日曜美術館 「ユニークな肖像画が語る異色の人物たち」

日本の有名な肖像画には、大変ユニークな顔や姿をしたものがある。おでこと垂れ目が目立つ天皇:「花園天皇像」。しかめ面をした武将:「徳川家康三方ヶ原合戦役画像」。木の上に坐る僧侶:「明恵上人樹上坐禅像」。大笑いする町人:「木村蒹葭堂像」。ぼさぼさ頭に無精ひげの僧侶:「一休宗純像」。2メートルを超すのっぽ力士:「大空武左衛門像」。6作品をオムニバスに並べ、ユニークな肖像画が語る異色の人物たちを紹介。

放送:2022年5月29日

日曜美術館 「ユニークな肖像画が語る異色の人物たち」

日本の有名な肖像画には大変ユニークな顔や姿をしたものがあります
で今年彼目が目立つ天皇目を向いて
しかめ面をしている武将口を開けて
朗らかに笑う
この口がスポット空いてるというのは喋ってる
喧嘩道の姿
楽しそうに談話してるぼさぼさ
頭に無精髭の僧侶
こちらの僧侶が座禅しているのは
なんと木の上です
これは力士の等身大の肖像ですが
その大きさはご覧の通り
二メートルを超える巨大なえー
身長の人っていうのも
相当珍しかったんじゃないかなと思います
なんともユニークな肖像画ばかりですが
果たして一体どんな
人たちだったのでしょうか
薄い灰色の方へに今朝をつけ
僧侶のように見える人物は鎌倉時代の花園
てんのこの時
四十二歳で既に出家して
法皇になっていました
頭頂部は平らでおでこが目立ちます
白目が大きく垂れ気味の目
そして細く尖った鼻と突き出た口
うんうん
高貴な天皇にもかかわらず
その要望がとても
あからさまに描かれています
絵を描いた更新は
どうしてこんな肖像を描いたのでしょうか
果たして花園天皇自身はこの絵を見て
どう思ったのでしょうか
まあ天皇ですから
まあ変なかというと
あの失礼かもしれませんけれども
でもやはりあの普段我々がこうあの出会う人で
こういう顔の人がいたら
ちょっとぎょっとするだろうな
というような感じがありますよね
ただまああの美術史という
その学問を勉強し始めてま
日本の中世の肖像画をこう勉強し始めると
見れば見るほど
本当にあの何て言うんですかね
気高い顔だという風に見えてくる花園天皇は
一体どのような人物だったのでしょうか
鎌倉時代後期の千三百八年花園天皇は
わずか十二歳で即位しました
しかし実験は父の不思議条項が握っていたため
ほとんど政務には関わらず
ひたすら学業に勤しみました
歴代天皇の中でも
その学識や読書量は
並外れていたといいます
ええ花園天皇の自筆の日記が
今も残っています
天皇は学問にも熱心でしたが
とりわけ好きだったのが絵画です
うんよ四年の時より柄を好むものです
よって万事をなげうちこれを見る
花園天皇の時代は三成の黄金時代でした
二世とは人物の顔形を写実的に描く
肖像画のことです
これは実在した公家の肖像です
簡潔な線で顔の特徴が捕らえられ
似顔絵のような感じです
ふっくらとした丸田お目を見開き
口を開けている顔
そしてこの顎が長い顔は平清盛です
こちらは花園天皇の同時代に描かれた
二世花園天皇の次に
天皇になっ後醍醐天皇立派な髭を生やして
いかにも天皇にふさわしい
気品のある顔立ちです
一方の花園天皇だいぶ若い者の白目が大きい
垂れ目で尖った鼻や突き出た口の感じなど
あの花園天皇像によく似ています
うんあのーまやはり政治的にはあのー
必ずしもこの花園
天皇は自分の思いどおりに
政局が進んだわけではなくてま
特にそのライバルの後醍醐天皇が
実権を握ってからは
苦しい時代も長かったんですよね
まあそういった中でやはり彼の人生を支える
やっぱり根幹の一つはその学問と芸術
だったんだろうと思いますよね
花園天皇像の全体図です
その中央には
天皇自らの手でさんが書かれています
世の漏出法印更新ずするところなり
これは私の醜い特質を更新が描いたものだ
というような意味です
おそらく花園天皇として見れば
自分というものをまここまでリアルに描き出す
この更新の技術というものに対するま
絶対的な信頼であるとか
絶対的な高い評価というものが
ここに記されている
花園天皇はこの世のことを
やはり気に入ってたんだと思うんですね
うんだから喪失で自分の
みっともないところ書かれちゃったよ
という風に言ってはいるけれども
やはりこのえーというのが作品として素晴らしい
あるいは自分の姿を後世に止める時に
こうあるべきであるという風なやっぱ
理想に近かったんじゃないでしょうかね
はい椅子に座って
左足を右膝に乗せているのは
徳川家康です
烏帽子をかぶって頬に手を当てていますが
その顔は何とも異様な表情です
眉を潜め目を向いています
そして上の歯は
への時に下唇を噛んでいます
引きつったようなしかめたような顔つき
この肖像は別名
しかみ像と言われてきました
家康は一体なぜ
こんな表情をしているのでしょうか
はい壮年期の家康が拠点にした
浜松城です
戦国時代の千五百七十二年
家康は宿敵の武田信玄と戦います
ええ三方ヶ原の戦いです
家康は惨敗を喫し
命からがら浜松町へ逃げ帰るます
戦いの直後に描かれたとされてきたのが
この肖像です
家康は敗北した
自らの惨めな姿を描かせて戒めとし
白湯において眺めたというのです
この肖像画の由来は果たして本当なのか近年
それを検証した人がいます
絵を所蔵する
徳川美術館の学芸員をしていた
原文彦さんです
もし味方柄活性の直後っていうことになります
と千五百七十二年ま十二月の末ですから
千五百七十三年
十六世紀末の江夏って言われると
もうそれはもう
徳川美術館の他のスタッフの方々も
いやそんな古くはないだろうということで
どう考えても絵画的に見たら十七
世紀ぐらいだろうという風な話が一つあって
でまあとクラヴィス観以外の方で
こういう絵画ないしは
風俗っていう事を研究されてる方が
大体十二月の末なのに
今でいうと一月ぐらいですよね
こんなあの裸足でわら草履書いたりとか
もう戦国時代に
こんな格好の風俗がすたれてると
かっていうことは出されていたわけです
だから多分その直後に書いたっていう伝承は
どっかでは間違ってたんじゃないか
原さんは徳川美術館に残されている
この絵の記録を調べました
すると明治十三年の財産目録に
家康の肖像を意味する東尾久村営が五点あり
この絵については
長篠の合戦のときの姿だと
記されていました
長篠の合戦は三方ヶ原の戦いの三年後
今度は家康が武田軍に勝った戦いです
うんそもそも長篠
かつて負けてないじゃないですかと
なのに長篠合戦敗戦のぞって
おかしな話だなって思って
そこでふっと思ったんです
これってもしかして明治以降になって
勝手に尾張徳川家がつけたんじゃないのっていう
負けてる合戦は何だ
味方川原で負けてるだだったらこれが
もうある意味負けてるずっていう
言い方を前提にするなら流しのではなく
味方がはらだよね
っていう話で変わっちゃうんですよね
そこは本当に検証した形跡が
まるでないんですよ
三方ヶ原の戦いの時の肖像という
エピソードが広まったのは
徳川美術館が開館した
翌年の昭和十一年でした
当時の新聞で
三方ヶ原の戦いの時の肖像として
紹介されたのです
はい徳川美術館の創設者
徳川義親はこう語っています
九死に一生を得たる三方ヶ原
南先を明記するため
狩野探幽に命じて
肖像を描かしめたるもの
新聞座談会の時に
あの十九代の終り系の当時の公爵様
吉川様がこれは大変家に伝わった
珍しい像ですって言って見せる訳ですよね
そしてあーどう珍しいですかって言ったら
あの非常に惨めな姿を描かせて
そして子孫に対する戒め
決しておごり高ぶるな
という風に伝わってきたえ
なんですっていうふうに言われれば
はあそうですか
それはあのお終わり
とくわけはさすがでございますね
って話になってみんなが感動するわけで
それが徳川美術館としてこれを展示する
でそうやって見に来る
自分の失敗を忘れずに
その結果天下を取った
こんなビジネスのサクセス
ストーリーはない訳ですよね
これ日本人大好きなんですよねそういう話
それではこの肖像は
なぜこんな格好をして
しかめ面をしているのでしょうか
いくつかの説が出されています
これは片足を上げてるんだったらこう
弥勒菩薩の湖畔
火事のこういうその仏像のポーズじゃないかとか
なのに普通の仏様だったら
もうちょっと穏やかな顔で書けばいいのに
こう歯を食いしばってるようにみえる
これはく石丸じゃなくて
松島先生なんかはこれはま怒り憤怒
つまり不動明
のような怒りの表情
つまりそれはいこっ部の神武神であると
だからそうやって礼拝するために
家康をなぞらえて書いたんだっていう説で
中にはあのー前の主張の松原出張
名古屋市長は
これはそもそも家康かっていう疑問を出されてる
うんいやもしかしたら秀吉かもしれないま
確かに秀吉っていう顔をする方が
まだしっくりくる部分はあるんです
よねあの猿が主に近いみたいな形になるので
だから結局謎なんですこれは

そうですね

松の木々が重なり合う林の中
二股に分かれた松の上で
座禅している人がいます
鎌倉時代の僧侶名や商人です
傍らの枝に航路と数珠をかけ
木の上にいるとは思えないほど
ゆったりと座るようへ承認
静かに瞑想しています
うんうん木々の間を
小鳥が飛び交いさえずっています
木の上には
リスのような動物がいてようえ
商人の方を見ています
まるでまわりの自然の中に
溶け込んでいるような名え性にそれにしても
なぜ木の上で座禅をしているのでしょうか
ええ

京都の
北西にある高山寺鎌倉時代
名えー商人が再興したお寺です
名えー商人が木の上で座禅を組んだのは
高山寺の裏山量が先
お釈迦様が教えを説いた山になぞらえて
如恵商人が名付けました
多分ですねあのー
あのお軸にも疲れてます
座禅って言いますかねされてて
たぶんここもそうだし
また少し上にもあの大きい石があるんで
多分そういったところで
名称にお座りになってた
あの非常にこうこれなんかこうね
あのー坂の上にこうね
こういうところでざるとすごく集中
してねこういったね
やっぱりこう山の中で一人座って
あの色んなこと考えたりで
夜はお月さんとお話しされたり
あの想像しただけでも楽しいな
と思いますね
キス今の和歌山県に生まれた見覚えは
幼くして両親を亡くし
九歳で京都の寺に入りました
しかし修行を深めるにつれ
争い合うばかりの仏教会を
離れることを決意
二十三歳のとき
故郷白神の峰に隠遁の庵を結びました
うん庵には名えが母と呼んで慕い
悩んでいたこの像がありました
ある日明へは
この像の前で
右耳を切り落としてしまいます
名へは自らこの像にこう描き入れました
もろともに哀れと
越生は仏様君よりほかに知る人も
なしみほとけよ哀れみいつくしんでください
あなたの他に
私のことを知る人はいません
自分の身は
そのお釈迦様に捧げるというようなね
あの自分の身を捨てて
というお考えだったという風に聞いてますんで
それでその芽を潰すと勉強ができない
花を切ると
鼻水でお京の本が汚れ
あ手を切ると印が組めない
耳なら大丈夫だろうとま
確かにそういえばそうだと
思うんですけどもで切っちゃうというねまだから
その辺名永承にまおかしいっていうか
まあストイックっていうかね
あの非常にま思い詰めると
えーその間耳を切っちゃったり
したんではないか
という風に思いますですね
はい千二百六年
三十四歳の時に
えーは後鳥羽上皇から京都と
が脳の血を賜り候賛辞を開きます
年々弟子も増えていきましたが
名えーは専ら裏山で座禅に打ち込みます
木々が生い茂る裏山には
当時の石垣が残っています
名へはここに庵を結び
まわりの自然と一体になって
瞑想しました
その友となったのは好きでした
こんな歌を残しています
山の端に我も入りなん月も入れて
夜な夜なごとにまたともと線つきよ山の端に入る
私も山の庵にはいろ
こうして舞を舞いを親しい友として過ごそう
社会を求めてやまない厳しい修行の中で
月などまわりの自然と一体になった名えー承認
その商人のことを最もよく知る弟子が
この肖像を描いたと言います
うんはいうんあの匂いさんは
本当に人に優しくてね
だから色んな方がこうにより
承認に会いに来られて
当時は大変な世相で
ねご主人選出されて奥様そういったね
ご高名な方の奥様は皆苗字三に来られて
そういったところから
あのこの大惨事が尼寺みたいになったと
尼寺を別に建立されて
あの名衣装には
日本で一番最初に女性のために尽力された
もうやっぱりあのー
自分に厳しくて人に優しい
思いやりがあるっていいますか
そういったところが
皆さん魅力的だなと思いますね

着物を着た初老の男が
おおらかに笑っています
大きく開いた口高い花生き生きとした目
江戸時代大阪で活躍した造り酒屋の主木村
喧嘩道です
肖像画を描いたのは江戸の名高い絵師谷文鳥
一体なぜ文鳥は
木村喧嘩道の
笑っている顔を書いたのでしょうか
造り酒屋の主人なんだけど
子供の時からまあの学問が好き
あの本草学博物学とかね
なんかそういう学問が好きで
また同時にあの画家としては文人画ですよね
文人画を描くし
監視も作ると
それでまあの一番一番最大の特色っていうのは
自分でそういう資料をね
たくさん集めてた大根
レクタであったとうん
喧嘩道は博物学に秀でていました
これは自ら著した本です
オランダの書物などから情報を得て
クジラの一種である一角について
考察しています
また池の大河から
山水画を学んだ文人画家でもありました
これは喧嘩動画描いた花鳥画です
鮮やかに紅葉した花を求めて
朝が待っています
さらに喧嘩道は大コレクタでした
所蔵していた貝類の全部で三百九十四種
ヨーロッパや何用の会も含まれています
うん邸宅があった辺りに
今記念碑が立っています
博物標本の他にも
海外の書籍や地図など
さまざまなものを収集した
喧嘩道は自宅を私設博物館のようにして
コレクションを広く公開しました
喧嘩道の日記にはコレクションなどを目当てに
日本各地から訪ねてきた人々の名が
克明に記されています
学者を始め画家や医者
大名に至るまで
その人数は延べ四万人近くにのぼります
その中に肖像画を書いた他に
文鳥の名も見えます
ええ笑う肖像画を書いた
谷文鳥寛政の改革で知られる松平信に仕えた
江戸時代の名だたる画家の一人です
他に文鳥もまた度々喧嘩道の下に立ち寄り
交流を重ねました
日記の中にも寛政八年
千七百九十六年に
こう記されています
谷文鳥とメモ談話した
でこの秘密談話っていう書き方は
喧嘩の日記ではあんまりないと思うんです
こういうこういう何かをした
ということが書いてあるのは
普通は名前しか誰来るっていう
やっぱりこの秘密談話というのが
きっとあのきっと楽しかったです
面白かった寮どっちも面白かったなと思うので
文鳥にし
ても喧嘩道にしても
松平神はどういう方ですかとか
江戸の最近のあのーが学問的なのは
どうですかとか
結構結構濃密な情報公開になったんだろう
と思うんです
他に文鳥の手控えのための冊子の中に
肖像画のスケッチがあります
傍らには肖像画を描く
経緯が記されています
大阪に行ったとき
密かに喧嘩道のスケッチをしておいた
遺族より下の知らせがあり
肖像の依頼があっ
喧嘩道のスケッチを
壁に張ってを眺めていたが
なかなか仕上げられなかった
スケッチがあって
それが文鳥のま脳裏に焼き付いてて
それでこの肖像画書くときに
この口が少しポット空いてるというのは
あの何て言うかな
喧嘩道の姿
あんな感じでしゃべってたなとかね
きっとあの声の質が高いとか
低いとかいうイメージがあって
掻いてるんちゃうかなうーん
喧嘩道に対するあるま尊敬というかね
あのおろそかには書けないっていうね
風格をいかに絵の中でこうまとめるか
というのにきっとあの苦心しし
てたんだと思うんですよ
ああぼさぼさの髪に無精髭のこの人は
室町時代の禅僧井上宗純
そうあの井上さんです
薄い唇丸い鼻の穴八の字に下がった眉
その下の目は
ジロット視線を投げかけています
その表情は純朴そうに見えたり
偏屈そうに見えたり
ふてぶてしそうに見えたり
誰もが知る頓知ののは
果たしてどんな人だったのでしょうか
へーあのこの絵を見てると
こちら側の感情が
いろんな感情が想起させるさせられるというか
気持ちが出てくる
っていうか次笑うのか
起こるのか分からないですけど
そのなんか寸前の川のような表情のような
気がしてだから
どっちどの表情にも分類できないような
かおってそれが
何かいろんなものを
えーこちらが写し込めるっていうか
いのさんは
イーテレで放送した
大人の初見さんの絵を担当しました
その初見さんの顔は
あの肖像画をもとにしました
頓知小僧の痛みさんは
江戸時代から登場するようになり
昭和になると
子供向けの絵本などになって
誰もが知るようになります
橋の袂にこの橋渡るべからず
という立て札がありました
ところが初見さんは
堂々と橋を渡って言いました
橋を歩かず真ん中を歩きました
しかしこうした頓知小僧の井上さんは
実話ではありません
一球が一体どんな人生を送ったのか
その実像を記しているとされるのが死後
弟子たちが書いたこの年譜です
それによると
天皇の子供として生まれたものの
六歳でしゅっけ厳しい修行に励んで
一級の名を授かり
二十七歳のときカラスの鳴き声を聞いて
大いなる悟りを開きました
禅僧とそしての
初めの志を伝える肖像があります
如何にもこう騒然とした一級です
きちんと剃髪して髭も剃り若い顔立ちです
風変わりなのは
横に僧侶には似つかわしくないたちが
立てかけられていることです
一文は堕落した僧侶たちを批判するために
長い朱色の佐野の質を携え
町を闊歩したといいます
禅僧にあるまじき振る舞いだと言われた
一組はこう答えました
これは木刀で人は切れない
今の僧侶はこの木刀と同じで
見掛け倒しの役立たずだ
うん禅僧としていかに破天荒だったか
元の監視などを収録した今日
うん先にこう記されています
誰かが初弾はどこへ行ったかと尋ねたなら
魚屋酒屋売春宿を探せと答えてください
つまり戒律を破って酒を飲み
女性と交わると言っているのです
お坊さんはこう泣けこうやらなきゃいけないとか
人がこういう風にあるのが理想だとか
それはなんかこう
世の中の価値観にあって
そこで縛られてしまうし
なんかそういうだから
二見さんはもう常にあるべき食べ差はないと
そしてこう自由に
何も何も縛られずに自由に生きるには
もういい加減で生きるしかないと
開き直ってできそうだと思いますけど
元の実像をうかがわせる肖像画です
なんと一と一緒に
女性の姿が描かれているのです
うん日給は七十七歳の時に新入りという
盲目の女性に出会い
八十八歳で亡くなるまで
付き合ったと言います
うん下に描かれているのは
その信用の姿です
一文はこのような詩を書いています
盲目の深慮わしに寄り添い
藪の中でオシドリのように睦まじく
ささやき合う
こうした戒律を破るような
破天荒なエピソードの一方で
地球は八十歳を超えてから大寺院
大徳寺の住職に任ぜられます
はい実際日給は禅僧として
強烈な自負心を抱いていました
この肖像画には
上のほうに
一級自身の言葉によるさんがあります
おおよそこんな意味です
この章の前で善を解けるやつがいるか
ここ三十年代
俺一人が禅の真髄を担っているのだ
十分ほどこの善を体現しているものは
おらんとか書いている一方で
人間はもともとさてるようなもんじゃないとか
あのーその平気で書いてるっていうか
そういう六百年ぐらい前に
自由に生きた人がいたんだなって思うの
が楽しいっていうかさんって
こういう人なんだなってこの
側だったら納得できるっていうか
そういう意味で
井上宗純っていう人を
その余すところなく伝えてくれた
あの肖像画というかそうですね
足のつま先から頭のてっぺんまで
全身の肖像画です
香りをまとい腰に大小の刀をさし
右手に戦争を持って立っているのは
幕末の巨人力士大空部材もんです
細めの顔はややうつむき加減ででは
静かに斜め下の方を見つめています
実はこの肖像画は
等身大に描かれています
本当に大きいですね
私のまあ身長から五十センチ
ぐらいの差はあると思うんですが
え実際にこの歴史の大きさが
こちらに書かれています
え身長が七百三分
二メートル十三センチぐらいだと思います
足の裏は一尺二寸で三十三点
三センチ体重が三十二巻で百二十
キロぐらい
その当時のまあ
日本人の男性の平均身長が
恐らく百五十センチ程度だったと思うので
まあこの二メートルを超える巨大なえー
身長のま人っていうのも
相当珍しかったんじゃないかなと思います
多くの江戸の人々がこの絵を見た時に
まあ寸分たがわない姿
形がえに移されてるっていうのは
大変驚きと新鮮さ
インパクトが強かったんだと思います
江戸で人気があった大相撲大空部材もんは
今の熊本県の出身で
藩主の音まで江戸に上りました
実際には相撲を取らず
土俵入りを見せる看板力士でしたが
その体の大きさで大評判となり
多くの錦絵が出されました
これはその一枚
大勢の人々が好奇心いっぱいで
具材門を見つめています
うんその長い足で牛をまたぐとも言われ
別名牛またぎと呼ばれました
うん巨人ゆえに
珍しい見世物扱いをされた部材もん一体
どんな人だったのでしょうか
うん実際にぶざえもんにあった
戯作者の滝沢馬琴はこう言っています
生まれつき穏やかで素直な性格で
気が小さかった
ええ故郷を思うばかりで
相撲取りになろうとせず
程なくして庇護の故郷に帰った
うんうつむき加減のその顔は
どこか悲しそうな表情にも見えます
そうですね多くの人が寄ってたかってえ
自分の姿を見て喜ぶ訳なので
やはり自分自身を偽物として見られている
っていう意識は持ったんじゃないかな
と思います本人の本意ではない活動をして
辛くなかったのかな
っていうふうにも思ったりもできます
それをある意味
この絵が写し取ってる
っていうこともあるかもしれませんね
大空ぶざえもんを描いたのは
肖像画の名手と言われた文人画家
渡辺華山です
火山はこの絵を描くとき
写真鏡を使ったことが分かっています
写真鏡とは
一体どのようなものだったのでしょうか
今日のカメラの前身にあたるのが
写真鏡です
これは十八世紀に作られた写真
今日の実物です
火山は持ち運びが可能な写真鏡を持参して
ぶざえもんの前で描いたのです
はいどうぞ写真鏡をどのように使うのか
モデルの人物を映して
みることにしました
レンズを通して入ってきた被写体の画像が
ここに中に入っている
四十五度の鏡で上に曲げられ
スクリーンに投影されます
スクリーンの周りを暗くすると
くっきりと映ります
うんその写真鏡に
無罪者像が実際に映っているとして
そこにその薄い紙を置いて
その像の輪郭を取っていく
それまで目に見えるものが
二次元の形に表されて
残されるっていうこと自体がなかったので
上に残すっていうのがすごく斬新で
あの新鮮だったっていうことだと思います
実際にそのえー土俵入りを見ていない人も
このえー部材もの姿原寸大の絵を見せられる
とえ見たこともない人も
こういう人が実際にいたんだっていうことが
まある意味証明できるので
あの大変貴重な海外になる訳ですよね
江戸後期幕末期に
様々なま西洋の技術が新しい
海外にかかわる技術が流れ込んできたときに
この間ぶざえもんが江戸に登場して
絵画表現のま新しいま
ページを開いた
一つのきっかけでもあるのかな
と思います
うん

スポンサー




ABOUTこの記事をかいた人

ガジェット愛好家です。世の中にあふれるモノゴトはすべてヒトが作り出したもの。新しいモノの背景にある人の営みを探るのが大好きです。発見した情報はまとめて発信しています。