季節を巧みに写す「生菓子」。300年前以上前から受け継がれてきたデザインの秘密▽京都の老舗がかまどでじっくり炊く極上「あんこ」に。北海道・十勝の農家がとれたて小豆で作る、絶品「おはぎ」▽2.5cmに50枚の花びら!精緻な「干菓子」を生み出す、スゴ技の「木型」▽果物の化石?!気鋭の和菓子作家が作る、スタイリッシュな 和菓子 ▽茶人に和菓子を学ぶ!木村多江の金沢和菓子旅▽角野卓造×草刈正雄の和菓子対決?!
放送:2021年11月20日
美の壺 スペシャル 「和菓子」
日本を代表する食文化の一つ 「和菓子」
日本人は古くから、お菓子を多彩に彩り、楽しんできました
そんな和菓子の魅力を「美の壺」が大特集
季節の移ろいを巧みに映す「生菓子」
300年以上前に書かれた見本帳
デサインの秘密とは
京都では、職人が昔ながらのかまどで炊く極上の粒餡
小豆の名産地といえば北海道十勝地方
風味豊かなとれたて小豆で作る絶品のおはぎ
産地ならではの味わい方とは
そして和菓子を生み出す道具、木型の知られざる制作現場に密着
精緻な形を作る職人の凄技は必見です
木村多江も菓子処金沢へ
食べて作って和菓子の魅力を探ります
食べて美味しい、見て美しい和菓子に秘められた美をたっぷり味わい尽くします
季節
東京・赤坂
室町時代後期に京都で創業した500年続く老舗の菓子店
毎朝9時の開店に合わせて、店頭に並ぶ菓子があります
作りたての生菓子です
どれも色や形に趣向を凝らしたものばかりで、
主に、茶席や行事などの「おもてなし」に使われてきました
この店では、生菓子の品揃えに心を砕きます
「大体、一年で150種類程の生菓子をご用意しています」
生菓子には、季節毎のモチーフがこまやかに表現されています
10月は、緑から黄色や赤に色づく「かえで」
秋が深まるとともに、移ろう様を一枚の葉に表しました
11月は「初霜」
今にも消えてしまいそうな霜の風情を新引粉という米粉で現しました
11月の下旬になるとリンゴがほんのり色づいて、深まりゆく秋を小さな菓子の中に見ることが出来ます
「日本の四季の移ろいとか花鳥風月、日本文化などを生菓子を通じて味わう、感じることができる」
この店には貴重な資料が残されています。
今から300年以上前、元禄8(1695)年の
和菓子の見本帳「御菓子之畫圖」(おかしのえず)です。
見本帳には、菓子のデザインと「菓銘」が記されています。
「なすび餅」と名付けられた白い菓子は、
夏の野菜の白なすの姿を
もっちりとした外郎(ういろう)で象っています。
「水山ぶき」と名付けられた菓子の
上下段の黄色は「山吹の花」の色を、
中段は川の流れを表しています。
「やまぶき」は、
その美しさは 「万葉集」などにも詠まれてきた
鮮やかな黄色い花です。
これをつくね芋を使ってしっとり仕上げた生地を黄色に染めて
表現しています。
そして、あんを使った生地を川の流れに見立てて、
水辺に咲き乱れる山吹の情景を表現しているのです。
冬の風物詩として和歌や俳句の題材でもある千鳥が
群れ飛ぶ姿を表した「友千鳥」は、
白小豆で作った蒸し羊羹に、
千鳥に見立てた小豆を散らして表現されています。
「この時代に、こういう上生菓子を楽しんでいた人達というは、
お公家さんだったり、武家だったり、裕福な商人層だったり、
そういう知識も持った人達の階層だったので、
古典文学に関しての知識があったりですとか、
美術に関する知識ですとかっていうのを想像を広げることで、
目の前にない自然の情景も想像出来たりとか、
古くからあるストーリーに思いを馳せることが出来たりとか。
和菓子というものを楽しんでいたというのは
見ていると、凄くよく分かるかと思います。」
3月の生菓子、菓銘「手折桜」は、薄紅色の生地で作られています。
「」
2月には同じ生地を使って違う花を作ります。
生地に白小豆の粒あんをのせて、5弁の花びらに仕立て、
砂糖蜜を塗って、艶を与え、そぼろにした黄色いあんをのせたら、
菓銘「寒紅梅」が出来上がりました。
寒さの中に咲く一輪の紅梅が、春の訪れを告げてくれます。
6月の生菓子、菓銘は「沢辺の螢」。
薄緑に染めたあんを濾してそぼろにします。
あん玉を白あんと求肥(ぎゅうひ)を練り上げた生地で包んだものに、
そぼろにしたあんを少しずつつけていくと、
水辺に生い茂る草むらにホタルの姿が。
歳時記の如く季節をこまやかに表現する。
和菓子ならではの美しさがあります。
小豆を美味しく美しく
京都市西京区桂にある明治16(1883)年創業の
老舗和菓子店、御菓子司「中村軒」。
店先には、きんつばやまんじゅうなど、
普段使いの和菓子が20種類近く並んでいます。
午前7時、厨房では、まず日持ちしない餅菓子を作ります。
搗き立ての餅で作るのは、
創業時からの看板商品「麦代餅」(むぎてもち)です。
そのお餅に、
北海道産の小豆を軟らかめに炊いた粒あんを入れて
黄粉を振った
かつて農作業の合間のおやつとして重宝したという
食べ応えのある餅菓子です。
午前9時、餅菓子が一段落したら、次は日持ちする菓子です。
蜂蜜を入れた生地を銅板でじっくり焼いて、
「どら焼き」を作ります。
餅菓子より硬めにに炊いた粒あんが、
しっとりした皮とピッタリなんだとか。
「きんつば」は、丹波の大納言を使ったあんを寒天で固め、
小麦粉ともち米の粉を溶いた生地をつけて焼き上げます。
口に入れるとほろりと崩れ、小豆の食感が存分に楽しめます。
「お店によって、力の入れようはいろいろやと思うんですけど… 、
でも、やっぱりお菓子として成立するのは、
皮とのバランスであったりとかするんですけど、
最終的には、お菓子の形になる時にあんこにかかる…
余分なと言うとあれですけど、必要以上の細工は
生菓子に関してはあんまりかけないようにっていう。」
あんこは店で一から作ります。
この日は粒あんです。
北海道産の大粒の小豆を使います。
まずは「渋切り」と呼ばれる下準備。
小豆を茹でると灰汁が出てきます。
渋味や苦味が残らないように、下茹でして煮汁を捨てます。
次に圧力鍋にかけて、豆を軟らかくしていくと、
小豆はふっくら茹で上がり、倍程の大きさになります。
この小豆と砂糖を銅鍋に入れて
「かまど(おくどさん)」にくぬぎを燃やして、炊いていきます。
ガスで試みたこともあったそうですが、
やっぱり「かまど(おくどさん)」に戻ったのだとか。
「最後までじんわりと燃えていくんです。
温度自体はガスとかより低いんです、木の場合は。
確か800度とか。ガスの場合は1200度とか言いますしね。
豆にダメージがあるんかな?とは思ってるんですけど。」
じっくり火を通しながら、およそ1時間。
へらに粒が残るくらいとろみが出たら、これで OKです。
粒あんが出来上がりました。
艶やかに光る赤い粒。
豆の姿を残しながらも、しっとりと仕上げた店自慢の粒あんです。
「バチッと決まった時は、やっぱり最高の味が出ます。
やっぱりガスでは出せへんレベルの味に仕上がることがあるんで」
あんこを語る上で欠かせない「小豆」。
赤い色には「魔除け」の意味があるとされ、
様々な場面で使われてきました。
江戸時代になると、砂糖の流通が増え、
甘い小豆のあんこが広く作られるようになり、
街道筋の宿場には、名物のまんじゅうやあんころ餅が登場し、
あんこの菓子は人々の楽しみになりました。
今、国内で生産される小豆の9割以上は北海道で作られています。
中でも一番の産地が「十勝地方」です。
昼夜の寒暖差が大きいため、
でんぷん質を豊富に蓄えた小豆が育つのだそうです。
小豆の中でも、「エリモショウズ」という品種は
風味豊かで、あんこに最適と言われています。
10月、さやが茶色く色づいてくると、
小豆が熟してきた合図です。
この日は、収穫を前に、農家の女性達が集まって、
今年の小豆の味を確かめました。
十勝で一早く採れた「エリモショウズ」です。
明るいルビー色は新鮮な証し。
まず「粒あん」を作ります。
水に入れて、軟らかくなるまで1時間ほど煮ます。
軟らかくなってきたら、お砂糖を入れて、
今度は捏ねながら、水分を飛ばしていきます。
取れたての小豆は灰汁が出ないため、渋切りをしません。
豆が軟らかくなったら、
北海道の甜菜で作った上白糖で甘味を加えます。
ここからは、あんこになるまでかき混ぜながら、
焦がさないように煮ていきます。
地元の農家に生まれ育った前佛由美子さんは、
子供頃に食べたあんこの味を手本に作ります。
取れたての豆は、
水分量にムラがあり、煮える時間に差がありますが、
粒の様々な食感を味わえるのだとか。
粒あんが出来たら、まずは、おはぎにします。
包み方は家庭によって様々です。
新豆ならではの軟らかなな口当たりが優しい粒あんのおはぎです。
小豆と合わせるのは、
地元で取れたばかりのジャガイモ「キタアカリ」です。
潰して、片栗粉を加えて、よく混ぜます。
甘く煮た小豆に、丸めたイモを入れれば出来上がりです。
「私の小さい頃には、夕食、ごはん足りないよと言ったら、
おしるこ出てきましたね。
小豆を炊いた中にだんご作って投げ入れて、
浮いてきたら出来上がりだからね、というふうに。」
イモと豆さえあれば簡単に出来る、
香り高い取れたての小豆と新ジャガの甘味を頂きます。
収穫の合間のひと時、秋の実りをこうして仲間と味わいます。
「小豆を炊いてる時から豆の香りが凄いするので、
やっぱり新豆という感じは受けます。」
十勝の大地で育まれた小豆は、今日も多くの人に愛されています。
型が生み出す自在な形
「干菓子」は、
千年を超える菓子文化が根づく京都で愛されてきた和菓子です。
箱ぎっしりに詰まった、2~3㎝程の小さな菓子に、
四季折々のモチーフが表情豊かに刻まれています。
趣向を凝らした干菓子は、
茶会のもてなしや贈答品に使う菓子として、発展してきました。
京都・祇園で300年近く続く老舗菓子店「鍵善義房」では、
江戸時代から変わらぬ製法で、今も干菓子を作り続けています。
代表的なのが「打物」と呼ばれる型を使った干菓子です。
材料は、色を付けた砂糖と蒸したもち米を乾燥させて作った
「寒梅粉」(かんばいこ)をふるいにかけて、木型に入れていきます。
この店で使っている木型は500本以上、
季節や用途毎に保管されています。
お正月のものは、干支の物がたくさんあります。
使われなくなった古い木型も大切に残されていて、
中には江戸時代に作られた貴重な、
今ではあまり見られないデザインもあります。
「自由ですよ。
もう何かね、この辺の古いカニとかでも、何か本当に自由。
鳥も鶴も、何か好きなように飛んでますし、
何かね、面白い世界だなと思います。
生き生きしてますよね、デザインがね、昔のものはね。
僕ら、何かもうすごく型にはまるような、
木型だけに型にはまるじゃないですけど。」
菓子の木型を作る職人さんは、
現在、全国でも数える程しかいません。
その一人、田中一史さんは、
岡山市で3代に渡り、和菓子の木型を専門に作ってきました。
木型は全てオーダーメードで、
その店の、その菓子に合わせて、一から作っていきます。
この日、田中さんが手掛けるのは、
祇園の菓子店に伝わる菊の干菓子の型です。
江戸時代から幾度と新調し、受け継がれてきた歴史ある木型です。
木型は2枚型。
まず上の板を作り、輪郭を下の型に写していきます。
一本の木型に9つの模様。
花の膨らみを少しずつ同じように彫っていきます。
ところどころで定規を使い、深さを確認しながら細かく調整します。
模様は型紙をなぞって書き写します。
光の当たり具合を見て、均等な深さになっているか確認します。
再び型紙を当て、今度は花びらです。
花びらは、まず輪郭にだけ刀を入れます。
そして一枚一枚に僅かな段差をつけながら、
花が立体的に見えるよう彫っていきます。
一本仕上げるのに丸2日。
最後に粘土で型を取り、彫りを確かめます。
数多の職人によって受け継がれてきた模様がまた一つ、
新たな木型に刻まれました。
「お買い求めの際は、
よくしっかり模様を見て食べてもらえば、
それが一番の楽しみというか、
そのままパクッといっちゃわずに、
一旦こう模様を見て頂いてから
口に入れて頂くというのをして頂ければ
ありがたいですね。」
僅か2.5㎝に刻まれた、50もの花びら。
この一本から数十万、数百万個の干菓子が生まれます。
職人達が受け継いできた、和菓子の形です。
菓子処・金沢を旅する
「美の壺」のナレーションを担当する木村多江さんが
歴史情緒溢れる街・石川県金沢市を訪れて、
和菓子の魅力を探りました。
日本の古き良き風情を求めて、
多くの観光客が訪れる金沢で忘れてはならないのが和菓子です。
正月には、梅を模った「最中」を食べて 新年を祝い、
桃の節句には、
お雛様と一緒に色鮮やかな砂糖菓子「金花糖」を飾ります。
暮らしの中に和菓子の文化が根づく金沢は
日本有数の菓子処と呼ばれています。
まずお邪魔したのは、
嘉永2(1849)年創業の老舗の菓子店「落雁 諸江屋」さんです。
店頭には、羊羹に落雁、最中など、様々な和菓子が並んでいますが、
特別におススメなのは「生落雁」です。
江戸時代、加賀藩を治めていた前田家は、
「加賀百万石」と称される豊富な財力を誇っていました。
その経済力を背景に、藩は様々な芸術文化を奨励します。
繊細な装飾を施した「金沢漆器」に、鮮やかな色絵の「九谷焼」や、
地の魚や野菜を絢爛豪華に彩る「加賀料理」。
そして「茶の湯」は、
京都から茶人を招くなど普及に努めたことから、
武士だけでなく町人も嗜むようになりました。
それと同時に、茶席で使う和菓子も発展していったと言います。
金沢の茶人を訪ねました。
金沢の和菓子に詳しい、大島宗翠さんです。
小さな壺から、小粒の干菓子が転げ出てきました。
これは、「振出」と呼ばれるもので、
主に野外の茶席で菓子を楽しむ趣向もの。
「まず お菓子というのは目で楽しむことがまず大事で、
次に味を楽しむと。」
茶の湯では、茶席に出す和菓子を
亭主自ら考えることが少なくないと言います。
大島さんもこれまで
茶会のテーマに沿った 、様々な和菓子を考案してきました。
毎回、絵に描いて、イメージを伝えます。
今回のテーマは、「苔の上に色づいた葉が落ち積もった景色」。
この日、菓子職人が試作品を持ってきました。
大島さんの注文をもとに作った試作は7つ。
大島さんが選んだのは、
あんと小麦粉を蒸して揉みこなした「こなし」という生地で、
柿のあんを包んだものです。
ここで大島さんから木村さんに、
和菓子をデザインしてみてはとの提案が。
ということで、木村さん、
「今ちょうど秋に向かって季節が移ろっていく時期ですもんね。
何かそういう、
移ろいみたいなものが表現出来たらいいのかなって思います。
やっぱり桜っていうと春の桜が咲いてる時期、
紅葉っていうと秋の赤く色づいた時期があるんですけど、
でも一年中、そこに存在していて、
夏も春も秋も冬もあるんですよね。
だから何か、今は表面的には秋なんだけれども、
その四季の移ろいそのものが一つのお菓子に入ってたら、
楽しいのかなと思って。
着物でいう、ぼかしみたいに柔らかい色合いになって、
全体が優しく優しい色合いになってるといいのかなとか。」
と、ちょっと難しい提案を。
作ってくれるのは、
知る人ぞ知る、金沢東町にある名菓子店「吉はし菓子店」の
2代目・吉橋慶祐さんです。
「考えるのも我々の仕事でございますので、
是非、挑戦させて頂きたいと思います。」
果たして、どんな和菓子が出来上がるのでしょうか?
代々、茶席で使う和菓子を主に作ってきた吉橋さん。
父の廣修さんも一緒に考案し、
翌日、お二人が試行錯誤を重ねた試作が披露されました。
紅葉をイメージしたものを多めに散らして、
秋以外の季節の彩り、ピンク、緑、白を
時の流れと川の流れを掛け合わしたもの。
金沢のおめでたい「起き上がり」をイメージし、
真ん中に、それぞれ四季の彩りを植えつけたもの。それに、秋を代表する花の一つ、菊をイメージした形のもの。
その中から、木村さんが迷いに迷って決めたのは、
見た目に優しい感じの、菊の生菓子です。
この美しさの裏には、こまやかな職人技がありました。
白あんと求肥で作った3色の「練切り」を一つにまとめ、
更に白い生地と重ねて2層にします。
これを芯にして、練切りを包み上げていきます。
色の付いているほうを内側にして、あんを包みます。
色は中に隠れてしまいましたが、
「三角べら」と呼ばれる道具で花びらの模様をつけ、
押し棒で花びらの表面を形づくると、
中の色が透けて色合いが浮かび上がり、
一輪の花があっという間に咲きました。
出来上がった和菓子は、
前田家に由緒ある建物「成巽閣」(せいそんかく)で頂きました。
「成巽閣」(せいそんかく)は、江戸末期、13代藩主・前田斉泰が、
母・真龍院の隠居所として建てたお屋敷です。
まずは大島さんが考案した、
柿のあんを”こなし”のもっちりとした生地で包んだ「紅葉衣」です。
そして、木村さんが考案した
秋を中心とした四季の様子をイメージした菊の菓子を
金沢伝統の大樋焼の器に載せて。
中には栗が入っていて、その栗が周りと合わさって、
とっても美味しいお味だったようです。
銘は、楽しむ心って書いて「楽心」とつけたようです。
「皆さんの話を伺ってると、
何かこう、すごく楽しむ心を大切にしてらっしゃるんだなと
思いまして。
楽しむということを一番に考えて。
皆さんが皆さんを喜ばせたい、そして、自分も楽しみたいっていう、
何かそういうのって 一番 大切なことかなと思って。
人としても、おもてなしの心とともに、自分も喜びになっていく。
みんなが心が豊かになっていく、
世界なんだなというふうに思いましたね。
今回は作ってくださる方とも お目にかかれて、
金沢の風土と伝統と技術が共にある、
菓子どころと言われる所以なのかなと思いました。」
味を生み出し 味を守る
「アートのよう」と評される独創的な和菓子を作るのは。
京都を拠点に創作和菓子を手掛ける御菓子丸の杉山早陽子さんです。
杉山さんの作るのは、どれもSNSでも話題の、独創的な和菓子です。
ほぼ独学で身につけたのだそうです。
平成18(2006)、老舗和菓子店に就職。
転機は中国茶との出合いだそうです。
「和菓子の茶席菓子というのは、
『万葉集』とか『古今集』とか、花鳥風月を表す世界なんですけど、
何か、もう少しやりたいと思ったことがきっかけになってます。」
茶の湯とともに発展してきた和菓子は抹茶に合わせ、甘さも甘め。
しかし、現代の日本人の日常は、
緑茶やほうじ茶、中国茶、紅茶など、いろんなお茶を楽しんでいる。
中国茶には、柑橘類やくるみなどが合う。
味の表現をしたいと思い、独立。
見た目と味との関連性、
そして予想外の食感、裏切りがある遊び心を追求しています。
中国茶の世界では、
干した果実やナッツを合わせることが多いことから、
柑橘の和菓子を作りたいと考え生まれたのが、「鉱物の実」。
寒天や干菓子の琥珀糖(こはくとう)を
ユズやレモン、ハッサクなどの果実で優しい風味や淡い色を与え、
黒文字の枝を刺しました。
レモンの爽やかな風味が、花の香りがする中国茶とよく合います。
食べてなくなっても 人々の心に残る和菓子を目指しました。
美術館で見た銅版画から発想した「種子」は
タンポポの綿毛のような球体に、
無数の花を咲かせ、生命の力を表現しました。
タンポポの白い綿毛がモチーフなのに味は、
クローブやシナモンなどのスパイスで「赤」をイメージしたものです。
弘前市本町にある、風格を漂わせた「大阪屋」は、
寛永7(1630)年に創業の、
約380年の歴史を持つ東北でも指折りの老舗の和菓子店です。
「大阪屋」の初代のご主人は、何と、豊臣家の家臣だったそうで、
大坂冬の陣、夏の陣で豊臣家滅亡後、
縁故を頼り、弘前の地に訪れたそうです。
そして、「大阪屋」を創業し、
津軽藩御用達の御菓子司として仕えたとされています。
そして明治以後は、冠婚葬祭に使うまんじゅうなど、
土地の暮らしに根ざした和菓子を作り続けてきました。
現在は、13代目当主・福井清さんがその伝統を繋いでいます。
4代目の福井三郎右衛門包純(かねずみ)が、
昔、西目屋村にあった金鉱山
「尾太鉱山」(おっぷこうざん)で行われていた、
青竹の節に金を流す様子からヒントを得て
創作したと言われている焼き菓子です。
薄い板状で、うっすらと焦げ目の付いたベージュの焼き色は、
磨く前のくすんだ金の姿を表しています。
パリッと噛むと、ほのかな甘味と蕎麦の香りが広がる
どこか懐かしさを感じさせる風味で、
時の津軽藩主にも献上され、大変喜ばれたと伝えられる、
およそ250年もの間作られてきた伝統の焼き菓子です。
今も、津軽家の家紋である牡丹の家紋が彫り込まれた
螺鈿細工の箪笥の中にこのお菓子を入れて、
お客様から注文があった時にここ取り出して、販売しています。
「竹流しは、一番手間の掛かるお菓子」と13代目はおっしゃいます。
材料は小麦粉と砂糖蜜、そして蕎麦粉だけ。
作り方も、昔からほとんど変わっていません。
小麦粉に糖蜜を混ぜた生地に、
そば粉をまぶしながら、
綿棒を使って、細く長く伸ばしに伸ばしていき、
それを7㎝程の幅に切って、
およそ900枚もの短冊状にして焼きます。
オーブンの温度や鉄板の位置によっては
焼き具合にムラが出るため、
焼けたものだけを取り出して、後は再びオーブンへ入れて、
火の頃合いを見計らいながら取り出します。
生地が薄いので、一枚一枚、形が崩れないように、
素手で素早く行います。
そして、熱いうちに形を平たく整えたら、出来上がりです。
「大阪屋」では、もうひとつ、
江戸時代の技術を大切に受け継いでいる菓子があります。
「冬夏」(とうか)という軽焼で、その名前の由来は、
大坂夏・冬の陣で戦に敗れたことを忘れてはならないという
戒めの意味があるのとか。
「冬夏」は、和三盆に包まれた繭のような形をしており、
ほんのり甘くサクッとした食感で、
やはりこれも4代目が江戸で習い覚えてきた、
粉砂糖をたっぷりまぶした「軽焼」という菓子です。
「軽焼」は江戸時代には全国的に流行していたそうですが、
手間が掛かることから、
今では作る店もごく僅かになってしまいました。
「軽焼」は、餅米に砂糖と青大豆の黄粉を混ぜて短冊状に切り、
数ヶ月かけて乾燥させてじっくり熟成させた
「餅タネ」を必要があるため、
大体、出来上がるまで3〜5ヶ月くらいかかります。
その「餅タネ」を代々伝わる専用の銅鍋で焼いていきます。
先程の「餅タネ」の乾燥具合が膨らみを左右します。
タネを作ってすぐ焼くと、
中がスカスカのがらんどうになっています。
一方、時間をかけて良い具合に乾燥させたものは、
中がみっしり詰まって、ふわふわの心地よい食感になるのです。
鍋につかないように、転がしながらおよそ15分経てば、
ふっくらきつね色に焼き上がりました。
焼き上がった「軽焼」に、更にもう一手間。
4代目が考案したという、味の決め手、
熱いうちに、素早く形を崩さないように、よく絡ませます。
そして蜜を絡めたら砂糖の中へ入れて、
和三盆と粉砂糖をまんべんなくまぶします。
仕込み始めてから4か月。
手塩にかけて育てた繭玉のような菓子が出来上がりました。
「ご覧の通り、手間暇が掛かるもんですから、
う~ん なかなか難しいお菓子です。
上品な甘さと軽やかな口当たりで、人々を魅了してきた軽焼ですが、
手間の多さから、先代の頃まで作る機会はごく僅かでした。」
それを13代目は、職人にも製法を伝え、
いつでも作れ、いつでも客が店で買えるようにしました。
「そんな苦労するもの、作んないほうがいいっていうふうに、
よく おやじには言われたものなんですけども。
しかし例えば、確かに見た目は品がいいし、
自分で言うのも変ですけども、いい菓子だし。
今日のは上手く出来ました。」
日常から人生の節目まで、
日本人の暮らしを様々に彩ってきた和菓子があります。