日曜美術館 「曜変天目 丸の内へ 静嘉堂 夢の新美術館オープン」

日曜美術館 「曜変天目 丸の内へ 静嘉堂 夢の新美術館オープン」

神秘の輝きを放つ曜変天目茶碗、俵屋宗達が源氏物語を描いた華麗な作品など多数の国宝・重要文化財を有する静嘉堂文庫美術館。この東洋美術の殿堂が今秋、東京・世田谷から丸の内の歴史的建造物・明治生命館の中に移転した。それを実現したのは、文化財を保存しながら活用するという新たな考えだった。そして丸の内に美術館を建設することは文庫創設者の100年越しの夢でもあった。美術館誕生秘話を至宝の数々とともに紹介する。

放送:2022年12月11日

日曜美術館 これまでのエピソード | 風流

日曜美術館 「曜変天目 丸の内へ 静嘉堂 夢の新美術館オープン」

夜空に煌めく星橋
一体どうしたらこんなにも神秘的な景色が生まれるのでしょうか
地方曜変天目この手法を所蔵するのは静嘉堂文庫美術館
今年十月東京丸の内のちにリニュアルオープンしました
七件の国宝八十四件の重要文化財を誇る
東洋美術の殿堂の新たな旅立ちです
美術館が作られたのは
なんと重要文化財に指定されている歴史的な建造物の中
丸の内で美術を楽しむことは精華堂創設者の悲願でもありました
百年を超えて実現した夢の美術館
その名品の数々をたっぷりお届けします
今日は私たちは東京丸の内にあります
静嘉堂文庫美術館にやってきました
今年の秋にこの重要文化財に指定されている建物の中に
リニューアルオープンしたということでですね
ちょっとこうどっしりした感じといってみましょうか
そう外とかですね
天井が理解状態の声が響き返し
本当ですよばかにみたいな近いですね天井と柱が立派ですね
これはずっと見てるだけでも飽きないんですよ
いやすごい細かいですよ
本当にまこういう特別な空間で
特別な名品に出会う名品をねお迎えするのにふさわしい
あの場所であるっていうことなんです
私たちが訪ねた静嘉堂文庫美術館は
東京丸の内の歴史的建造物の中にあります
明治生命館竣工は昭和九年です
設計したのは岡田氏イチロー新古典主義様式の建築物で
ギリシャ神殿をもした巨大な柱の上には
アカンサスの装飾が施されています
二階にある会議室は歴史の舞台にもなりました
戦後一年間連合国が日本のセンリョウや管理を協議する
滞日理事会が開かれます
連合国軍最高司令官真っ赤さも訪れました
平成九年昭和の建物として初めて重要文化財に指定されます
その際所有者の明治生命と
文化庁との間で画期的な取り決めがなされました
建物を保存しながら活用する
そのため部位によって手を加えず
現状を維持すべきところとそうでないところに分けたのです
これにより柱や天井など竣工当時からの部位を残しながら
生命保険会社の店舗として活用することが可能になりました
さらに活用の一環として
一回のこの部分に美術館をつくることになったのです
うんかつてオフィスやカフェとして利用されていた場所
吹き抜けのある中央部分は美術館のホワイエとして利用し
その周囲に展示室を作ります
元々世田谷岡本の豊かな自然の中に
ひっそりと佇んでいた静嘉堂文庫美術館丸の内への移転は
大きな方向転換です
令和三年五月
重要文化財の建物に美術館をつくる工事が始まりました
一階には竣工当時から残る部分が多数あります
美術館の搬出に受け入れろにある
開口部はそのままでは狭すぎるので拡張工事を行います
竣工当時から残る大理石はイタリア産で
今では手に入らない貴重なもの
それを一度取り外してから復元するという技術と
経験が必要な作業に石を専門に扱うチームが取り組みました
貴重な美術品を守るためには
二十四時間空調を厳しく管理しなければなりません
天井が低い昭和の建造物
緻密な計算を重ねて天井裏に空調ダクトを張り巡らせました
展示室に用いるのは最新の体反射ガラス
反射や映り込みを減らして作品本来の美しさを味わってもらいたい
一枚百キロはある巨大ながらそう慎重に毛巣にはめ込んでいきます
一年以上に及ぶ工事を経てついに新しい
美術館が完成しました

今日私たちをご案内くださるのは官庁の高野さんです
どうぞようこそいらっしゃいましたよろしくお願いします
このようなまあ素晴らしい建物に移転されたせいかどうか
このきっかけっていうかこれはね
私は美術館というものは質量主義質量主義と言ってるんですけども
いい作品を並べてえーそしてたくさんの人にですね
見ていただくと
これがあの理想的な美術館であるとそれでやっぱりいい作品
を並べても少しの方しかみていただけないというのはこれ
やっぱり理想的な美術館とは言えないと思ってね
前のあの世田谷の岡本にあったんですね
あそこはあの二頭の位置からねちょっとやっぱり遠かったんですね
そこでえまぁこの丸の内日本の中心頭頂のセンターここに今お話
があったときにぜひそれをお願いしたいという風に思ってですね
ここに移転した次第なんですね
今私たち立っているここを見ても
その重要文化財の建物なんだなという感じがしますけれども
その中の美術館これはねこの十分のですねえー
建物の中で十分国法を十分堪能し
ていただきましてこういうふうに思っているんです
お待たせしました
では展示姿勢さあまず最初は何でしょう
まず最初はねわかんろえーしょん
あの関東中国の監視と日本の和歌が両方書いてあるわけですね
ここ感じだけどこっちはひらがなさそうなんですよね
ここは監視なんですねそれからこれはあのわかがあ平仮名で
書いてある民のべースのあの何ですか花の模様はこれも素敵ですよ
そうこれはねから上で元々ね中国でまあの一種の版ですね
ベニアの賃金で細かい人で僕はま年齢を使ってありますね
草花鳥が書いてありますけれどもそれは日本で加えたものなんです
ですからその両親
と言いますけれどもマテリアル自体がですね
日中のその融合しそもそもねえ
成果道のコレクションというものは日本と中国
日本と東洋その両方が非常にバランス良くねえ
まあコレクションの中で
融合していると言っていいと思うんですねえ
それはそのあらゆるあの初の分野でもそれ
から絵画の分野でも工芸の分野でも言えますけれども
非常にねこうバランスが良い
えーどちらかに偏ることなく名品が選ばれていると
そのそういった意味では
この和漢朗詠性自体が
静嘉堂文庫のコレクションを象徴しているといいかもしれませんね
うんコレクションを築いたのは三菱
創業者岩崎弥太郎の弟で
二台社長の弥之助とその息子娘や明治初期から昭和前期にかけて
およそ六十年間親子で収集しました
続いては気が早い時期に手に入れたんですが
ありますのではい茄子茶入です
けれども入れってこんなちっちゃいんだ
那須那須なのは那須に形が似てるからそうなんですね
ちょっとねなんかすごいこう
こんな可愛い可愛いな愛宝物をなすちゃいますっていうのが
この茶色の名前の固有名詞ですね
はいうんそれで
まあ私はお茶はあんまりやらない訳の方が好きなんだけれども
あのやんないんだけども
そのさんこれ何でできてると思いますかこれ滑らかですから
これ陶器ですか残念これは漆なんですよ
主なんですか大名物つくもなす明治十七年
三十三歳の弥之助が
兄彌太郎に年末の給料を前借りしてまで手に入れました
およそ七百年前中国で作られた陶器で日本にわたってきました
足利義松永久秀織田信長
豊臣秀吉徳川家康らの手を取った天下の名品です
その価値は一国一城に値するとさえ言われました
清華堂にはこの茶入が辿った運命を記した手紙も伝わります
それによれば
秀吉から英雄りに伝わったつくもなすは慶長二十千六百十五年
大阪夏の陣で大阪城とともに燃え灰燼に帰してしまいます
しかし家康が失言の名工富士刺激に命じ破片を拾わせます
ふじしげはそれを漆で作ろうって復元し献上しました
すると家康は劇症高度な技術を後世にまで伝えようとつくも
なすをふじしげに貸ししたというのです
このつくボーナスを今年一美術館調査先を当てて
さまざまな角度からスキャン画像を撮影しました
その画像には大小の等辺が巧みに組み合わされた
足りない部分には漆を補っていることが写っています
まさに手紙の通り
茶入はバラバラになった破片を
高度な漆の技術によって蘇らせたものだったのです
さらにスキャンが明らかにしたことが
茶入の道の部分と型の部分では漆の塗り方が違い
漆を何層も塗り重ねて新しい形を作っているのが分かります
口と形のところは粉々に砕けてしまったようで
他の焼き物のあの似通ったパツを持ってきて
それを寸法に合わせて方のところに一致して
それを漆であの接着しながら
あのなだらかな口づくりを作ったと思われるんですけれども
つくもなすには破損する前の姿を写し取った切り
方が存在します
復元したものと比べると
首肩の部分が異なっていることが分かります
これは一体何を意味するのでしょう
安土桃山時代のその頃の茶入の何でしょう
良いと思われる消費された姿と
ちょっとその江戸時代に入ってからの間に
ひとつ区切りのようなものがあるらしくですね
見え方として
より良いと思うところをあの家康様に献上するというところで
その時代としてより良いと考えられる茶色
の形に直したのかなとそういう想像もされております
秀吉が茶入を手に入れた頃から
大阪夏の陣までは三十年が経っています
この間茶入の好みが変化したため
ふじしげは時代に合わせて形を整え
家康に献上したのかもしれません
どうしてこのぐらいの小さな茶入だったら
こんなおなりになってしまったらね
まあ新しいものを作る方が早いですよね
でもその粉々になったものもこう集めて
その再現しようと思ったんですけど
それを復元してそこに新しい価値を生み出した
これも日本の美術の大変重要なあるいは
日本の文化の非常に重要な要素だと思います
それによって新しい価値を生み出すと
これもこの宿毛那須の重要なね一つの日本の美のあり方
そうするとこの新しい美術館自体がね
これはまああの古い建物をリノベーションしてえー
そしてそこに新しい価値を生み出してえーその皆さんにそうな
んですよこれと一緒なんですね
もう全くその精神はをつくもなすと
この今の成果どあっと丸の内というのは全くこう
こうするというか響き合ってると思いますね共鳴してると思います
清華堂は弥之助が自宅に分校を開設したことに始まります
恩師である漢学者を助けるため購入を始めた
和漢古典最終的に二十万冊にも及びました
一方で美術品の収集も行いますが
その始まりは刀剣明治九年の廃刀令以降
刀剣が海外へ流出していくことを憂い
防ぎたいという思いからでした
弥之助は早くから美術館をつくる放送を抱いていました
そしてその場所こそ丸の内実は丸の内を
日本初の近代的なオフィス街に作り上げたのは
弥之助ロンドンを彷彿とさせる煉瓦造りの町並みは
後に一丁倫敦と呼ばれました
ここにオフィスだけでなく
美術館などの文化的施設を作ることも弥之助の夢でした
明治二十五年
イギリス人建築家のジョサイアコンドルに
美術館の設計図を描かれています
いくつものギャラリを備えた二階建ての西洋的な建築でした
そこにはアメリカ人
経営者のアンドリューカーネギーの影響があったといいます
弥之助が序文を寄せた著書には
富める者の氏名富を人々に還元させること
美術館は大いに市民を益するとあります
しかし美術館構想が実ことはありませんでした
息子娘や他は父の三回忌に
世田谷にコンドル設計による岩崎県の霊廟を立てます
さらに分光移設美術品の公開も目指しました
明治二十五年に美術館の設計図が描かれてから百三十年
ついに成果道は待望の丸の内へ移転
岩崎親子の夢の美術館がオープンしたのです
さあどうぞここがね
リンパの部屋ですの私たちのコレクション校閲送達
降臨けんざこいつ膣と全部えー揃ってるんですねええですから
リンパ美術館と言ってもいいんじゃないかと思うんですが
えーたくさんここは全部リンパですのでゆっくりとですね
見ていただきたいなと思いますはい
贅沢ですね
これは随分綺麗なね尾形光琳ですよですよね
スミノエ負け
すずればこうこれでに変えたら上手く書けそうですよね
素晴らしいでしょこのする箱はここにありますようにね
終わった後輪の作なんですねえ
しかしあの街へっていうのは大変
テクニックでが難しいので降臨が作ったというよりも
広倫のデザインによって町絵師が作ったものなんです
しかしそのデザインのさらに下はですね本並校閲の
デザインをその降臨が使ってですねこの作品を作ったんです
それからまああのチン町へ
それからあの島このところは鉛を使って
それから文字のところは人を使う
このあのマテリアル材料も基本的にはね校閲を学んでいる
それからもう一つはここにここにあるよ住江町へです
けれどもここに住之江の父による波よるさへや夢の通い時
人目よくらんというこれは百二十九にありますね
えー藤原利家だったかなの歌を
あのーからイメージを得て作られていますけれども
一つ面白いのはねうん
その住之江の獅子っていう文字はないんですよそれはあの父
のところのえーのところにねえを治しに見立てて
下ににだけある訳で
そういう風にしてそれこそねデザインなんですね
これ素晴らしいデザインでしょう
それでね今日は
ここはちょっとスペースの関係で出してないんですけれども
これには箱が付いてるんですねそれでその箱にえー
降臨が自らこれはその校閲の本並こいつの作品をもした作品である
こう書いてあるんですからそのデザインもですね
本質的にはもともとは校閲のデザインを
こうりんはそのまま用いてですね
そこにその自分の美意識を加えて新しい作品を作った
つまりここにはやっぱり継承と新しい
ですね想像というのがここでも使われると
氷が慕ったもう一人のリンパのそわ俵屋宗達です
国宝源氏物語関屋澪標図屏風はその代表作
この屏風は左右達が寛永八年に第五時に収めたものの
弥之助は明治二十九年頃寺の復興のために寄進を行い
その返礼に屏風を送られたとも言われています
描かれるのは男女のすれ違いみをつくしでは
住吉詣に訪れた明石の君が
かつてちぎった光源氏一行と偶然出くわします
しかし一行の彼の姿に身分の違いを痛感させられ
会うこともなく引き返す場面です
寂しげに海に漂う明石の君の船白砂で隔てられた源氏一行は
輝く金の浜で賑やかです
巧みな対比が際立ちます
金色に輝くリンパの代表作
しかし成果道ではまた違ったリンパの魅力も堪能できます
それではこれが横溢世界放逸の波の屏風です
これ本当波が本当に今迫ってきてる感じでねすごい迫力ですね
大きいですね
近く見て波も随分あとね
リンパっていうと金だと思ってませんした銀ですもんこれ
そうですね海海だとね
僕は銀は全然いいなと思いますけどねね
浴びて埋めるみたいなそうですね
おっしゃる通り
これがねぎんじっていうところに
最大の魅力とその見どころがありますね
えーまあリンパは言うまでもなく珍事が中心のつまり
神事というものは太陽の光要項の画家であった
送達簿降臨要項太陽の光の画家であったんですね
ところがそれに対して法律は人事の美しさというものを発見した
そうするとその要綱に対して当然これは月光なわけである
で光の光
ですね月の光の下の海うみ月光なんですね
そのような臨時の美しさっていうものを
リンパの中で最最初に発見した
えー画家であったと言っていいと思います
送達から二百年後輪から百年の後
江戸でリンパを継承したのが堺放逸です
鈍く光る銀地に荒々しい墨の線が踊る生き物のように
猛々しい波を描いた作品です
墨をたっぷり用いて描いた
ダイナミックな性波間に消えていきそうなかすれた線墨の濃淡と
筆使いでと変化する波を巧みに描きます
送達や後輪の雅なリンパの作品とは異なり
感情がほとばしっているかのようです
法律が食品の依頼主に宛てた手紙が残っています
放逸が依頼されたのは草花のえーでしたが
尾形光琳の描いた波の屏風に触発されてこの絵を描きました
そして自慢の作なので受け取ってほしいと記しているのです
放逸が感銘を受けたのは
後輪の波涛図屏風荒々しい波が近似に描かれます
法律は降臨の波の形を取り入れながら
金から銀へ一層大きくうねる波へと
変貌させたのです

この作品はね
その法律がこの作品によって本当の意味での注解
法律に中記念碑的な作品であると私は思っているんです
もう感覚はね
完全にね江戸の粋人なんですね
もうだからうんそう龍降臨はあれは京都の王朝のこの式を継いだ
もう完全にね江戸の粋なんですねそれ
がやっぱりその人事とね結びついていると言っていいと思います
それで本はその後輪の屏風があるわけですけれども
それからインスピレーションを得たつまり
その基本的には継承しているわけなんですねえこう
隣の屏風のそのまあ美と名というものをそこにある心の美しさって
ものを継承している
しかしそれをそのままコピーしたのではない
全く鎮守を人事にのそれから
その見直の屏風を六職人から発展から受け入れてるだけじゃ
それで面白い本当にダイナミックでね
普通あのまあ
統一のま作品のイメージでえー固定観念で見ると
ちょっと理解できないほどね
このダイナミックなエネルギッシュなあのー僕線を使っている
これはここにやっぱり法律のそれこそ自慢心があって
そしてその後
法律はだんだんとそれこそソフト系とされたリファインされた
興味になっていくけれども
やっぱりその根底にはこういったエネルギがあって
えーあのような作品
をやっぱり根底では
こういうま同性エネルギー力強さ支えてるんじゃないかなって
凄く興味がやっぱり継承っていうのは
単にその前にあった美しいもの
素晴らしいものを模倣してその繰り返しっていうだけじゃなくて
自分たちの持てるこう
才能をこうなんか全て出して新しいものを付け加えて
いって更にこう発展的に繋いでいくっていうことなんですよね
それがなきゃまだ想像がなければそれを捉えちゃいますよね
ここで他の名品をぎゅっとご紹介
まずは平治物語絵巻平安末期の平治の乱を鎌倉時代に描いたもの
戦乱の世を生きる人々の姿が生き生きと表されます
個性豊かな仕草表情中世絵巻の傑作のひとつです
明治の鬼才河鍋共済の手になる名品
十四歳で他界したパトロンの娘達の辞世の句から始まります
亡くなった達が楽しく
明解を旅する様子が四上手に渡って展開されます
地獄の三田も見学こそ一風変わった
明快ツアです

達は天女たちに見送られながら
当時登場したばかりの記者でロクラクへ旅立ちます
どの場面も共催は隅々にまで心を砕いています
最後は無事に成仏極彩色で楽しげに描かれた場面の数々
娘を亡くした家族をどれだけ慰めたでしょう
こちらは中国絵画の傑作
国宝ふうさんすいずなんそうの宮廷画家ば塩が描いたとされます
雨が吹き付け
ざわざわと波立つ水面

吹きすさぶ風に揺れるき

傘をさす
男が身を縮こまらせふうから逃げるように先を急ぎます
視線が上に向かうにつれ空間は深まり
大きな世界がそこにあることを知ります
煤煙の画風は室町時代の日本で理想の一つとされました
近世中国絵画の名作老舗収容時十八世紀に来日したしんなんぴんは
写実的な画風で一世を風靡しました
虫を凝視するね獲物を狙う緊張の一瞬を切り取りました
色鮮やかで繊細な草花の描写
弱者やブソンょうきょなど
名だたる画家も新南ピンの絵に学んだといいます
さあいよいよ最後の展示室弥之助の後を継いだ息子娘や他の部屋
中国陶磁を中心に父のコレクション拡充しました
ここが岩崎の部屋です
ここではここではねまず見ていただきたいのは唐三彩ですね
これのかもの病気ですけれども
これ結構リアルでなんか本当になんかあの動き出そうって言ったら
ちょっと言い過ぎですけれども
それでもかなりリアルな写実的なかもですね
こういうものをなぜですかこれ
やっぱりさんはねちょうどねあのー
二十世紀の初めにあのー心の町ですけれども
中国でこう鉄道敷設が起こって
その時にま掘ったらば出てきたんで大体ねお墓のね
服装品らしいですね
はいお墓のそれでこれはねま出来たけれども
それまでえー日本には古いまお茶の文化が
あったわけですよね
そうするとお茶ではあんまり使われないものであったん
その古い心理学には合わないものである
しかしそういうものは何らそのま抵抗が無くですね
受け入れてそしてそういうのを鑑賞統治というんですけども
全然その用語ではなくて本当にもうあととしてファインアート
として鑑賞する国を近代化していく中で
どうしても目が西洋に向いて
西洋美術ということを二個目が向く中で
やっぱりこういう古い中国の
あの陶器なども収集しなくてはいけないっていうような
何かある種のこう使命感というか
そういうものが三羽にこうあの留学してね本当
にもうその英国紳士として帰国したらしいんですよ
ですから最初は全くと言って東洋の子美術日本の文化にね
関心がなかったんですね
ところがそのお父さんの作った弥之助コレクションのひとつは保存
それからもう一つは公開
こういうのをやるためにそのブレーンを読んで整理を始め
てそしたらね
一気にその海外として東洋の美術ほどねえ
その優れたものはないというふうに思っ美術ほど近代国家の一種
国民のアイデンティファイを国民の一種
こう統合のシンボルとして必要だっていうの
西洋で学んだんじゃないかなと私は思っているんですけれども
素晴らしい国には
素晴らしい美術品を納めて美術素晴らしい美術館があるみたいな
源氏物語えあの素晴らしいけれども原本はまずないし
活字になってもなかなかいいかわかんない
これは美術品ってのは一見してわかる
そういったことをま小谷田さんはそのお父さんの整理をする
保存公開をする中でね学んでそして
ちょうどその土地にそういった鑑賞統治のを
まあ発掘によって新しいものが生まれの発掘されて
そういったものを含めてですねえーそのコレクション
それはつまり
弥之助さんのコレクションにちょっと欠けている部分で
ということもありますね
それを補充して完璧なとたるなコレクションを作った
と私は思います
文字どうり料理ね継承と発展ですね
いよいよ最後の曜変天目天下の名器
天下の明和いよいよっていうだけあって本当にね
初めて本物見ました
僕もでもご紹介しているんですけど初めて見ました
青い色が本当に宇宙にも見えるし
水の中のようにも見えるしいろんな風に見えますね
おっしゃる通りこれはねこの魅力を一言で言うとね
千変万化というその四字の熟語がね
一番これにふさわしいんじゃないかなと思うんですね
動いてるように千変万化するうんそして今はこういうあの
アーティフィシャルな光でやって写して非常に美しくね
あのーあの交際が出るようにしてまこれを例えば自然の中でみる
あるいは別の光で見るっていうと本当にそのたびごとにね
表情を変えるんですね
曜変天目は単品が世界に三ワンしかなくすべて日本にあり
すべてが国宝です
清華堂の曜変天目はその中でもひときわ華やかとさ
れています

徳川家蜜が春日の局に貸ししたとされ
春日の局の嫁いだ稲葉気にその後伝わったため
稲葉天目とも呼ばれます
茶碗の光景は十二センチほど南宋時代中国の兼用で焼かれました
美しいのは内側だけではありません
釉薬のかかりぐらいもポッテリと
高台も精緻に削り
出されています

この美しい虹色の輝きは窯の中で釉薬が偶然変化して生まれたもの
曜変天目は現代の技術をもってしても
再現することが極めて困難な奇跡の茶碗なのです
昭和九年に稲化けから岩崎小弥太の手に渡りました
しかし小弥太はって
天下の名器を私に用いるべから
ずと言って使うことはなかったと言います
まお茶碗じゃないですか
でお茶碗だからこう
本当は人がこうお茶碗のものを使ってきたものだと思うんですけど
あの子や他ではえっと自らは用いなかったとこれはね
やっぱりあのー
美術品というものは個人のものではないと
やっぱりその国のものであるとそして今国宝国宝
と言いますけれどもこの文化財の保護法ではね
これは国民の財と規定されているんですね
幸之助さん豊田さんはそういった感覚がねあった
あのあったに違いないあるいはあったんだと思うんですけど
そもそもねもともとあった場所からこういう中心に移ってこられて
こうあの重要な建物の中でこうまた美術館をこう
もともとあったコレクションを用いてまた美術館を新たに
リニュアルオープンっていうんですか
とされてるってこと自体がそのーまぁ
あの小弥太弥之助とかの精神にこう
繋がっていくような営みではあるんじゃないかとそうですね
すでにお話ししたようにほとんどすべてのその美術作品がですね
継承と創造によって作られている二人のコレクション自体
もその継承と創造発展によって作られている
と言っていいと思うんですね
これはま一人でも多くのですね
それこそ国民の方々に見ていただきたい
しかしそれと同時にやっぱり世界の人にですね見て頂きたい
世界のアジアヨーロッパアメリカ
すべてを含めた世界の人に一人でも多く
ですねこの日本の中国の東洋の美というものを
美と名というものをですねえーま
監督していただきたいなという風に私は願っています
今日はどうもありがとうございましたどうもどうも失礼致しました