日曜美術館 「終わらない記憶の冒険 田名網敬一」

先日、88歳で亡くなったアーティスト田名網敬一。多種多様なモチーフと極彩色に彩られた作品は、幼少期に経験した戦争や多感な時期に影響を受けたアメリカ大衆文化など、田名網が生きてきた記憶の断片によるコラージュだ。現在開催中の大規模な回顧展に向け、開幕直前まで制作をつづけた田名網の最後の日々に密着。さらに篠原有司男など田名網をよく知る人々と共に、独創性に満ちた田名網の作品世界を紐解いていく。

初回放送日:2024年9月1日

日曜美術館

キャンバスを覆う無数のモチーフ。そのすべてが人生の記憶の断片を映し出しています。ポップでありながら狂気を感じさせる、国際的な世界です。アーティスト田中実敬一は先月、88歳で亡くなりました。

現在開催中の展覧会には、60年以上にわたるキャリアのすべてが詰め込まれています。田中の作品をよく知る人たちは、感覚的な本当、超本当を絵の中で描いていたのではないかと思います。尋常ではないクオリティの作品を、尋常ではない量で作り出していました。

そしてこの人も「これはいいね、全部が生きてるね」「傑作が変わっているものです。私は実際に見て、ああ、すごい、鬼のよう」

田中実敬一は展覧会に向けて、亡くなる直前まで準備を続けていました。情熱に満ちた創作の日々に寄り添いました。

終わらない記憶の冒険 田名網敬一

国立新美術館にやってきました。今日は、私たち田中さんをしのびながら、その作品世界を一つ一つ見つめていきたいと思います。ゲストをお迎えしました。美術史家の山下洋二さんです。よろしくお願いします。山下さんにとって、田名網さんはどのような美術家ですか。
「すごいエネルギーですよね。この展覧会を見ていただくと、よくわかると思うんですけれども、もうエネルギー全開で、ものすごいパワフルな作家だと思います。」
こちら、今回のために作られた新作。立体とプロジェクションパッピング作品ですね。一気に異次元に誘われます。そしてこちらもひやっきょうじゅという今回の展示のために作られた作品。最大のキャンバス作品だそうです。大きいですね。「カラフルで見ていくと楽しいモチーフなんですけど、ちょっとおどろおどろしいというか」

葛葛飾北斎の作品に着想を得た「百教室」は、幅10メートル、キャンバスを8枚連ねて病部に仕立てたコラージュ作品です。印象的な赤い太鼓橋は、その姿を様々に変容させながら描かれています。橋の周りには鯉や骸骨をはじめ、100を超えるモチーフが散りばめられています。

こちらの鶏は見たことがあるような気がするんですが、日曜美術館でも先日取り上げられました。田中さんの作品には、弱虫から引用した鶏がよく出てくるんです。また、この鶏は特に大きいですね。頭が大きいですし、よく見るとアメリカンコミックのヒーローたちがいるのも見受けられます。さまざまなモチーフが貼られているのがわかります。よく見ると凹凸もあります。

国際的なモチーフで彩られた橋を渡り、記憶の冒険が始まります。渋谷にある棚網の自宅では、こうした素材を切り抜いて用意しており、キャンバスに貼り付けられています。紙ではなくキャンバスを使っているため、ポラージュに使うパーツには自分で描いたものもあれば、印刷物を拡大したものもあります。

百教室の制作では、一人で作業を進め、アシスタントには任せません。ボンドはすぐになくなってしまうので、凹凸のあるキャンバスには刷毛ではなく指を使って丹念に塗り込みます。最初に貼り付けるのは作品のベースとなる巨大な滝のパーツです。絵を描くのは肉体労働であり、全身を使って作業を行います。二枚ではなく、100枚近くの作品が展示されています。

「先生は運動をされていますか?」という質問には、「運動はしていない」と答えますが、散歩をしているからか、足腰は丈夫です。アメリカのコミックを拡大した素材も作品に欠かせないもので、これは世界大戦の頃の時代のコミックです。素材は定期的に古本屋を巡り、思い出にまつわるものを見つけてストックしています。一つ一つ丁寧に切り抜かれた記憶の欠片です。

作品のメインとなる橋もまた、棚網個人の記憶と重なります。美容年の時代にラジオ園で見た橋が形として面白いと感じ、橋に興味を持つようになったと語ります。パーツとなった記憶は下絵もなしに次々と貼られ、積み重なっていきます。棚網は自身の作品を「編集的絵画」と呼び、編集とは様々なものを集めて選び並べ替え、一つのものにする過程だと説明します。人間は無意識のうちに編集しており、旅行や日常生活でも常に編集を行っていると語ります。

生涯をかけて集めた記憶の断片は、編集されることで新たな物語になります。人生を積極的に考えて送ることで面白くなると感じています。

1956年、親の反対を押し切って武蔵野美術学校へ入学し、就職することを考えデザイン科を選びました。大学2年生の時には、グラフィックデザイナーの登竜門である日選美店で独占を受賞し、デザイナーとしてのキャリアがスタートします。在学中から女性誌のアートディレクションを担当し、レイアウトから挿絵まで幅広く手がけました。卒業後は商業美術の世界で編集とデザインのキャリアを積み重ねる一方、個人の作品制作も続けていました。注目したのは当時最先端のポップアートの手法です。

圧倒的な数ですね、すごいでしょえこれは 初期の作品そうですね、この辺は初期の作品ですね。そして私たちの正面に入ってきたのが、ポップアートの影響を受けて1965年に田浪さんが制作されたオーダードという作品です。

シルクスクリーンの技法で大量に制作された作品。繰り返されるジャケットとネクタイのイメージ。増殖するハンガーのモチーフ。既製品なのにオーダーメイド。皮肉の効いたタイトルです。

ポップアートのどんなところに田名網さん惹かれたんでしょうね。
「ポップアートって結構日常使っているようなものをモチーフにして、広く一般の人がイメージを共有しているもの。でも、それを一ひねりして作品化していくそういうところに魅力を感じたんだと思いますね。」

アーティスト田名網敬一は、商業デザイナーからポップアートの巨匠となったアンディ・ウォーホルに影響を受けました。ウォーホルは、商業美術の技法であるシルクスクリーンを絵画作品に用い、新たな芸術表現を生み出しました。従来の画家は原画一点主義だったのに対し、ウォーホルはプリント作品を重要な手法として取り入れ、全世界に同じ作品をばらまくことでスーパースタイルを確立しました。

田名網敬一の友人である七海は、アーティスト田名網敬一の展覧会のために、妻ののりこさんと一緒にニューヨークから一時帰国しました。二人の出会いは70年近く前のことです。田名網はデザイン会社に入社し、六本木の小さなパートの部屋で仕事をしていました。そこに七海が居合わせ、田名網の代名詞であるボクシングペインティングが生まれたと言われています。

ボクシングペインティングが生まれたきっかけは、田名網が健康を考えてボクシングの道具を買ったことです。彼は小遣いを持っていたため、道具を買い、衣装の上に乗せてビルの壁を練習していました。それがボクシングペインティングのスタートとなりました。田名網の作品にはTシャツやシルクスクリーンが使われており、彼の美術に対するアプローチは自由で独特です。

遠く離れて暮らしていても、手紙や電話での近況報告は欠かさなかった田名網と七海。田名網の面白さは、最初のデザインレイアウトからアートに近づいていった過程にあります。技術的にも優れており、レオゾマンや本作りのテクニックをよく理解している田名網の作品は、パラレルな要素が交錯し、新たなイメージを生み出しています。

田名網は編集の才能こそが自身の魅力だと考え、イタリアの画家ジュゼッペ・アルチンボルドの騙し絵に着想を得た立体のコラージュ作品に挑戦しました。彼の作品では、自由な切り抜きと付け方が特徴で、肉体的な感覚を反映させています。

七海が作品を発案したのは4月のことでした。展覧会に間に合うかどうかギリギリのタイミングで、完成までには相当な時間がかかりました。田名網の作品は、平らなものからぐるっと変わるものまで多様で、ウレタンのような素材も使用されています。彼は、展覧会に向けてフリーな発想で作り続けた結果、傑作を完成させたと感じています。

「これは傑作だと思うな、絶対に面白い。でも、どうやってここにあるの?」と田名網は語り、彼の作品がどのように展開されるか楽しみにしています。

この部屋は・・・わかります?ピカソだらけ。あんな高いところびっしりですよ。う わぁ、。

2020年、コロナ過で仕事が延期になった 田名網はピカソの模写を始めます。発表の予定もなく、自分の楽しみとして描き続けたピカソ。4年で600枚を超えました。

「あそこにミニトマトあるのおかしいよね。これ、ミニトマトですよね 本当に本音ミニトマトなんだよね。でもね、やっぱり模写から始まることって、やっぱりすごく多いんですよ。そうですか。というか、日本の絵画も昔から基本は模写から始まる。若冲だって、中国海岸をものすごい数も増やして、そこから始まってる歌もそうか、歌い方とかも、これどうやってるんだろうってこの拳をちょっと研究したりやってみたりしますねちょっと近いかもしれないです けどそうだし、スポーツだってそうでしょ、」

コロナ過が開けてからも、ピカソの模写は続いていました。素材を切り貼りするコラージュ作品から一転、アクリル絵の具と筆を使って自らの手で描いていきます。
「僕はね、絵がね、あんまり上手じゃないんですよ。だから結局どういう風にしたら別に上手になりたいとは思わないんだけど、面白いものは作れるかっていうトレーニングのためにすごく役立つ」
模写といってもただ写すだけではありません。
「これね、こういう意味じゃないのこれ僕が 勝手にはめたの」
ピカソの絵同士を組み合わせたり、オリジナルのモチーフを付け足したり、使う色も一枚一枚少しずつ違います。ピカソを素材にいかに新しいアイデアを盛り込むか、田名網の遊び心です。

使う筆にも注目です。日本画に用いられる面相筆を使います。フランスで活躍した洋画家藤田嗣治が使ったことでも知られる面相筆。本来細い線を描くのに適しています。
「ピカソっていうのは太い筆で描くんですよ、ピカソと反対に細い筆で全部描こうと思ったんですよ。その方がちょっと変化があるじゃないですか。ピカソは僕、昔から好きだったんだけど、結局 ピカソを描いてると、ピカソの息遣いっていうかね、わかるんですよピカソがどういう筆圧っていうかね。でも、こう、置き方がどういうふうに置いたのかとか。それから絵を描く速さとか、いろんなことがね、こうわかるんですよ。そういうことがだから僕の絵を描くということの勉強になったんですよ。」


年齢を重ねるごとにエネルギーを増していく田名網の創作活動。その原点ともいえる幼少期の記憶があります。飛び交うアメリカ軍の飛行機、戦争の記憶です。田名網は1936年、東京・京橋の福祉分野の長男として生まれました。5歳の時に太平洋戦争が始まります。1944年、本土への空襲が本格化し、B29が東京に飛来するようになりました。田名網は母親とともに新潟に疎開し、そのまま終戦を迎えました。

「僕は田中芽さんの作品を見ている中で、もちろんポップに描いてはいるものの、どこが死というものを感じてたんですよ。それが何かなと思っていて、幼少期に体験なさっていた戦争のこともあるんだろうなと感じていて。」

「新潟に疎開して、戦争が終わった後、目黒駅から出発し、目黒駅に帰ってきました。母親と一緒に目黒駅の近くの坂道に立った時、目黒は悲惨な状態になっていました。土地は焼けただれて赤い地面が広がっており、その水平線の上には真っ青な空が広がっていました。本当に綺麗な青空でしたが、それと赤っぽい地面とのコントラストが印象的でした。それを見たとき、子供ながらに強い衝撃を受けたんです。だから、青い空と赤い地面は、どんな絵にも私のベースになっています。

作品に登場する「弱虫の鶏」も、疎開先で見たある光景を象徴していると言います。新潟にも空襲がありました。飛行機が来るというサイレンの前に、この鶏の大群が鳴き出すのです。何百羽も一斉に鳴き、その様子が鶏小屋が燃えているように見えました。つまり、鶏を描いているのではなく、燃やされる火を描いているのです。すべてが関連し合って、こうして絵が出来上がっていくわけです。だから、単に明るくてポップな絵とは少しズレているのです。」

先生から作品の点数が凄まじいものになるから驚くと思うよと聞いて、小さい模型で見た時点でこんな作品数いきなり見たら入っちゃうと思ったんですが、やっぱりとてもじゃないけど一回では見切れないと思います。

作家のあさぶきまりこさん去年、棚網から依頼を受け、小説を書き下ろしました結構先生の聞き取りをたくさんしたので、一つ一つに先生の話したことがやっぱり響いてくるんですが、ただやっぱりここは怖いですね動画も ufo や戦闘機がやってきて、やたらポップに爆撃が起きるんですが、そういう奇妙な気持ち悪さなんかかつてあったことを安全な場所から見ているような気持ちがしてこないですなので、先生の作品をたくさん見るというのは私の中で 割と怖い 体験です。

麻吹さんは棚網が幼少期を過ごした場所を共に歩きながら戦争の記憶を聞きました。先生に何度も聞き取りをしている時に、先生がふとつぶやい たのが楽しいことがなかったからって言っていて、トンボがいるとトンボを捕まえて、トンボの胴体の半分を引きちぎって、持っていた割り箸を刺してそれで飛ば すっていう 遊びを初回先の子どもはみんなやっていて、自分もそれをやっていたとそれでその時のやっぱり先生が言っていたのが、この 手に振動がくっくる、抵抗しようとけいれんする、それが生き物に触れてるっていう強い実感があったそれはやっぱりこれはもう私の想像ですけれど、戦争中の子供はとにかく空から何かが来ることに怯えていて、いつも大きい声で遊ぼうとすると憲兵がやってくる憲兵に叱られるでも本当は火の玉みたいに、子供はエネルギーが充満している中に、どこかに暴力をぶつけたり、発散させないと自分が壊れていくような感覚があったから、何かを破壊していたんじゃないかな、そんなことも想像したりします恐怖とか嫌悪とか、同時にちょっと それも夢のことだというふうに距離を持って笑っているような感覚とか、そういうものが全部ごちゃ混ぜになって、先生の中に、絵の中に入っているような気がします。えっという中に一つ一つはこんなにおもちゃみたいな爆撃機じゃないとか、例えば雲 の 形はもちろんこのような形ではないけれども、感覚的な本当超本当を絵の中で描いていたんじゃないかなと思いますフィクションの中で、嘘の世界で超本当を描くという、それは小説を書く上でもそうだし、英語の中でもそうじゃないかなと思います。昔なんかね、そういうの取材かなんかでね、戦争の僕が話してるシーンをね、リアルに絵に描いてくださいって言われたところあんのよでもその次はね、一回書きますって言って書こうと思ったんだけどねやっぱりね、なんか書けなかった気持ちが気持ち悪くなっちゃうのよもう国名に覚えてるから、もう僕がここから見てて、そこに死体がこうあってっていうのは、もうリアルに書こうとかいくらも書けるんだけどさ、途中まで書いてもやめた俺はちょっとねぇ、書けない僕は別にもう戦争なんか忘れて、自分のもう違うものを書きたいっていう気持ちはすごくあるわけよだけど、書いてるうちにだんだんそれがこう絶えず出てくるわけよ。」


田名網の作品を戦後の日本とアメリカの関係から読み解く美術史家がいます。その方は池上博子さんです。2015年にアメリカで開催された大規模なポップアートの国際展で、田名網の作品が紹介され、その後の世界的評価につながりました。

「田名網さんの場合は、戦闘機が出てくる場合には、それは恐怖の対象だったりするわけですけど、そこに同時にアメリカンコミックのヒーローとかヒロインが入ってきたり、やっぱり自分が好きなものも入ってくるあるいは白人のブロンドの金髪女性の非常に魅力的な女性と組み合わされて出てくるっていうふうに、その批判一辺倒ではなくてないまぜなところ自分でもちょっとわからない憧れの気持ちと恐れの気持ちと批判の気持ちというのが混然一体になっているところというのが田名網さんの特徴で、それを説得力のある形で視覚化、様式化している」

戦後の日本に大量に流れ込んできたアメリカ大衆文化。従来の田名網もアメリカ映画に魅了されます。30代の時に制作したホラー作品です。モチーフはかつて憧れた西部劇のスター、ロイ・ロジャースの映画広告や漫画を切り抜いて作りました。同じ年に制作した作品、コミックストリップでは、地面に使われているゴミ集積所の写真が焼き尽くされた日本の精度を思わせます。真ん中には両手を上げる裸の日本人女性が描かれ、その周りにアメリカンコミックのヒーローたちが飛び交います。

「よく見ると、ワンダーウーマンやスーパーマンも、巨大な手のひらの中で握りつぶされそうになっていたり、スーパーマンは少し下を向いて苦悩しているような表情で描かれています。彼らも正義の味方として知られた漫画の人気キャラクターですが、彼ら自身も自分の力ではどうすることもできないような、より強大な力に掌握されているという表現がされています。善悪がはっきりしない、良い悪いを簡単に決められないという点が、田名網さんの基本的な感性や感じ方がよく表れていると思います。」

では、次のお部屋に参りたいんですが、次は部屋の入り口の上に田名網さんのメッセージが掲げられてるんですねしっかりと。」

「この世に対してトゥーナッポンの爆撃をするなと、ここまではっきりとメッセージを出すのはあまりないことですが、ストレートなメッセージですね。」

「いってみましょうか。」

「田名網さんの絵画の中に出てくるモチーフが動いていますね。」

「この部屋は、田名網さんの記憶の積み重なりがものすごいレベルで表現されている感じがしますね。」

「長い時間をかける総務省みたいですね。そう言うんだろうな、という感じです。」

「そして私たちの頭上にあるのがこれ、B29を模した立体作品で、今回田名網さんが一番やりたかったことだそうです。」

「漫画的というか、デフォルメしてこういうだからリアルな感じ家にはしたくないよねもうちょっとおもちゃのようなだからもっとずんぶりした家族にしたいわけよね。要するにこういうシャープなんじゃなくてそれで一応ね、 あの天井の方にこうまあ要するに飛んでるっていうにしたいわけよもうちょっと色入れようかあの、これ、これはさ、色ないけど色入れていいの僕の幼年期と五歳ぐらいの子供が見た飛行機なんですよ。今の大人の服じゃなくて、子供の目に映った飛行機なんですよ。こういうだが形に目覚めだから大人が見た飛行機だったらもっとシャープなものになってるんだけど、僕が飛んでるのを見たのはこういうもんだった。結局僕の記憶の中で最も僕の心を長い間締めて苦しめたっていうか、僕自身がずっと自覚せざるを得ないような人生を送ってきたものの象徴なのよ。その b二十九っていうものは、それはアメリカでもあるし、戦争でもあるわけでしょ。だからそれを凝縮するとさ、b二十分になっちゃうのよ。今だけ bgm と飛ばしてどうなるんだということさ。結局僕のもうじゃけ、結局もうそれがだから僕の長い人生を聞いてたけどさ、やっぱり最後に見るのはやっぱりその景色なんだよ。ねあの人間の記憶 っていうのがどういうものなのかっていうことを改めて考えさせられましたね人間の記憶って地層みたいに積み重なっているものだと思うんですねで、田中さんの場合は、その地層の一番深いところに戦争体験があって、その後に戦後の体験が重なっていて、さらに様々な過去の作品から受けた影響というものも積み重なったりでもその全貌がですね、今回紛失しているよね探求していって、ポップアートだったり、晩年はピカソだったり外にも興味がそうですね生きながらも最後の最後には自分の中を掘っていったとだからまさに記憶の冒険っていうサブタイトルですけれども、そういうことが実感できる展覧会だったと思いますねこれはいいね、これはもう後じゃないねここまで来ると得体の知れないさこれ傑作だよ、超えてるよ、太郎さんを超えてる大したもんじゃない、これ、これは世界で通用するね何だろうかなんか知らねぇけどさはい、行きました今私はありがとうですけ どあっ、すごい、すごい、こんな感じです すごいじゃないですか動きましょうありがとうございますピカピカの相当相当な感じだね今まで一番多いよね、ちょっとやっぱり全体にシャッピングが小さかったかな空間が大きいだけです。

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