日曜美術館「孤独と反骨の画家 菊畑茂久馬」

日曜美術館「孤独と反骨の画家 菊畑茂久馬」

1935年に生まれた菊畑は、早くに両親を亡くし、15歳で天涯孤独となった。戦後、前衛美術集団「九州派」に参加。現代美術界を代表する画家としてもてはやされるも、時流に乗ることを嫌い、その後、ほとんど作品を発表せず、“沈黙”した。「戦争画」に向き合い、自らの体験を元に「炭坑画」を描き後に世界記憶遺産に登録された山本作兵衛に師事。絵を描くとは何かを追求した。再び描き始めた菊畑がたどり着いた境地とは。

初回放送日: 2021年11月28日

 

日曜美術館「孤独と反骨の画家 菊畑茂久馬」


菊畑は時流に流されず独自の絵を描き続けました。
戦後、日本の現代美術界を代表する画家としてもてはやされながら、八十五歳で亡くなるまで福岡離れませんでした。
戦前戦中戦後の福岡を生き抜いた画家は、その目で何を見て何を世に問うてきたのでしょうか。


日曜美術館です
今日は福岡市の中心部大濠公園にある福岡市美術館に来ています。
木々が色付いてきてとても気持ちがいい地図です。
今日は福岡で八十五歳で去年お亡くなりになるまで活動をし続けた画家の菊畑茂久馬さんの足跡を辿っていこうと思っています。

戦後現代美術会を代表する存在だと言われながらも
中央の画壇には背を向けて地方から美術のあり方を問い続けてきた。そんな生き方をされてきた方なんですが、
小田さんご存知でしたか

茂久馬さんと言えば福岡筑豊の炭鉱で働いた人々の姿を描き、ユネスコの世界記憶遺産にもなった山本作米さんの絵を
非常に早くから評価されていた方だっていうことは存じ上げていました。非常に楽しみにしてます。

まずは菊畑茂久馬さんの生い立ちから見ていきます。

若者はどこを見ているのでしょうか。
その表情からは虚ろな孤独が浮かび上がってきます。
菊畑茂久馬。二十三歳の自画像です
幼い頃それからスケッチブックを持ち歩いていた菊畑。
この絵を描き上げた時画家として生きていくことを心に決めました。
長崎県五島列島の海です。
1935年長崎市で生まれ、三歳で漁師だった父を亡くしました。
たった一人で五島の叔父のもとに預けられたこともありました
母に手を引かれて初めて福岡に来たのは五歳の時でした。
母は住み込みで働ける仕事を探します。

母は博多の町をあっちに行ったりこっちに行ったり
でもどの店でもこのご時世ではね、子供がいたんではどうにも無理ですね
と断られているようでした。
私はその度に捨てられるかもしれない捨てられるかもしれないと、すがるように母の目を見上げていました

1945年。菊畑が十歳の時福岡大空襲に遭います。
200機以上のB29が雨のように焼夷弾を降らせました。
死者行方不明者は千人を超えました。
菊畑親子も地獄のような状況の中を逃げ惑います。
その体験は生涯菊畑の胸に刻まれました。

「それでねここにね。とにかくね。子供でびっくりしたのはね。この焼夷弾がね。
もうボコボコ突き刺さってるですよ川にね。
ヘアブラシのようにびっしり、もう満員電車みたいにね突き刺さってね。それを見てねあったうわと思ってね。
それで歩いていった記憶がありましてね。ここだけが落ちたからって落ちてたからって言うんじゃなくて
全部落ちてた訳です。川だったからたまたま残ってたんだ」
焼夷弾に追われるように飛び込んだ防空壕の中での母の記憶。

長い長い恐ろしい時間でした。
母はただの一度も防空壕に入ってきませんでした。
外に出て防空壕を見てびっくりしました。
壕の上には家中の布団、着物、座布団、果ては枕まで水浸しになってうずたかく積み上がっていたのです。
母は焼夷弾の直撃も恐れず、私の命を守るために空襲の間中、壕の上に布団を被せ、水をかけ続けていたのです。

懸命に命を守ってくれた母。
敗戦からわずか五年後に癌でなくなります。
十五歳の菊畑は戦後の混乱の中をたった一人で生きていかなければならなくなります。

天河。

福岡大空襲を思い起こさせる作品です。
何者をも焼き尽くす炎と優しかった母の記憶が塗り込められています。

 


うんうん母ちゃん母ちゃんと何十回
何百回呼び続けでたか分かりません
ああここで蒸し焼きになって
死んでしまうんだと思いました
その時ぶるぶる震える手で
そっとズボンの
お尻のポケットを触っていました
このポケットには母からもしお母さんが死んだり
二人が離れ離れになった時は
糸をほどいてポケットの中を開けなさい
お前には身寄りがないから死にそうな時は
このお金で何とか食いつないで
生きていきなさいと言われて
お金を幾重にもロウガ味で包んで
しっかりと縫い付けてありました
ええああああああうんこれは大きいですね
本当に大きい作品ですね
ちょっといいですか存在感がね
すごいこうありますよね
なんかあのあとこう
赤いものが垂れてるのかと思ってもみたら
黒いものもたれっていうか
赤と黒がこうやっぱりこれはなんかこう黒いね
背後に闇がすごい深い闇があって
その闇の前にこうなんか
血の雨が降ってるよそんな
風にも見えますけども
ちょっと怖いですよね
では本日のゲストをご紹介しましょう
福岡市美術館学芸員の山口洋三さんです
よろしくお願いいたします
山口さんは聞く
機木馬の研究もなさっているし
菊畑さんとはもう十年以上深い
お付き合いをされて
あの二千十一年に回顧展を開催したんです
けれどもまその前後ぐらいから
非常に親しくしていただきました
まこの今私達の背後にある
こう点が点がという作品が凄い
迫力のある作品だなと思って
ま僕初めて拝見したんですけど
ま衝撃を受けました
興味深いなと思ったのが作品にしたのが
まあ六十を過ぎたっていうことは
非常にこうある
興味深いずっとそこまでその時間を作品化
されるまでに
その時間が必要であったのか
っていうようなことはそうですね
おそらく必要だったし
逆に時間が経ったからこそ
あの表に出すことができるようになってきた
あ戦争体験というのは
この世代の方々にとって
あの某か非常に大きな影響を与えています
よねだからそれを
単に悲劇的に書くのではなくて
やっぱりお母さんと一緒に過ごせた
実は菊池さんのお母さんが
かなり早くなくなってしまうんですけれども
早く亡くなってしまったっていうことも含めて
やっぱりその押さなき
日にちの母親と過ごした記憶が戦争っていう
非常に極限の状況の中でより輝いて
見えてくると
それが時間を達成するやって
どんどんどんどんその輝きを増してくる
っていうことなんじゃないかな
という風に思います
作品として持つこう力って考えた時に
このなんていうんですかね
こう僕最初はあの一瞬
これなんかキャンパスじゃなくて
なんか昨日行ったら
でもこうぬを縫い付けてるんじゃないか
っていうぐらいこうなんかすごいこう
あの物質感っていうんですかね
その塗料の持ってる物質感とかその絵
が持ってる子それ自体のこう
あの存在感というものに
こう圧せられたんですけども
これこの書き方っていうのはいかがですか
物質的な感じっていうのは
骨の中で非常に飢渇さんにとっては
やっぱり大事なんですね
そのことは非常に
その晩年の作品まで保持し続けたという
あの種調べたいものっていう意味ではなくて
やっぱりその中に記憶も含めてものも含めて
色んなものを乗り込めていけるっていうふうな
思いじゃないかなと思います
ではここで聞く機も
熊が戦後は
どのようにして生きていったのか
見ていきます
菊畑も熊の妻春子さんです
うんここに足場を組んでね
そしてあの上に乗って
音楽聞きながらクラシックが
好きでしたからね
私と同じような音楽がすっきりしてからでも
仕事場で見せませんから
外からごはんですよ
っていうぐらいで聞く機は二十歳の頃
福岡市のデパとで
客の注文に応じて
投機に似顔絵などを書く
仕事をしていました
そこに偶然気合わせたのが
中学高校の同級生だった春子さんでした
似顔絵であれ何であれですね
お客に頼まれたことを瞬時にして見抜いて
それを書くというねなんか凄い技
この人は今
解いてるねと思ったんですけどね
それがもう見たら角見たら格ですね
それはあのときに
ものすごい収斂をしたと思うんですよね
だから私のような遊び半分の人間なんかはね
飛ばされてる訳ですけどね
千九百五十九年
三宅葬儀が起こりました
三井三池炭鉱で会社側が大量解雇通告
これに反対する労働者側との間に起こった
戦後最大の労働争議です
ええはいその少し前
福岡市で反対する星旦芸術を掲げる
前衛美術集団九州はが結成されました
二十二歳の菊畑も加わります
紅開いたニコルたるをぶちまけた絵など
福岡県庁の壁に掲げたりもしました
ああ元九州はの画家斎藤秀三郎さんです
同じ聞く機の作品の斬新さに
とても驚いたといいます
これですねこれが私の最も感動した作品で
これ最高にですね
もうこれを見た時にですね
もうやられたというかもうびっくりこいて
千九百六十一年に聞く機が発表した
オブジェ奴隷気づ正規に見立てた
二本の丸太に
五円玉をぶちまけ
性や金といった欲望に支配される
現代を風刺しました
現代の体制に対する反対とか
今までの京子強国とか絵画というような
それを打ち壊そおと
そしてもっと自由につくろうじゃない
かいうのが反芸術なんですよね
ちょうどその時その頃を見たのは
逃走もあったもんですからね
右手の倒そ戦うという意味においては
全体が底上げされとったからだから
九人が戦うということは
悪いしやすかった面もあったので
福岡千九百六十四年
二十九歳の時に発表したルレット
なんばは幾何学的な図形に
ガスコンロの一部など生活廃品を貼り付け
ものに振り回されさ
れる現代を捉えました
ルレットシリーズはアメリカでも展示され
高く評価されます
はいええ千九百六十五年に出された
海外に日本を紹介する雑誌
ニュージャパン聞く機は
戦後日本の現代版技術会を代表する
十二人の一人として紹介されました
ああですよねええうん
ああ聞く機のルレットは
若者の目的のない探究心で
行くあてのないやのように
黒シック回り続けている
はいこれはペソからよみたいな
美術評論家の沢良宜の李さんは
聞く機の作品は
既存の美術の枠組みに収まり
きらない力があるといいます
でこれはさ制作し再制作したルレットって
もともとこう厚みのない記号ですよね
このる十万自体は
ちょうどこの頃はアメリカでもポップアート
が盛んになる時代なので
そういう記号的な要素を海外の中に盛り込む
っていうのは
アメリカでも随分見られる傾向だった
と思うんですね
でこれもじゃあ
ポップアートの一種類
っていうふうに
位置付けることができると思うんですが
でもそういう風に位置づけた時に
どう逆にこう違和感が
あの出てきてやっぱり凄くこう
そこからはみ出すものですね
この子は凄くこの荒々しい機能
使い方とかあそこに貼り付けられている
あの意味の推し量れないこう
魔術的要素というか
一種野蛮と言ってもいいぐらいのこう
むき出しのこう力強さっていうか
そういうのと非常にこう抽象的で
洗練された記号性みたいなのが
何とか激突感
っていうのはあるかもしれないですね
うん千九百六十年代後半になると
時代は国を挙げて大阪万博に向かい始めます
うん国や企業が
芸術に大量の資金を投入していきました
聞く機は芸術が新しい技術や素材によって
商品化されていくように感じました
はいええこうした時流に乗ることに聞く機は
違和感を覚えます
その後長きにわたり
ほとんど作品を発表しなくなります
その間聞く機にとって
避けて通れない作品
との出会いがありました
あーはい千九百七十年戦後
アメリカが摂取していた太平洋戦争の戦争が
百五十三点が日本に返還されました
しかし戦意高揚を煽り
戦争に加担したへとしてタブー視され
当時一般には公開されませんでした
誰もが論評を避ける中
聞く機はただ一人正面から向き合います
うん熱と玉砕
千九百四十三年
アリューシャン列島の熱島で全滅した日本軍が
最後の突撃を行った場面が
描かれています
書いたのは
藤田つい春戦時中率先して軍に協力し
多くの戦争がを手がけました
戦後は一転避難を終わり
最後は日本を捨てフランスで亡くなりました
ええはい聞く機は藤田つい春の足跡を追い
画家にとって戦争がとは何だったのか
表現とは何かを考察しました
最初に雑誌で発表した後に
藤田を眠るという本にまとめました
藤田が戦時中の画家のありさまと
全戦争がの批判を
一身に受けているのである
文多くの画家たちが
単に戦争の絵を書いたのに反し
藤田の画面だけは終始して
嗜虐的に対象に食らいつき
ここぞとばかりに狂ったように
地獄を這いずり回るのである
ええはい聞く機は
熱が玉砕は
プロパガンダを超えた名画だ
と考えてありました
うんこれはもうは明らかにこの人間がこのえ
こういうこの売れるようなあのところで下瀬む
あのなんか一緒にどろどろに溶けなごんだような
ところでこの何て言うかな
こんな本来持っている業みたいなものと
それから崇高な一つのこうなんか
祈りみたいなものが生まれてくる
いいと思い
ますねええをこの記録に残すだうん
そしてみんなにも見てもらって
船員雇用でねえう
戦争に協力するんだっていうような
そんなことなんかも突き抜けているからね
突き抜けているからえーと
やっぱり絵描きなんですよ
聞く機が自らの作品を発表せず
沈黙していた時
もう一つの出会いがありました
福岡県の筑豊地方で
炭鉱の絵を描いていた
山本作兵衛さんです
唯一の子として作兵衛さんを慕い
画集を編纂するなど力を尽くしました
それは後に
日本で初めてのユネスコ世界記憶
遺産登録に繋がっていきました
尺米さんが炭鉱で働いていた明治から
昭和の時代日本の急激な発展を支えたのは
石炭でした
しかし千九百五十年代後半から
主体が石油に移り
筑豊の炭鉱は
次々に姿を消していきました
作米さんは閉山していく時代に
記憶の中の炭鉱を
二千枚とも言われる上に書きました
時代に切り捨てられていく
炭鉱労働者たちの姿を書き残したのです
当時作兵衛さんの絵は季節だとして
評価されていませんでした
しかし自らの体験を元に
千のそこで必死に来た人々の姿を描いた
作米さんの絵に
聞く機は絵画の本質を見たのですが
この人物みたいな
こういうふうに足で踏ん張ってですね
こういう風に腕をねこういうふうにしてね
腰に力を入れないと
こういう仕事ができないんだ
というそのそれを一生懸命書いてありますね
だからこれがこの単に人体の美しい
あのあるべき姿みたいなものに頓着しないで
この労働のね一番働いてる人間のそのこの有様
そのままが書かれてるから
とてもこうなんか見ててね
あってこう抱きしめたいような
感じになるんですよだから
これはね咲く米さんが
ありとあらゆる人たちのこの何ていうか
あの生命っていうか
そういうふうなものに対して
猛烈にこのあったかいものがね
あの作兵衛さんの中にも
沸騰してたんだろうと思うんですね
だからそういうものさえあれば
あの下手な絵だとかね
あの上手な絵だと関係ない
と思いますね
今ここにある作品は聞く
畑さんが現代美術会のま
代表者になるんじゃないかと言われた
非常に注目をあつめた作品ですよね
これルレットっていうことですけど
ルレット自体が書かれているのは
ここら辺とその上幾つかで
あとはなんかすごいね
あの生活生活感がにじみ出ている
ようなコンロですか一番でしょうね
きっとコンロだと思いますね
あの要するにこう
非常にその高尚な芸術っていうよりは
ものすごく卑俗な
日常をてまにしている作品じゃないかなっていう
そういうことを思わせますよ
あのインターナショナルな見地から見ても
あの国内のその際
最先端の美術状況から見ても
これがこれこその現代美術だ
と思わせるよう
なものになっているわけですよね
つまりもう言ってみれば
彼は田舎にいながら時代の寵児になった
っていう人これからどんどん行くぞ
みたいな感じになるんだけれども
彼は決してそうはしなかったんですね
むしろ厳しさを返すような感じで
のこういった作品は
だんだん作らなくなったいくわけなんです
つまりうん
あの後土地に根差しとか
あのやっぱり自分の生活の中から
作品を制作するってなった時に
織田学的なリューギっていうのは
そういうものを一回断ち切らないといけないもの
ですからそれができなかった
っていうことなんじゃないかなと思いますね
できなかったしやりたくないやりたく
ないけどうんもうちょっと
自分の中にある必然的なものから
作品を作りたい
そういうものを
やっぱり探して
らっしゃったんじゃないかなと
その表現者として
じゃあもだとじゃないかもしれない
と思った時に
新たな何か画題を見つけるのではなくて
今度は戦争がをこう紐解くような
全く違う方向に行きますよね
戦争がの中でも
なぜ藤田の戦争がということに
こう惹かれていったんですか
あの後も言うんですね
聞く和田さんはもう藤田は戦争が一番凄いと
それ以外は凄くないと
そこまで言うほどなんですね
特にあの熱統御臭いとか
言わば玉砕死闘図と呼ばれているんですが
ここに注目するんですね
あれをその書かせたものは
一体何なのかっていうことなんですよ
つまり明らかに
あれはあの軍部の要求軍部の要求ですとか
あの世の中の二頭っていうものからは
はみ出てますよね
そういうこう突き抜けた感じですよねえとして
突き抜けた感じっていうものを
それを木方さんはきっと嗅ぎ取っこれこそ
ここにこそ藤田の表現の本質がある
という風に思ったんだと思います
だから藤田は
あの戦争がっていうことを
注文されたかもしれないけれども
結局自分がやりたいもの
を書きたいものをその自分のある種
その画家としてのその声っていうんですかね
その自分の中には
それにこう応ずる形で変えたっていうこと
なんですかね恐らくそうだと思います
なんか内面の妄想って言っていいと思うんです
けれども日本作兵衛さんとも出会って
そのそこにこう
ある種大きな何ていうんですかね
感動を覚えるってことがあったわけですよね
あの聞く和田さんが
現代別の第一線から降りた一番大きな理由は
山本作兵衛さんとの出会いだったんですよね
はいそれを聞く和田さんが見た時に
一体これはえーっとは何なんだろう
っていうことを
突きつけられた後にまた戻るうん
そうだねとは何だろうって
その絵を描く画家って何なんだろうっていう
そういう根源的な問い方
問いを自分に突きつけられてきたわけ
つまり現代美術の世界人間から見て
あの山本作兵衛っていうのを
どう理解したらいいのか
っていうことだと思う
んですよだけども
見たら心が触れる訳ですよね
その北端さんは
そのそこにある命の力みたいに触れて
圧倒されちゃうわけですよね
やっぱり非常に
各党があったと思うんですよね
ご自身の絵をどうしていくかということと
もう一方で戦争がとか山本削減
どう理解したらいい
のかっていうことを
この両方をやっていらっしゃったのが
あの千九百七十年代から八十年代
初頭にかけてになりますね
はいうんはいうん
およそ二十年
沈黙菊畑も
熊は再びキャンバスに向かい始めました
あのうんうんうんうんはいうんうん
うんええええええありがとうございます
ありがとうございます
ありがとうございますはい
はい千九百八十三年四十八歳の時
東京で古典を開きます
はいそっかはい天動説
地球を中心にして
他の天体が周りを回っているという
誤った雪の名前をあえて付けました
キャンバスの平面気を貼り付けています
ええはいオブジェット平面の絵画が
せめぎ合っているような
何かが生まれ出てくるような
作品に仕上げました
ええうん天動説っていう名前を
最初の作家がシリーズに
こういう名前を付けたっていうこと
はい時代錯誤的であって
中央のやり方とは全くずれてるんだけれども
だけどあえてそこどんでん返し自分こそが中心で
その自分が中心に世界でもある
これは天動説ですよね
そういう名前を作品に付けたってじ
自分こそ自分っていう
存在自体が一つのジャンルだっていう
あの一種の方短歌起きる感じですよね
そうそういう意識の読み取りますし
そういう子孫は
やっぱり福岡にいなければ
できなかったんだろうと思います
うん聞く機は
常に自分の内面と向き合い続けていました
ええうん一連の海をテーマにしたえー
キャンバスの向こうに
漁師だった父の姿を
見ていたのかもしれません
うん聞く機は七歳の時から二年間母と離れ
長崎県五島のおじに預けられました
そうだね私はまだ泳ぐことができなかったので
おじさんの方に必死でしがみついておりました
が涙で濡れた小さなほほ海水が新次第に
このままこの美しい海に沈んでも
ちっとも苦しくない
というような気分になってきます
それで手をふわっと話してみたりして
おじさんをびっくりさせたりしました
そんな時浜に揚がったおじさん
今はしばらく私を
じっと抱きしめておりました
はい僕はね
海の中でねぱっと手を話すんだよねって
そしたらおじさんがぐっと足を引っ張ってね
しっかりつかまってるよっておっしゃるって
僕はそれが悲しかったって言いますもんね
このままバット話したらね
僕は海の中に
消えていってなってしまうような気がした
よって言いますもんね
それはそういうやっぱり孤独というか
寂しさみたいなそういうこと結びついてますよね
預けられるっていうことが凄く嫌だったから
あの海に溶け込んでね
自分はもうどこかに
行ってしまいたい
と思ってたと思うんですよ
何遍聞いても
私はかわいそうだなと思う訳ですよ
何でも話してくれましたけどね
去年五月菊畑も
熊は肺炎で亡くなりました
聞く機を偲ぶ展覧会に
妻春子さんと長男
たくまさんの姿がありました
難しいやっぱりね
ほいよいよ
会場の最後に飾られていたのは
七十五歳を超えた
晩年に書いた突風です
うんはいはいああ
それまでの重く
暗い色調の絵とは
全く異なった作品でした
うん荒々しい大海原を超えて
穏やかな春の風が
吹き抜ける風景に辿り着きました
ええああやっと青空が欠けたね
って言いたいですね
やっとあの人
青空なんて書くような
人じゃないですからね
やっとここまでたどり着いたねっていう感じ
自分を救われてるんじゃないですか
あの青ね書いて青いパクス書いてますけど
あのあお青は自分がいかに孤独であって
悲しいものとかっていうのを書いてますけどね
ここの泡も突き抜けてますでしょ
はいだろうと私は思ってますけどそう
じゃないかもしれないですけれどもはいええうん
うんこちらの絵を描かれるアトリエですね
随分きれいですか本当そうですよ
いつ来てもきれいでしたね
うんこれはこちらにある作品は
この青い作品が
あの舟歌船う
作品のシリーズのうちの一点ですね
うんああすごいですね
盛り上がってるそう
すごい近くに
さっきの絵の具のこの本当に典雅にもあった
絵の具の塊から
こちらがごつごつ点がよりもうん
でもなんか海底の岩みたいにも見えますよね
寝てるところが
海の底のを描いたって言う
風にも読めますし
こう波打つ感じにも見え
ますよね
これが点が恐らく
あのご自身のお母さんに関する作品であって
この海はあのお父さんじゃないかなと聞く
和田さんのお父さんって聞く
和田さんが三歳の時になくなるんですけれども
だからほとんど記憶ないと思うんですけれどもはい
あの徳島で両親をされてたんですよね
あと海もう
一つはあのき
桑田さんが小さい時に預けられていた
後藤列島長崎県
長崎県の後藤列島のあのその記憶の風景の記憶
自分ご自身が育てられて記憶でも
ここにはお母さん
いなかった訳なんですよね
だからやっぱり幼少期の記憶っていうものが
まあのある種年齢を重ねた聞き方
三の中からこう蘇ってきて
でそこういう形で決意してきたんじゃない
かっていう普通の人って忘れないんだけども
それをこう毎日のように思い出すとか
何かしら形に残すとかいうことまでは
やっぱりされ
ないと思うんですよ
でも聞く和田さんは
そういえば画家としてそれを引き受けることで
こういう対策を描き続けるっていうで
その記憶を常にこう保ち続けていく
そうすることでもう早くになくしてしまったけれども
こういう作品を描くことで
うん早くなくしてしまった
ご両親と一緒にいる
ことができるんじゃないかな
という風にもあの受け止められますよね
こういう感じのものを
まあお書きになった時期があった一方で
この後のシリズって
ガラッとまた画風があー変わりますよ
はいあの親父という題名の作品ですね
あの二千十一年の
あの回顧展に出品していただい
た作品ですけれども
がらっと変わって分かる
悪くてあんまりこういう没後して
間違いなくなって
あのどっちかというと一緒にこう軽やかな本当に
その春の河川作品を描いているんですね
もうこの変化に僕もびっくりしました
高めて言うとこの舟歌
それから先程典雅の時は
まだ何かと戦ってる感じで何かに対してすごくこう
戦いを仕掛けてて
あのすごく戦闘中のイメージはなんですけど
それ以降の作品って
もうそういうことが終わって終わって
別の境地に辿り着いてるような
そういう雰囲気は思ってるんじゃない
かなそれ常にやっぱりこう
自分を変革しようとした
っていうことでもあっただろう
それがもう七十後半から
八十歳にかけてのことですから
だからその飽くなき海岸追及っていうのが
本当にあの最後まで続いたんだ
というふうに思います
金がね私は感動する家というものには
一つの歴然たる命が宿っているものだ
と思ってきた
画家は全生涯をかけて
いかに自分なりの美しい命のあちをかけたか
それを主語に問われる
それゆえに一転
天に全力を雪がねばならない

菊畑茂久馬をAmazonで探す