争へと向かった時は何の疑問もなく国を信じていました。
12歳になると父の転勤先だった愛知で学徒動員で軍需工場で働きます。
そこで悲劇が起こります。工場を襲った激しい空襲。
何人もの友人を失いました。
13歳。敗戦。親しい友ももいない。自分が信じた国もいない。
「戦争の終結と同時に何かが確実に失われた」
心の拠り所となったのは美術でした。
大学に進学した楢原は、同世代の若者が作ろうとしていた新たなアートに惹かれます。
特に興味を持ったのはひとつ年下の作家河原温。
バラバラに切断された人間の姿。意味不明な不条理な世界です。
しかしその不条理がまさに自分たちの生きる時代を表してました。
自分も何かを表現したい。
そんな時に出会ったのがあのすでに廃墟となった軍需工場でした。
設備が撤去され、ぽっかりと開いた床の穴。
楢原の心境を物語っているようです。
「戦後まったく新しいその自分が教育された軍国主義の価値観とは違う社会にいきなりその社会が変わっていって、いわばはしごを外されたようなそういう経験をしながら奈良原さん達の世代は人間として青年として自分の立ち位置を確立していかなくてはならなかったんではないかと想像するんですが、その立ち位置がまさにこのこういう空虚な空間だったっていうそういうことがよく読み取れるんだろうと思います。自分のその時点までの人間形成を象徴するようなそういう場所で、自分でここから道を見つけていくんだという、奈良原さんにとっては自分の立脚点、出発点を改めて見直すそういう場所だったと」
報道ではなく、芸術としての写真。その原点の一枚です。
スタジオ
敗戦を経験し奈良原の場合は芸術表現に気持ちが向かうという、気持ちの揺れがあったんですかね。
・美術に向かうというのは小川西洋と言う奈良の飛鳥園の方と出会って仏像を見て歩くっていう契機があったんですけれども、大学生の時です。そのときは法律を学んでいたのですがどうしても美術に行きたいということで、両親の大反対を押しのけて早稲田の大学院に進むのです。しかし、伝統的な美術史というのはそぐわなかったようで前衛芸術にのめり込んでいきます。そんな彼は先程の川原さんなんですけど、「浴室」を見て、川原の家まで行って全部見せて欲しいと言ってその中から二点選んで、まだ学生ですから月賦で買ったそうなんですけれど、川原温の最初のコレクターであり、先ほど映った作品は旧奈良原一高像です。
その時に自分のアイデンティティを揺るがすような出来事に遭遇してしまうと自分たちの基盤になったものがガラガラと崩れ落ちたそこから頃から始めなくちゃいけないってそういう表現者ですね。
・奈良原さんは1931年生まれっていうことで、今存命の詩人だと谷川俊太郎さんと同年の生まれなんですけれども、戦時中一部の詩人たちは、結構実は多くの詩人たちが戦争詩というものを書いたんじゃないかという風に言われているんですけれども、その反省と言うか反動みたいなところから戦後詩っていうのが生まれて言って、何かその社会的な大きな不条理に見舞われた時に、もしかしたらその時にわかりやすい運動であったりとか、制度を変えたりっていうのは政治家の働きかもしれないですが、ちょっと見えにくい形で表現者たちがそれぞれの形で、詩人は言葉を使い、写真家は写真を用いて自分にとっての真実、答えを求めに行ったんだろう。
・谷川俊太郎さんの2億光年の孤独。奈良原さんの大好きな詩ですね。共鳴し合ってたんですね。詩の最後にくしゃみをしたっていう。ふあっとなるんですけれども、13歳で終戦を迎えた時、青空で B 29が飛んでないところを見た経験が今までなかったっていう風な感想を持ってるんですけれど、そう言ったあのパット抜ける時間軸っていうのがあるって言うところがとても共通すると思います。
雪景色を思わせる場所に佇む女性と裸の子ども。
実は奈良原が1960年代に手がけたファッション写真です。
洋服を紹介することが主眼だった世界で、奈良原は独自のアーティスティックな個性を発揮します。
「綺麗だと思います。自分で。これ私じゃなくても綺麗って言うと思う」
当時、奈良原のモデルを務めていた森島あきさん。
「ポーズをとった時に手の指の、曲げると小指を伸ばしてください一センチぐらいのことを言うんですよね」
細部に至るまで徹底的なこだわりを見せたと言う奈良原。
森島さんのお気に入りはこの1枚。
「気に入っているのは洞窟の線と逆の線。
こっちに上がっている。シンメトリ。奈良原さんはファッションというより背景がついてきての洋服というイメージ。全体の中にポーズしている女の人がいるというイメージ。それをぴったり入り込むというのがすごい」
時代の寵児となった奈良原。
しかし心の底には満たされない気持ちが広がっていました。
妻の恵子さんは当時のことを振り返ります。
「彼は空襲にあって家が焼け出されたり、子どもの頃随分辛い目にあってたもんですから、でやっと生き延びて来て30くらいで死ぬのではないかという感覚はありましたね。それが30まで生きて、自分の人生は何なんだってこと思い直して」
奈良原は写真を撮ることをやめてしまいます。
向かったのはフランスパリ。
自分に撮るべきものはあるのか問いかける日々。
ある時、市内の公園で不思議な体験をします。
「マロニエの並木道を恋人たちは黙って歩いていた。20代のあとを30代の男と女が。
30代の後を50代の二人がと、その姿は老年に至るまでまるで一つの相似形の流れを見るように、僕の目の前に現れては消えていった。
僕はわずか10分間の間に人間の一生の姿を見せられている思いがした。そして彼らが通り過ぎたその後にくる死の時間を思った」
後にその光景を思わせる一枚を楢原は撮影しています。
並木道を歩く一人の女性。
そのおぼろげの姿は立ち現れては過ぎ去っていった死の時間。
それを楢原は”静止した時間”と名付けました。
奈良原は3年にわたりヨーロッパ各地を巡り、歴史に埋もれた静止した時間を写し取ろうとしました。
「一番言っていたのは、ヨーロッパは人間が構築した世界だっていうことで、歴史の重みがあるし、すべて人間の人智で作ったような構築性が一番感じていたみたいです。
我々は全部焼かれてしまいましたし、急に軍国主義から民主主義に変わりまして、
今までの受けた教育が全部指定されまして、歴史教育をちゃんとされてなかったので、
それで歴史の中に当たり前のように生きてる人たちの姿ってのも、日本から行くとすごく強く感じました」
特に奈良原を魅了したのはスペインでした。
中世の面影を今に残す闘牛。
目の前で交錯する生と死。
奈良原は近代化の波が届かない僻地にまで足を運び、
歴史に埋もれた静止した時間を探し求めます。
「このような集落に人間の始まりの姿を想像する」
「奈良原さんはそのスペインの特に田舎で残っていたような、言ってみれば古き良き暮らしと言いますか、そういうものに大きな魅力を感じていたことは確かです。でもかといってそれが失われていうこと言うことをただただ悲しいんで、これがずっと残ればいいのになどという風にも思わないというのが楢原さんのスタンスかなと思うんですね。全ては変わっていくんですね。いいか悪いかわからないけれど変わっていく。変わっていく先の未来を信じるしかないという。それはひょっとしたら戦争体験というものが根底にあるかもしれません。全部なくなってしまった。けれども、また明日を始めなければいけない。スペインに行った時にも多分それを感じられたでしょう」
立ち現れては過ぎ去る人類の歴史。
少女の瞳にはその面影を追いかける奈良原の姿が映し出されています。
スタジオ
絶頂期ですよね。人気絶頂の30代。そこでいきなり仕事を全部やめてヨーロッパに行ってしまう。
・自分の好きな写真を撮りたいと言っても結婚その前にしますし、生活をしていくっていうことも考えないといけないわけですね。頼まれた仕事ももちろんするようになっていて、すごく一途な所があるので、ファッションをするなら、服飾を作るところからやりたいと森英恵さんに会いに行くんですね。森英恵さんがそこからやらなくても見ただけでいいとたしなめられた。人間土地が24、王国が26だからまだ早いのです。奈良原一高は自分の思考のテンポがあって、ゆったりとした時間の中で作品を作りたいというのがあって、いったん自分をゼロにしてっていう風に言ってるんですけれども、パリに行くと最初は窓からハトが何匹いるか数えて過ごした。その位のゆったりした時間っていうのが奈良原に必要だったと思います。
30代で全てを投げうってヨーロッパに言った。リセットして外に出ていくことは。
・自分は28ですが、普通ならばそこまで投げ打つて出るだけのキャリアを持ってるって事もまずすごいことですね。でも日本の中での評価のされ方っていうのが固まっちゃったかなっていう、あの限界のようなものを感じたからこそ決断に行ったのかなという風に私は作り手とした感じます。
変幻自在なスタイル
奈良原と同じ長崎で育ち、同時代を生きた美輪明宏さん。
奈良原の写真家としての歩みに共感しています。
「節操がないといえば節操がない。一人でいろんな世界を楽しんでいる。そういうところが好きです」
ひきつけられるのは奈良原の変幻自在なスタイル。
「ちょうど日本画のような風景画だと思った。日本画の巨匠たちの横山大観ら絵を見るような。
仏画や仏像の中の観音様とか阿弥陀如来とかを絵にするような、後ろがぼやけいている。この絵を見たときにふっとそんな感じがしたのです。
ダリのような絵に似ている。ゴミ箱でしょ。でもこういう撮り方や紹介の仕方で表現した方はそういない」
美輪さんがシュルレアリスムに例えたこの写真。
撮影されたのは1970年代のアメリカです。
40代になっていた奈良原は新たなテーマを求めていました。
最先端の宇宙開発で人類を宇宙へと贈ろうとしていたアメリカ。
ここで奈良原は人類の未来の姿を探していました。
地球外の惑星を思わせる荒野と最先端の文明。
奈良原はアメリカの大地に別の惑星に移り住んだ人類の姿を重ねます。
この土地でNASAのロケット打ち上げに立ち会った奈良原は、人類が宇宙に贈られるその瞬間をカメラに収めます。
「このとき僕はこれまでの生涯をかけてたどってきた一切の視野を改めて振り返る気持ちがした。足下の草むらのほのかに揺れる輝きから始まるこの地球上の生活。何気ないその世界が急にたまらなく愛おしいものに思えたのである」
敗戦により信じるものを失うことから始まった楢原の旅。
隔絶された空間に身を置き、生きることの意味を探った若き日々。
そして世界へ。人類の遥かなる歴史と向き合いました。
その想像力が地球の外にまで。たどり着いたのは国籍を超えてこの星に生きることの喜びでした。
「自由人ですね。戦争の内時代を生きている。そっちへ走っていくというのは私も同様でしたからね。どこかに帰属するってことは、また自由を手放すことになるから」
まとめ
今日は奈良原一高の足跡を辿りながら作品を辿ってきました
けれども大貫さんはどんな風にご覧になります
あの地球外への憧れであったりとか
目線というのは写真家としてですけれども
楢原が持っていたっていうのは
すごく実は大きいんじゃないかなと思っていても
無国籍ちっていう作品集を作るぐらいですから
やっぱりその日本っていう場所にあるしそこを
出ようという意識を持つっていうことは
ある意味で最もそこに縛られてしまってて
その反動で出てることになったわけですから
もうすごく苦しかったわけですけれども
それはじゃあ宇宙とか地球っていうレベルで捉えた時には
実はフット好楽になったのかなっていうのをあの
この楢原の足跡をあの部屋の中ですですけど
辿っていてあなんか開放されたのかなっていう風に感じました
お写真買ってよそシャットをしたその一瞬が勝負だからだから
もうその場所にいて普通に人間が感じ取る何倍もの何て言うのかな
感じ取る力でもってその場面
を切り取らなければならない
それ言う覚悟を持ってはカメラを構えていたっていうことですよね
多分その目の前の景色に対しても
ただその景色と自分っていうわけじゃなくって
自分の内面世界
内面イメージがもうその麻痺状態に重ね合わされているような
それぐらいの距離感で距離の
近さを持ってとっていたんじゃないかなっていうのが
見てきた印象でした
はいあの初めてお会いした時に
少年の心のままずっと前を向いて密なものに対して
好奇心を旺盛に抱いて見つめ続けてる人という印象を受けました
猫お話をし出すとだんだんまた熱を帯び
てきて斜め上を見て夢中になって話される
自分の言葉がまだ足りない
もっと足りないって話されているうちにゴミが潤んでくるっていう
すごくあのその前がすごく美しいなと思って眺めていたんです
けれどもそれと自由さですかね
風邪のような形だなと思ったことがあっ
てあの風はやっぱり芯がしっかりしててさ
あのお父さんも法律家で出して
あと自分でも法律を学んで出した
どっか巨視的な視点神様が神の目で子地上を照らしている
地上見ているような
そういう客観性みたいなのがずっと最初からある
人間の土地の時からその文明の光景
を自分は取ってきたんだって思う
言われたのも結局
その文面の光景を
巨視的に眺めるだけの女を持っていらしたっていうふうに思います
使った相反するものをこう同時に含み
持っているがないってとこがあると思うんですけど
今の暗証かかっててます俯瞰的に小教室
着物捉えると同時に
その音も話し合った
時にこうなら目を目を見て
子供のような目でしゃべるって言うもんね
多分そうやって見てるのは昆虫じゃないすかね
やっぱりそれ宇宙
さらにそのさらに先にある中もうなんか
絶対的な自由の彼方みたいなところを見てるとその眼差しが
写したもの僕たちはね
お写真で見ることができるって素晴らしいですよね
今日はありがとうございましたございました