戦後富山で生きた孤高の水墨画家・篁牛人(たかむらぎゅうじん)。和紙を削り取るように描かれた黒。極端にデフォルメされた動物。まるでアニメのような人物。初めての大回顧展が開かれている今、この知られざる画家が“発掘”されようとしている。45歳で画家として出発するも売れず。54歳で家を出て放浪を繰り返す。酒におぼれる日々、つかんだ独自の画風とは?ついに到達した最高傑作。その失われたはずの半分が発見された!
初回放送日: 2021年12月5日
日曜美術館 「発掘!放浪の水墨画家 篁牛人」
戦後富山に生き独自の画風を作り上げた水墨画家がいます。
極端にデフォルメされた動物。
アニメのキャラクターのような人物。
描いたのはこの人・日曜美術館「発掘!放浪の水墨画家 篁牛人」。
酒を愛し五十代にして放浪の旅に出た孤高の画家です。
「描かんときは二日でも三日でも酒飲んで寝とる」
「自分の絵を抱えて、これで飲ませてくれるという。それだけやっぱり飲む金もなかったということですよね」
紙が破れるほど筆を擦りつけて描く。
その黒の向こうにはこれまでほとんど知られていなかった篁牛人。
とんでもない画家がここにいました。
篁牛人初めての大回顧展が今東京で開かれています。
日曜美術館です
今日はこれまでほとんど知られていなかったというあのすごい画家の作品があるということでこちらにやってまいりました。
これからあのどんな作品に出会えるのかとても楽しみです。
こんにちはこんにちはようこそ
今日はよろしくお願いします
ではまず最初に
すごいものをお見せしましょう
待っていたのは大倉集古館顧問の安村敏信さん。
この展覧会の仕掛け人です。
まず最初に案内してくれたのは篁牛人の初期の代表作「天台山豊干禅師」
高さ1.8メートル、幅6メートルに及ぶ大作です。
画面左。
宙に浮いているかのように見える平らな岩に座っているのは中国唐の時代の禅僧武漢です。
表情はどこかユーモラス。
右側には威嚇するように大きく背中を丸めた虎。
今にも飛びかかりそうです。
「樹木がそもそも下から生えてないんですよね。横から生えて、しかもあの先頭に牙のようなものがあって
生き物のように見える。これをなしているのがいわゆるこうあの真っ黒なところですね。これが渇筆と言ってですね
それで墨を削るようにしてやってるんですよ。それがこうブツブツと鱗のように見えて、なんとなく龍のように見える。
この人はほとんどというより全く知られてないと言っていいと思うんですね」
注目したのは武漢禅師の描き方です。
イラストみたいな感じがしますけどこれ結構難しい技術なんですか。
「カチッとした線ですね。難しい技術で、しかも今おっしゃったあのイラストみたいなところがこの人のポイントなんです。
戦後間もなくイラストとかアニメみたいな絵は評価されないわけです。でそれの典型的なのはこちらにある虎の絵です。
虎は顔は正面を見て、後ろ足がこうお尻がこっちも行ってますね。体が百八十度曲がってですね。
これだけのデフォルメを戦後間もなくやったということは当時の画壇としては誰も認めない訳ですね。
イラストアニメっていうのは非常にレベルの低いものだと思われた」
こちらは屏風。
風神雷神風神。
手足は異様に太く発達しています。
その太い腕で巻き起こす強風を雷神も筋骨リュウとした姿で迎え撃ちます。
漫画的っていうかアニメションの登場人物みたいなような雰囲気を醸し出している。
「篁牛人の場合は常に内側からはちきれてるような溢れるようなエネルギーがあるんですね」
これまで顧みられる事のなかった篁牛人。
その生涯を掘り起こします。
明治三十四年、篁牛人は立山連峰を望む富山市で生まれました。
生家は浄土真宗の禅昌寺。
男七人女三人の十人兄弟の次男として育ちました。
小さい頃から絵が好きで富山県立工芸学校に入学。
さらに東京美術学校への進学を目指しましたが経済的理由で諦めました。
そこで篁牛人は図案家、つまりデザイナーとして働き始めます。
勤務先は富山県売薬同業組合図案部でした。
二十九歳の時にデザインしたのがこの衝立。
主題は中国宋の時代の詩人林和靖です。
優れたデザイン感覚で商工省工芸展覧会で見事に二等賞を受賞します。
私生活では二十四歳で結婚。
二人の子に恵まれます。
しかし画家の道を諦めることはできなかったのです。
「実際は図案家として二十代は活躍するんですけど、その中でピカソですとかの絵を見て
やっぱり自分もやっぱり絵を描きたいという思いは確かに強くなったんだと思います」
仕事の傍ら篁牛人は絵を描き続けました。
昭和十九年四人四十三歳。
戦況の悪化とともに招集されマレーシアやタイを転戦します。
翌年終戦。
シンガポールで収容生活を送った後に帰国します。
富山大空襲。
家族は無事だったものの描きためた絵は全て燃えていました。
しかし篁牛人はここから画家として生きていくことを決意します。
四十五歳でした。
創作を始めて最初の年に描いた作品。
「山姥と金時」
角が生えた異様な姿の山姥。
足元には山姥に育てられた幼い金太郎。
ほとんどブレのない輪郭線。
その一本一本に画家として生きていく篁牛人の決意が込められています。
「人物の形のデフォルメ。金太郎もエネルギーが充満してる。同じような金太郎がこれです。
金太郎金太郎と熊なんですけど、この熊なんかも先程の虎のようにデフォルメされている。アニメに出てくるような熊です」
篁牛人の絵にシンパシーを抱いたという漫画家がいます。
北斗の拳の作者原哲夫さんです。
まず原さんが気になった一枚はせつざん因幡
四人四十七歳の作品です
描かれているのは雪女
この因幡見た時に
僕もあのでかい
ババアっていうのを
書いたことがあってええ
まあ北斗の拳の中なんですけど
そういうでかさがちょっと尋常じゃないっていうか
やっぱり頭を小さく書くっていうのが
でかく見せるコツかもしれないですね
だから基本的にあのこの牛乳三の矢って
やっぱ頭が小さく書きますよね
僕も結構そうなんですけど
次に気になった作品は
天台三分かんぜんじ初期の作品では
唯一の対策です
これはやっぱりあの画集の印刷だと
出てないですね
あこの奥行き感っていうのが奥行き感
やっぱ黒いところもやっぱりその一気にべたって
乗っちゃえばいいところも乗ってないですよね
あの気持ちでここ深い穴が開いてるから
みたいな暗い闇だからみたいな
感じでやってると
紙がめくれちゃうんですよね
神戸がでくれたりとか破けたりするんですよ
で僕なんかもやっぱり気持ちが入ってくると
やっぱペンで
あのベタとかは筆で塗ればいいんだけど
ペンで毛があって
そのままになっちゃうんですよ
で髪も上が逆に観観ちゃうんでペンで
それでもそのまんま塗ってたんですよ
それでも僕までメタみたいな
またこう上取ってまたちょっと相手が細かいとこ
こういうところなんかは
やっぱりなんかそういう削れが見えますもんね
その削れも本当になんか
僕なんかもそうなんだけど
やっぱり書いてると
やっぱそのテクスチャが
こう出てきたんですよね
なんかそのペンと紙の刻みで
質感がこうぐっと出てくるんですよね
でそれが出てきたときって
やっぱりそのやっぱ発見なんですよね
意外とあっあこれいける
じゃんみたいなで
それをいい具合に保ちながら
かなり黒いところも
全部こう押し込んで帰ってる感じがしますよね
だから黒の中の濃淡があるんですよね
あのレイアになってくるんですよね
それが髪を削り取るような
不思議な芽胞カッピつ
一体に描いたのでしょうか
はいその謎を解くため
水墨画家の大竹拓明さんに
模写をしてもらいました
これが四人が実際に使っていた筆です
はけや様々な筆があります
はい大竹さんが挑むのはこの部分
うんここまでの活発は
やっぱし私たちの絵描きさんで見てると
ちょっと常識ではないねま
一つ考えるのは丸い
筆より刷毛の方が
この薄い層の部分が出しやすいで
そこで深みがあるところは
やっぱしこの丸い筆の方が
これが書き込むことができるで
そのことを予想してまず今の
刷毛を決まった
ちょっとやってみようと
知人が使用していた
越前まし麻の繊維を原料にして開いた
最高級の和牛です
そこにはけに
つけた墨を擦りつけるようにして
塗っていきます
これがカップ率という技法です
はいはけから太い筆に持ち替えます
これを使って墨を塗り重ねていくことで
木の幹の立体感を出します
そうそう四人が使っていた筆の中に
不思議な形のものがありました
これほど気の短い筆は
市販されていません
うんそこで大竹さんは
太い筆を取り出しておく
バッサリ切ってみました
うんうん
果たしてこの筆の効果は
繊維が立ちます
ああなんと簡単に
紙の繊維がめくれ上がってきました
大分からいや力入れなくても気が短い
だから力すぐ入れちゃうんですよ
牛人独特の上のめくれは
短く切った筆によって作られていたことが
わかりました
右が完成した大竹さんによる模写です
まずはけを使って薄く角を乗せ
さらに太い筆で何度もこすって炭を重ね
深い黒を生み出します
はい仕上げに短く
切った筆を使って紙をめくり上がらせ
独特の質感を作り上げていたのです
極端的にあの表現のメディアに擦れて
炭乾燥してる住だけ使うということで
そこで生きて道を生きる道を探る探すで
そうするとなんか
とこ毒なものが生まれるではないか
その友人のような達筆は
最高級の越前ましでないと
できないことも分かりました
この対策を描くにあたり
友人は多額の出費をしてね遊んだのです
人生をかけた大勝負でした
うんこの頃知人の家を訪れた
人物がいます
宗像思考です
思考は戦火を逃れて富山に疎開し
戦後もしばらく留まっていました
あの村田思考は友人より二つ年下なんですね
だけどもやっぱ中央で活躍してるね
現現役の画家っていうこともあってですね
それに対するやっぱり
あのうーんと何て言うのかな
あの憧れ的な所も
当然あったんだと思いますけど
翌年富山で開かれた四人の御殿思考は
展示台に飛び上がるパフォーマンスで
会場を沸かせます
更に詩人の作品を購入
二人は互いに認め合う関係でした
昭和二十九年
思考は富山を離れ東京へ戻ります
その翌年から次々と
国際コンクールで賞を獲得
一躍世界のムナカタへ
と名を上げていきます
しかし四人の作品は
全く評価されませんでした
このえも結局売れず
次なる対策を手掛けることができません
へえ最近は小さくなり
ついには活発に
必要な高級和紙を
買うことができなくなってしまいます
実家である寺に
一枚の絵が残されていました
これはあの四人さんがあの上のない時に
新聞紙にあの五分を塗って
その上にあの絵を描かれた
えーの下に
うっすらと新聞の広告が見えます
うん
牛乳さんのその書きたい思いが
なんかあのやっぱりあのー
染み込んどるえだなと思いばかりが先に立ち
画家として行き詰まってきた知人五十四歳
家族に行き先も告げず家を出て
何か月も帰ってこない放浪
生活を繰り返すようになります
それは六十四歳まで十年間続きました
ええこれがあの放浪時代に
自分の楽譜を色々試み
ているところの作品ですね
これは何ですか
抽象画っていうのは
ものすごく日本画家にも流行りますから
当時題名は中将が
カップ率ができなくなったため
新たな手法に挑戦しています
これ何だろう
バンビ山ですかね
かっこところが
手の方に首か乳房が山ほどある
非常に不思議な抽象の世界ですよね
これあれですよね
その友人が放浪時代にそうです
ですから求人は放浪時代に当時あのー
日本画の人たちの中をやってみようとか
いろんなことをやる訳ですねその
試みの一つとして
本人が抽象にこう飛び込んだ
日本画の隅で
色んなこう表現の多様性を
こうあのー求めですけども
こういう健康の歌
なんていうのはま第
一十点の話と言いますか
そういう壮大な課題であって
ま健康にはああいうやつがすると思うと
左の方を見るとなんか虫が
これは虫でしょう
一番左は無視ですね
大好きでで地上を見ると
アヒルがいたり
でんでんむしが痛い鳥がいたりで
その間で人間たちがまあ生活をしている
それから空にはまあ仮が飛んでいくと
こういった全くあのー
輪郭線なしの上の角の面だけで捉えて
いわゆる木骨技法ってやつですね
四人は放浪時代
身近な虫や鳥を描くようになります
ででもこういう作風は
続かなかったんですよね
続かないっていうか売れもしない
放浪したのは五十四歳
四歳から六十四歳まで
普通だったら家族とかいるじゃないですか
多分奥さんも
子供さんもいらっしゃるじゃないですか
そういうことは
顧みなかった顧みないんでしょうね
それは大変だったですよね
ご家族は大変だったと思います
はい一体どんな放浪
生活を送っていたのでしょうか
富山市の隣り高岡市で
その姿を知る
人物に会うことができました
当時染物工場を営んでいた
佐伯さんのお宅です
仙台と仲良くなった求人は
ここで長通りをしていました
一か月も入れることか月もうんで
しばらく込んだら
またしばらくまた
一カ月二カ月にそれこそうん言うてみたらうん
自分の居心地よかったら
やっぱり長い間置いてるというかね
友人が寝泊まりをした部屋に
ここで書いた絵が飾られていました
この山水が崖などに
不思議な縞模様があります
で大抵あのー普通
ほら何かあのーいたみたいがね
準備してあげて書かれたけど
畳な一昨日ということは
そのまま帰っちゃったんですよね
書き始めたらで
鳥羽南から明日の朝までかかって
でも夜ずっと出迎えそう
その代わりかかんときは
二日でも三日でも酒飲んでねとかって
岐阜県高山市
ここでは軍隊時代の友人の
そのまた友人の家に
なが到達していました
世話をした
サトウミエさんがつけていたメモです
そこに出会いから記されていました
昭和三十二年四月六日
私の想像より
気楽な感じありがとうございます
四月二十二日一日中遊んで飲む
昭和三十七年四月十日飲み食い続く酒八章
えーは売れず
生活が困窮する中
酒の量ばかりが増えていきました
牛乳の長男十
三の言葉が残されています
父の仕事の原動力はお酒でした
それはすこぶる好きの悪酒でございました
飲めば唯我独尊わしは
天才じゃ絵や書に支障などはないと
喋りまくり際限がありません
普通の世間話ができないため
周囲の人々はただ逃げ回るばかりです
富山市内の繁華街にあるこちらの料理店
先代が知人から答えがかけられています
へー戦地で見た蛇使いの男です
自分の書いたものを売り歩くというか
それも今の時代から思うと考えることなんです
けどこう抱えて書いたものを抱えて
売る金に変えていくというま
戦後の戦後の大変な時期だったろですし
だったですし
あのーそういう時代
そういうことをしておられた
というのは聞いたこと
ありますね
飲み屋にも飲み屋にもそれを持っていって
これで飲ませてくれという状態だったらしい
ですからうちの父はやっぱりその場
その場でそれを見てきたらしいですから
ええでしょう
今考えるとちょっと信じるですよね
この頃に書いた絵です
人間のほしがる膳所
こちらのはこれや酒のない国へ行きたい
二日酔いかうん
酒を飲むために
粗雑な絵を書いて売り歩く
詩人を強く諌めた友人がいました
生け花作家の酒井さんです
その様子を娘さんが見ていました
やっぱり生活のために
売り絵を書いてらっしゃったんで
それは両親は非常にえって思ってた
時期があって
あのある時家の庭で
その売り絵を
全部牛乳人さんの目の前で
燃やしたことがあるんですよ
それで本当に作品というだけを持って帰りなさい
っていうことでタクシに乗せたのを覚えてます
私はまもなくして
友人から一通の手紙が
送られてきました
いやな売り絵を書くのは致し方ないとしても
それを待ってもいない
人々のところへ売りに行くのを
六十五歳のきょうまで続けてきて
これからもこれからもと思うと
悲しかったです
えーこの手紙を書いたころ
知人に大きな出会いが訪れます
六十代になって
ようやくパトロンができるんですよ
でパトロンの下で自分のあの編み出した水墨画
またこう極めていくんですね
そのパトロンが最初に気に入ったのは
これだそうですよ
これこれこれを見てすごい画家だ
あそれで分かったんですね
それでわかる人ね素晴らしいですよね
やっぱりねそのコレクターのメモ
素晴らしいと思いますね
々と輝く月
その下でアイヌ伝統の方法でますをつく男ね
全てが輪郭線のないシルエットで
描かれています
四人を支えることになる意志の森田明子さん
出会いをこう書き残しています
白髪の品の良い一人の老人の訪問を受けた
リュックの中には
十枚ほどの束ねた絵が入っていた
玄関のところで丸めたやつを広げて見せて
して何がしかのお金を貰えないか
とおっしゃる
そのうちの一枚がこの絵でした
私はふと思いついて
この未知数の学科に一つ渾身の作を作って下さい
それにはいかなる準備もすると言った
あのこちらがですね
そのパトロンができてから書いた
先死んで駄目っていうだるま大使だるまですか
森田さんとの出会いにより
念願の大きな越前ましを手に入れた蟲人
再出発
一冊
ダムやっぱり僕なんかがだるまと聞いて
想像する者からは全然こう離れてるもので
そういう意味だと面白いですし
なんか本当独特のなんか
キャラクタがこう作り出されてる
っていうんですかね顔なんかを見てください
なんか可愛らしいし
髪の毛がこうなんか爆発してるよね
ちょっとちょっとこう
しいアフロヘアみたいなで
の足の方は
先程の風神雷神みたいな
中からエネルギーがこう
うわあっと溢れてるようなこれ
あのだるまのまあ
課題として赤痢ダルマっていって
あのー片方の靴しかはいてない
ダルマっていうのもあれば
通うダルマって言って
まあの足の葉っぱに乗って海を
渡るってたたまるんですね
でそうやってみると
なんとなく上のこのウェブは運用が立ってる
並みか波波思えたりする
蓮の葉とは見えないですよね
百通り虫の左にいるのが喝破なんですよ
これ五しているんですね
ま水の中に乗ってなんかしてるんですね
それでこれっぽい
っぽいですね
が先に泳いでて
他にもテントウムシやカタツムリ
酒の入ったヒョウタンと
紐で結ばれたカラスもいます
これらはすべて放浪時代に
しきりに描いたモチーフです
はい黒い太陽これ太陽です
海洋でしょあそこももう一生懸命生きてますから
これあのそのせいか
すごいなんか立体的に浮かび上がってみようそうですね
あの球体って感じがしますね
はいダムの顔がよくよく見ると
その黒いところちょっとこすってるんで
やっぱりふっくらしてますしたいみたいな
感じですねはい
そこはでもやっぱり
この人は特徴みたいなのがある
種集約され集約されてるし
大きな画面も
やっぱり書きたかったんですよね
久しぶりに思う存分描き切った四人の姿
森田さんは書き留めています
彼は乾きかけた屏風の前で
ぼう然としていたが
突然好捕する口調でできた
できたと言った
こんな大きなえーを
不自由なく描いたのは初めてであり
念願であったと言ってまぶたが潤んだ
牛人は越前ましの大画面に
放浪時代に試した実験的手法を駆使し
これまでの水墨画と全く違う
斬新な画風を切り開いていきます
昭和四十四年六十八歳の知人は
後に最高傑作と呼ばれる
品に取り掛かりました
さて最後にこの先君てくださいどうでしょう
それ黒い牛が黒い牛がたむろとして
本当に削りまくってますよね
本当だ老子出棺ず
画面いっぱいに描かれた巨大な牛
末筆でこすりつけることで
まさに牛の皮膚までもが
再現されているようですですすごいですね
これは非常にこうあのいや
これでも本当あれこれを削ってます
すごいですよね
しかもこれなぜか向かい合っているのは
濃いです
じゃあここがいけないのか謎ですね
で恋が大きいそしてこれ
巨大な声と小ぶりだね
で濃いからこういう
気男が出てるんですよね
のような真っ黒ですよね
もうこれがやりたかった
最高のあれじゃないですかね
でも本当黒の存在感がすごいですね
それとやっぱりずっしりとした
重さを持ってくるんですけどね
この絵には一つの謎がありました
浪士出棺ずというタイトルなのに
老子はいなくて
牛のみ展覧会の写真が残っていました
牛のへの右隣にもう一枚
実はこの部分長い間
行方不明となっていました
はいどうぞこんにちはいらっしゃいませ
どうぞどうぞ両方どうぞはいこちらです
今年大発見がありましたこちらになります
はいこちらになります
うん老子出棺図の右半分
意外な場所にありました
持っていたのは
友人の甥にあたるタミヤ安さん分かります
描かれているこの巨体の主こそ老子です
うん指にはシャクトリムシでしょうか
丸々とした労使の顔は
何かを叫んでいるようです
美術館でいきまして
牛の方が飾ってありましてね
展示しちゃって
それで下にその行方不明だと
所在不明っていう形で
小さく写真が載ってたんですよ
それで私ちょっとよく見てたら
家にある業務とよく似てるなと
でかなり呼びまして
いやお母さんこれうちのじゃないかって言ったら
家内がそうだ
これが本来の全体図となります
巨大な労使が乗るためには
巨大な牛が必要だったのです
関西から五年後友人は脳卒中で倒れます
長年浴びるように
飲んだ酒が原因だったといいます
長男の立木さんは書いています
事がうまくいったと言って
はのみだめだと言っては飲み
喜怒哀楽を肴にして飲み続け
一升瓶を抱えて倒れたのでございます
病床にあること
十年余り枯れ木の口るがごとく
その生涯を終えました
家庭生活の営みを知らず
エゴイズムを丸出しにして一つの事にかけ
それを押し通した男に
私は羨望と
悔しさでいっぱいになるのでございます
昭和五十九年
八十三歳で友人はなくなりましたすその翌年
友人を支えてきた森田さんは所有する作品
百五十点余りを偽造しました
的と言えばちょっと面白いかもしれません
そのコレクションを元に
平成元年富山市高村千人
記念美術館がオープンしました
しかし富山以外では
友人は知られざる存在のままでした
東京での初めての大回顧展となる
今回四人の作品に魅せられた
富山出身の安村さんが奔走し
ようやく実現しました
本当に友人はこれからいろんな人が見て
色々読み取れていってもらえると
もっともっと本籍面白さが出てくる
すごいわかっているものなんですね
発掘されると言いながらも
時代がそれに追いついていかない
価されていかないですよね
でようやく友人は
評価される時代に来たという
のが今じゃないかと
私は思うんですけどね