日曜美術館「芸術を視る力 造る力 造形作家 岡崎乾二郎」

日曜美術館「芸術を視る力 造る力 造形作家 岡崎乾二郎」

絵画、彫刻、建築、絵本と分野を横断した活動を続ける造形作家・ 岡崎乾二郎 。軽やかにして複雑な作品は見る者の常識に揺さぶりをかける。謎めいた岡崎の思索に迫る。

造形作家・岡崎乾二郎の芸術活動は多岐にわたる。「抽象の力」で平成30年度芸術選奨文部科学大臣賞を受賞するなど、美術批評にも携わってきた。絵画とも彫刻とも判別できない約40年前のデビュー作「あかさかみつけ」や、鮮やかな色彩が物語を感じさせる絵画で、岡崎は何を表現しているのか?開催中の展覧会場を訪れた司会の二人は、作品を前に岡崎と語り合い、感じることと思索することが折り重なる岡崎のアートを体感する。

【出演】造形作家…岡崎乾二郎,美術史家…林道郎,詩人…阿部日奈子,詩人…ぱくきょんみ,【司会】小野正嗣,柴田祐規子

放送:2019年12月29日

 

日曜美術館「芸術を視る力 造る力 造形作家 岡崎乾二郎」

プロローグ

造形作家岡崎乾二郎。

軽やかで美しい色彩を纏いながら、何を表しているのかと考えさせるその作品。

絵画や彫刻を始め、見るものは常識に揺さぶりをかけられます。

40年にわたる作家活動も美術の枠には収まりません。

建築の設計もすれば絵画のようなタイルも制作。

舞台美術やメディアアートなどあらゆる表現の分野を横断しています。

様々な批評や絵本も手掛け、文章家の一面も。全てに共通しているのが、見て感じたことを考え抜いて表現すること。そこから生まれる作品はどれも独創的です。

「僕としてはどんなことでも自分で考えて自分で答えを出さないと、人のやり方を真似するとすぐ忘れちゃうから逆に。自分で考えたことであれば、なんとも繰り返して、なんでも自分でわかるまで子供と言うから気が済まないと気持ちがあって」

1981年。25歳の岡崎の記念碑的な作品。《あかさかみつけ》

距離や角度見る位置によってガラリと印象が変わります。

大きさは30センチほど。

一枚の板から切り出されたかのようなパーツで構成されています。

素材はスチレンボードという美術作品にはほとんど使われていなかったものです。

初期ルネサンス絵画に着想を得たという色彩。

覗き込むと建物の中に入ったような、外とは別の空間が広がっていきます。

現代美術の研究所で学んだ後、岡崎は、これらの連作で初の個展を開きました。

個展のタイトルは「建物の気持ち」

それまでにない謎めいた表現に多様な解釈がなされ話題となります。

個展は新聞でその年の展覧会ベスト5に選ばれます。

美術雑誌でも特集の記事まで組まれました。

翌年にはパリ・ビエンナーレに選出されます。一連の作品によって岡崎は一躍注目の作家となったのです。

岡崎の40年にわたる作家活動を展望する展覧会が開かれています。

視覚のカイソウ

展覧会のタイトルは一冊の本をめぐるように回想しながら作品を再会してもらいたいと名付けられました。

展覧会会場
「この一角は岡崎さんの最初の個展に出されたシリーズっていうことなんですけれど、建物の気持ちという」「不思議な形をしたものが並んです」

一つ一つのレリーフが独立しながらも形や色が互いに響きあい連なっていく空間。

軽妙な造形と複雑な空間表現が混在するその斬新さが驚きをもって評価されたのです。

「見れば見るほど、絵画の要素もあれば彫刻の要素もあれば。建築の要素もある。あるいは都市デザイン的な要素もある。あらゆる要素が集約されているような作品で、絵画的な要素はあの色彩選び。塗りの選び。しかも壁に掛けられている。だからあれは絵画の伝統にさおさす作品ということもできる。もう一方で彫刻でもあって、単純な話、立体的な厚みもある。同時にああいう軽い素材で中に穴のある。空間のある構造体っていうのは、20世紀のとりわけ20世紀の彫刻史を見ていくとい、実験をした作家でそういったものの記憶を背負ってる作品でもあるその意味では本当に結節。いろんなジャンルの結節点のような、あんなに小さくて軽やかなのに、そういう膨大な人間がやってきた造形の記憶をいろんなスケールで呼び起こすような構造になっているということだと思います」
三角形の展開による立体的なフォルム。

頂点のみが地面に接し立っています。

高さ3 メートル。重さ1.2トンの彫刻は一点のみで支え合い、バランスをとっているのです。

重力に逆らうような軽やかさが非現実的な空間を生み出しています。

岡崎はレリーフで試みた空間や時間への考察を様々な表現で試みていきました。

東京武蔵野の高台。

2011年岡崎は自ら設計して自宅を建てました。

自作のタイルをはじめ随所に岡崎の手触りが感じられる家はひとつの立体作品のようです。

岡崎乾二郎は1955年東京の建築家の家に生まれました。

家庭には戦前のモダンな文化の気風が色濃く残っていたと言います。

「当時の児童教育で一番大事なのは、自分が感じていることを自分で再把握するってことを子どもたちに教える。幸い考えてみると、うちの父親は建築家で、もともと画家になりたくて、そういう人がいたと。まあ、母親の方が、祖父が牧師だったこともあって、教育的な環境というかそういう所。祖父自身も教育をしてたし、そういう関係にあった。一番僕にとって興味を持ったのは、その母親が洋裁が得意で、発明が隙だった。いくつか発明の賞とかもらって。今思うと、本を読むと言うよりなんでも作って自分たちで解決するっていうのが家の伝統にあったみたいだね」

岡崎のもう一つの顔とも言える批評活動。

膨大な知識と、人が気づかない視点で本質を突く批評は広く知られています。

去年出版した「抽象の力」は芸術選奨文部科学大臣賞を受賞しました。

日本の抽象画家たちが西洋絵画のあと守ではないこと。

同時代的に表現の革新を理解していたと評価したのです。

「抽象の力」で取り上げられた画家の一人、坂田一男。

岡崎の監修による坂田の展覧会が開かれています。

1889年岡山市に生まれた坂田一男。

31歳の時にフランスへと渡り前衛的な作品を発表します。

キュビスムを追求した抽象画家として論じられてきました。

しかし岡崎は帰国後の作品に注目。

同時代の欧米の作家と同じく、空間や時間を物質感あるものとしてカンバスに表現しようとしていたことを論証したのです。

同じような2枚の油彩。

坂田のアトリエは2度も冠水の被害に見舞われました。

この絵もカンバスの下の方の絵の具が剥落。

これまで水害を受けた作品として扱われてきました。

しかしそのダメージにこそ坂田が表現の可能性を見出していたのではないかと岡崎は推論しています。

「絵画が平面が、単なる何もない空間ではなくて中が詰まってるよって、示すのに一番簡単な方法は、それをハサミで切ることです。カッターで切ったです。そうしたらもっとボリュームがあるように見えてくる。作家がいますけど。坂田は今までもそうやってハサミで切ったり色々してた。冠水は文字通りですね、まさにはがされたところがこんな実在を持って、これはかなり嘘だと僕は思うのね。つまりこんなに地肌みたいな茶色いの出ない。これは絵の具を足しているんじゃないか。見事な土色ですよ。後で退色したり色が変化したキャンバスですよ。キャンバスなのにこんなに強い地肌になっている。たぶんここも僕は怪しいところだと。じゃあこの形は偶然できた穴ですかと言うと、前に絵画の構図的には輪郭線とか形として、その領域自体がデッサンの中にあらかじめあった形のように取り込まれてると言うか、うまく組み込まれている」「いつも言うのは、絵を見たときに、なんで描いたんだろうと。これが作られたものであると。それなりに時間をかけて作ったものっていあんまり無駄なことはしなくて、すべて意図ある者として考えなくちゃいけないんです。思いつきとかその時の気分で描いてるわけがない。しかも何回も反復してんだからだから。だから、絵は感じたものをとらえるっていうのは正しい。なぜ感じたかって言うのを確認するために何度も何度も、そう感じるようにその感じたことをただ同じことが再起するように描いていくわけですよ。だから見てる人も感じたことが他の絵でもあった。同じ効果があったっていうの確かめていけば、感じるだけで思考が組めると思うんですね」

何かそれをしつこく子を探そうとする感じがいつもあって
でもずっと来ないかが必ず繋がってるはずだってずっと思いながら
岡崎さんこうもの見てるところがあって
それはやっぱり
某アーティストに対する信頼とかの核心に似た後身内だとか
あとはご自身がアーティストであると
いう自負に基づいていて
あの角は毛がある根拠があるということを執拗に探すってのは
やっぱりその確信と信頼があるんだなと思うとこです
これまで岡崎は子供のための展覧会や絵本も手がけてきました
その中でこんなメッセージを送っています
大人が世の中に自分を合わせることができること
大人だねと言いますけれど
多くの大人が芸術を鑑賞することが苦手なのは
芸術は1人で感じることから始まるからです
自分だけが感じていることは何なのか
それを突き止めようとすることが芸術の面白さです
答えはきっと見つかるはず
きっとという自信を芸術は教えてくれる
岡崎のパートナーでよん人のパク
今日みさ岡崎とは高校の同級生でした
建築科を受けるとか言うんですよ
でもこの人が劣等生だってことはよく知ってたから
どうやって受験勉強するんだろうと思ってたんですね
勉強堂戸手勉強してるふりはするんだけど
どうと見るといたずら書きだらけなんですよ
人と付き合うとで良くないことが起こりそうだなと思いつつだけど
私はその時から世界の文学とかを全部読破するとか
そういうこと図書室でやってたんですね
図書館行くとね本の後ろに全部この人に何書いたら異常な人だね
海外文学全部好きだったんですよね私も
考えて受験勉強なんかしてなくて
そんな本ばっか読んでないでこの人はノート出してるけど
いたずら書きばっかりしてると二人とも劣等生で大学何かいけない
もう運命にあるんだけど
何かとっても弾んでる気持ちだけは積んで
世の中を支配して出てきてそれで何でいたずら書きをし
てるだけではなくてテレビ消しゴムでね彫刻を作ってくんですよ
それですごい感動したら私がちょっと考えたことを話して私だから
あのそういうこういう人と出会ったこと
元々私はやっぱりすごく好きだった
やっぱりあの教室に通わせてくれと家に頼んだこともあるんです
で私
が在日の家庭でね
それを習うとかなんかその文化的なことに書かれて
そういう発想は全くなかったんですよ
だからそういうのは
こういうことはできないんだできないんだって思って言っときに
彼が突破口を開けた開けてくれたところがあると思いますで
芸術芸術っていう
のは本当にこれで
腰ゴムで作れるものだってこと教えてくれたような気がしますね
白いカンバスの上で自らを祝福するかのように輝き
躍動する色彩たち
はちじゅー年代の初頭から絵画を書き始めた岡崎現在では
政策の中心を占めています
特徴の一つは死を思わせる長いタイトル
そしてその色と形
縦横無尽な筆致による色彩が時にせめぎ合い
時に調和しながらたような形を成しています

絵画制作のためのアトリエです
絵の具は全て自作によるもの
硬さや乾いた時の発色などを計算しながら作っています
大枠の構造を元に部分ごとの関係性を考えながら
描いていきます
決まった完成像を目指すのでは
西中に生じる偶然性や問題をも取り込みながら
イメージに近づけていくのです
こうきてる感じこれは裏からくさ
コケコッコー期待だから
ありったけ折りたたんだよN国においてんだけど
置いてると裏も見たくなる裏返したことを後悔したくなるっていう
まあそうに言葉で先に考えてやってるわけじゃないけど
自分のやってることを反省的にみると
そういう意味では粘土でこっち作ったら後ろ無効
化も作んなくちゃいけないっていう彫刻の場合は
裏表同時に恋して角みたいなところが手もあるかもしれないね
色や形全てにおいて寸分たりともおろそかにはできないという
岡崎どんなに些細なディティールも綿密に形作っていきます
一枚の絵を完成するのに要する期間は
およそにヶ月
隣り合う形が似た姿になるようにに比べながら描いていきます
に枚で一組の絵画です
92年頃から岡崎は水になった絵を描くようになりました
左側の小さな方の上個性豊かな形がひしめき合っています
その中の一つ水色した顔のようにも見えます
右側の大きな絵の方にも色違いの同じ形がありました
左右に比べてみると同じ作りで
色の違う形が他にもあることがわかります
色や形その配置には一つ一つ意味があるのですが
最後の雰囲気が変わりましたね
今ここにいますね
そしてはもうに枚一緒に構想されたですか
今一緒に書いて書いてるのと同じストロークが
同じ形があります
今ここではそれが同じことが繰り返され
作家が自分で説明するんではなくて
感じた時に仕組みがあるよっということなんだけど色が起きました
次に入る起きましたって
この色と色との関係で
空間がこうできてるとこ
どこのピンクとこのがだいたい彩度が同じじゃん空間が
流れるように一つの空間ができるとしますね
これでこれと同じものがここにあるとして
これは別の色の関係を結んでいること
やってくと音符のことと同じように
僕はその時さあこれをこれをやったらさんじゅーぐらい
その音符のと同じようにここではこの形は他の周り
の人々と人との関係を結んでるけど
こっちでは別の人生を歩んでるみたいで
全部同時にそれぞれこの場所でも現れ
ここの場所にあるそれぞれ違う空間を作り出しても
それを普通の海外だと一枚の絵があった
そこに塗り分けの場所が全ての色とか形は平面の中にはじめから
決められた領域に属すことになっちゃうじゃないですか
自由にして別の平面を別の世界を同時に属すみたいにしたかった
タイトルが作品のタイトルが物語みたいになって
図書積み上げてもいいですか
これ二人が同時に一人がこっち読んで
1人がこっちを見て話が多分混じるよう
になって読んでみますね
だから消えてしまった自分のコーヒーカップに目をやった
ポットに残っているコーヒーを一にぶちまけその上にカスを落とす
短い間に本当に次々色々なことが起こった
昔は眠れない時ウイスキーを飲んだものだが
どうしても今はホットミルクだミルクを
温めてスプーンで表面の膜を救いカップに注ぐ
覚めるのが待てなくても舌をやけどしたりして
せっかくの幸せをぶち壊しにするわけにも行かない
空は灰色に変わり鳥が鳴き始めている
こうやって僕は待って待って待ち続けてきたものだ
それでていう文章があると口の文章
とねほんとコレスポンダンスっていうか
消防士竜は同じに枚組のひとつのストーリーがいます
これこれ右で左が寝かして行きますよ
いちにのさんはい
すっかり冷えてしまった自分のコーヒーカップに目をやった
外に流れ出す
気にかけられたコーヒーを眺めながらってやってくと同じ
時に読み終わるかもしれないらしい
じゃあこれで何を書こうとしたのかって考えると
この文章と文章の関係でもあるし
この中にコーヒーだとか見ることがまあ
特にミルクとコーヒーの関係とかヒントとしては甘い夜寝る前
肩とか時間が移行する行動が
ひとつのパターンから他のパターンに移動する時にコーヒー
を必ず飲んで
その時に外気が気候が変化するってそういう情景があって
そういうそういう情景ってか
そういうシチュエーションみたいなものにしたい
面白いの何か一つ一つの絵の物語を何か違うってか
感じる感じたいですね
でもね一つ移動するのが服装ですが
ここだけ見ると関係していると違う関係してくださった
今度行ってみるとまた違う関係性があって
今無尽蔵にその関係性っていうことをしていくっていうか
嬉しいですそこまで理解してくれ
長野伝わらなくてこれまで目にした膨大な芸術作品の記憶
それらは現実と同じようなリアリティをも
心の中に存在していると言います
そうした芸術作品の記憶の断片
これまで経験したことや日常の中で感じる様々な出来事
あらゆるものが一つのイメージとなって結びついた時治ります
時間と空間を超えたイメージが色と形に置き換えられ
干ばつの上に広がっていくのです
ええわね便利でね
そのこういうことも
そこではあり得たありえるだろうとかいうことを
自分が今見てるものだけじゃなくて
そこから思い出したものとか
歴史的にすでに記録されてる他の人の他の人とか
お金は私以外が経験したことも含めて場所の中で畳金で描くってことが魔戒川や癒やし匂いなどは自覚してない
急いで匂いを嗅ぐと何かを思い出す
臭いによってすぐ買って
その匂いを嗅いだ事を思い出してことがよくあるわけだけど
それは思い出すって言うんではなくて
その時間が再起してくれる強烈な臭いに一番近い感じで使えるの
は色彩だと思うね
祝祭はやっぱりにうまく使えれば
匂いと同じぐらいリアルに時間を超えた生々しちゃっての
換気できると
まさにこの色は買ってみた色だっていう漢字ができるんではないかともう一つ
岡崎ならではの色彩への感覚
それは他の表現の分野でも新たな可能性を示しています
11月池袋にオープンした劇場です
岡崎によるタイルの壁画が設置されました
高さおよそさんてんごM幅じゅーはちM題名は見る膣マジョレ
1985年からタイルの作品を作り始めた岡崎
その中では最も大きく構想から四年の歳月を費やしました
鮮やかな赤対比するように青や緑の感触が配置されています
釉薬が塗られたものと塗られていないもの
全部でおよそななじゅーろくタイルの形状もバラバラです
なんとよんひゃくろくじゅー種類以上
小さなものはさんセンチかつ大きなものはそのじゅー倍もあります
微妙な高低差があることで
壁面が平板にならず変化が生まれています
数々の緻密な作りによって
壁面は見る位置や時間帯の違いで様々な表情を
浮かべるのです
ミルチ須磨ジョルノタイルを制作した技術者の芦沢正さん
ひとつの色が決まるまでじゅー色以上の試作を重ねたといいます
やっていてやっぱりこれだけの形状の形状も数も凄いですし
色の数も凄いですし
これだけのものを組み合わせて一つの面を構成するっていうのは
なかなかあの私も経験したことがないようなことなので
それはすごく画期的だと思います
普通の作り方は
大分市焼のものに釉薬をかけてそれで焼成しますでしょう
性調整したものをよんひゃく種類以上も形状があるので
カットして使いたいんですけども
そうするとこのカットしていくと
こういった真ん中の部分のような
のっぺりとした状態になってしまいます
ただ岡崎さんの場合は
釉薬の濃淡をいち
枚の中で表現したいっていう意図があると思いますので
それぞれ最終的な必要な寸法に合わせてカットした素焼きのものに
釉薬をかけて焼いてます
こういった釉薬が貯まるとこたまらないとこで
こうゆうらぎのようなもので厚みの顔
まさに揺らぎがあるような面が作られていて
それが光が入ってるとこ当たってない
所っていうところも
奥行きにつながってくるのかなっていう風に思ってます
帰ら表現されていることを
タイルに置き換えて表現されているように感じていて
絵の具であったりっていうものが
答えるに置き換わっていていう
薬が絵の具のイメージで
使われているのかなっていう風に思っています
岡崎さんならではと言えると思います
詩人の阿部日菜子さん
かつてエッセイの中で岡崎のタイルの作品を食べ物に例えています
一つ一つのタイルに表情がある
たぶん岡崎さんはこの世にあるものはたようであればあるほど
いいっていうふうに考えていらっしゃる方
誰だと思うので
その多様であるほどいっていう考えが
このタイルの表面の豊かさに表れてると思います
そこからこういろんな連想が湧いてくる
という気がいたします
私の場合でしたらば
青と茶色と緑の配色からそらと樹木という風なことを感じました
それから紫色の綺麗なタイルがあるんですけれど
それは何かこう
よく熟した木の実みたいなラズベリーとか
ブルーベリーとか美味しそうなそんな感じがいたしました逆に
この建物の家に空とか吉とか緑があるんだなーっていうことに
ちょっと疲れたような印象を受けるんですね
その途端に何かこう
家と外が反転するような
外にあるべきものが家にあるって言うような
何ともちょっとめまいの一緒するような驚きを覚えて
なんか嬉しくなったりするんですね
不思議な題名ミルチ須磨ジョルは
1940年にバンされた漫画火星探検から引用されたものです
主人公の男の子が夢の中で尋ねる
火星の人の長ミルチスマジョルナのです
この原作は池袋を愛し
その界隈に居を構えた詩人の小熊秀雄
稼いでの盛大な歓迎会の平和と
幸福に満ち溢れています
岡崎は火星と地球ふたつの街の未来への希望を重ね合わせ
壁画にこの名をつけました
費用は光り輝くタイル
そこには子供の頃のキラキラとした思い出など
岡崎の様々な記憶の集積が存在しているので
芸術を見る
それを信じ一貫して時間や空間をひとつの造形作品
えーと形作ってきた岡崎乾二郎
その作品は芸術を見ることの豊かさを問いかけ
別世界へと誘って国会いませんよんじゅー年前の作品が出てきて
施設とも言えるけど
しかしまあそれ何よんじゅー年前にである自分が作った
それなりに問題の解き方は合ってた感はあるんで
それなりに納得がいく答えを出してるって感じする
40年経ってあまり変化してね
進歩してないなっていう子は変化してない
今やってもこうなるだろうなって感じはありました
とりあえず一番最初に感じたことは
だいたいは僕はその通りだろうな
だろうな