日曜美術館 「私は世界でもっとも傲慢な男 ―フランス・写実主義の父 クールベ 」

日曜美術館 「私は世界でもっとも傲慢な男 ―フランス・写実主義の父 クールベ 」

理想化された美ではなく、一般庶民の葬式や自らのアトリエを巨大なカンバスに描き、19世紀フランス画壇を騒がせたクールベ。写実主義を唱え、故郷の自然や海をありのままに描き、モネなど印象派の画家たちに多大な影響を与えた。その人生は波瀾万丈!権力への反抗、売れっ子の名声、政治活動による投獄、そして亡命の悲劇――しかし画家は一貫して「目に見えるもの」を描き続け、「生きた芸術を生み出す」ことを追求した。

放送:2021年5月2日

日曜美術館 「私は世界でもっとも傲慢な男 ―フランス・写実主義の父 クールベ」

髪をかきあげ正面を見据える男。

絶望と題した画家24歳の自画像です。

ギュスターヴ・クールベ。

19世紀のフランスで写実主義を宣言。

美術史を塗り替えた男。

ヌード。

風景画や狩猟画。

自らの目に映るものをありのままに描き、後の印象派への道を開きました。

しかし時代の先を行く表現は次々にスキャンダルを巻き起こします。

《オルナンの埋葬》

描かれたのは葬儀に集まる村人たち。

庶民の美とは理想的な人は正反対で醜すぎると酷評されました。

そして反体制的だと非難の嵐にさらされた《画家のアトリエ》

絵の中央には自信満々に筆を執るクールベ自身の姿が描かれています。

画家はこの絵に対する世間の批判に毅然として答えました。

私は目に見えるものしか描かない。

自ら世界で最も傲慢な男と名乗ったギュスターヴ・クールベ。

その画家人生を紐解きます。

日曜美術館です。今日は19世紀のフランスの画家・ギュスターヴ・クールベを取り上げます。

フランス文学をやっとりますという19世紀に必ず出てくる名前であると思いますが、あんまりよく知らないんです。

クールベについて一緒に見てくださるゲストをご紹介しましょう

西洋美術史がご専門の三浦篤さんです。よろしくお願いいたします。

大学の学生さんたちのゼミでもクールベを取り上げたこともあると伺ってます。

「クールベはとても重要な画家ですから時々ゼミで取り上げることもあります。ただ印象派と比べと日本ではあまり知られていないかもしれません。しかし自他とも認める傲慢の男ということで、大変な自信家で傲岸不遜と疎まれても致し方ないような言動が非常に特徴的な画家です」

今日はその人生と作品をじっくりと見て行こうと思います。スタジオに代表作《画家のアトリエ》があります。

すごく大きいですね。

「大きなサイズで縦が3.6メートル横が6メートルということで、こんな巨大サイズは当時も非常に珍しい。真ん中はクールベです。19世紀フランス絵画においても歴史画であるならばこれぐらいの大きさはありえるんですけれどもちょっと例外的な作品。神話や宗教といった主題であるならばこれぐらいの大きさはまあり得ますけど、クールベと様々な現実の人物が登場しますから、これでこの大きさというのは法外ですね」

当時は非常に受け止められにくかった作品なんですか。

「当時はなかなか難しかったと思います。何故この主題でこれでこんな大きなサイズで描くのだろうかというのがまず理解不能ですし、じゃ何が描かれてるか、というのもよく分からない。問題作だっていうこと認識はあったと思います。決して簡単に受け入れられた絵ではありません」

何故当時はこの作品が問題作と受け止められたのか。

時代背景とともに見ていきます。

フランス東部スイス国境に近い小都市オルナン。

1819年。クールベは裕福な農場主の家に生まれました。

幼い頃から絵が好きでデッサンに明け暮れる日々を送ったと言います。

二十歳になると父の強い希望により法律家になるためパリへ。

しかし幼い頃からの夢を忘れられず、ほどなく画家の道を志します。

正式に美術学校には通わず、独学でドラクロワやレンブラントなど巨匠たちの模写を繰り返しました。

24歳の自画像《絶望》

3年連続でサロン会の落選が続く中、描かれました。

まだ何者でもなかった若き日の姿。

この頃、夜毎通いつめたのが知識人のたまり場だったビアホール。

ボードレールやプルートンなど自然や哲学者たちと熱い議論を交わす中、この混沌とした現実そのものを描きたいとの思いが芽生えます。

そして誕生した世紀の問題作《オルナンの埋葬》

故郷の村で葬儀に集う無名の人々。

実在する人物のスケッチをもとに等身大のサイズで描かれています。

副題には「これが歴史画である」と示されました。

歴史画とは神や英雄を理想化して描くジャンルでした。

しかしクールベは今を生きる普通の人々こそが歴史画にふさわしいと主張したのです。

この絵は伝統的な美を重んじるサロンへの反発とも捉えられ、酷評の嵐にさらされました。

私は誰のことも気にならない。人は私をうぬぼれだと非難する。実際私は世界で一番傲慢な人間である。

《オルナンの埋葬》の発表直後。

フランス社会に激震が走ります。

1852年。ナポレオン3世が皇帝に即位。

市民中心の体制が終わりを告げます。

こうした中、クールベはまたしてもスキャンダル必至の作品をサロンに送り込みます。

伝統的な美しさとは対極の肉付きの良い裸体画。

サロンに現れたナポレオン3世はこの会を鞭で打ったと伝えられています。

そして2年後。舞台は皇帝の威信を示す第1回パリ万国博覧会。

クールベはここにまたもや問題作を準備します。

画家のアトリエ中央に画家自らの姿を描いた大作です。

画面右側はクールベいわく、生きている世界。

彼を支持する仲間が描かれています。

左側は死んでいる世界。

強欲な商人や貧しい人々などフランス社会の現実を暗に描きました。

この作品は万博への出展を拒否されてしまいます。

クールベは引き下がりませんでした。

万博会場のすぐ近くに小屋を建て、個展を開きます。

そしてこの自己の芸術論を宣言。

これが写実主義レアリスムの始まりでした。

私は目に見えるものしか描かない。

生きた芸術を生み出すことが私の理想なのだ。

という大作ですが、どんなふうに見られましたか。

「万国博覧会美術展の向こうを張って個展を開いたということなんですけれども、これは画家が行った本格的な個展の最初の例です。しかも昭和の万博会場を一フラン入場料取ったんだけども、クールベも一フラン入場料設定しまして、あまりの自分のことに人が入ってくれないということで値下げしたんですけど、それでも入らなくて結局興行的に失敗したってわけですよね」

でも万博会場の隣に作っちゃうんですから大変な強気ですよね。

今沢山の人間が書かれてます。

「こちら側がクールベの理解者や支援者ですよね。友人で美術評価のシャンフルリーがいたり、

ボードレールがいたり。自分を理解してくれる支援者。友人を右側に置いてます。こういった人たちに支えられて自分が制作活動を続けていることだと思いますね。左側。後こちらの絵は友人に宛てた手紙の中で説明しておりまして、

例えば一番左側にはユダヤ人がいるとかですね、一人右側には司祭というようにですね、漁師とか道化役者とか労働者とか、貧乏人と金持ちがいるとか。搾取されるものとした搾取する者がいるとかそういう言い方もしていまして、悲惨な現実社会をも表してるという風に言ってます」

そうするとどういうイメージで書いてる。

「そのヒントになるのは、この画家のアトリエという作品の副題だと思います。副題は”私の芸術生活の7年間にわたる一時期を定義する現実的寓意”と長いですね。芸術的寓意7年間ってどういうことか言いますと、1848年からこの作品が描かれた1855年までの7年間を表している。48年2月革命というですね。市民革命が起こるんです。それによっては民衆が主人公の共和制の社会が成立すると思っていた。ところがあの有名なナポレオンの甥にあたる人物が大統領となりその後クーデター起こして第二帝政という新しい制裁で作ってしまう。専制的な圧政的な政治が復活するわけですよね。そういった第2帝政の社会に対するクールベなりのアンチテーゼっていますか、決して幸せな世界ではないということですよね。二月革命以前に前衛的な芸術家たちと付き合いもあったし、社会主義思想にも共感してましたから、そういったものがクールベの思想的な基盤を形作った」

帝政によって社会の中でも格差が広がり現れたその現実を描くと

「そうですね自分はその現実をしっかり描いていくのが彼のミッションだったわけですよね。特にこの7年間というのは一番はある意味で闘争的だった時代いいんじゃないでしょうか」

搾取する代表者みたいな人は描かれているんですか。

「いろんな説があるんですけれども、特にこの一番目立つ座っている人物です。この人この人はあの当時から実は猟師なんですけど、密猟者という風にも言われてまして皇帝ナポレオン3世その人を表してるのではないかという説があります。これどういうことかと言いますと、ナポレオン三世はクーデター起こしてですね第二共和政を乗っ取ってしまう簒奪者だということですよね。そうしますとこれは悲惨な第二帝政の社会を作った責任者中心人物ことになりますよね。ただ重要なのはそれを明確に分かる形で描いたのではないです。明確に書いてしまえばこれはクールベの身に危険が及びますからそういうことはできない。でも見る人が見ればあーそうなんだなと分かるような暗示と言うかほのめかしというか。そういった意味においてこれは寓意的性格あるんだと思います。挑発的ですね。これはナポレオン3世はこの上を見たら、私を批判してるのかなって思った可能性は十分あります」

しかも中心にいるのはクールベ本人ですね。

「世界の中心にいるのは自分自身でクールベで、政治の世界では中心はナポレオン三世。でも芸術の世界、絵画の世界では私が主人公。まさに権力者と拮抗する存在として自分を描き込んだのです。何かこう教え諭していてそれをうなだれて聞いてるかのような構図になってまして、そのあたりももしかしたらクールベの意図にあったのかもしれない。自分を堂々とした人物。まあ非常に挑発的な作品ですよね」

でもその絵をちゃんと購入してくれる人達もいたってこと。

「南仏モンペリエ銀行家のアルフレッド・ブリュイヤスです。お金があってドラクロアとかクールベとか認められない画家の作品を集めるのが好きだった人で、仲良かったですねで実際にあの南仏にの自宅に招かれてます。

《出会い》という有名な絵がありまして、今日はクールべさんともいわれてますけれども、まさにクールベを出迎えたパトロンと向き合って立っている方なんですけれども。その時帽子を取っているのはパトロンのブリュイヤスの方。本来は芸術家の方が後に対してはへりくだるというのがそれまでの常識だったんですけど、クールベは堂々と、私は自立してる画家でなんだですね、パトロンに対してへりくだるところはないって言うのがそれまでの常識だったのですが、クールベは「私は自立している画家」で、パトロンに対してへりくだるところはないっていう気概が表れているんだと思います」

既存の価値に異議申し立てするっていうか。

「自信があり、それだけの作品を残したということ言えますよね」

実力が伴っているって言う

「そうですね。口だけではないって」

絵もうまかったら上手に世渡りする方法もあったと思うんですが、何故そこまでファイティングポーズを取り続けたんですか。

「自分の信念を曲げなかったってことと思いますね。民衆のためのレアリスム絵画を世に向けてさせてみせるって言う野心がありましたから、それを実現するために妥協するんじゃなくて、へりくだる権力者におもねるのではなくて、自分の信念を曲げないでそれを実現したいという強い意志があったんだと思います」

実力があるからできるって事ですよね。周りを納得させるって言うか有無を言わせない。

「味方になる人が出てくるわけですから、支援、サポートしようという人が出てくるところはやっぱりクールベの力でしょうね」

そんなクールベですけれども実は後半戦になり新しいテーマと出会うことになります。

ありのままの現実を描く。

クールベの眼差しは様々な対象に注がれていきます。

荒々しい野生の動物を狩猟画その一つ。

毎年、秋になるとふるさとに帰って狩りをしていたクールベ。

地元に伝わる獲物を木に吊るしその肉をを猟犬と分かち合うという儀式を描きました。

雪の中。

一頭のメスを巡って争う2頭の牡鹿。

「実際にあった出来事をもとに、わずかな理想もなく数学のように正確に描いた」と自ら語っています。

厳しい野生に対するクールベの敬意が伺ええます。

40歳でクールベは新たなテーマと出会います。

鉄道の開通によって始まった観光ブーム。

海辺の家ノルマンディーは中産階級のリゾート地として大人気になっていました。

多くの画家たちもこの流行の地に出かけ次々と新しい絵を生み出します。

クールベと同時代の人気画家ウジェーヌ・ブーダンが描いた《浜辺にて》

日傘や帽子、華やかな衣服を纏った女性たち。

当時の浜辺は社交の場でもありました。

人気を博した華やかな海の絵。

しかしクールベが描く海の絵は全く違っていました。

どんな絵なのか小野さんが訪ねました。 

海の絵ばっかしですね。たくさんあるんだ。

例えばこちらの作品はいとしては非常に革新的な描かれ方になっています。

純粋に海そのものを見たままによく描いていました」

生涯、100点あまりの海の風景画を描いたクールベ。

そのうちの40点が波そのものをクローズアップして描いた作品です。

「波の崩れ落ちる瞬間の白いところ。実は絵筆ではなくって、パレットナイフに白い絵の具を続けて、直接盛り上がるように表現しているというのは非常に革新的な技法であったと思います」

なぜクールベは波ばかりを描いたのか。

その手がかりは彼が描いた故郷の風景画にあるといいます。

「クールベが生まれ育ったオルナンで見れる岩山を主題とした作品です」

故郷オルナン。

ここでクールベは複雑で野性味あふれる風景を繰り返し描いています。

当時クールベの絵を好んだのは地方の収集家でした。

クールベの描く自然は単に美しいだけでなく、時に人間を圧倒するような厳しさも持っていました。

「岩肌のゴツゴツとした表現ですね。絵筆だけではなくてパレットナイフで少し盛り上がるように描いている」

ありのままの姿を写し取ることにこだわったクールベのまなざし。

海の連作はサロンからの絶賛を受けます。

時代がクールベに追いつこうとしていました。

ノルマンディーの海はその後の美術史を動かす舞台にもなっていました。

喧騒を離れて海を描き続けていたクールベ。

ある人物と出会います。

19歳のクロードモネです。

二十歳あまりの歳の差を超えて意気投合した二人。

二人で何度も通ったのが象の鼻の形をした奇岩で知られるエトルタ海岸でした。

サロンに出品され大成功を収めた一枚。

クールベは季節や天候によって姿を変えるこの海岸を繰り返し描きました。

あるがままの自然に目を凝らしたクールベ。

印象派の巨匠モネがこの場所で連作を描いたのはその20年後のことでした

「若きモネと出会ってた。先輩画家ですから、ノルマンディーの浜辺でモネと出会った時は、それなりに面倒を見たんじゃないかなと思いますね。モネは当時ブータンっていう画家の教えをうけてまして、クールベはブーダンと一緒にノルマンディーの浜辺で戸外制作も試みてます」

本物の海を前に何時間も時間を費やして後ずっと観察してきた。ありのままが波の絵に描かれてるっていう事なんですか。

「そうだと思います。これまでは人との関係で描いていた。船を描いたりとか。崇高の理念をそこに入れたりとか、色々な形で人間というフィルタかかって言ったんですけど、本当に純粋な自然とダイレクトに向き合う。海を前にして波と自分しかない世界ですよね。これはちょっとそれまでの風景画にはなかったのかなと思います。それがクールベリアリズムだと思うんですけれども、本当にダイレクトに自然と向き合って、私は自然と同一化しようとしてるんじゃないかっていうぐらい距離の近さを感じますよね。ですからあの波も視覚的にとらえたというより、パレットナイフを使ったということはありましたけども、物質的な存在として描いてる感じありますよね。よく知ってる物質的な存在としての波を繰り返し描く。自然というのは根源的なもので、人間にとってそこから力とかエネルギーをクールベなりに充填していたんじゃないかな」

自分と世界。

「私はどこまで行っても、クールベはいい意味で自分と世界じゃないかなと思いますね」

自分の目に映った今目の前で見える波を書き続けるって言うようなスタンス。

自分の目に自分の目に映ったものを描くっていうところでは、今近代的な芸術家っていうのはご自身の個性を発揮して作品を作るっていうようなものだと思ってますけど、クールベ近代的な芸術家っていうものは原型というところにあるんでしょうか。

「その端緒の位置にあるんじゃないかなと私は思いますね。ここまでエゴセントリック等で自己中心的な。そういうスタンスで海外に向かい合って絵を描いていた画家ってそれ以前にちょっといないんじゃないかなと思うんですね。それまで決まりきった定型的な主題もあるし描きかたもあるし、そういうのに従って描いていたところに、”俺は俺のやり方で描くんだよ”ということを堂々と自由に大胆に行ってしまったら、これはスキャンダルもなるでしょうし、それ味方も敵も作りますよね。近代芸術家の最初の所にいた一人ではないかなと思います」

クールベの姿を後に続く若い人たちは見て、ついて行った。

「そうですね。クールベが突破口を開いて、その後マネとか印象派が続いたって言う人がついていったところがあるんじゃないかと思います。例えば海の上でも印象派の絵とどういう風につながるのかっていうことなんですが、おそらく基本的に直接的にはつながっていかないと思うんですけれども、自分の感覚で自然を見て、自由に描いていいんだということクールベが示したわけですよね。そういう先例を示した。若い画家たちはそうやって自由に自然を描いていいのだと思いますから、そういった意味においては印象派につながる道もあるのかなと思います」

みんなが疑問に思っていなかったことが全然自然なことじゃないんだよって言う違う見方もあるんだよってことを常に提示してるって言うんですね。

「新しい見方もあるし、新しい描き方もあるんだということを突きつけていったのがクールベじゃないでしょうか」

そんなクールベが後半生その力が認められるようになった頃にはこんな風刺画で描かれるようになるんです。

これ有名な風刺画ですね。

「1860年代以降のクールベはそれなりに売れる画家になってしまいましたので、お金もある程度できるし人気も出た。そうすると元々美食家でお酒が好きでフランス東部出身ですからビールですよね。こういった風刺画もたくさんあります」

本人に良かったですかね。

「普通に考えるとこんな風刺画を描かれるのは良くないんじゃないか。ですけど本人はどちらかと言うとちゃん喜んでた節もある。というのは宣伝になりました。自分のイメージが広がりますから。炎上商法みたいな感じですよね。どんどん宣伝してくださいって言うんですよね自分のイメージを演出していた画家なのかなっていう風に思います」

現代的な人ですね。

付き合いにくい人だとかもしれないなと思ったりもしましたが、この後クールベの人生には大きな出来事がおこります。

1871年普仏戦争でナポレオン三世が囚われの身となりパリコミューンが設立されるとクールベはこの動きに加わります。

51歳。

美術館員会議長も務めていた中、ある声明を出しました。

先立つ政権は芸術を保護し自発性を奪い去ることによって芸術をほとんど破壊した。現現在フランスで起こりつつある革命において、世界を仕切るべき芸術が遅れを取るのは馬鹿げたことである。

そしてある提案をしました。

パリのシンボルの一つ、ヴァンドーム広場。

そこにたつ記念柱の上にはナポレオンの像が載っていました。

その像を取り外し新たな社会の誕生を知らしめよう。

そこで事件は起きました。

過激化したパリコミューンの一派が記念柱を引き倒し、破壊してしまったのです。

この事件の首謀者として逮捕されたのがクールベでした。

実はその10日前。

パリコミューンが崩壊。

記念柱の刷新を提案していたクールベに新しい政府は疑いの目を向けたのです。

パリコミューンの仲間が次々と処刑される中での逮捕。

無実を争うことはしませんでした。

判決は禁固6ヶ月。

出獄後も記念柱再建のためとして30万フラン。

今の価値で3億円もの賠償金が課せられました。

パリに場所はありませんでした。

失意の中クールベはスイスに亡命。

レマン湖のほとりで新たな暮らしを始めます。

新政府からは厳しく借金の返済を求められました。

過酷なスケジュールで絵を描き続けなければならなかったクールベ。

酒に溺れ、しだいに体調を崩し、4年後58年の生涯に幕を閉じます。

クールベが残した一枚の自画像があります。

刑務所での姿です。

囚われの身でもパイプをくわえ、画家として自信に満ちたクールベがいます。

「私が死んだとき人は私のことをこう語るべきでしょう。あの男はいかなる流儀にもいかなる教会にも、いかなる学校にも、いかなるアカデミーにも・・・かつて一度として属したことはなかった」

最後の言葉なんていうのもすごく自信に溢れてるっていうか。

「自分は自分以外の何者にも属してなかった。独立独歩の画家としてのクールベを象徴的に表している言葉だと思います」

一方で賠償金のためにもお金のために絵を書かなければならない所に追い込まれてそういうのはクールベにはしんどいことだと。

「これは大変苦難に満ちた境遇だったと思いますね。でも賠償金を払わなければフランスに帰れないということもあり、最終的にはまあ少しずつでも分割払いが認められましたので、払うつもりだったとは思いますけれども、まもなく死んでしまったということで帰国することは叶わなかったということですね」

集団に属したことがないって言ってた人が責任ある位置に立てたというのは。

「ちょっと皮肉な感じしますよね。独立独歩で歩んだ画家がたまたまそういう組織の責任者になったがゆえにこういう運命に陥ったというのは気の毒な感じがしますね。やっぱり自分を貫いて一切関わらなければ、そんなことはなかったはずなんですけれども、ただそこはやはりパリコミューンというかつての2月革命で潰えた夢がもう一度蘇るかのような、民衆の手で新しい社会を作れるんじゃないかといえば夢をもう一度見たからじゃないかと思いますね」

自分の信条みたいなものがずっと心の底にあって重ねていくような部分は変わらなかった。

「この耳画像を見ると苦渋に満ちた表情が伺えます。自分自身に誇りを持ってると言うかそういう自負もあり、そういった苦渋の心境もありということで、何とも言えないあの複雑な表情だなという風に思いますね」

もう一度あの問題作を一緒に見てみようと思います。

「まさに1855年。万国博覧会の時の自分ですよね。クールベは闘争と自然という二つの重要な要素があるのではないかなと思ってまして、確かにこれは7年間の自分の戦いを集約したいなん絵だけれども、真ん中の絵を見るとまさに自然を描いてるんです。

風景画なんですよ。(でも心の中心には故郷がある)。そういうことだと思います。やはり心の自然ととても大事だったんだなーっていうことを思います。そしてそれがクールベにエネルギーを与えたし、自分が常に立ち戻るべき場所であったということですよね。そしてこの子供ですよね。完成する前にやはりここに何かを入れたいということで、子供がもう一人実はいるんだけど第二の子供もいるのですが、落書きしています。

お絵かきをしています。私はこの子供を最後に入れたっていうことが、クールベにとって意味があったんじゃないかな。子供って無垢の存在ですね。そしてお絵かきっていうのは、本当に稚拙かもしれないけど素朴な美しさがある。そう言った子供の持っている無垢とか素朴さとか、そういったものを最後に一つの価値としてこの絵の中に入れたかったんじゃないかな。つまりこれは現在の自分の自分の集約かもしれないんだけれども、未来への希望を最後に埋め込んだような私はそういった印象を持ってます」

「今は悲惨な現実かもしれないけれども、これ以降はより良い社会になって欲しいっていう、クールベ自身の真実とか自然とか無垢とか素朴さとか、そういった彼にとって大事に思っていた価値観が実現される社会になってほしいという、そういう気持ちも込めて最後に子供を絵の中に描いたのかなと思います」

その子供がクールベを見上げて。

「もしかしたら未来の画家になるかもしれないからですよね」

傲慢ってあの言い方をするとキツく聞こえますけどでも、自分が信じたことに向かって突き進みそれでこう決して屈しないっていうかそこのなんか強いもののなんかこう表れではあるんですかね傲慢っていうのは。

「普通の人にはなかなかあの歩めない人生だと増えるけれどもただ何か自分の糧にしたいなと思わせるところがありますよね」