日曜美術館 「 朝倉摂 がいた時代」

朝倉摂

日本を代表する舞台美術家・ 朝倉摂 (あさくら せつ、1922年7月16日 – 2014年3月27日)。その死後、アトリエの物置から大量の日本画が見つかった。それは朝倉が若き日に情熱のすべてを注いだ作品たち。高名な彫刻家・朝倉文夫の長女として生まれ、日本画家・伊東深水に学び、絵画の道を歩み始める。しかし40代で日本画から舞台美術の世界へ活動を移してからは、生涯画家時代のことを語りたがらなかった。朝倉を慕う演劇人・渡辺えりが、残された作品に迫る。

放送:2022年10月9日

日曜美術館

「社会的に相当鋭敏な感覚を持ってらっしゃる方だと勝手に思ってましたね。摂さんと私が仕事してた時代は、古いものはダメだっていう気持ちがどっかにあったんですよね。もちろん伝統芸術の優れたものが日本がいっぱいあることはわかってるんだけれども、なんかそれでは飽き足らなくて、もうちょっと違うもんを世界的に展開できるんじゃないかという気持ちがあって、それが一種久創作のエネルギーになっていたんだと思うんですが。今かんかそんなエネルギーが拡散してしまっている感じがしますね」(谷川俊太郎)

2014年。一人の舞台美術家がその生涯を閉じました。朝倉摂。91歳で亡くなるまで時代の最先端をいく独創的な舞台装置で演劇界をリードしました。

「リア王という芝居で、空が縦に割れるセットの欲しいといいますとですね、ものすごい鉄骨で組んだドームみたいなものが出てくる。打合せしているのと全く違ったものが出来上がってくることもありますし、セットに負けないでこっちも新しい事考えてやろうって、一緒のプロレスをやってる感じです」(蜷川幸雄)

数ある摂の代表作の一つ。「近松心中物語」。常に予想の上を行く確信犯的な過激さが信条でした。生涯に関わった舞台は1699本以上。新しい発想と新しい挑戦。前だけを見た人でした。

「私はね本当に悪いんですけどね、思い出ってもの信じない人なのね。なぜかというと思い出っては、ある部分ではとてもよく育まれすぎちゃってね、思い出に浸るとなんかすごいセンチメンタルなことに今なってね、なんかそれ大事にしたいそれ結構だけどもね、やっぱりそれよりその先の方を見つめてるほうがね、私にとってはあの時こうしたから今があるんだみたいなことだって、今やってるから先にあるんだ。私は自分の好きなことしかしないって心眼です」

朝倉摂と日本画。

摂の死後、主を亡くしたアトリエからあるものが見つかりました。朽ちるままに放置されていたのは大量の日本画です。なぜ摂は物置にしまいこみ、その存在を家族にも知らせずにいたのでしょうか。

「私はタブローに未練はありませんという風に、にべもなく断られましてですね」
「昔の言葉で、あんまりほじくり返さないでほしい繰り返さないことにしてるからあの諦めてくれ」

舞台美術家として知られる摂が語りたがらなかった過去。それは朝倉摂が日本画家として生きた若き日々でした。戦争があった時代。貧しさに向き合い明日を探した時代。変わり行くことが正しいと信じた時代。時の流れの中で彼女が見た景色とは。隠された日本画が語るもうひとつの朝倉摂の物語です。

「朝倉摂がいた時代」

朝倉摂を慕ってきた演劇人渡辺えり。

「これを今1974年か・上京してきたのが1973年だからジュリーが出たんですよ」

若い頃から朝倉の舞台を見続けてきました。

「お金ないのに、ご飯食べずに芝居見てたね本当にこの美術面白かったなあ」
「二十代の頃から私のを主宰する劇団の芝居を観に来てくださって、最初面識があのない頃から、電話ですぐ朝倉だけど、これやってくんないからっていうような、橋渡しをしてくださる方で昔の演劇は本当に男性社会でしたから。だから朝倉摂さんも頑張ったんだからっていうようなあの心の支えでしたね」

この日渡辺は初めて朝倉摂の絵と対面します。生誕百年。20代の朝倉摂です。

「若いこの頃全然お会いしたことないです」
「ちょっと洋画の影響もありますよねこのへんマチスみたいな感じですよね」

この辺、二十歳の時に妹をモデルに描いた作品。傍ら名は赤いガーベラの花と青い絵付けの花瓶。洗練された色彩とモダンな構図が都会的な匂いを感じさせます。

「これは日本画」

農家の娘たちを描いた同じ時期の作品。渡辺は女性の格好に興味を持ちました。

「これ山形。これうちの母親たちの格好ですね。これハンコタンナじゃないんですか」

ハンコタンナは渡辺の故郷山形の風習。

「庄内地方の感じに似てますね。昭和28年ぐらいの作品なんでしょうね。戦時中戦時中。山形じゃないかもこんな豊かな感じじゃなかったからね山形は」

生い立ち

朝倉摂は1922年。大正11年。関東大震災の前の年に東京谷中で生まれます。父は著名な彫刻家で美術界の重鎮・朝倉文夫。経済的にも社会的にも恵まれた環境で何不自由なく育ちます。第二次世界対戦が始まった年に17歳で日本画の巨匠伊東深水に入門。世の中が軍国主義一色に染まる中、ひたすら日本画に没入します。19歳で文部省主催の新文展入選。戦時下にあって摂は画家としての才能を花開かせます。

「日本語には美人画の流れがありますよね
伊藤深水なんかも美人画の画家として知られるんですけれども
その先輩方の絵と違うんですね
実はこの絵のはあの特色っていうのは
見てもわかるように明るい色彩ですよね
戦時下の悲惨さとか感じさせるものではなくて
むしろ明るくハツラツとした感覚っていうか
新しい表現なんです。
実は銃後の生活のリアルなそれを決して暗く書かない
はつらつとして顎っていうところが声あげるぐらいアバンギャルドなんですよ」

そして迎えた終戦
新しい時代の到来のなか摂もまた新しい表現を求め動き始めます
当時の摂の手紙が残っています
前略妹をモデルにして書きました
着物の色はオレンジで帯は黒の所へ、白と緑、朱などで花がらを書きました
まだまだ未熟な絵で一生懸命書いたつもりでも、
出来上がってみたら実に下手で、会場に飾ってある絵は恥ずかしくて見ていただくのは
心苦しくあった次第です

もっと新しくもっとアバンギャルドに
明るかった色彩は影を潜め
暗く重々しいトーンに
題材も働く女性が暮らす母子寮や
日雇いの仕事で暮らす母と子
社会の底辺で生きる人たちを描くようになります
転機となったのは親元を離れて暮らし始めたことでした

朝倉彫塑館

摂の生家
東洋のロダンと呼ばれた朝倉文夫のアトリエ兼住宅が当時のまま残っています
天上の高さ8.5メートルのアトリエ
大型彫刻用の電動昇降台
この設備を置くために当時は珍しい鉄筋コンクリート造りで建てられました

住居部分は贅を凝らした数寄屋造り。町を見下ろす彫刻が鎮座する屋上には季節の草花や野菜を育てる大庭園。弟子たちのデッサン修練の場でもありました。三つ違いの妹。芸術家一家の美人姉妹は注目の的でした。そのファッションや私生活を女性雑誌が特集するほど。しかし、摂の中ではあまりにも大きな父の権威や取り巻く美術界への反発が生まれます。

「祖父は文化勲章をもらった時かな、天皇陛下が家まで持ってくる嘘だって祖父の家に赤い絨毯を敷き詰めてて、天皇は靴を脱ぎにならないって言った時に母は怒ったらしい人の家来るのに靴脱がないなんてなんだ。家自体がそういう家じゃないですか美術界っていう音を大きなものがバックにあって、周りでよく知ってる人たちがあればお嬢様お元気ですかとかってくるわけですよ
絵を書くのは好きなんだけどあの世界が嫌だって言ってました」

家を出る前、摂が美術誌に投稿した文章です。

「日本画の世界はある一部の人たちを除いてはあまりに前近代的であるからです。それではいかにしたら私達のジェネレーションがその危機を脱皮し存続させ前進させることができるでありましょうか。」

摂が目を向けたのは西洋絵画。キュビスムなど最新の芸術表現でした。今ピカソが書いていると思うと夜も眠れない。新しい日本画を切り開く模索が始まりました。

三十一歳の時、摂は期待の女流画家に贈られる上村松園賞を受賞。雨の中表情なく佇む労働者たち。それは同時代の人々の暮らしをリアリティをもって表現した新たな日本画でした。しかし、そのリアリズムに画壇から厳しい言葉が寄せられました。新しい思想と技術を全部盛り込もうと欲張って意欲で弾けてしまった失敗作。失われた内的変化暗く描きすぎて明暗の工作で生まれるはずの風刺が流れてしまったそして摂が心を寄せた労働者からも絵を書いていると思い石を担いだ人が上がってきて、絵描きさんはいいなというあんな好きな絵を書いていられるからなという声が聞こえた父からの援助を一切断ち、自分の足で自立しようとした摂に突きつけられた厳しい現実でした。

「自画像じゃないですか朝倉さんにそっくり顔が。自分ですよね絶対
私が知り合った朝倉手伝う感じです」

雪は試練の中で模索を続けます

「考えてるんじゃないですか。これからのことを行き方を」

摂は自分も社会も変われると信じていました。画家仲間と向かったのは東北。常磐炭鉱。明治以降重要なエネルギー源として経済発展に尽くした石炭産業は過酷な環境で働く労働者に支えられていました。時は、石炭から石油へのエネルギー転換期。炭鉱を掘り下げた時に出る岩石を積み上げたズリ山は廃れゆく炭鉱のシンボルでした。

「あれ思っちゃいました。福島の原発事故の後に黒いビニール袋が大量に積んでたのを連想しちゃった何とかならないのかっていう風に思ってたんだろうねだからこれを書いたんでしょうね摂さんはね」

「朝倉さんの作品はねほとんど正面ですよねこれ真横から同じ地平に立って同じ視線で炊くっていうことをあのどっかで決めたんだと思ってますけどね焙煎によってね精神的に開放感っていうのみんな思ったんだと思うんだけれどもさて一般的な生活はどうかって言うとまだ銀行の中にいるようですよね悲しみを抱えていたりも代理たり生活苦にあえいでいたりって言う人達それこそが課題として書くべきもの書かなければならないものだということですかで決めたんだと思います。」

芸術家として今を生きる摂の決意でした。世界は変わると信じた時代。町では日米安保条約の改定をめぐる反対運動が盛り上がりを見せていました。摂もその渦の中心にいました。

本当に平和への祈りでこれもはや戦後ではないと経済白書が歌った年に描かれた作品。
摂の絵は安保闘争を体験しよりメッセージ性を強めます。経済成長を迎え変わりゆく日本の姿を摂は冷静に見つめます。

地方にあるんで労働者階級を見てはっぷんしたわけですから
でこのを反映する労働者たちの苦しさ
みんな恋人たちの犠牲の上に立ってるんだってことを
しっかりこう書こうとしてますよね
これ物凄くこう社会派の会ですよね

東京タワーができそうだった時代ですからこれ

この年に竣工した東京タワーの足場から落ちる人影下には占領軍兵士と日本人との間に生まれ捨てられた孤児たち。当時深刻な社会問題でした。1959年摂はウィーンで開かれた国際的な平和運動の集まりである人物と出会います。黒人差別と戦う歌手で政治家のポールロブソン反対派の妨害で伴奏が途切れる中アカペラで歌い続けました。その歌に感動した摂が描いた一枚。1960年この作品は国立近代美術館に展示されます。しかしこの年の1月29日です分かりました
私はポールロブソンの絵を書いて日本画をやめたんですが
新たな活動の場としたのが舞台美術という仕事でした。摂は安保闘争などを通じて演劇界と関係を深めていました。きっかけとなったのは戦前のプロレタリア演劇の流れを汲むぶどうの会の舞台でした。

「最初は木下順二の会計士館上映してない曲があるんですよその時にせっちゃんの装置だったんですよそれもなんかあの例の名は終わったんで出て行こうとしたら出るとこがないのでそっからハサミ持ってきてねここから出てるんですよそういう感じの人が僕もですが9月になってねなんかこれならそうしている舞台装置かが多かったからやりにくいことがあったら言っちゃうから言えばあばと自分が作ったものを簡単に切ったり壊したり外したり本当になんか普通だとかでもこれは後があるじゃないすか全然ないもう本当にぱっぱっぱっぱ。」

日本画を書いていた時とは全く別の顔の摂がそこにはいました。
若き才能が集い急成長していた演劇界も大きな刺激を受けて、つー舞台美術にのめり込んでいきます。摂の美術は評判を呼び瞬く間に第一線で活躍するようになりました。良いセットでしたね
時代の寵児としてある華やかなスポットライト。
しかしその陰でこっちはまだ残ってるんで大きいのがこれもまだお嫁入りしてない摂は絵を書き続けていました。何年前それはこれまでの作品とは全く異なるものでした。

「ママもうちょっとゆとりがないと歯車って回らないからそういうも苦しみっていうものを描いたんだろうなこれ強い意志を感じられますね。これで仕事のような大きな光のような摂の心そのものでした。次からはこれをちょっと舞台美術にしたくなりますね。この行ってもこの色彩すごくいい人間の目と手と鼻とこの辺の管理舞台美術っぽいですねやはり謎が解けた気がするなこれ。」

70年代に入ると作品を一切描かなくなります。そして人知れず物置に隠しました。摂はなぜ日本画家としての自分を封印したのでしょう。

「遅くが山の中で挫折感みたいなものがあってねその挫折という気分っていうのかな気持ちから自分のこの時代の作品っていうのをねなんか意識的に自覚的に封印していたように僕には思えました絵描きである以上に人としてまず共感をするわけですよねでその教官を無効にいる人たちと本当にどうなのかっていう抱え込む世の中はだんだん高高度経済成長時代に入ってくるんだけれども物質的に豊かになってるけれども精神って今どうなったんだろうそうすると表面的なものでは解決できるけれども本当の核心にある苦しみであるとか貧しさであるとかねそういうものには限界があるからあの右側自分は孤独に苛まれたんじゃないかなでは解決できないものっていうのがあるって言う事ですよねでも舞台美術に転校したっていう風に言うけれどもやっぱりその孤独から解放されるために多くの人達と関わりあいながら何かモノを作っていくっていうことに向かって行ったように思います。」

摂と出会った詩人の谷川俊太郎は自らの体験に照らしてこう語ります。

「ので僕も1月の鉄道ってのは哲学でなく拡張なんかした男で家に帰しの文学好きではあったんですけども僕は毎年の世界に入ってしまったもんだから7月がある程度認めてくれたんですけども朝倉さんはもうすぐやらしてますが文夫さんの娘さんであの大きなお屋敷を含めてさんは自分の家そこから逃れてきたような印象を僕はもうしました中村さんはお父さんが途中で中国人が来ませんでしたね最初っから会の方にいらしてんだけど、後になって舞台美術って言うやっぱりゆったり気ままにイラスト心にもしかするとお父さんが語るフミヤさんのなんか見たいものがあったんじゃないかなって気がしますけども私たちの望むものは元気に明るく振る舞うことが常だった説谷川は別の一面を感じていました朝倉さんっていうのはつまりあんまりなんてのかな人との関わり方がね親しくならないような歩こう一線を画してるような感じがしましたけどね僕は同時にアナルシスの哲学者の書いたものにすごく影響を受けていてその人間ってな男と女が入っちゃってねなんかそれが最小単位勝手に思い込んでいたとこやさんと話をしていた朝倉さん私はやっぱ人間の単位はまず自分とひとりが腕というにはっきりおっしゃってそれがとても印象に残ってんですよね私にとってはすぐは結婚とか家族とかあんまり関節ではなくてあくまで自立した自分というものは基本だったんだなっていう意味その時思いましたね。」

子1人が基本そう語った摂が描いた一枚の絵があります。

「すごい孤独なすごく孤独な感じの絵で好きじゃなく仲間仲間なのにこのこのクソ孤独な感じって動画仲間だけどもその夜中から孤立してるような感じでこれは女性でこっち男の人ですよねきっと仲間だけどすごくものすごく心にくる絵で最高の仲間って何歯の朝倉さんはお父様がま彫刻家でいらっしゃっているんですかもうやめるねもういくらやっぱりそんなに親父の付属品なのかなといつもねあのなんていうのかなどっちかって言うと何点ですかねコンプレックスに苛まれてそのたんびにねだからもうそのインタビューとかねそれを終えともずくいつも思うんですね子供達に負けて雪が自ら語ったインタビューが残っていますやっぱりなんてのかな私すごく女に生まれたことが悔しかったんですねほんと男の子に生まれたかったのね。どうして女の子に言われちゃったんだろうだってね。すごく降りてでもそんなこと言ってもなるわけにもいかないしね。多分人間ってのはその教育とか色んな事あるけれども、本当はあのあなた自身があなた自身がそれで開拓していくものでね、自分自身が作っていくものだっていう風に私は考えているんですね。
ツナないですじゃないです。雇う事考えたこともない。サラリーマンなろうと思って一緒になったとかね、そういう体験も私にはないし、鏡で自分のことしかしないって、その時の時代の空気感で革命に憧れたりでそれ違うんじゃないかと思った。人間って変わりますよね考えがあって昔
の全京都の人だって考えを変えた人がいっぱいいるわけですから、その子達が今の日本を作ってるわけですから、そういう申し訳なさもあったんじゃないかと私は思いますよね。過去を振り返らないそれを反省したってしょうがない。新しい時代をまた作るんだって言うに過去を捨て
なければ生きていけないっていうことあったと思いますよ。その申し訳ないって思うこと自体も無理してても、がむしゃらに生きてきたじゃないですか。前の家を壊さない限り、次の自分が出られないってくらい切羽詰まったと思いますよ。今日の絵を見る限りにおいてはやっぱり脱皮を続けるっていう、それしかあと作る芸術するっていうそこに打ち込むってことは脱皮しない限り生まれ1日生まれ変わらない限りできなかったんだと思いますけどね。あんなにも好きだった君がいたこの街に今もまだ大好きなの聞こえて来て寂しくて書くのはもう嫌だってなった時はもうなんか女四女母の姿ちょっと見たことないなーっていう感じも描くのも嫌だって言ったことないですからねたちは幸せを見つめてたよ懐かしい。

編集:神奈川県立近代美術館, 編集:練馬区立美術館, 編集:福島県立美術館
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