日曜美術館「微笑(ほほえ)む仏~ 柳宗悦 が見いだした木喰仏~」

2018.09.16.日曜美術館「微笑(ほほえ)む仏~柳宗悦が見いだした木喰仏~」

独特の笑みを湛えた仏像を彫った江戸時代後期の僧侶、木喰。その木喰仏を世に広めた人物が、民芸運動の創始者、 柳宗悦 である。柳の眼を通して木喰仏の魅力を紹介する。

“微笑仏”と呼ばれる独特の笑みを湛(たた)え、素朴で温かみのある仏像を彫った江戸時代後期の僧侶、木喰(1718~1810)。全国各地を遊行し1千体以上の仏像を彫った。長年埋もれていた木喰仏を見いだし、その魅力を世に広めた人物が民芸運動の創始者、柳宗悦である。柳は、木喰の故郷、山梨県身延町丸畑をはじめ全国各地を実地調査し、多くの木喰仏を見出した。全国に残る木喰仏の魅力を、柳宗悦の眼を通して紹介する。

【出演】全国木喰研究会評議員…小島梯次,身延町教育委員会主査…深沢広太,清源寺住職…小野崎弘顕,栃窪木喰薬師堂世話役…上野昇,宮崎民俗学会会長…前田博仁,小栗山観音堂管理人…坂詰司朗,【語り】高橋美鈴

放送:2018年9月16日

日曜美術館「微笑(ほほえ)む仏~柳宗悦が見いだした木喰仏~」

江戸時代、光輝

日本中をめぐって

苦しむ人々を救おうと、

千体を超える仏像を彫った僧侶がいました

目的です

目的の仏像の特徴は、

独特の微

笑みを讃えていること

実証物と呼ばれます

大正時代、

この微笑む仏に

魂を奪われた人物がいます

民芸運動で名高い

柳宗義です

当時、忘れ去られていた目的の仏像を、

柳は

全国を旅して

発掘していきました

栃木県で

柳が見出した

薬師如来

農夫のような

独特とした顔に、

かすかに

笑みが含まれています

merrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrr

rrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrr

rrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrr

rrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrr

rrrrrrrrrr

目的が

故郷の山梨県で掘った

観音菩薩

にこやかに微

笑んでいます

京都府では

こんな愛

嬌あるラカンも見つかりました

片目を閉じ、

ウインクして笑っています

木色物を見出した

柳宗義、

最初に出会った地蔵菩薩に

こう呼びかけます

あなたは微笑む、

合唱し、

私に向かって微笑む

また微笑む

あなたの笑顔は

思わず私の心を

緩めてくれる

私の心も

微笑する

東京駒場にある

日本民芸館

この民芸館を構想し、

初代の館長についたのが

柳宗義です

柳は

無名の職人たちが作った日用品の中に

美を見出し、

明芸という言葉を作りました

そして、

それを世に広める

民芸運動を繰り広げました

民芸の美に

柳が目を向けるきっかけの一つが

木色物

との出会いで した

大正十三年、

柳は

山梨県池田村の村長の家で、

木次期物と

運命的な出会いをします

仏像は

暗い蔵の前に置かれてありました

その前を通った時、

私は即座に

心を奪われました

その口元に漂

う微笑は、

私を限りなく惹きつけました

尋常な作者ではない

異数が、宗教的体験がなくば、

かかる者は刻

み得ない

柳が

その時魅了された

地蔵菩薩です

村長は柳に

作者が黙示器承認であることを教え、

この仏像を送りました

地蔵菩薩が届いた時、

柳は

風をひいて寝込んでいました

私は枕

部にそれを置いてもらいました

眺め入るや、

私は病句をも

忘れて、

またも

微笑みに誘われたのです

誰かその微

笑みに逆

らうことができるでしょう

私はそれに見入り

見入り、

見入りました

柳は

この仏像を

絶えず身近に置いて

眺め暮らしました

あなたは微笑む

合唱し、

私に向かって微笑み、

また微笑む

どうして微笑むかと

尋ねても、

その微笑みに

全ての答えを託している

私は今

日夜をあなたと共に暮らしている

私が嬉しい時も、

あなたは等しく

微笑んでいる

だが悲しい時でも、

その笑顔を

崩さない

時として、

腹立たしき怒りに

心を曇らす時、

私はあなたの前に佇む

あなたの笑顔は

思わず私の心を緩めてくれる

私の心も

微笑する

目的の研究を決意した柳は

出会

いから半年後の

大正十三年

目、次期の故郷、

現在の山梨県

南部町の山あいにある集落、

丸畑を訪ねました

柳は

集落の人たちに

目的のことを

尋ね歩きました

そして

念願していた

目的の紋章を見つけました

それは

目的が自

らの経歴などを記した

自室の文書、

柳にとって

思いがけない幸運でした

見知らぬ納付によって

それが私にもたらされたのは、

もはや帰り道に着こうとする

その日の暮れ方であった

その折の

私の喜びを

どうして語ることができよう

私は一夜を

この村に明かすことを即座に決心した

夜更けで

空が知らぬのも間もない頃まで、

私はそれに読みふけり、

すべてを写し取った

目的が、その紋章を書いた頃、

故郷で掘った

自分自身の姿です

この時、 目的は

数え八十四歳、

長いヒゲを蓄

えています

目的は千七百十八年、

丸畑の農家に生まれます

しかし

十四歳で故郷を去り、

江戸に出ます

方向に励み、

出世した時もありましたが、

たびたび

浪人になったと言います

そして

二十二歳の時、

出家、

四十五歳の時、

木次機会を受けます

米や

麦などの穀物を断ち、

木の実などしか食べない

厳しい修行です

五十六歳の時、

目的は諸国

遊戯王に旅立ち、

やがて仏像を彫り始めます

旅は

北は北海道から

南は九州まで、

全国つつ裏裏に及んでいます

生涯続く旅

の途中、

目的は何度か

故郷の丸畑に戻ります

八十代で故郷に帰った時、

目的は膨大な数の仏像を刻みました

文書でそれを知った柳は、

直ちに

木色物が残る

丸畑の寺を訪ねました

私は明日を待てず、

真夜中、

灯火をつけて

寺へと刺したのです

矛盾の廃止にキシルとの響きは

音楽山里に

時ならぬ木霊を送りました

荒れ果てた床を踏んで家に入り、

灯火を高く掲げた時、

仏壇の前方

中央に

セソンの顔が

幻のごとく浮かび出ました

おお

思わず声が漏れた時、

いならぶ左右の四体が

なおも私の前に

現れてきました

この時、柳

が見た木色物は、

今も木色の成果で

大切に祀られています

仏が備える

五つの知恵を

各々成就した

五つの如来

ごち如来の像です

中央には

蓮の花の台座に座り、

頭に訪韓をいただく

大日如来、

穏やかに微

笑んでいます

左端には

車間如来、

小さくカールした髪型が特徴です

表現極めて強く、

刀は深く、

陰影の美が鮮やかである

僧帽

すべて異言に満ちる

しかも、組織は

含まれる美少

商人はこの日々を

どこから

捉えたのであるか

目的は

ごち魚雷を掘っただけではありませんでした

村人たちの要望に応えて、

四国令嬢

八十八か所の本尊、

八十

八体もの仏像を

掘り上げたのです

要した月日は

九カ月弱、

この間に

彼は八十八個 の仏

を刻んだ

平均すれば

三日に一個の割合である

ある者は

わずか一日

のうちに作

られている

どうして核も迅速に作り得たか

すでに年老いて

八十

四歳である

彼の努力、

彼の勢力は

驚くべきものであった

昼となく、夜となく、

のみの音が聞こえたと

村には言い伝わっている

八十八体の仏像を

掘り終えるまでの権威を

目的地震が記しています

木材の切り出しなど、

当初、村人たちは

こぞって木敷を支援しました

しかし、

途中から

離脱する者が相次ぎ、

最後まで支えたのは

十三人だけでした

黙示器は

村人たちに

互いに仲

睦ましく暮らしてほしいと記し、

こんな歌を添えています

皆、人の

心を丸く

まん丸に、

どこもかしこも

丸く

まんぱる

しかし、

長い年月が経つうちに、

村人たちの信仰心は薄れ、

四国令嬢

八十八対仏の所有をめぐって

居酒井が起きました

そしてついに

大正八年、

それらは

売り払われてしまったのです

柳が

丸畑を訪れたのは、

その五年後、

大正十三年でした

売り払われた八十八体物のうち、

まだ村に残るものなどを探し出し、

写真に収めました

柳が

初めて目にして魅了された

地蔵菩薩の、

この

売り払われた八十八体物の一つだったのです

彼は

老いてますます健

やかであった

下り坂にあるのではない

いただきに近づきつつ

あったのである

驚くべき世紀が

すべての策に満ちている

そこには

命が踊る

強さは加わり、

深さは増してくる

干渉的な跡が

微塵もない

全てに無心である

今年は

目的が生まれて

ちょうど三百年、

それを記念して

故郷の身の部長で

目的の展覧会が開かれています

展覧会を機に

各地に散らばった

八十八対物の一部が

集まりました

こちらが

八十八対物の展示になります

目的の時代から

地元丸畑で大切に守られてきた 二体、

それから

大正時代に

全国に散り散りになってしまった

愛護大福で、

全部で七体が

集結をしておるんですけれども、

こちらの地蔵菩薩さんは

東京から、

また

躍進如来

戦時観音は

愛知県から、

観音菩薩が大阪から

来ております

ふっくらと丸みを帯びた顔

頬も鼻も

顎も

目尻の歌のように

丸く

まん丸です

そして

その表情は

いかにも

気持ちよさげで、

口元にでも言われぬ笑みをたたえています

どの物資が

彼のように深く微笑を取り入れたものがあろう

彼は

その口と

その頬とに

微笑を与えなかった場合はない

迷う魂を

その微笑に

摂取するかのように見える

本来、仏像は古いものではないんですけれども、

木軸物はみんな微笑んで

おいでになって、

しかもあの非常に人間的なお顔、

人間的な微笑

している

木次期さん自

身があの庶民のための像を掘ること、

悪で庶民の病気を救わんとすることが一番のあの

生き様ですのでね

そういったことが

やっぱり

必然的に

庶民の中で交

わっていく中でね、

優しさを表す

微小を、

あのたた

えた図を掘るのが

一番

いいんじゃないかなというふうに

思ったんじゃないでしょうかね

目的は

五十六歳から

諸国遊戯王の旅を始め、

実に九十三歳で亡くなるまで

続けました

目的はこう歌っています

いつまでか

果てのしれざる旅の空

いずくのたれと

問う人もなし

木色は

旅の中でどこに泊まったのか、

自ら宿

帳を作り記

しています

柳は

その地名を

丹念に読み込み、

目的の訪ねた土地を

確かめていきました

彼は

幾多の名ある城下や

寂しい村、

村を過ぎた

だが、

賑わしい都会に長く留まった場合は

極めて少ない

多くは人にも知られない堅い中に杖

を止めた

その方が

彼の心にかなったのである

衰えがちな仏教も、

雛にはまだ

生きている

諸国を輸行して、

千体以上の仏像を刻んだ 木次期

柳は

宿町を手がかりに

木敷が訪れた土地を訪ね、

仏像を探す調査に乗り出しました

栃木県鹿沼市もその一つです

鹿沼市土地久保

柳は、

木色物と出会った

大正十三年、

ここを訪れます

そして、

村に一つだけあるという

薬指導を見つけました

が、繰り返して

訪ねたに関わらず、

土地久保の村には

全く商人に関する記憶が絶えている

不思議にも

村の者は、

それが誰の手で建立されたかについて

全く知るところがない

名もないこの銅の調査に、

人々はただ不思議があるのみであった

歩道には

本尊の訳し如来を真ん中に、

日光学校菩薩、

その周りに

十二新章が立ち並んでいました

眉はまどかに、

頬は膨らみ、

舌は豊かに、

体は超える

目は緩やかにつぶり、

口元は

音もなく微笑んでいる

主情を思い、

すべてに憩いを送るその風情は、

見る者の愛を

集めてくる

土地久保の仏像は、

目的が掘り始めた初期

六十三歳の時のものです

薬師如来は

農夫のように素朴で

ふくよかな顔をしています

薬師如来の従者で、

如来とともに人々を守るのが

十二身傷です

十二の真相は、

ことごとく

岩尾に立って

身を構え、

我々を閉鎖する

眉太く上がり、

頭髪逆立ち、

まさに動こうとしている風情である

それらのものに囲まれて、

薬師の孫隊は

静かに

柔らかく

その座を閉める

内なる美と

外なる力

静寂と同率の対比

薬指導の目的物は、

集落の人々が

持ち回りで世話をしてきました

確かに

可愛いですよね

よく見ると

そうでもないですか、

可愛いと思うんだよな

可愛いっていうか、

少し

笑ってるような

歯に噛んだよう な顔

して

ると私は思うんですけど、

頭が出てやると

微笑みが返ってくるって

よく言われたから、

本当は微笑みは

もともとしてるんですけど、

また

さらに微笑

みが返ってくるって

言われてましたね

目的の全国各地への遊戯王の旅

その後、六十代には

北陸や関西地方、

四国八十八カ所などを巡って

宮崎県西都市に着きます

目的が再都市に来たのは

七十一歳

それから

足掛け十年にもわたって

この地にとどまります

ここには

江戸時代、

ヒュウが国分寺がありました

目的はその住職を引き受けます

しかし、ある時、

寺は火事で消失、

目的は大変な苦労の末、

国分寺を再建しました

その国分寺の建物は

明治初年の

廃物、磁石で

壊されてしまいました

今は

その跡地に

目的の記念館が建てられています

中には

国分寺の再建の際に

本尊として目的が掘った

巨大な御地如来の像が

安置されています

合わせて

千体以上

掘った目的の仏

像の中でも

最も大きく、

どれも

高さが三メートルほどあります

柳がここを

訪れた時、

御地如来は

仮の王道に収められ、

尻がつもるままに

放置されていました

明治初年の頃、

廃仏希釈の詐欺

無知な者の犠牲になった

しかし、

幸いにも

仏のみはわずかな傷を受けたのみで終わった

仏は痛み、

破れ目を生じ、

今、守らずば

える時は近く来るであろう

彫刻として

私たちはそこに繊細な美を求めることはできぬ

しかし、

この巨大な映像が

五対一列に並びし、原型を創造するとき、

それがいかに異言に満ち、

感激の念を

人々に誘い、

鹿を介することができる

これらの対策が

一個人の政策たるを思うとき、

いかに商人の努力が絶

倫であったかを知ることができる

柳は

目的がこの地に残した

様々な仏像を調査します

その一つに

とても痛んだ像がありました

目的が

自分自身の姿を掘った

自国像です

しかし

顔形がわからないほど傷ついています

惜しいかな、

封と害虫との難を受けて、

元の美を定かに除すことができぬ

しかし

示された表現は極めて強く、

また大きい

今は摩滅して

彼の時間を見えないのを

返す返すも惜しむ

地元ではですね、

この非常に傷んでいることについて、

削って

薬として飲んだと

言い伝えているんです

えーって、

皆さん思われると思うんですけど、

薬がそんなに

手に入らない

藁に

でも座りたい気持ちは

十分考えられます

ヒューガーの国を

去った後、

承認がいなくなったものですから、

村の人たちは

やっぱり木

次期さんのそういう霊力

目的さんなど直してくれるんじゃないかと、

そういう

思いがあったん

じゃないかなと

木色物には

人々の様

々な願いが託されました

全国を回り

数多くの木色物を見てきた小島さんが

最も強い感銘を受けた仏像があります

あの佐藤へ行った時に、

あの

お白い地蔵といってね、

全身が真っ白になっていたお地蔵さんが

祀られている

これはどうしてかというと、

あの佐藤のね、

花町の

中にあった小さなお堂に

祀られていたんだそうです

友女たちが

この

お地蔵さんを拝むたびにね、

お白湯を塗ってお化粧したという、

それゆえにね、 全身

側の後ろで真っ白になっているんですけれども、

社会のね、

あの震災を舐めていたであろうね、

友情たち

に信仰されていた

これがまさにね、

あの黙示器物の

祀られる場所、

それから祀

られる信仰の対象、

そういったものが

象徴的にね、

あの現れているんじゃないかなと感じました

目的の遊戯王の旅

神具もなく、

冬でも

一枚の衣

だけで過ごしたと言います

木敷のけさや衣

は破れても

まだ本願は

破れざりけり

本願とは

千体の仏像を掘って

人々を救うことでした

黙示器の旅は

八十代も続きました

九州から中国地方に出て、

再び四国を巡ります

そして

故郷を経て

新潟県に入り、

小千谷市に着きます

木色物が最

も多く残っているのは

新潟県です

木次期は

八十代後半になって、

ますます旺盛に掘り進めました

山あいにある 集落

小千谷市小栗山

木次期は

八十六歳の時、

この観音堂に収める仏像を彫りました

本尊のニョイリン観音を中心に、

千寿観音や

十一面観音、

小安観音や

バトー観音など、

合わせて三十五体が並びます

ひときわ大きな

にょいりんかんの

頬に手をあて、

柔和な微

笑みを浮かべています

観音堂は

微笑にあふれています

一体ごとに

その笑みは

微妙に異なります

よいしょ

集落の人たちは

皆、

子供の頃から

これらの観音物に親しんできました

昔は子供たちは j で、ほら、

ってかくれんぼしたり、

こんなおもちゃみたいにして

歩いたり

してたんですよ

どれを見ても、ね

かすかに

声がたたいているというのは

心がないんですよね

柳は

村に言い伝えられてきた

目的の姿を記しています

仏を刻

んだのは

いつも夜

であったと言われる

誰もそれを見ることが許されておらぬ

開現の日までは

浮上の目に触れるべきものではないからである

昼間は

商人にとっては

事のほか多忙であった

やめる者に治療を行ったからである

霊言が口から口へと伝わるや、

彼をしとおて

集まる者は

おびただしくあった

商人は子供たちに好かれた

多くの者が

彼の周りで遊んだ

夜になれば

村は静けさに帰る

商人は

牢にこもる

寒暖なく響くのみの音が

夜の空に冴え 始める

八十六歳の老人は、

かくして

休むことなく

三十四体の仏

を刻み上げた

人は

いつ商人が

眠るのかを知らない

夜が明ければ、また

やめる 者の

友であった

柳は、

開現の日に

村人たち総出で営まれたと思われる

法への要素を創造しています

仏を仰げば

誰もが笑顔に迎えられる

不思議や、

見る者にも

仏と同じ笑顔が浮かぶ

見つめれば、

並ぶ仏の中に

彼らの姿

が混じる

美男

それらの仏 には、

素朴な、

善良な、

不器用な、

愛嬌に満ちた、

頬のふくらやかな

花の大きな

彼らの姿が宿る

それは

菩薩にして、

また出場

主情にして、

また

菩薩

裁判念

目的は、再

び関西地方に足を向け、

京都府南端市に着きます

年を経るごとに

自由奔放な仏像を刻んでいった木次期

南端市には、

その真骨頂を示す

ユニークな像があります

制限時

八十九歳の目的は

四ヶ月余り登竜し、

この寺に

二十二体の仏像を残しました

釈迦如来を中心に、

その周りを

ずらりと

十六らかんが取り巻いています

悟りを開いた聖茶

中の像

大きく目を見開き、

歯をむき出しにして笑っています

このラカンは

硬めを閉じて

ウインクしています

愛嬌たっぷりの表情です

そうかと思えば、

こちらのラカンは

顔を隠

しています

よく見ると、

右手には

ワンのようなものを持っています

厳しい黙示機会

を行った目的ですが、

酒は

禁じていなかったと言われ、

こんな歌も残

しています

いきなりに

ころりまるまる

その良さは、

寒さはすぐる

茶碗酒かな

茶碗酒は

寒さを忘れさせ、

眠らせてくれるというのです

そして、

こちらのラカンは

満面の笑みを見せています

長いヒゲを蓄

えたこの顔は、

目次期自身、

自らを

ラカンになぞらえているのです

こちらの

ラカンさんに関しては、

木次期さんと

この村の

当時の村の

人たちとの宴会

をモデルにされたという話が

あります

お酒の

壺をね、抱えている方が、

お酒によって

独り占めをしてしまったんですね

対面におられる

江の字口の

中野さんが、

お前

みんなに配らずにお前だけ飲んでるのか、

独り占めしてるのか

って、こう咎

められた時に、

あー、見つかった

顔隠されてるんじゃないかと、

みんなで

和気あいあいと

お酒を飲んで

楽しんでおられる

そのような声が聞こえてきそうな

感じを受けたんですね

大正十五年、

柳は

仲間とともに

青源寺の目的物を調査しました

その時、

ある門所を見せられます

黙示器が寺に現

れた時の様子などを、

かつての住職が記した文書でした

目的は、

背丈百八十センチにもなる長身で、

髪もヒゲも

雪のように真っ白

異様な姿をしていた

僧侶のようで、

僧侶ではなく、

俗人のようで

俗人で

はなかったと記

しています

彼を黙して

そうに似てそうにならず、

俗に似て俗

にあらずと呼んだのは

巧みな病室である

商人は

俗を嫌う

そうではなかった

酒造の中に生きるのが

彼の真顔であった

刻む仏像にも

よくその心が現

れているではないか

それは

仏伝に高く位

する婚式の仏

ではない

ポンプに交わる仏である

人々と共に

涙をも

笑いをも分かとうとする

仏である

目的が滞在中は

村人たちが続々と集まってきて、

青源寺は

かつてないほど

賑わったと言います

それまで実はもこじきさん船体を

目標として

掘ってきたんですけれども、

九十歳

にして九十歳にして

さらにもう船体を掘ろうという、

そういうがんを立てるわけですよ

そのエネルギーというか、

心持ちと言いましょうか

それにびっくりするんですけれども

そういった

エネルギッシュというか、

年を

重ねるに従って、

より

増としては完成度になる

さらにより

新しい目

標を立てる

そういった

牧師希さん自身の生き様

というのはね、

非常に勇気づけられる

と思うんです

目的の即席がたどれるのは、

九十一歳まで

甲府で観音菩薩を彫ったことがわかっています

その後の行方は

用として知れませんが、

九十

三歳で亡くなったと言われています

もくじきも

いずくのはての

いき

ら、おれ、

犬かカラスの

えじきなりけり

柳宗義は

黙示記物と出会ってから

丸二年、

神職を忘れるほど

目的の調査研究に没頭しました

木次期物を発掘し、

その名を世に広めた柳

次期調査のすぐ後から

民芸運動に本格的に乗り出します

彼の一生は、

家なく、つまなく、

こなく、罪なく、

さらに

欲なく、

我もなき一生であった

この世に一物のない彼は、

仏において

一切を持つ

彼であった

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aerith
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