日曜美術館 「いつもそこに“名画”があった」

名画

90年前に日本で初めて西洋画をいつでも見られる美術館として誕生した大原美術館。始まりは、「日本の芸術界のため」に、海外の絵を集め、見てもらいたいというある画家の思いだった。その思いを受け、地元の実業家・大原孫三郎と息子・總一郎らによってコレクションは拡充されてきた。番組では、とびっきりの名画にまつわる思い出を綴った人々の手記に注目。俳優・美村里江さんによる手記の朗読を交え、美術館の歩みを見つめる。

【ゲスト】美村里江,【出演】【大原美術館館長】高階秀爾

放送:2020年12月6日

日曜美術館 「いつもそこに“名画”があった」

「また来ちゃったよとふらりと入る。誰かに会いたいとは考えない。でもその度ごとにいつも違う誰かに愛想よく微笑みかけられたり、はっと胸をつかれたりする。何も考えずに何の気負いもなく行ける場所。そんな美術館が嬉しい。今年もまた今日、違う誰かと軽く会釈を交わし、独り言に頷いてくれる出会いを楽しみにやってきた」

その場所には世界の名画との出会いが待っています。

岡山県倉敷市の大原美術館。

今から90年前、日本で初めての西洋画をいつでも見られる美術館として誕生しました。

始まりは一通の手紙。

「日本の芸術界のために海外の絵を集め見てもらいたい」

ある画家の思いでした。

それに応えたのが紡績業で財を成した実業家、大原孫三郎。

倉敷に美術館を設立します。

それから90年。

美術館はとびっきりのアートに出会える場として愛されてきました。

人生に刻まれたアートとの出会いを綴った文章が残されています。

「45年もの昔。今は亡き主人と訪れて以来の拝観で感無量です。エル・グレコやモローの絵の前で立ち尽くした若い日が思い出されます」

「マティスの前で不思議な涙が出ました。子育てに追われ、いつも前を通りながら入ることができませんでした。また是非、素晴らしい絵に触れる機会をお作りください」

いつもそこに名画があった。

大原美術館と人々の90年の物語です。

「日曜美術館。今日は岡山県の倉敷市にやってきました。白壁の蔵があると情緒があります。江戸時代からの蔵で中にはお米などを入れてたんです。

ここを曲がったところが今日の目的地です」

「重厚感があります」

「こういう建物いきなり現れるとちょっとおどろきます。中に入ってみましょうか」

「最初に出迎えてくれるのが和服を着たベルギーの少女。明るいすごい日差しを受けていて素敵ですね」

この絵を描いた画家こそが、大原美術館設立のきっかけを作った人物でした。

「ちょっと驚きますよね。ベルギー人少女が和服を着て出迎えてくれる。和洋折衷のところが面白い」

「明るいきれいな絵ですね」

画家の名は児島虎次郎。

生まれは明治14年。

実家は旅館で後を継ぐことを期待されましたが、絵の道を選びます。

21歳で東京美術学校西洋画科に入学。

2度も飛び級するなど優秀な成績を修めました。

その頃、虎次郎は地元の実業家、大原孫三郎と出会います。

大原家が主催する奨学金を得るためでした。

大原家に高く評価された寅次郎は美術学校卒業後、ヨーロッパへの留学を許されます。

行った先はベルギーのゲント。

ここで印象派など最先端の画風を学びます。

そして描いたのが美術館の正面を飾っていたあの絵です。

細やかなタッチで描かれた少女の表情。

それとは対照的な躍動感あふれる着物のタッチ。

この意欲作で寅次郎はパリのサロンに初入選を果たします。

しかし日本人が西洋画を学ぶことの限界も感じていました。

寅次郎がヨーロッパに渡ったのは27歳。

それまで本場の油絵を見たことはほとんどありませんでした。

なんとか我が国画家たちにも本物を見せたい。

一枚の繪に出会います。

サロンの重鎮だったアマンジャンの《髪》

寅次郎はサロンでこの絵を見てひとめぼれ。

孫三郎に手紙を書きました。

「これは個人としてのお願いにては候はず。日本の芸術界のために最も有益なる次第に候へば、突然ながら雪に懇願申し上げ候次第」

突然の頼みに驚いた孫三郎。

それでも購入資金を送ります。

その後も購入依頼は相次ぎました。

その度に孫三郎は寅次郎のためになるならばと、小切手を送り続けました。

資金を得た寅次郎は収集に熱を上げていきます。

クロードモネ、アンリ・マティス。

人気作家のアトリエを訪ね、直接絵の購入を持ちかけます。

日本の牡丹の苗木を手土産に、画廊を通してしか絵を売らなかったモネを口説き落としたとも言われています。

企画が寅次郎は蒐集した作品に27点で展覧会を開きます。

会場は倉敷の小学校。

全国から人が押し寄せる大盛況となりました。

資金を出した孫三郎を大いに驚かせます。

エル・グレコ、セガンティーニ、ゴーギャン。

孫三郎の積極的な支援を受けられるようになり、コレクションは成長を続けます。

そんな矢先でした。

1929年寅次郎が47歳の若さで亡くなります。

生前、美術館の建設を望んでいた寅次郎。

孫三郎は決断を下します。

世は金融恐慌の真っ只中。

自身の会社が経営危機に直面するなか、美術館の建設に取り掛かったのです。

「将来この美術館が少しでも世に貢献するところがあれば、児島君も地下で満足するところであり、私の微意もその目的を達する次第でございます」

「入ってすぐに名画の数々が並んでいるんですが、ちょっと気になる作品とかありますか」

「ミレーがすごく好きなんです。だから《グレヴィルの断崖》は好きですね。埼玉県生まれで海にすごく憧れがあるので、海の絵はみんな好きなんですけど、高い木の生えてない風が吹きすさぶ感じがすごく素敵だなと思って好きですね」

「ピサロの《りんご採り》先ほどご自身の体験とも同じで、僕もあのフランスにちょっと住んでた時に、住んでた家の中庭にはリンゴの木をたくさんあって、ちょっとやさぐれた感じをしました。なってるもの取ってねその前で食べるみたいなことを経験しましたので、思い出しました」

「今日は大原美術館館長の高階秀爾さんが待ってて下さっています。今日はどうぞよろしくお願いいたします」

「モネの家に行っていくつか見た中で寅次郎はこの絵を選ばれたということなんですね」

あのにでも行ってました

行った時はまだ

あの初めて参ったいきなり行ったんですけども

まあ後でもう一度来いってことで

行った時に胸がまこれはどうだっつったら

自分はこっち

だってなかなか色々見た上でですね

そしてこれをぜひということで選ばれた今ね

私たち公園西洋の絵画を

間近に見る事ってありますけれども

東寺開館当時の昭和の初めですよね

その頃はどんなふうに受け止められた

もう全くの西洋の絵画って

まだ日本では見られなかった展覧会

もないし異物感もなかったわけですからね

ですからあのま

小原さんがまさかの三者集めようって

言ったのは

最初に寅次郎は

それはまぁトラジが

自分のは買いかかにも見せたい

君の目に入った時に少し集めたものを並べて見せた

これはの美術館大事なことだと思うん

ですがその時はまだ美術館がないんで倉敷の小学校借りて行ったんで

そこにもう日本中からの東京から谷から大勢人は来たってよ

学校にその点でした時に東京から持ってそれは置いてあるよね

新幹線であの昨日来たんですけど

今でも身位かかるんだって今みたいにインターネットではない

それでも求めてくる人が夜行列車でみんな来るのも大変ですよね。それで駅からもう倉敷の小学校まで行列をしてたって

とにかくだから非常にすりーつしかないと思ってたんですね

そういう意味では非常に皆の為っていう公共性心が非常に強かったんですよね明日からのコレクションと生声ので

もちろんいろんなゴルフ場があります。

皆さんそれぞれ自分のコレクション

自分の部屋に飾ってねこれがいいだろって

小原さんは自分のうちにわかったことはない

また皆さんに

そういう意味ではの美術館っていうのは大変大きな意味を持った美術館だと思います」

その小原さんの真ん中を矯正してから寅次郎の美術に対する一つになってこの美術館が出来たということなんですね」

*

開館から10年余。

美術館に戦争の影が忍び寄ります。

国からロダンのブロンズ像を供出せよとの命令が下ったのです。

時は太平洋戦争真っ只中。

全国であらゆる金属が兵器製造のために供出させられていました。

その手が大原美術館のブロンズ像にも及んだのです。

作品を守るため美術館は奔走します。

ブロンズ像は軍需工場で働く人々に感動を与えている。

回収からは除外してほしい。

文部大臣や県知事などに繰り返し嘆願。

半年がかりの交渉の末、ブロンズ像を残すことが許されました。

守られた美術品は多くの人々にかけがえのない時間をもたらしていきます。

農林学校に通っていたある男子生徒の手記。

「戦時中の思い出。私は級友5名とともに炎天下、リヤカーに野菜を満載して倉敷の街を汗を流しながら通っていた。フット心なしか涼しい風が吹いたような気がして、顔を上げると堀端であった。向こうを見ると、白亜の建物が他を圧するでもなく、偉容を誇るでもなく、ただ静かに立っていた。あ、これが大原美術館。と内心驚き、真っ先にロダンのブロンズ像が目に浮かび、周囲を見回し、あ平和だなと。戦時下、それも本土決戦が叫ばれている時に平和を感じさせた大原美術館。今になってもなぜ、平和の念が浮かんだか分からない。当時の私たちの心はすさみきっていた」

二十歳の学生。学徒出陣で二日後に陸軍への入隊を控えていました。

「この世で残されたわずかの時間を、何故大原美術館に行くことにしたのか理由は思い出せませんが、あまり迷うことなく早くからそのように決めていたと思います。美術館で何を見て何を思い、何を感じたか。その辺の記憶は全て失われています。薄暗い、人の気配のほとんどない静まり返ったギャラリーの雰囲気がかすかに蘇ってくるだけです。しかしこれによって私の心の中の大事なものが満たされ、いわゆるシャバとの決別に踏ん切りがついたことは確かです」

*

「朗読をさせて頂いて、戦時中の人の心に美術館ってとっても重要だったんですね」

「そうでしょうね。美術館として戦争中も、とにかくなるべく皆さんに見ていただけるというので、そうすると来て、もちろん絵も見る。同時に今の方が心に訴えてくるということはありましたよね。涼しい風が吹いてくるよ。つまり直接絵で色が綺麗だとか専門家の方も見る。そうではない。これは美術の力だと思います。そういう生命力みたいなもの。漠然とだけど感じる。それが大事なんですね」

「何を見て何を感じたかそんなこと覚えていないが、静かな空間で満たされた、ってすごく分かりますよね」

「一つは誰の作品でいつっていうのがありますが、そうではなくてやっぱり生きる力みたいなものを与えてくれるもの。それが需要ないんです。ですから、できるだけ皆さんに見せるため、戦争中でもオープンしておく美術館としても大事な役割だなというふうに思っております」

「2階の展示室にやってきましたけれども、この部屋は戦後の作品っていうことになる」

「そうですね」

「あの歴史的に言うとフォーヴィスムの画家。ルオーであるとかですね。キュビスムの画家とか。戦後のものき孫三郎さんの時代ではなくて、宗一郎さんが中心となりました」 

戦後、大原美術館の運営は孫三郎の一人息子、總一郎へと受け継がれていました。

美術に造詣の深かった總一郎は、自らの審美眼で同時代の作品を蒐集していきます。

独自の哲学がありました。

「美術館は常に生きて成長しなければならない」

日本ではまだ無名だったフランス人画家、フォートリエの《人質》

ナチス占領下のパリで捕らえられたレジスタンスの悲惨な姿が描かれています。

床に置いたキャンバスに絵の具を垂らして描く技法を編み出したポロックの《カットアウト》

總一郎はまだ日本では一般に受け入れられていない現代作家の作品を積極的に収集しました。

「ピカソですね。これ特に總一郎さんが買われた絵なんですけれども、その中でも特別に頭蓋骨があって華があって、生と死のシンボルみたいなものなんですけど、ちょうどピカソのお友達が亡くなった時にピカソはショックを受けて描いた絵なんですけどね」

「總一郎さんは自分の眼力、直感を大切にされてたと」

「受け取る力でしょうね。別に知識をどうこうということではなくて、芸術というものの訴える力を感じ取る力が強くて感受性の強い方だったと思います」

「時代とともに美術館が成長するっていう観点からすると、それぞれの時代で評価の定まっていた画家を選択するっていうこともありうると思うんですけど、美術史的な評価よりも總一郎さんは何を自分が受け取ったかという重きを置きたい。市民の方と分かち合いたいとことでしょうか」

「はいそういうことだと思いますね。時とともに成長し、それ以後ももちろん、逆に若い人のが入ったりですね、そういうことで美術館というのは育っていく」

「戦争があると受け取る市民も変わらざるを得ないという中で、戦後は集める作品も変えて行こうっていう思いがあったんでしょうか」

「直接にどうこうというよりも、戦争の場合には当然死の問題とかも出てきますよね。ピカソのこの作品は友達の死のこと。ピカソに強いあれがあったんでしょうね。頭蓋骨になるのは。通じてきたんです。別に解説しなくてもですね。ピカソっていうのは大変生命力のある方です。同時にそれは逆に死の問題に敏感に反応する人なんですね。それがあの頭蓋骨このシリーズもいくつか描いてます。同時に花で生命ということを考えて、それを總一郎さんが美術への力。感じられてるわけですよね」

関根正二《信仰の悲しみ》

二十歳の若さでこの世を去った関根。

死後50年近くが経ちながら、当時まだほとんど知られていなかったこの作品を見て、總一郎はすぐに購入を決断しました。

「この関根正二の作品というのは總一郎は見た途端に是非これだっていうこと言われてね。関根正二という人は二十歳ぐらいで亡くなってる。非常に作品の数が少ないんですよね。なんか心に訴えるということですよね。理屈ではないんだと。信仰は心の問題なんですよね。自分の心。抑えきれない悲哀っていうものが、自分の心に訴えかける、それを絵にしてたということなんですよね。總一郎さんはこれは具体的にどんな悲しみだとかなんとかということではなくて、やっぱり自分の心。人間の心っていうのは具体的ではない大きな力があると思いますが、それをすぐ関根が感じ取ったものを總一郎さんは感じ、これは行こうっていうことなんですね。絵を見るって言うのは知識ももちろん必要ですけれども、作家の意図も必要です。しかし、それは何を訴えてくるか。人間の生き方。最終的には心に訴えてくるわけですからね。總一郎さんはそれを大事にしてられたんだと思います」

「それは数年前商店を訪れた初老の紳士のことである。ちょうどカフェには客がいなかった。僕は若い時思い詰めてついに自殺を考えるところまで来てしまい、倉敷の土地へふらふらと行ってきたんだよと述懐したので、私は思わず息を飲んだ。絵の嫌いでない僕は大原美術館に引き寄せられるようにして入ったんだ。そこで、関根正二の信仰の悲しみにめぐり逢い、なぜかああ、僕は死んじゃいけないんだという気持ちが深いところから湧き上がってきたんだよ。あの絵画の魂のようなものが、僕を救ってくれたのかもしれない。それから毎年その頃になると、大原美術館に来るのだという。今その作品に向き合っても、かつて彼に死を思いとどまらせたあの強烈な発信はないとも語った。芸術はそういうものであり、それでいいのだと私は思う。絵画とそれの置かれている空間が一人の人間の人生にこんなにも深く関わっていることを、今改めて思うのである」

「この絵がその時に胸に刺さって、そんな大きな衝動を止めるほどのエネルギーを発してきたんだろうと知った時に、何とも言えない気持ちになりました。エピソードが残っていなくても多分それぞれの絵にエネルギー発信と受信があって、また今回のその内容が面白かったのが今それの絵と対峙しても同じようなものは感じない。その時と違うものを感じる。それがまた面白いなとお思いマス」

「絵というのも同じ生命体なんですよね。人と同じで、それを見てあの私も見る

たんびにやっぱりそっから色んなものが

あのこちらの状態にもよるでしょうね

あの美術館にもなんでも来ていただきたい

まそういうことであるし

特に優れたいっていうのは

それだけ非常に深い内容を持ってますから、関根正二の絵を見るたびになるほどという新しいつけてね

それは今の朗読して

会えたことにあるように

様子にただ見てどこ分かるだけじゃなくて

魂に訴えてきてもらいましたよね

さっきの心に訴えるもの持ってくるから

そうするともう人間同士の心の対話がそこで成立することになるかに来て

それを是非皆さん行ってくださいだ

と思います

「大原美術館の方ですね

古い蔵を改装した建物。

ここにはおよそ400点の工芸品が収蔵されています。

それがこの工芸館ということですね

すごいあれですねこれはお部屋ですね

あの作家ごとに部屋を作られた

そして作品をチラッとこう並べていて

面白いよ濱田庄司やバーナードリーチなど、民芸運動の作家たちの作品です。

そのほとんどがまだ民芸運動が評価されていなかった昭和初期に購入されました。

中野上はものすごい交換なんですね

また違うんですすごく素敵だなと思って

あのあのあの近くの多いんですが

カナコの生えたくじの八角皿

結構今現代に他のもたくさん

結構一般的に出てるんですけど

もうこの美しさにハッとさせまして

はい

バーナードリーチの通訳を務めたことをきっかけに陶芸の道に進んだ富本憲吉。

八角型のシンプルな大皿に三村さんは惹かれました。

「あれですよね。ブレックファーストで目玉焼きとサラダ乗せてもいいし、ちょっ和のものを大ぶりに盛り付けてもいいなというと」

「日本の伝統的な美術っていうのは工芸が大きいんですよね。むしろそれがメインなんですよね。西洋の基準だと工芸品ってのは西洋ではマイナー。マイナーなアートだというので社会的にずっと差別されてました。区別されていて、職人あのロココのテーブルとか非常に綺麗だと思うんですけれども、見事な腕なんですけれども宮廷に入れない。画家は入れた。つまりもはっきり社会的にある。日本はそうではなくて、むしろ職人と画家。琳派なんてそうです。半分は衣装の模様を作ったり絵付けをしたりする。日本は非常に生活的な工芸品が美術に大事なものだと思います」

總一郎がともに歩んだ作家が版画家棟方志功です。

出会いは総一郎29歳。棟方35歳。

駆け出しの版画家にその場で襖絵を発注しました。

出会って3年目の大作《門舞神版画柵》

有史以前の日本の神々を躍動感あふれる連作として描きました。

それから12年後に作られたのが《流離抄版画柵》

和歌を題材にした連作は筆で紙の裏から色をさす裏彩色が鮮やかです。

そして出会いから25年。

その大作は總一郎が倉敷市内に開業したホテルのロビーに飾られています。

大世界の柵

今人類より神々へ

高さおよそ2メートル。幅13メートル。

棟方が手がけた版画の中で最も大きな作品です。

ホテルの開業に合わせ、總一郎が依頼。

棟方は多忙を理由に手間のかかる版画ではなく絵にしたいと申し入れましたが總一郎は許さなかったといいます。

ともに歩み生まれた傑作でした。

「鍛冶屋さんの息子。どちらかというと貧しい家之出身と大財閥の子が意気投合するって面白い」

「絵を通じて投合したんでしょうね。描くとなるともめちゃくちゃで、まだ売れない時にも下宿すると、下宿の扉に書いたんで追い出された。それくらい好きだった人ですね。あの最初はゴッホになるとかって言って出てきたよねいた時に連れ

しかしそれは面白いだから一緒にあの独特な表現力を持ってるね

あのそれなりにやっぱり強いやレオマ

「總一郎さんは柔らかいですよね。その個性的な人も含めて面白がるっていうのは」

「非常にそれはあります。

緩衝能力って活用能力が強いですよね

はいあのでそれを大らかに受け入れるわけですよね

今日はあのた

館長の案内で堪能するという贅沢な時間でしたけれども、三村さんどうでした

「この大原美術館じっくり見てたのずっと本とか雑誌でご拝見してきて、いつか行ってみたいって思っていたのが今回かなってでも実際こう日曜日だったので、街中は大変賑やかな感じで、観光客の方ご家族カップル子供達で大変賑やかな中に

徳を静かなお庭があってで

その庭で静かに座って味っている方もいれば、竜の絵の前で佇む

片思いて色んな会話をしながら通り過ぎてって言うのでなんか

古美術館自体が呼吸しているみたい

いろんな形を擦り上げてまたその鑑賞した人が出てって

言うので何か非常に伸び縮み簡素なんですけど

「美術館自身がそうですよ

入ってるものであって

今おっしゃる通り

倉敷の町ってのもまた古い町ですよね。つまり歴史を持った街の中に新しい美術館従って美術館もそれなりの歴史があって

将来また若い人たちも育てを渡るような

歴史をずっと伝えながらそれは将来につながるものだということと

それから倉敷の街があってもちろん岡山とか日本とかも広がっていく。東京からも来てつまり地域的にはにまでもちろん広がるわけの

横の広がり。縦と横の広がり、その十字路に美術館はあるんだいうこと言ってるんですよ。私はもう美術館て文化の十字路に立つもので、我々は歴史とか地域の人のために作れた作品を見ていただこうという役割だというふうに思っておりますので、来て頂いてありがとうございます

大原美術館では地域の子どもたちを招く活動25年前から行なっています。

美術を自由に楽しむ。

心の種まきです。

「英語で自分の好きな作品を指さしてください」

とびっきりのアートと人々を90年にわたって繋いできた大原美術館。

名絵がいつもここにあり続けます。

「大原美術館は私と私の子供達が幼かった頃、美しいものを見て感動体験をした最も強い場所だ。今でもエル・グレコ、ルオー、モネなど。自分の心惹かれる絵の前に立つと、その時の感動を思い出す。高校の頃も私のお気に入りの絵に行くとか会いに行った上京してからは派遣のクラスメイトを誇らしく案内した

母となってから息子たちが小学生の頃美術館に連れて行った。彼らがお気に入りの夜の中の女たちの絵をベッドのそばに飾っていたのを思い出す。先日は大原美術館に主人と行った。倉敷の街は綺麗に変わっていたが、玄関のロダンの像は昔と同じように私を迎えてくれた」

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