日曜美術館 「マネ 最後の傑作の秘密〜 フォリー=ベルジェールのバー 〜」

日曜美術館 「マネ 最後の傑作の秘密〜 フォリー=ベルジェールのバー 〜」

マネの「白鳥の歌」とされる最後の傑作「フォリー=ベルジェールのバー」よく見ると鏡に写った光景であり、しかもいくつもの矛盾に満ちている。なぜ?仕掛けられた謎を解く。

マネが死の前年、梅毒に苦しみながら完成させた傑作がある。パリの音楽ホールのバーメイドを描いた絵はいくつもの謎に満ち、発表直後から「理解するのが困難」と議論を呼んできた。画面中央の女性は、うつろな視線をさまよわせる。彼女は娼婦でもあった。背面の鏡に写る光景は一見何気ないが、よく見ると現実との整合性が無視され、矛盾に満ちている。鏡の世界に仕掛けられた企み、メイドの表情の秘密とは?最新の研究から読み解く

【出演】東京大学教授…三浦篤,【司会】小野正嗣,柴田祐規子

放送:2019年10月13日

日曜美術館 「マネ 最後の傑作の秘密〜フォリー=ベルジェールのバー〜」

フォリー=ベルジェールのバー

マネ最後の傑作

フランスの画家エドワール・マネの作品が上野の美術館で公開されています。

《フォリー=ベルジェールのバー》マネ最後の傑作です。

絵の舞台は19世紀後半のパリ。歓楽街にあるミュージックホール。

バーカウンターに一人のメイドが立っています。

この絵にはいくつもの謎が隠されていると指摘されてきました。

その一つがバーメイドの表情です。

発表当時から自然なポーズだと見る人がいる一方で、顔が無表情だなど戸惑う声が多くありました。

さんざめく楽団の音色や客の嬌声の中で、メイドは虚ろに視線を彷徨わせているように見えます。

もう一つの謎は絵の背景にあります。

下に枠が描かれていることから、背景は大きな鏡に映る風景だとわかります。

その鏡の中の人や物はどこか奇妙です。

発表当時から理解不可能な配置と評論家たちを困惑させてきました。

正面を向くマーメイドの後ろ姿は、本来映っているべき位置にはなく、大きく右にずれています。

しかも右側の男性は鏡の中にしかいません。

さらにカウンターの上の酒瓶は鏡に映ると置かれている位置がズレ、本数も違います。

そして画面の左上の隅には空中ブランコに乗った足だけが描かれています。

近年 X 線調査などが行われ、

作品の秘密が解き明かされようとしています。

マネがこの絵を描いたのは死の前年でした。

重い病に苦しみながら数ヶ月かけて完成させています。

「これはマネの白鳥の歌。今まで自分が開拓したもの。あるいは関心を持ったものを、この一枚の絵に米用と考えたと思うんですね」

謎に包まれたマネ最後の傑作。その秘密を探ります。

今日は19世紀後半に活躍したエドワール・マネの最後の傑作と言われる作品が《フォリー=ベルジェールのバー》この作品に秘められた謎について迫って行こうと思っております。
パッと見て最初の印象は・・・
「女性の存在感に引きつけられる。しかしよく見るとどうしてこんな描き方になっているのか不思議なところばかりです」
舞台となった場所と描かれた女性について見ていきます。

マネの生涯

パリ9区にフォリー=ベルジェールという劇場があります。

誕生したのはマネが生きた19世紀後半。

当時はミュージックホールとしてバリの人々の人気を集めていました。

マネが題材としたのがこの店で夜毎繰り広げられる光景でした。

ホールには大勢の人々が訪れ、アクロバットやバレエ、オペラやシャンソン。

そしてエロティックなショーまで楽しみました。

このようなホールが賑わった背景には19世紀のパリで行われた大規模な都市整備。

いわゆるパリ大改造がありました。

ゴミや汚物にまみれ疫病が蔓延していた路地や貧民窟は一掃され、大きな通りが作られて近代都市に生まれ変わりました。

産業革命を経て経済が飛躍的に発展したパリは、ベルエポックという京楽の時代を迎え、その繁栄を謳歌していました。

「パリの大改造の裏にはパリを娯楽と消費経済で活性化させるという狙いがありました。そのためカフェや娯楽施設などがたくさんできたのです。

中でもフォリー=ベルジェールはミュージックホールであると同時に売春を目的とする怪しげな場所でもありました」

フォリー=ベルジェールには今も幕間に酒を飲むバーカウンターが設けられています。

マネが生きていた時代。ここで接客するバーメイドの役割は酒を売ることだけではなかったといいます。

「絵の中のバーメイドも売春をしていたことは間違いありません。

胸の空いたドレスや花は男性を誘う装いであり、バーカウンターに両腕をしっかりついている体勢は性的にオープンであることを示しています。

彼女はカウンターに並ぶお酒と同様にフォリー=ベルジェールの売り物の一つになっていることをマネは表そうとしたのだと思います」

舞台のスターでも貴婦人でもなく娼婦だったとされる一人のメイド。

マネはなぜ彼女への主題に選んだのか。

その理由はマネの人生を辿ることで伺うことができます。

マネが生まれたのは1832年。目まぐるしく社会が変化する激動の時代のパリでした。

父は高級官僚というブルジョワ家庭に育ちますが両親の期待に反して絵の道に進みます。

家の近くのルーブル美術館に通っては、イタリアやスペインの古典名画の模写をして伝統的な絵画表現の多くを学びました。

当時の模写の申請書の中にマネの名前が残っています。

若き日のマネの模写です。

構図や色彩、人物の形態を意識しながら多くの作品を模写することで、画家としての腕をあげていきます。

当時画家として評価される道は、サロンと呼ばれる公式の展覧会に入選することでした。

これはサロンで高く評価された作品。

古代ローマ時代の歴史をテーマにした歴史画です。

堅牢な伝統的表現で理想の世界を描くことが当時のサロンでは求められていました。

マネは何度もサロンに挑戦しますが、なかなか入選できませんでした。

31歳の時にサロンに出品した作品は審査員たちの怒りを買って落選。

落選者展に展示されました。

《草上の昼食》です。

構図は古典の名画に習っていますが、描いたのは若い男女がパリ郊外の森でピクニックを楽しむ光景です。

しかも女性は裸で脱ぎ捨てられた服まで描かれています。

当時パリの森は恋人たちの密かな楽しみの場として知られていました。

マネはサロンが求める理想の美ではなく、現実にある日常を赤裸々に描こうとしたのです。

さらにその表現も斬新でした。

滑らかさを感じさせない荒々しいタッチ。

遠近法を無視した平面的な画面構成など、今までには無かった独創的な表現は人々を驚かせました。

さらにマネは同じ年再びサロンでスキャンダルを巻き起こします。

豪華なベッドに裸で横たわる女性。

ポーズはギリシャ神話を題材にした名家のヴィーナスと似ていますが。

マネのヌードには生々しいリアリティがありました。

だらしなく脱げかけたサンダル。

パトロンから送られたことを連想させる花束。

腕輪や首に結ばれた黒い紐飾りなど、彼女が高級娼婦であることを連想させます。

当時、娼婦は社会の表面からは隠されるべき存在でした。

マネが描く女性はまっすぐに正面を見つめています。

その視線は彼女の存在感を強く印象づけています。

マネはその後も近代都市へと大きく変貌するパリの現実の姿を次々に描き続けました。

母と子の何気ない日常の一瞬を描いた作品ですが、絵のテーマはその背景にあります。

鉄柵越しに少女が見つめるその先では白い煙が立ち込めにはまさに蒸気機関車が通過していることが想像されます。

近代化を象徴する鉄道を通して、都市の日常の一コマを斬新に切り取りました。

パリに登場した中産階級の間には避暑を楽しむことが流行していました。

ヨットの浮かぶセーヌ河畔で散歩を楽しむ親子の姿は豊かな社会を象徴する一コマでした。

マネのアトリエには画家の他にボードレールやゾラなど文学者もやってきて新たな芸術論を戦わせました。

当時マネは絵画理論においても若い画家たちに一目置かれるリーダー的な存在となっていました。

ここはマネがアトリエを構えていたバティニョール地区の界隈です。

パリの中心部から離れた周縁部で、大改造によって開発されたばかり。

貧しい人々と豊かな新興ブルジョアが隣り合わせに暮らしていました。

ここでパリの時代の変化を感じ続けたマネ。

刺激や出会いを求めて足繁く通っていたのが新しく開店したばかりのフォリー=ベルジェールでした。

最後の傑作となった《フォリー=ベルジェールのバー》

マネが絵のモデルにしたのは実際にこの店で出会ったシュザンという名のバーメイドです。

その眼差しは同じく娼婦を描いたとされるオランピアのように強くはなく、さまよっているように見えます。

絵はサロンで入選。

批評家たちから一定の評価を得ましたが、当惑の声も多くあがりました。

ある批評家は、当惑したような雰囲気だ。

またある批評家は顔が無表情だと疑問を投げかけました。

彼女の表情を通してマネは何を伝えようとしたのか。

その秘密を読み解くヒントは背景の鏡の中にあると言います。

2階席で舞台を楽しむ裕福な女性達。

画面の端に足だけが描かれた空中ブランコ乗り。

当時のフォリー=ベルジェールのポスターです。

曲芸をするのはたいてい貧しい少女。

彼女たちには裕福なパトロンがつくこともありました。

こちらはバーメイドに向かい合った男。

何やらヒソヒソと語りかけているようです。

「彼女の表情は単純な解釈を拒むものです。一般的な風俗画のように悲しみや驚き、落胆のような表現ではありません。私たちの目には彼女が疎外されひとりぼっちであるかのように映ります。二階席の裕福な女性たち。空中ブランコの少女。きらめくシャンデリア。そのすべてが彼女の孤独を際立たせているのです」

この絵を描いていた頃のマネは、青年時代にかかった梅毒が進行し動くことも不自由になっていました。

苦しみながら絵を完成させた翌年、51歳で亡くなりました。

この《フォリー=ベルジェールのバー》が最後の傑作となりました。

最後の傑作

フォリーベルジェールは大衆的な劇場で、ミュージックホールでもあるんですけれど、ここにはたくさんの人が観劇に行ってきていました。ブルジョアジーもいるし庶民もいたと思います。そういった人たちが混ざり合った一種の階級のるつぼのような場所で、マネにとってもいちばんふさわしい場所だったのかなというふうに私は思っています。このマーメイドなんですけど彼女自身はある種の下層階級の出身の女性であっても間違いないと思います。この劇場の中にはもちろん芸人もいるしお客もいる。ブルジョワジーや庶民もいたんですけれども、その中で接客しているバーメイトなどというのは決して本来主役であるはずがないんですね。ところがあえてその女性を主役に据えて作品を描いたというのがマネが階級にすごく関心を持っていたせいではないかなって思うんです。

最大の謎

フォリーベルジェールのバー最大の謎。

それは鏡に映った風景が実際に映るようには描かれていないということです。

鏡の中のバーメイドの後ろ姿は本来映っているべき位置より大きく右にずれています。

しかも向かい合うシルクハットの男性は女性の正面にはいません。

発表当時から、この絵は理解不可能な配置と、見る人たちを困惑させました。

鏡の中の表現に矛盾があるのはなぜなのか。

その秘密を解き明かそうとしたのが《フォリー=ベルジェールのバー》を所蔵するコートールド美術館です。

ロンドンにある美術館には世界有数の印象派や、ポスト印象派のコレクションが収集され、美術研究所が設けられています。

近年ここで《フォリー=ベルジェールのバー》の科学調査が行われました。

X 線で絵を調べてみると鏡に映る女性の後ろ姿が何度か描きなおされていることがわかりました。

マネ自身が試行錯誤を繰り返し、どんどん右にずらしていったのです。

何故なのでしょうか。

「マネが得の中心を右にずらしたのは絵の中心にしっかりと女性を屹立させその存在感を強めたかったからだと思います。構図の中心にいる女性は非常に傷つきやすく、内省的で殻に閉じこもっているように見えると同時に、力強い存在感を持っている人に迫ってきます」

現実のバーメイドと鏡に映った姿に違和感がなくなるにはどうすればいいのか。

実際にバーカウンターをしつらえ、状況を再現してみます。

女性を正面から見ると後ろ姿は鏡に映りません。

鏡の中の男性と話しているように見えるためには、視点を右にずらすことになります。

ここで鏡に映った人物の配置が、絵と同じようになりました。

しかしこうすると女性は正面向きではなく横向きになり、バーカウンターも斜めになってしまいます。

この絵には正面から見た視点と右側から見た視点二つの視点があることがわかります。

他にも視点の整合性が失われている箇所があります。

女性の姿やカウンター上の物など、鏡の前にあるものから判断すると、画家は絵の中心女性の胸の位置から描いていることがわかります。

この視点から描いた場合左側の酒瓶が鏡にどう映るのか再現してみます。

女性の胸の中心と酒瓶をつなぐ線上に瓶の口や瓶底を合わせるとこのようにカウンターの手前の位置に小さく映るはずです。

ところが鏡の中の酒瓶はカウンターの奥にあり大きさや数も違っています。

さらにもうひとつの違和感があるのは2階席の位置です。

実際に鏡に映るとどうなるか。

再現を試みました。

2階席はこのように映るはずです。

鏡の中の2階席はもっと高い位置にある視点で描かれています。

女性の胸の位置の視点と2階席の視点。ここにも二つの視点があることになります。

マネは現実をあるがままに描かなくてもいいという確信を持って、鏡に映る背景を構成していることがわかりました。

そうした表現の背景には、マネの生きた時代の大きな変化があるといいます。

「19世紀末は、産業の発展に加え現実の暮らしや人間の生き方を語る哲学までも一気に大きく変わった時代です。底では世界を単一な視点で見ることに疑問が生まれていました。マネは周囲に二階席のざわめきや謎めいた男など様々な視点で見た現実の段弁を書き加えたのです。この女性の存在を通して、世界の本質とは調和できない現実であることを突きつけたのだと思います」

マネが生きた時代。人々の社会に対する見方を大きく揺るがしたのは1871年に起きた革命でした。

前年に起きた普仏戦争でフランスは敗戦。

当時の皇帝ナポレオン三世が敷いた帝政に対し人々の怒りが爆発します。

混乱の中労働者たちが武装蜂起しプロレタリアートの独裁による新しい社会の建設を掲げました。

ここにパリコミューンが成立したのです。

その後わずか70日あまりで鎮圧されますが、マネはその一部始終を目撃し、絵に描きました。

「パリコミューンていうのは今まで意見を表明できなかった人たちもですね、自分たちの考えを表明するようになったということなんです。それの現れなんですよね。それは今までの社会を構成していった少なくとも表面的には19世紀になって主役になっていたそのブルージュアだけではなくて、それよりももっと階級的に下の人たちも自分たちの意見を持つようになったんです。そういうものが現実としても出現したわけです。それを相手にしてそれをどう表現していくかということがまさに芸術家の課題になってきたいうことなんじゃないでしょうか」

19世紀後半。時代が大きく変わる中。

芸術家や文学者たちは新しい表現を模索していました。

マネの親しい友人ボードレールもその一人です。

ボードレールは悪徳の持つ美を歌うなど退廃的な作品で知られる詩人です。

変貌する近代社会に疑問を感じていました。画家は何を描くべきか。

美術評論の中でこう書いています。

「現代性とは一時的でうつりやすく偶発的なものだが、そんな人間の生活の中から神秘的な美しさを取り出さなければならない」

さらにもう一人、マネを尊敬し擁護したのが詩人のマラルメです。

毎日のようにマネのアトリエを訪ねては語り合ったといいます。

マラルメは現実とは一瞬で移ろいゆくもので再現することができない。

芸術家はそこから何かを見つけ、新たに創造しなければならないと考えました。

「私たちに残された密はただ一つ。徹底的に現在に執着すること。この世に執着することである。日常生活の一つ一つに熱い眼差しを注ぐうちになんでもないつまらないものが次第に精彩を放つようになる」

「ただ現実を見るということではないですね。現実っていうのはそれ自体たとえば自然や静物、人間の顔だとかはそれ自体充実していて魅力が十分ある。それを描写という方法で描こうとするとかえってそのベールをかけてしまうことになる。だから描写ではなく暗示すること。あるいはほのめかすことによってですねその対象の魅力を表現することができる。で私たちはその永遠なるものに憧れるんだけれども、それは実は無に等しいかもしれない。だとすればその徹底的に現実に執着すべきである。目の前に展開する生活を凝視するうちに、なんでもないもの。つまらなく思えるものがしだいに精彩を放つようになる。それを捉える。そしてそれを表現することができない芸術家詩人であり画家の役割なんだいうことを言うんですね。でこれはマラルメについても、マネについてもそうなんだと思うよね」

《フォリー=ベルジェールのバー》鏡の中に広がる調和を失った現実の断片。

その前に立つバーメイドは虚ろな表情で視線を彷徨わせています。ここにはマネが生きた時代が映し出されていました。

スタジオ

この作品は鏡を使っているというのが非常に多きな意味を持つような気がします。
「この作品の場合鏡の占める面積大変広いですよね。これだけの大きな面積を鏡が占めている作品はないのかなと思います。よく指摘されることですけど、明らかに現実の空間としてみると矛盾がある。不整合を起こしてるということよく言われますね。現実を描くときにどういう風に考えるのかと言うと、現実を見れるがままに描くと考えがちなんですけれども、マネという画家に関していえば、必ずしもそうではない。現実渡してる素材として使います。魅力的な現実をいろいろ集めてくる。ただ最終的に彼は一個の絵画作品。独立したイメージとしてそれを作り直すのですね。現実を再構築する。それは明らかにマネの中にあったと思います」
僕らの現実と同じような空間の配置とかがあるもんだっていうことを前提にして見ますので、そうすると変な風になりますが、マネにとっては何の問題もない
「実は当時の観客にも批評家の言葉を見ても困惑した感じが出てまして、おかしいんじゃないかとか確かにそれはその通りなんだけれども、でもバラバラであるというところが近代である。誰もが全体把握できない。絶対的な価値観を喪失してるし、神は死んでるし、人間はバラバラだし。こういった近代の人の在り方、社会のあり方というのを考えると、まさにそれを示唆してると思いますね」
ボードレールやマラル目が共感した理由とは
「例えばまず今の芸術家というのは自分が生きてるこの現実を描かないという前提はどの芸術家も共有してるわけですね。その上で表し方の問題だと思うんですよね。永遠の美ではなくて瞬間。それまでの理想化された世界ではない。今ここ。現在生きているパリを描く。でもその一瞬の輝き。女性の美に体現されるその一瞬の輝きにそこに現代でしかない新しい美を見出していく。それはダイレクトには描写しても表せない。何らかの手法、工夫が必要だと思うんですよね。その造形的な工夫だし、言葉を使う詩人であるならばまたそれなりの暗示的な表現かもしれないけれども、我々が普通には見えない近代の美ををどうやって浮き彫りにしていくのかという点で、やはりボードレールやモラルメとマネのラインいうのは平行関係にあるのではないかと」
みんなが同じような問題意識を共有したっていうことはあると思いますね
「そういう儚い一瞬の美だからこそ、こういう風に光が明滅し、そして彼女は虚ろなまなざしで、今ここでしか成立し得ない美を体現してるわけですよね。でもちょっと虚無的な感もあり、近代人の抱えてる虚しさとかある種の過酷な現実とか、打ちひしがれる自分とか何かそういったものを見つめてるような感もあり。これはいろいろ解釈があるとは思うんですけれども、全景に見えるバーメイドの世界そして背景。これはある意味で次元の違う、時間の違う、二つの異なる世界がまあ繋ぎ合わされてる。接合されてるって言う風に見ることもできるんじゃないかと思いいます。もちろんこれは鏡ですから、同じ人物の正面と背面が描かれていると思っていいんだけれども、しかしであると同時にこの彼女の時間は違っていて、例えばお客と接している彼女というのは、ある種の職業的な役割を演じてる彼女ですよね。でも前にいる彼女っていうのはどこか虚ろなまなざしをしている。つまりこれはプライベートな個人的な世界に浸っているような彼女ですよね。それはある意味で公と私というのが分裂している二つの世界が平行しているという風に考えると非常に奥深くなってくると思いますね。つまり一人の人間の自我がもしかしたら分裂してここに表現されてるんじゃないか。ちょっと大げさな言い方をすると。でももしかしたら近代人ってそういうものじゃないですか。色々な場面で自分の役割を演じてるし、でも孤独な自分もいてという。そういうふうに考えていくと、確かに最初はマネはバーメイド描こうとした。でもそれはフォリーベルジェールを象徴する女性像になり、もしかしたらパリの文化とか最終的なエンターテイメント象徴するような存在になり、最終的にはもしかしたら彼女こそが現代人の象徴かも知れない。ある種孤独の中で孤立の中で内省的でもあるような。でも生きていくためにはたくましくもしかしたら自分の身を売るというような過酷な現実もあるかもしれない。そういう見方もできるんでしょうか」
空中ブランコの足のような断片的なものが散りばめられてる。
「もしかしたらこういった様々な断片的なモチーフというのは、マネそれまで愛してきた描き続けてきた様々なパリの断面かもしれないんですよね。ブルジョワの男性や貧しい人、芸人や女性。彼自身が今まで描き続けたものがここに集まっている。その前に孤独なバーメイドが屹立している」