日曜美術館「将軍からの贈り物 フランスの古城で新発見 幕末の美 」

日曜美術館「将軍からの贈り物 フランスの古城で新発見 幕末の美 」

フランス歴代君主の離宮・フォンテーヌブロー宮殿で、幕末の日本から皇帝ナポレオン3世に贈られた贈答品が大量に発見された。びょうぶや掛け軸、漆塗りのたんすなど、日本の芸術の粋を集めた豪華な美術品の数々。欧米列強の進出にさらされた東洋の島国は、美術品にどんなメッセージを込めたのか?日本とフランスの幕末美術品外交秘話が明らかに!さらに贈答品は日本の伝統絵画がどのように培われてきたかを物語るものでもあった。

初回放送日: 2021年10月17日

日曜美術館「将軍からの贈り物 フランスの古城で新発見 幕末の美」

フランスパリの近郊にあるフォンテーヌブロー
宮殿ありがとうございます
中世の十二世紀以来
歴代の君主が好んで滞在し
膨大な美術品を残した有給の古城です
一昨年この白で
意外なものが見つかりました
平安貴族の姿を描いた黄金の屏風うん
蒔絵が施された豪華な漆器
それは幕末の徳川将軍が
フランスの皇帝に送った贈答品
百六十年もの間
人知れず保管されていました
十九世紀の半ば国を開き
西洋と出会って幕末の日本初めて見える
ヨーロッパの君主何を送ればよいのか
幕府は贈答品に
深い意味を込めていました
うんどういう風に
相手国に自らを示すかっていう
隠された意味がちゃんとあったと思います
へーうん贈答品は
日本の絵画の技が
どのように培われてきたかを
物語るものでもありました
千年続いてきた日本の伝統的な絵画システム
本当に最後の輝き
ものすごい先人たちの技術とセンス
情熱が込められてたかっていうのは
もう本当に鳥肌が立ちましたね
日本とフランス知られざる美の交流の足跡を
新発見の贈答品から見つめます

日曜美術館です
人フランスの宮殿で発見された
幕末の美術品をご紹介していきます
けれどもフォンテーヌブロー宮殿
あまり聞き慣れないお城だったんですが
行かれたことをあのーさんあるんですけど
二十年ぐらい前に絢爛豪華っていう
こう感じよりはなんかこう
人の気配がこうすぐそこ
にあったような
そんな不思議ななんか
そういう印象を受けました
さあではそのお城にどんな日本の美術品がある
まず今日はですね
どんなものがどんなふうに送られたのか
その辺りから見ていきます
パリの南東およそ六十キロにあるフォンテーヌブロー
幕末の贈答品が見つかったのは
今年六月宮殿で開催された
美術の祭典がきっかけでした
毎年テーマが設けられているこのイベント
今回は日本の美です
作品展示やシンポジウムなど
三日間で二百を超えるプログラムが
開催されました
準備の最中宮殿に
日本の古い美術品が
三十点近くもあることが判明
日仏両国の研究者が調査を進め
特別展を開催することとなりました
宮殿を訪ねた雨宮知子さん
二十年前にフランスに渡り
美術史を学んできました
はいその徳川幕府からこちらの豪邸に
そういった公式の美術品が送られていたって
多分ほとんどの方が知らなかった
と思うんですよね
でそのなぜそういう経緯になって
送られたのかっていうのは
本当に興味がありますし
そのねどうしたら
その百五十年前のものが今私たち
がきれいに見えるもので
保存されていたのか
っていうことにも興味があります
うん幕末の贈答品は
日仏外交の黎明期を物語るものでした
うわ鮮やかですねはい
まず拝見したのは
六曲一席の佐野の渡り図屏風馬に乗り
旅路を行く貴族の姿が描かれています
うん調査に当たった一人エステル覚えるさん
佐野の辺りはあの藤原藤原に基づいてて
それで落ち払う影もなし
佐野の渡りの秋の夕暮れというわけです
馬を止め袖に降りかかった
雪を払う物陰もない佐野のわたし
人物を画面の左に寄せ
右に空間を取ることで
旅先で迎える夕暮れ
時の物悲しさを表しています
淡々とみたいなのも
五分五分を使って近付くと
非常に奇麗ですね
その確かにこの金だから余計今
雪がこう目に入ってくる
っていうのもありますよね
フランス人はこういうものが大好きですね
大好きなんですが
やっぱりこのフランスの方に喜ばれるよう
覚えるさんが注目した
のは屏風の裏側
全て金箔で覆われています
なぜあの金箔があるかといえば
それがあのーえーと
外交のために使われている贈呈品だから
目を尽くしたということなんでしょうねそうですね
はい
そう金箔貼りは公式の贈答品のある
しかしそれは
どのようにもたらされたもの
なのでしょうか
ペリ来航から五年後の千八百五十八年
幕府はフランスなどヨーロッパ五カ国と友好
通商条約を締結
フランス皇帝ナポレオン三世は
自らのブロンズ像などをに送った
といいます
うん一方の将軍徳川家持は
フランスに返礼品を贈呈
そこに金箔屏風が含まれていたのです
屏風はまさに日仏
国交の始まりを告げる
記念の品だったのですうん
発見された贈答品の中には
豪華な十服の掛け軸もありました
瞬間州都を描いた八服の祭式
そして山水を描いたに服の水墨画です
これらは日本からの使節団が持参したものと
わかりました
はい千八百六十二年
幕府が初めてヨーロッパに派遣した
運休遣欧使節団約束した開口や
開始の延期などを交渉するために
欧州六カ国を歴訪しました
はいうん使節団は最初の訪問国フランスで
ナポレオン三世に謁見
掛け軸を含む十三箱もの贈答品を進呈した
と記録されています
掛け軸を間近に拝見しました
水墨の山水図です
遠くには切り立った山手前には
二本の大きな松と
東屋のある橋が描かれています
うん描き方にも特別な工夫が
水墨画の時は
ちょっと鮮やかに
水墨画にしろとそういう指示がありました
その度にあの
そういう禁令をあのかなり乗りました
うん金泥を引き
タンパクの水墨画に
華やかさを添えています
えーのところと
表層のところのもとてもこう効果です
ねえーだけでなく表層も目を引きます
実はこの記事が
使節団の持参品と
特定する手がかりになりました
幕府の文書を調べたところ
表層に用いる生地が細かく記されていました
はい例えばこの一組は
文字の太鼓に入門用としろちゃ時のおたん
文様の組み合わせその記述が見つかった掛け軸に
ぴたりと一致したのです
幕府は生地の選定にまで
周到な準備をして臨んでいました
豪華な贈り物を諸国で歓待を受けた使節団は
開始海溝の五年間の延期を
無事取り付けました
帰国五幕府は
使節団への皇宮に感謝を伝えるため
お礼の品を送りました
あのこれは漁師猟師はい漁師です
それであのーその上に
色んな模様がありますよね
この両親の名前は
陽極尽くし巻きの歌の性を認めるための
紙を入れる漁師
銀粉を散らした
豪華な蒔絵が施されています
そうですね光にさらされてこなかった内側は
作られた当時の輝きを止めています
ふたの裏側にも書かれてるっていうのが
ちょっと日本的な美意識と言いますか
見えないところにもこだわっている
という感じがしますね
先人たちのあの技術と
あのーセンスと
全てのあのもう
うわずみのようなものが詰まったものだ
と思うんですね
ものすごい時間と熱量込められて
こう全てのこの件を発見したんだな
っていうのが
一つ一つの贈答品を見ると伺いますね
そういうのこもった贈答品を
こうこう見た喜びっていうのがね
こう伝わってきますよね
大変に豪華な贈り物ですけれども
今日はスタジオに
この贈答品の調査をなさった
お二方にお越しいただいています
フランス美術がご専門の三浦純さん
そして日本美術が
ご専門の鈴木博之さんです
よろしくお願いいたします
あの三浦さん後
百六十年くらい前の贈答品が発見された
っていうのはそういう驚きだと思うんですけど
なぜ今まで知られてなかったんでしょうか
あのーこれらのですね
幕末にあの徳川幕府を送った
贈答品なんですけれども
これまでほとんど知られていなかった
と思いますあの
送られた贈答品は
第二低い生起のナポレオン三世の妻である
ウジェニー皇后の手元にあったんですね
で無事に高校はその当時流行していた
東洋趣味中国とかですね
アジアの美術に関する趣味ですけれども
その流れの中で彼女自身も大変興味を持った
実際フォンテーヌブロー宮殿にえ
中国美術室とか
あるいは漆のまと呼ばれる
彼女自身のプライベートルームですね
こういう部屋をしつらえて
そこに例えば中国の品
あるいは今回三百件されたですね
あのー日本の品物
などを並べていたんですね
でところが第二帝政というのは
千九百七十年に崩壊してしまいます
でその後ですね
そもそもの由来のようなものが
分かっている人が
ほとんどいなくなってしまった
ま比喩的に言いますと
冷凍保存された形で
百六十年後のえま
二十一世紀においてですね
新しく発見された
えーその由来を調べようとしたんですけど
これは簡単ではないですね
もしかしたら幕末のまあ
外交上の贈答品かもしれないという
まあ予測は立つんですけれども
エビデンスがないということで
では日仏共同チームで調べたらどうだろうか
ということになって
まあ日本美術の専門家と一緒に
チームを作って調べて
それでようやく色々なことが判明した
という次第です
で鈴木さんはその日本美術の専門家として
まあそういうものがあるからえー
フォンテーヌブローでみてください
ということで
行かれてご覧になった時の印象は
どんな感じでした
まず最初は推測だったわけですね
かもしれないっていうので言ってますので
実物を見た時にはえーま
幕末のものだろな
明治になってからのものではなさそうだな
ということはまず分かりました
であと屏風の裏側ですね
あのー普通ですとあのーから上を屏風の中身
裏側には春ですがその緊迫しばりです
でこれはあのやはり特別なものなので
まあこれであのー
幕府から送られたプレゼント品だった
ということはま分かっ推測できたということです
それ以外にこう決めてなった
っていうようなものっていうのはあります
えーと掛け軸の表装きれいですね
でこれはあの一服について
三種類の記事を使うんですけれども
あの天地というのが一つ目で
それから中回しっていうのは二つ目で
それから一文字と風袋
これは同じ綺麗を使います
三種類を使うんですけれども
えー調べていきましたらばこういうものが
出てきてどんな布地を使うべきか
という指示書ですね
これはあの幕末に
幕府の中で取り交わされた
外交文書のこれを写なんですけれども
えーこの表層儀礼の組み合わせが
書いてありました
えー十部下に複雑一セットになって
五セット分の表層儀礼の取り合わせが
ここに記された
確かに比べてみたらば
組み合わせにぴったりだったので
あこれはもう間違いない
文章に年の施設の贈り物だった
ということが分かったわけです
そんなすぐぴたっと合致するってすごいですねそうですね
私もびっくりしました
ただ私も最初にですね
フォンテンブロー宮殿で作品を発見したときに
おらをちょっと感じましたよね
はい実物はなんかそういうものを漂わせていて
ちょっとこれは普通じゃないんだっていう
そういう印象を受けたのでま
恐らくそれに間違いはないだろう
というような予感はありました
なるほどではその贈り物に
当時は一体どんな意味を込めて
相手国に送ったのか
続いてはそちらを見ていきます
初めて見えるヨーロッパの君主への贈り物には
深い意味が込められていました
うん素晴らしい綺麗ですね
分休み慶応使節団が持参した掛け軸の一服
紅葉にアオバトず枝先から紅葉が始まり
秋へと移ろう季節を伝えています
枝にとまるのは
庭の青バット羽の一枚に至るまで
繊細な筆遣い描いたのは可能
下線共に幕府お抱えの狩野派の絵師です
うんこの一服単なる花鳥画ではない
と言います
美しいなと思ってしまいますけれど
ただ美しいだけではなく
それでただ現実的なものではなく
あの王権の印が込められている作品ですよ
はい同期どこにでしょうか
はいあのーそれはあのー
青葉とのイメジということですけれども
アオバトに込められた王権の印とは
何を意味するの
でしょうか
なるほど六月発見された贈答品をめぐって
国際シンポジウムが開かれました
日仏両国の研究者の手で
贈答品の持つ意味合いが明らかになっています
狭い掛け軸を調査した高岸明さん
描かれたアオバトに
日本が西欧に伝えようとした
メッセージが込められているとみています
それを読み解く上で
重要な一枚の絵がありました
中国北西そう時代の皇帝徽宗が描いた桃鳩ず
優れた描きてでもあった奇想のこのえーによって
中国ではとは皇帝の象徴とされました
室町時代将軍足利義尚の手に渡ると
この絵は将軍なども含み
合わせた冒険のイメージを纏うように
なります
見つかった紅葉に
青葉と頭はこの名画とよく似ていますし
レートを反転させて
そのまま映しているということになるんですね
この絵は少なくともま日本においては
中国の皇帝のイメージと
そして日本の将軍のイメージ
療法のイメージを持っていたと思います
ま外国の工程
あるいは王族に対して送るにふさわしい
画題というのは
かつて日本に中国から渡ってきた
中国の皇帝のイメージ
これをヨーロッパの工程や王族に送るというま
こういう仕掛けが
あったんじゃないでしょうかね
はいさらに青葉と頭とペアになる上にも
注目しました
竜田紅葉ず紅葉で知られるならの竜田川は
和歌にもよく読まれる伝統的な課題
意外でした
その絵を青葉と頭と
並べることに意味があったとみています
このアオバトというのがあのー
少なくとも中国の絵に描かれたものを
そのまま映してますから
やはりかんまあ
中国的なイメージというのがあってで
一方で竜田川の方は純然たる日本の秋の風景
しかも最も歌に詠まれる
伝統的な日本の秋の風景というまあ
そういうあのペアになってるん
じゃないでしょうかね
描かれた画題から
中国文化を受け継ぐ
日本の王者という
自意識を読み取ることができるのです
当時の徳川将軍として見れば
やはり自分たちが
中国の皇帝のイメージも取り合わせた
王者の地位というのに
まだまだ君臨しているんだという
簡単に植民地化されるような
軽薄な国ではないぞ
というようなこの自負みたいなものは
これはやっぱり海外に対して
こうアピールすべきものだ
っていうふうに
言っていいんじゃないでしょうかね
さらに幕府の高度なメッセジが窺われる
贈り物があります
えっとあのーこのタンスですけれども
あの源氏なきダンスといやいいいます
源氏物語の源氏はいその通りです
はい源氏蒔絵ダンス使節団の帰国後
幕府が送った漆塗りのタンスです
表面には源氏物語の中の
二十一の場面が描かれています
全部源氏物語の場面を捉えているものですね
そうですね例えばこれは切り都合です
はいあの桐の木が見えます
それからまあ建物です
ええそういうそれでこれは諏訪です
妻これスマなんです
はいはいそれで全ては人物がないですね
あの普通は源氏物語を絵画化したものは
人物が入って配置してますけれども
ここはあの人物は全くいないんですけれども
それはロス模様と言います留守模様です
模様へえ留守模様とは
道具や場所などを描くことで
物語の場面を連想させる手法
例えば源氏ヶ狩りを見て歌を詠んだ
スマの場面では彼は描かれますが
登場人物の姿はありません
つまり物語の内容を知っていることが
前提となるのです
なぜ幕府はこんなにも
手の込んだ品を
フランスに送ったのでしょうか
漆器贈答品の調査を担当した
日高薫さんです
見せてくれたのは
当時すでに西洋に向けて
輸出されていた漆器
今回の贈答品とは全く異なる趣きです
蒔絵が施されたこの漆の箱実は
ナイフ入れです
うんこちらはこの時代中期の蒔絵ざらはい
中央にはこれを作らせた
オランダ証人喚問東海道の賑わいなどが描かれ
依頼主が好んだ日本の絵柄が窺われます
これらと比べ物語の知識がなければ理解できない
このタンスは
相手におもねることのない印象です
源氏絵というのは
大変伝統的な
最も日本の文化を象徴するような
美術品であるわけです
ですからその言辞を描いた工芸品を送る
っていうこと自体に
その自分二つの誇りみたいなものを示す
対等に付き合っていける相手だということを示す
という意味があったんじゃないか
と思います
あの単にこう素晴らしいものを来る
っていうだけじゃなくて
そこにこうさまざまな文化的な意味
歴史的な意味
が込められている
っていうことは分かりましたけど
ま日本側っていうか幕府側としてはあのー
まあ幕府が自分で考えて
これが自己アピールになるだろう
というふうに考えたもの
を制作して
まそれを贈り物として持っているわけですね
一つは富士山の図柄をがありますね
富士山というのは
まあバンコク一般によく知られた山だから
それはあのー今回
贈り物の中に入れたらいいんじゃないかですから
あのそういう風に
バンコクによく知られたものをあの画題に
取り入れることによって
ま自己アピールしようかっていうような
そういう考えだったんじゃないかな
っていう風にあのー
開国したばっかりなのに
バンコク当然知ってるでしょう
富士山っていうのは
なかなかすごい自負心っていうか
こうプライドみたいなものがこう見てほしい
自分たちのイメージは
やっぱりこう前面に押し出していくっていうそうだ
と思いますね
ちょっと富士山の高みから
我々は神であるって
こう見せるっていうことなんでしょうか
あのー確かに日本のですね
徳川幕府の意気込みっていうのは分かりますよね
プライドと意気込み
欧米列強に負けないだけの我々は文化を
持ってるんだっていうですね
まある種の美術品外交ですよね
ただフランス側がそれをそのまま
そのメッセージを受け止めたかどうか
私はやや疑問に思ってるんですね
例えば試験のイメージとか
あるいは源氏物語の住むようとか
非常にレベルが高いですよね
解読するあの皇帝ナポレオン三世が果たして
あの鳩この旗を見てですね
王権のイメージを感じた
かどうかそれは
ちょっと分からないと思いますね
あとは源氏物語を知っていたかどうか
これもかなり疑問だと思います
これはフランスだけではないと思いますけど
ヨーロッパの人たちにとっては
やはり日本は極東の小国なんですね
まず大国中国があって
その側にある小国だしあのー
実を言いますと
千九百六十一年にえーしゃも報告からえー
外交使節が来るんですけれども
まあこれですけれどもこの時はですね
もう絢爛豪華な感じで
もうエキゾチックなと言ってもいいですよね
はいこういうふうな出で立ちで来て
平身低頭してる感じがありますで
恐らく日本の施設
が来た時も
フランス宮廷側としては
このイメージがあったと思うんですね
で実は面白い新聞の記事がありまして
あのシャムの外交施設のような案内で
出してくるかと思ったらもっと地味なですね
落ち着いた色のシンプルな衣装を着て現れた
非常に堂々としているわけですね
もう我々はヨーロッパなどには負けない
っていうぐらいの気概を感じさせる
非常にこうプライドのある侍の姿ですよね
でこれは彼らの予測を超えてたんじゃないか
と思います次第に
これは文化的なレベルが高いんじゃないか
という風に感じ始めたというですね
あの道も東洋には
ヨーロッパとは違うけれども同じような高みにある
そういった文明がですね
あるらしいという風に
その施設たちの姿を見て
どうも感じたらしいですねで
これなどは日本人のイメジを
まちょっと覆して見せた
そういうですね
ミッションだったんじゃないかな
と思いますね
どうも我々のイメージと違う品格があるな
とかですね
そのレベルが高いものを持ってきたなとか
それぐらいの印象を得たんじゃないかなと
私はまあ想像しています
続いてはですね
その送られた幕末の美術品の価値
その辺を見ていきます
フランスに送られた
あのもみじにアオバトず描いたのは可能
知伸という絵師です
初めまして山田ですよろしくお願いします
この絵師の子孫を訪ねました
可能のひ孫山田久美子さんです
あのーどうも初めまして
母親の中小アグリさんは
共信の孫にあたります
ここにあり山田さんは
曽祖父共信に関心を持ち
作品を買い求めながら
足跡を調べてきました
そういう屏風です
藤原共信って書いてありますので
おそらくお奥絵師時代の作品ではないかな
と思います
狩野派狩野派で
最も格式が高いおくえ子の家に生まれ
明治の末まで生きた可能は
最後の医師でした
十六歳でお抱えしに十八の時
贈答品の製作に抜擢されました
十代で奥絵師になってるんでしょう
確かね十代の後半っていうのが一番ね
その感受性の強いときですし
やはり本当にいいものを作ろうという
という意気込みが感じられますね
それにね選んでもらえた
だから本当に良かったわね
山田さんの家に残されている
興味深い掛け軸を拝見しました
可能の分が描いた山水図です
遠くの切り立った山大きな日本の町
そして東屋のある橋
それはフランスで見つかった贈答品の山水図と
とてもよく似ています
こちらを描いたのはの父可能中延でした
本当にそっくりでびっくりいたしました
親子が描いた瓜二つの掛け軸は
何を物語るのでしょうか
うん静岡県立美術館の野田あさみさんは
二千七百点
以上の狩野派の作品を網羅してで
食べすを作成が
大ごとに作例を探すことができます
山水図を手がかりに調べると
賀能知の坊やこの絵も
よく似た前例を
元に描かれていることが伺えます
ここら辺とかも
基本基本のパツは一緒ですよね
こうこういう風にして
むしろ近代以前のようは
こういう風にして
書かれているのが普通なので
素晴らしい作品というものを元に
そのイメージを自分なりに取り入れて
展開していくっていうのが
絶対的に必要だことだと考えています
技術を習得するために
狩野派が代々重んじてきたのは
名画を模写することでした
これは十九世紀初頭
狩野派の党首が
中国の古典を模写して
まとめたアルバムです
室町時代以来日本に渡って
中国の名品を正確に写したり
それをまた弟子たちが見て移しました
あのーきそう皇帝の桃
鳩頭の模写を繰り返すことで
絵師たちは目を肥やし
腕を磨いていったのです
なるほどお抱え子たちの絵画表現は
こうした基礎の上に成り立っていました
この屏風絵は
中国の名画から得た
着想を取り入れています
ええ右側の楼閣は元の時代の絵画をヒントに
馬を駆る人物の描き方は
宋の時代の名画から
模写を通して学んだ絵柄を組み合わせることで
新しい作品を生み出しています
発想力とかあの
オリジナリティというものに頼るのとは
また別の形であのー
江戸家のはというのは
常に発展していくために
技術を磨いていたのではないかと
明治以降は狩野派は
やはり同じ図をずっと書いたり
ということが批判され
あの創造性を失ったというような言い方を
ずっとされてきたんですけれども
まあそういった考え方
自体を改めていく必要があると
私は考えています
フランスに使節団が発見された六年後
幕府は崩壊お抱え絵師たちは離散します
送られた掛け軸は
模写を通じて培われた
伝統絵画の最後の輝きでした
分かりますうん
青葉と図を描いた可能は
明治以降も東京美術学校で
日本が教えながら
生涯絵筆を撮り続けました
うん明治になって
日本が色々変わっていくわけですけれども
自分はその可能
羽根を守るんだっていう気持ちがあって
それはその今回の発見によって
やっぱり自分の絵は
海外に童貞品として取ったんだ
っていう自負があったんだな
と思って分かりました
うんあのー模写っていうと
やっぱりコピっていうようなね感じでなんかこう
オリジナリティと少しこう
あの遠いものにちょっと感じられたりしてね
そうですね江戸時代の狩野派っていうのは
創造性を失ったっていうふうに普通言われて
反面教師だっていう
ふうな言われ方までしてた訳ですね
でところがあのオリジナリティと
それから創造性
というのをいこっで考えちゃうと
ちょっとどうかな
っていう気がするんですよね
必ずしもそのーあの近代絵画
近代芸術の考え方は
ちょっと違ってるところがあって
まその今回になってるのがま古典ま
先人の買い残した作品を一生懸命も保護
する
それだけじゃなくて
自分のオリジナリティのある絵画を制作する上でも
その土台になってるものっていうのは
ちゃんとしっかりあることが大切だということで
自分勝手に作ってるんじゃない
っていうことをしっかり主張する
っていうことが大事だったわけですね
まあそういう意味では御用エイ氏
と呼ばれた人たちが
自分たちはその伝え手である
ということを意識して
ずっとこう模写してきた
続けてきた考えていいですかその通りですね
それはやはりあのー
自分たちの伝統が
このままだと
ひょっとしたらくなっちゃうかもしれない
大変だなという
そういう一種の危機意識みたい
なものがあったんじゃないかな
というふうに想像されますね
それは何かこう
時代が大きく変わろうとしている
ということを感じた上で
何か今残しておかなければ
って思ったんですよ
その可能はも恐らくこう
西洋近代との出会いっていうの
インパクトを肌身で感じてたと思うんですけども
例えばこういう贈答品などを通じて
あの可能は的なものが
フランスに紹介されていく
っていうことになった時に
やっぱりジャポニスムなんかで
こう理解されているような日本美術とは
やっぱり違う美術として普通
ジャポニスムというと
これはやはり印象派との繋がりで
浮世絵版画に代表されるようなある種
庶民芸術の江戸時代の美術品が
色々な影響を与えた
ところが今回はちょっと違うんですね
公式美術とかえー可能配布されるような
公式の美術品がフランスに渡っ
ていったっていう話で
確かに限られた世界でしか受容されなかった
しかし氏の高校は
それをおそらく好んだと思われるんですね
というのは自分のプライベートルームの中に
それを飾っていたし屏風とかですね
そういった箪笥なんかも置いていたし
こういって日常生活の中で自分
の近くに置いてきた日本の美術品をこれ
やっぱり一種の日本
趣味であろうと思うんですね
ということは
フランス宮廷における日本趣味また別のジャパンそうですね

しかしたらこれは
今まで我々全く気が付かなかったけれども
別の種類の宮廷文化におけるジャポニスム
というのがもしかしたらあったかもしれない
ということは
ちょっと今後の研究を考える上で
面白いしてんじゃないかなと
思いますでも今回は
たまたまフランスの例を見ましたけれども
きっといろいろなところに送っていますよね
あの幕末にオランダに送った金屏風が
天井されたという事例がありました
これからあのこういうものが
あの発見されてくる可能性というのは
かなりあるんじゃないかなという
ふうに思います
これから是非調査していきたい
という風に思ってる
ありがとうございました