30年前、日本を訪れ人々を熱狂させたイギリスのダイアナ妃。ダイアナ妃には愛してやまなかった日本の作品がありました。自ら購入して執務室に飾っていた大正時代の木版画です。日が傾く頃の瀬戸内海。絶妙なグラデーションで表された海のきらめき。水面に揺れる舟の影まで驚くほど繊細に刻まれています。
作者は明治生まれの吉田博(1876~1950)。日本より海外で広く名前が知られています。西洋画の技法を学び見たこともない作品をいくつも生み出しました。一人目指した木版画の頂点。知られざる吉田博の魅力を紐解きます。
初回放送日: 2016年7月10日
日曜美術館 「木版画 未踏の頂へ~吉田博の挑戦~」
吉田裕の人柄を物語るものが東京・三鷹に残されています。
博の孫、吉田亜世美さん。博の遺品を大切にしてきました。
博士がいかに生涯風景を探し求めたのか。その執念を語るものがありました。
「これは博が球種を旅行したときのスケッチブックです。そのうちのこれは2冊です」
亜世美さんは生前の博に会ったことはありません。博が見た風景を通して祖父を知ろうとしてきました。
「すごく空気を感じますね。奥の方の山に向かって空気がちょっとひんやりした感じ。湿気を帯びたような空気を感じます」
亜世美さんが驚いたのは水の流れ。このスケッチブックから亜世美さんはどこまでも自然を愛し、一途に絵を追い求めた博を感じるといいます。
「自分もどこかの一つの岩に座っているのでしょうけど、もう岩と一体化している感じですね。よくここまでスケッチに書きますね。すべてのページにおいて。めくってもめくっても全部が細部に渡ってまで鉛筆で描かれている」
明治9年1876年に福岡県久留米市1で生まれた吉田博は山を登り絵を描いて遊ぶ子どもでした。18歳で上京します2。
当時西洋画を学べる国の学校はなく民間の私塾に入ります。*3日課は野外でのスケッチ。
博は誰も行かないような奥深い山中に足を運び腕を磨きました。
21歳のときの油彩画「雲叡深秋」。
冬を前にした渓谷に漂うひんやりとした空気が匠に表されています。博は新色以外のすべてを絵に捧げました。
塾で突いた異名は”絵の鬼”。
明治の後半日本の西洋化は急速に進んでいました。しかし、洋画家の未知はまだまだ狭く。本場フランスへの留学が必要とされました。
貧乏な学生だった博には留学は叶わぬ夢でした。そんな時幸運が舞い込みます。
博の作品は当時アジアの美術品を収集していたデトロイトの実業家・チャールズ・フリーアの目に留まります。紹介状を書いてくれたのです。
石にかじりついてもガラスふきをやってもとにかく自分の身体を日本の外へ出してしまえ。
片道だけの渡航費で、博は画塾の仲間と明治32年に渡米します。23歳のときでした。最初に訪れたのはアメリカ北部の町デトロイト。自動車産業の黎明期。活気にあふれていました。
美術館に書き溜めた水彩画を持ち込みました。すると予期せぬ反応が。
翌日の新聞に博たちの水彩画を絶賛する館長の談話が掲載されたのです。
絵はこの上ないほど魅惑的だった。伝統的な日本美術と違い遠近法を用い、大胆なタッチがあった。詩的な色の魅力にもあふれていた。
伝統的な日本の美術品を見慣れていたデトロイトの人々の関心を集めます。
このころの画風を伺わせる水彩画です。抑えた色で描かれた農家の風景。
画面手前をおおう水辺と空を覆う濃い霧。湿った空気がこちらにも伝わってきそうです。
館長の肝いりで急遽特別展が開かれました。博士は水彩画92点を出品。多くの人が集まり絵を買い求めました。
博士の絵はどのように評価されたのか。明治以降の日本の美術を研究するケンダル・ブラウンさんです。
吉田博は優れた水彩画の技術で日本の風景を捉えただけでなく、繊細で詩的な感性によって自然を描きとても話題になりました。
博士の作品は、日本や東アジア独特の「音の残響」のような自然の気配まで表現されていると高く評価されました。自然に対する深い哲学があるとされたのです。
続いて訪れたのは歴史と文化の町ボストン。全米有数の規模を誇るボストン美ジユ掴んでも特別展が開かれました。
二度の展覧会で水彩画の殆どが売れ、合計2919ドル。当時の日本人の年収の数十倍を手にします。
一躍アメリカで名を馳せた後、博は念願のヨーロッパへと渡りました。
各地の風景を油彩画で描き、技量を磨きます。
しかし、ヨーロッパの観光化された風景は博の目にどこか物足りなく映りました。結局世界各地を7年間に渡って旅しました。そして終生のテーマを確信します。帰国直後の言葉です。
画家は、自然と人間の間に立って、それをみることが出来ない人のために自然の美を表してみせるのが天職である。
博は日本の山に登ります。油絵の道具一式とテントや食料を背負って。ときには数ヶ月も山にこもりました。
目指したのはスケール感溢れる風景。その場所でしか感じられない光や空気までをも表そうとしました。しかしアメリカで評判だった風景画も日本ではあまり注目されませんでした。
日本画壇の中心は黒田清輝の率いる白馬会によって占められていたからです。
淡い色彩を特色とする明るい外光派は「新派」と呼ばれました。
博の色彩は濃淡の差があることから官僚的な色彩を持つ「旧派」と呼ばれる明治美術会の仲間として扱われたのです。
苦境の中一人の男が新たな道を博に示しました。版画の版元渡邉庄三郎です。
作品に光を当てたのは版画というメディアでした。大正9年(44歳)頃から新版画運動を進めていた渡辺木版画店から引き合いがありました。博は始めての木版画を出版し新境地を開きました。
これはアメリカで描いたグランドキャニオンの油絵です。
同じ風景を木版画にした作品。
木版画では岩場の陰影、はるか地平線まで見渡せる透明な空気を不思議な立体感で表現できました。博はその可能性にかけます。
私財を投じて工房を作りました。
通常は分業で行う彫りや摺りも自ら手がけるほど没頭します。49歳からの挑戦でした。
ダイアナ妃が買い求めた「光る海」をはじめ一年間で41作品を作り上げました。
博は繊細な水彩画の表現を木版画に生かす新しい技法を編み出しました。多くの人は版画だとは信じられなかったほどです。彼は美術の主流から外れていましたがその発明は先駆的で素晴らしいものでした。
自然の美しさを見ることができない人のために描く。剣岳の山頂朝の一瞬を刻んだ作品は自他ともに認める傑作となりました。
訪ねたのは吉田家の別荘です。熱海にあるこの別荘には版画のもとになる版木が残されています。
博の孫、吉田司さんに倉庫を特別に開けてもらいました。
極めて手間がかかる作業のため、博が亡くなった後、滅多に摺られません。
今回、残された版木を使って博の技の解明に挑みます。
再現するのは「朝日」です。奥行きを感じさせる木立の向こうにそびえ立つ富士。
画面右から光があたり、左側に微妙な陰影が付けられています。
作業を行うのは東京・世田谷区若林にある版画工房です。
司さんが木版画の制作を行っています。一つの作品を完成するまでに何種類かの版木を用います。
最初は”主版”とよばれる輪郭線だけの版です。
「緊張します」版画を摺る摺師は40年近くの経歴を持つ沼辺伸吉さんです。
「擦ってみないとわからないこともあるので。じかに描いて出る色と違って、木版を通した二次的な色になるので、非常に、どうなるかな・・・」
博が使った絵の具は十色。浮世絵のものだけでなく、明治以降新たに開発された水彩絵の具など厳選していました。
色は博の遺した指示書をもとに作られます。
いきなり取り出したのは赤。
一般的に輪郭線は黒一色ですが、この作品では赤紫、藍、黒。
調合した絵の具を直接”主版”の上に塗り、刷毛で伸ばします。絵の具の色を変えて更に塗ります。色を塗り終わると慎重に紙を載せ、右下から馬連で擦って行きます。
果たしてどう摺り上がるのでしょうか。
驚いたことに輪郭線だけでもいくつかの工夫がありました。
画面手前は太い線であるのに対し、画面奥の富士は遠近感を際だたせるため細い線でした。
さらに富士の稜線は朝日の当たる側を赤紫色、当たらない側を藍色で刷られていました。
次に”色版”と呼ばれる版木で少しずつ色を載せて行きます。
画面手前の景色が色づきました。しかしまだ平面的。
ここからが博の版画の真骨頂。
”ねずみ版”と呼ばれる版木の登場です。
「ねずみ版というのは影や陰影をつけるために作る版で、墨を水で薄めてねずみ色にして、それに少し藍を入れたりして影の表情を作るわけです」
「博の場合には、ねずみ版をいろいろ工夫して立体感や遠近感を表現しています」吉田司
下がねずみ版を加える前、上が加えた後です。木立の中に奥行きが生まれ、ぐっと遠近感が出ました。
さらに驚きの手法が。それは、同じところに二色を重ねるというもの。
「光がさしてきた空の色はこの色で決まると思いますね」
浮世絵の場合空は一色をぼかして摺るのが一般的です。
しかし博は違います。
まず、オレンジ色をぼかして摺ります。
そのあと少し狭い幅で緑のぼかしを重ねていました。
「大きなぼかしを重ねることによって朝の大気の表現をしているわけです。空気の奥行きだとか、湿りとか立体感とか遠近感とか、洋画の画報を浮世絵の伝統のぼかしを使って表現している」
再び”ねずみ版”。富士山に薄い影と濃い影。2つの影を加えました。
”ねずみ版”そしてぼかしの重ね。博は西洋画でつかんだ奥行きや立体感を半の摺りを徹底的に重ねる手法で生み出していました。
今回もう一つ摺りを試みた作品があります。
博自身が版木を彫った一枚です。
水の流れだけが画面を埋め尽くす究極の版画「渓流」。
流れ落ちる水の一瞬。勢い。そして水煙まで表現しています。
繊細でダイナミックな渦の動きを出すために博は彫りを工夫するところからはじめました。
曲がりくねりながら太さで強弱を表現することに挑んだのです。
この線だけで一週間かかりました。
硬い山桜の版木に苦戦したといいます。
「あまり大きくて硬いので、一生懸命彫ったために体を壊した。特に歯を痛めてしまったという話が伝わっていまして、特に奥歯を噛み締めながら彫ったようなところが、渦の部分を見ると感じられます」吉田司
ディレクター:井上元
取材:渡邊秀治
制作統括:村山淳/堀川篤志
制作:NHKエデュケーショナル
制作プロダクション オフィスラフト