日曜美術館「絵画は社会を変える~反骨の画家・北川民次~」

北川民次

反骨の画家・北川民次。メキシコを漂流し、子どもたちに影響を受けた独自の作風。目標は、絵画による社会変革。時事問題を描き、時代に抵抗した男がみた絵の可能性とは。

1920年代、革命後のメキシコを漂流した日本人画家・北川民次。抑圧された民衆のための壁画運動にふれ衝撃を受ける。藤田嗣治の誘いで帰国し、「画壇のアウトサイダー」と呼ばれ独自の存在感を示した。戦後も、絵で社会を変えるため、率先して社会問題を絵にしたり、子どもへの美術教育へも力をいれたりするなど活躍した。晩年は自らをバッタにたとえた版画の制作に熱中。常に反骨の姿勢を貫いた創作活動に迫る。

【ゲスト】豊田市美術館館長…村田真宏,【司会】小野正嗣,高橋美鈴

放送日 2019年1月27日

 

日曜美術館「絵画は社会を変える~反骨の画家・北川民次~」

人はなぜ絵を描くのか。

中米の国メキシコにその問いに対する一つの答えがあります。

それは社会を変えるため。

20世紀初頭に起きた革命とその後の混乱の中で巨大な壁画は人々に思想を伝える原動力になりました。

そんな絵の可能性を目の当たりにした画家がいました。

北川民次。大正時代世界を漂流しメキシコにたどり着きました。

民次は壁画に魅了されその思想を日本に持ち帰り美術界に衝撃を与えます。

戦前から戦後を通して国家権力への抵抗を絵にし、画壇のアウトサイダーと呼ばれました。

その異端ぶりに岡本太郎や藤田嗣治など多くの有名作家が一目置いていました。

「北川くんは美術に対しての見解は鋭く、珍しい人だ」。

84歳の時、在野の代表的な美術団体、二科会の会長に就任します。

しかしまもなく一人の画家として生きることを選び、脱会しました。

「元来美術とは人間の精神を引き立て、抑圧に対する抵抗の力を与える恐るべき爆薬を内蔵しているのだ」。

生涯を通して民衆と共に生きようとした民次。

晩年にはある虫を描き続けました。

絵画の可能性を信じ続けた反骨の画家、北川民次の生涯を紐解きます。

北川民次の故郷、静岡県の美術館にその代表作が残されています。

1937年、43歳の時の作品「タスコの祭」。

素足に素朴な衣装を纏った異国の民衆。

当時日本で主流だったヨーロッパの絵画のような華やかさはありません。

静けさの中にも人々の力強い生命力が描かれています。

この絵はどのようにして生まれたのでしょうか。

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母子像

民次は1894年、静岡県で茶畑を所有する裕福な地主の家に生まれました。

幼い頃から芸術を好み、将来は画家か小説家になりたいと考えていた民次。

しかし親の強い反対に会います。

「私は体が虚弱だという理由で自分の意に反して商業学校へ叩き込まれた。人生への興味がなくなり、反抗的にもなった」。

二十歳の時大学を中退、茶の貿易をしていた兄を頼り海を渡ります。

ニューヨークで美術学校へ通い、画家として歩み始めます。

貧しい暮らしの中、劇場で舞台を背景画を書きながら夜絵を習う日々。

5年もするとそうした生活から脱却しようとします。

「ニューヨークの空気は希薄で窒息しそうだ。禁酒令以来ビールも飲めなくなり、全てはあまりに清潔で合理的なために冷え切ってしまって、もっとばい菌の多い熱っぽいところへ行かないと体が持ちきれない感じがする」。

民次は自由を求め南へ放浪。キューバを経て1921年。27歳の時にメキシコへたどり着きました。

その頃はメキシコ革命と呼ばれた動乱の時代が治った直後。

人種や貧富の差を超えた新しい国づくりが行われようとしていました。

芸術家も積極的に社会を変える役割を担おうとしました。

メキシコ壁画運動です。

首都メキシコシティにある国立宮殿に描かれたメキシコの歴史。

ディエゴ・リベラ(Diego rivera) の作品です。

西洋人に制圧された先住民インディオの苦難の歴史を絵で表し、民衆に革命の意義を伝えようとしたのです。

さらにリベラは当時台頭していた新たな社会思想もテーマに描いています。

ベジャスアルテス宮殿の「宇宙を支配する男」です。

壁画の右側に描かれているのは共産主義を掲げる人々。

反対側に描かれているのは資本主義陣営の人たち。

ふたつの世界をコントロールしている労働者の格好をした男。

リベラは民衆が立ち上がり、国づくりの鍵を握るべきだと人々に訴えたのです。

「革命戦争は多くの国民を巻き込んだ闘争で、戦後にメキシコを再建する必要がありました。その役割の中心を果たしたのが芸術でした。当時は国民の多くが字を読めず、メキシコ人としてのアイデンティティを確立する必要があったのです」。

絵は社会を変えられる。

民次は壁画の作者たちと直接交流を持ちながら自らの画風を確立させていきました。

メキシコ滞在中に制作した作品「トラルパム霊園のお祭り」。

描かれているのは革命の主役となったメキシコに生きる人の生活。虐げられてきた先住民インディオたちの生き生きとした営みも描かれています。こうして民次は民衆を描く画家としての道を歩み始めました。さらに38歳の時転機が訪れます。

郊外の町タスコに移り住み新たな取り組みを始めました。子ども達への力を伝えることです。

今は市役所として使われているこの建物で美術学校を立ち上げたのです。

ここで絵を描いたことがない先住民インディオの子ども達に絵を教えました。

民次の教育方針。それは好きな物を自由に描かせること。技法にとらわれない子どもたちの作品は感じたままの素直なものでした。民次は人間が本来持つ表現の可能性に驚かされます。

「原始の時代から人間の精神の底に流れている遺産がある。

そういう遺産をみんな持っている。それが時々顔を出してくる。彼らに自由への闘争心を与えることで驚くべき表現力を身につけることが分かった」。

民次の弟子でメキシコ在住の画家竹田鎮三郎さんです。

「あそこから北川先生は出てきたんです」。

竹田さんは当時の美術学校の様子を語ってくれました。

「子供たちが来ると、はいおはよう。今日はこれを持って外で絵を描きなさいっていって、メキシコの子どもたちは与えられた材料だけで大喜びで、すっとんで消えちゃうんですよ。別な意味では北川先生は楽だった。子どもが帰ってくるのをまっていればいい。そのくらいメキシコの子供たちは独立心が強い」。

民次は子どもたちを教える一方で、彼らの力強い表現に逆に教えられ、影響を受けたといいます。

そんな作品の一つ「女の像」。

緻密なデッサンではなく、見て感じた姿。その印象をキャンバスにぶつけました。こうした民次の作品は、メキシコでも評判をよぶようになります。噂を聞きつけわざわざ訪ねてきた日本人の画家がいました。

藤田嗣治です。パリの画壇で活躍後、帰国の際の旅行でメキシコに立ち寄ったのです。その才能に惚れ込んだ藤田の勧めで民次は1936年。

42歳の時に帰国。美術家の団体二科会に入会します。

最初の展覧会で発表した作品「メキシコ三童女」。

描かれているのはインディオの少女たち。

体に対して顔が大きく強調されたこの絵は、写実性が求められた日本画壇に大きな衝撃を与えました。

そして同時に出品した作品が、あの静岡県立美術館に所蔵された代表作「タスコの祭り」でした。

誰も見たことのないメキシコという土地の風土を描いた民次。異色の経歴を持った画家の日本画壇での鮮烈なデビューでした。

反骨の画家

1936年。昭和11年に帰国した民次を待ち受けていたのは戦争に向かおうとする国家体制でした。

日本は中国と戦争を始め、1941年には真珠湾を攻撃。

太平洋戦争へと突入していったのです。

そんな中が画家たちは軍から戦争を記録した絵を描くことを求められました。

民次の帰国を促した藤田嗣治もその流れに巻き込まれて行きました。

戦争批判が許されなかった時代、民次は国家の体制に疑問を感じ絵画で静かな抵抗を行いました。

メキシコの農民たちの祭りを描いた1938年の作品。「ランチェロの唄」。

演奏に合わせて踊る人々の姿、しかし楽隊の傍には銃が描かれています。

民次は作品について後に語っています。

「画題はメキシコにとったが、実は第二次大戦前の世相を皮肉って描いたので、唄を歌って民衆を躍らせる人にわざと武器を持たせたりした」。

2年後に描かれた「岩山に茂る」。

紀元二千六百年奉祝美術展と呼ばれる国を讃える展覧会に出品されました。

不毛の土地に粘り強く生きる植物に窮乏に耐える民衆を重ね合わせたと言われています。

多くの画家が鮮やかな絵を出品する中、反戦の意識を秘めた絵を描くことで精一杯の抵抗を試みたのです。

その後民次は妻の実家愛知県瀬戸市に居を移します。

戦争に批判的な人物として目をつけられたからでした。

当時画材は配給制となり、絵を描くこともままならなくなります。

それでも民次は反戦の絵を描いていたことが研究で明らかになりました。

それは一片の和紙に描かれた「戦闘機と男女」です。アダムとイブを思わせる二人。

女性が持ち上げているのは禁断の果実ではなく戦闘機。

戦時体制の中でも国家権力に対する抵抗の心を持ち続けていたのです。

1945年昭和20年、敗戦。

再び自由な表現を許されるようになった民次は堰を切ったように精力的な活動を始めます。

名古屋市内の放送局に飾られた壁画。

「芸術と平和」です。楽器やペンを持ち表現の自由を謳歌する人々。

メキシコで体験した絵で民衆と思想を共有するという理想を日本で実現させました。

一方で民次は抵抗の心も忘れていませんでした。

戦後間もない頃に描かれた作品。

上に描かれているのは酒と女で豪遊する男たち。

下には席にもつけない男たち。

戦後になっても変わらない格差を批判しました。

下で拳をあげているのは民次自身だと言われています。

画家は常に虐げられた民衆の側にあるべきだというメッセージが込められています。やがて時代が進むと民次は社会問題に目を向けていきます。

1960年。日米安全保障条約調印を巡って学生や労働者たちは大規模なデモを行い国家と衝突しました。

民次はデモに参加する民衆に心を打たれ、それを作品にしました。

「白と黒」です。

「僕は画家だからデモには参加しない。絵筆で抵抗するのだ」。

若い頃メキシコで絵画は社会を変える力を持っていると確信した北川民次。

その思いは日本に帰国しても変わらず、戦前戦後と国家権力への抵抗を試み続けました。

さらに民次は日本でも子ども達への美術教育に力を注ぎました。

戦後間もなく名古屋の動物園で野外美術学校を開きます。

教え子の平子芳徳さんは、自由闊達な授業を覚えています。ある日、民次が生きのいい軍鶏を持ってきて写生しろと言ったのです。

「シャモを二匹持ってきてシャモを放つんです。そうすると戦うんです。戦って、いまのをはいっていってしまって、今の一番印象のあるところを描きなさいという。それで、そうやって取り上げていきますから一人一人が興味を持つところが違う。それがその子の個性であり、その子がこれからより見つけていかなくてはならないことであって、磨きを掛けなくっちゃいけないところであって」。

しかし、日本の教育は自由とは逆の管理教育に進んでいると民次は感じていました。作品でそれを痛烈に批判します。夏休みの宿題を与えられた子ども。その背後から教育ママや校長先生、当時の文部大臣などが監視しています。無表情の子供の手元にはこんなメッセージが。

「宿題がないと子どもは何を考えていいかわからなくなるとラジオの先生が言いました。何が私たちをこんなにしたのでしょうか」。

反骨の画家・北川民次。絵でメッセージを伝え続けました。

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母子像

北川民次は84歳の時、代表的な在野の美術団体、二科会の会長に就任しました。

しかしわずか7ヶ月で辞任。権力への抵抗を続けてきた自分が権威になることを嫌い、一人の画家として生きることを選択します。

民次は晩年、これまで慣れ親しんだ油絵とは違った表現技法を模索し始めました。

たどり着いたのが版画です。

同じ作品を一度に大量にすることができ、多くの人々に思想を伝えることができると考えたためです。

その中であるモチーフを繰り返し描くようになります。

それはメキシコで生命力の象徴として親しまれているバッタです。

一体何を意味しているのか。

晩年の民次と交流のあった画家・堀尾一郎さんです。

堀尾さんは一匹では弱くとも束となれば強いというバッタの特性を民次から聞かされていました。

「突然送られてくるのです。さりげなく、こういうのができたよと送ってくださった。バッタは何か北川先生が自分の自画像だとおっしゃっていましたね。一番目立たなくて、地面を這って生きていて、しかも非常にたくましい。それが自だという意味なんでしょうね」。

弱き存在でありながらひたむきに生きるバッタに民次は、自分の姿を重ねていたのです。

晩年の版画集「バッタの哲学」。ここには教育にも熱意を傾けた民次の哲学が記されています。

それは未来のためには自由闊達な教育が今こそ必要だというものでした。 「未来に目標を置き現代を改造戦とする積極的教育を国家は恐れるのだ。人間の性情の成熟過程とは未来の社会の理想像を確立することである」。

絵画は社会を変えることができると信じた北川民次。1989年、95歳でその反骨の生涯を閉じました。

民次の生きざまの指針となっていた一枚の絵が親族の手によって大切に保管されています。

少女が静かに祈りをささげる姿。

それは民次が死ぬまでアトリエに置き、見続けていたという絵でした。

「これはぼくの心の中にずっとしみ込んでこの絵を手本にしなくてはいけない絵だってずっとそれだけは言ってましたけど、どんな有名な人が描いた絵なんですかって聞いても、うふふと笑うだけで言わなかったんですけど、ぼくには描けないよこんな純粋な絵はということだけは言いましたけど」。

絵の裏には民次のこんなメモ書きが。この絵、メキシコ少年フェルナンド・レエスの描くところ。わが一生の手本となす。

絵の作者はメキシコ時代に民次が教えた18歳の少年。

反骨の画家北川民次は、教え子に教えられたという謙虚な心を持ち続けた作家でもありました。

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