東京・練馬区にある美術館で展覧会が開催されています。子どもから大人まで幅広い幅広い層に愛される作品。いわさきひちろです。みんなに愛されるいわさきちひろ。今夢中になってる小さい人も、大切な思い出になっている大人も、誰もが心の中にしまっている、愛にあふれた絵はどのように生まれたの?みんなが知ってるいわさきちひろの作品は、画家になってだいぶたってからのものでした。満州でつらい経験をし、戦後は働きながら絵を描き、子育てしながら、少しずつあの画風に迫っていったのです。淡くにじんだ水彩絵の具でちひろが伝えたかったことは?そしてその絵に感動した人たちは何を感じたのか?黒柳徹子さんが語る思い出。ちばてつやさんが学んだこと。高畑勲さんが語った、ちひろの絵にこめられたメッセージとは?
【ゲスト】漫画家…ちばてつや,東京ステーションギャラリー学芸員…成相肇,黒柳徹子,絵本作家…松本春野,【司会】小野正嗣,高橋美鈴
放送:2018年8月12日
日曜美術館「“夢のようなあまさ” をこえて」
1974年55歳で亡くなったいわさきちひろ。
戦後最大のベストセラーと言われる「窓ぎわのトットちゃん」
出版されたときすでにちひろは亡くなっていました。
しかし、生前に描いた絵が小説のイメージにピッタリ合ったのです。
30年近くの画家生活の中で九千点近くの作品を残しました。
その殆どが子どものための絵です。
しかし、あまりの可愛さで大人の心をも掴んでしまいます。
いわさきちひろの代表作。絵本「小鳥の来る日」。
おかあさんは忙しいし、ぬいぐるみのくまはしゃべってくれない。
ことりがほしいなぁ。そんな女の子がことりとお友達になり、ふれ合う絵本です。
日本だけでなく、世界で読まれ、その一枚一枚が「額に入れるべき絵画である」と高く評価されました。
ちひろはこんなことを語っています。
「自分の絵にもっと泥臭さがなければ生けないのではないかと、ずいぶん悩んできたものでした」
「ドロンコになって遊んでる子どもの姿が描けなければほんとうにリアルな絵ではないかも知れない」
「その点、私の描く子どもはいつも夢のような甘さがただようのです」
この人もちひろのファンです。
漫画家のちばてつやさん。
ちばさんがすきなのがこちらの作品「母の日」
「スイカの種みたいな目を描くのですね。普通白目と黒目というのが、私は漫画家ですから、表情描くときに白目と黒目。白目が大きかったりあるいは黒目が大きかったり、そういう目の表情をいろいろ描くのですけれど、だいたいちひろさんの目というのはスイカの種。それでいてなんか嬉しそうな表情の目だなとか、すごく伝わってくるのです」
「手がね。柔らかい手がお母さんの首に抱きついて、体を預けてね、信頼しきっている子どもの顔。お母さんの顔は見えないんだけど、お母さんの微笑。ぬくもりを感じるんです」
ちばさんは自分の作品でちひろの絵に似た表現をしていました。
ボクシング漫画の金字塔「あしたのジョー」。
最終回最後のコマです。
強敵との試合ですべてを出し切ったあとの主人公ジョー。
千葉さんは説明的な描写を極力省いたといいます。
「あれはリングの上ですから、リングの柱とロープだけは描きましたけど。あとは座っている椅子ね。それは描きましたけどあとは何も描かない。それこそ感じてほしかった。燃え尽きてなんにも残ってない。ただそこにすべてを出し切った男の満足感。充実感というのかな。というものを出したかったので。描きすぎると。描いてしまうとうるさくなって目が疲れてしまうんです。いろんな情報が入ってしまうと。そうじゃなくて描かないでも感じさせる」
「描かずに感じさせる」・・・・・それに長けていたのがいわさきちひろだとちばさんはいいます。
「いわさきさんの場合はできるだけ余白。白いところを残して、できるだけ描かないでぽつっと描くんだけど世界観というのか、部屋の中の温かいぬくもりがある部屋なんだなとか、あるいは涼しい林の中なんだなろうなとか、
季節感も表現するところがすごいなと思います。描かないで感じさせるというところがとても、いわさきさんの絵を見てすごく勉強になりましたね」
そしてちばさんはこの作品も気になるといいます。
ちひろの自画像。
このとき27歳。
「どちらかというと白っぽい。明るいハイトーンの絵が多いのに自画像になるととたんに暗くなるのですね」
いわさきちひろは1918年陸軍で働く父と、女学校の教師をしていた母との間に長女として生まれました。
裕福な家庭でクリスマスを祝うほどモダンな暮らしぶりでした。
そんな少女が目にし、胸がキュッとなってドキドキしたというのが「コドモノクニ」。
そこに描かれた愛らしい子どもたちの姿。
ちひろは絵の世界に心奪われます。
12歳になり女学校に入学。二年生の頃から本格的に絵を学び始めます。
めきめきと腕を上げ、17歳のとき女流画家グループの展覧会に最年少で入選。
その祝いの席には審査員だった藤田嗣治の姿もありました。
ちひろはいつか巨匠たちと肩を並べることを夢見ていました。
しかし・・・
両親の強い勧めにより結婚。そして夫*1の転勤先である旧満州へ向かいます。
大連。はじめて訪れた満州でしたが気持ちは沈んでいました。
愛していない夫との生活。
二年後夫は精神を病み自死します。
そして1941年帰国。
ちひろは絵に没頭します。
描くことで過去を忘れようとするかのように。
そんな中ふたたび満州行きの話が持ち上がります。
ちひろは開拓団の女子たちに習字を教えるよう頼まれたのです。
ちひろは絵の道具を持って満州へ向かいます。
途中、東洋のパリと呼ばれたハルビンにも立ち寄り、スケッチをするなど画家としての時間を楽しんだと言います。
しかしいざ開拓団の拠点につくと物資も食糧も不足し、習字の教室どころではありませんでした。
あまりの酷い環境に体調を壊したちひろは知人の軍関係者のはからいで帰国するのです。
教え子たちをその地に残したまま。
実はちばてつやさんも少年時代旧満州にいました。
敗戦のあと命からがら引き揚げてきたのです。
「引き上げる途中仲良かった二つ上の兄がいるんです。一年間旅をして船に乗った瞬間亡くなるんです。生き残ったということがとてもつらい。なにか負い目を感じているということはみんなある。戦争を生き残った人は皆」
生徒たちを守るべきだったはずの大人の私が、知らず知らずのうちに見捨てていた。
この経験がその後のちひろの歩みに大きな影響を与えたと黒柳徹子さんは言います。
「自分が気づいていなかったことをとても恥ずかしく思っていただろうと私は思います。子どもを描けば描くほど、子どもたちを泣かせないようにお願いしますと」
戦後、ちひろは親元を離れます。
そして一人画家としての道を歩み始めるのです。
油彩、紙芝居、広告……幅広い表現に挑戦
「ほおづえをつく男」1947年
「働いている人たちに共感してもらえる絵を描きたい」では、戦後に日本共産党に入党し新聞記者として働く傍ら、丸木位理、丸木俊(赤松俊子)夫妻のアトリエで絵の技法を学んでいく中で描かれたデッサンやスケッチ、油彩画や、童画家として歩むきっかけとなった紙芝居作品などが並ぶ。鉛筆の力強い線や、油彩の重たい表現などは、後の軽やかな水彩画からは想像できない。
この頃ちひろは原爆の図で知られる丸木夫妻のアトリエに通っていて、親密な関係になります。
描き方も大変影響を受けます。鉛筆を強く押し当てる強い線で描いていました。
その頃の労働者階級を描くという意識を強く持っていたと言われ、力強く生きる大衆や生活の泥臭さを描くのがセオリーとなりました。
「昼寝をする夫・善明」
1950年。ちひろ31歳。二度目の結婚をします。
親が決めた相手ではなく、自ら恋に落ちた人*2でした。
彼女はこう自己紹介します。
「いわさきちひろ。絵描きです」
翌年には長男が誕生。
もともと子ども絵が好きだったちひろは絶好のモデルを得てさらに筆を走らせるのです。
変化する画風
「ハマヒルガオと少女」(油彩)
1950年代中頃の作品。「暗くなりがちな油絵の具を使いこなし、後の水彩画を特徴づける優しげな印象をうまく引き出している」担当学芸員の成相肇
1970年。 ちひろがちひろになった頃の作品。「となりにきたこ」
ちいさな二人が少しずつ仲良くなっていく物語。
ちひろは当初鉛筆と墨によるモノクロームの作品として構想していました。
しかしすべてを描き直します。
鉛筆ではなくパステルで。
松本春野さん。いわさきちひろの孫娘です。
ちひろの絵を見て育った春野さんも、絵描きになりました。
春野さんに実際に描いてもらうことでちひろがなぜパステルで描くようになったのか探ってもらいます。
「ふたりが心を通わせた瞬間」の主人公・チーちゃんの姿。
最初に構想していた絵です。
ずいぶん印象が異なります。
鉛筆とは全く違うパステルの太い線。
「細かく描くのは難しい素材。あえて人間を描こうとする。しかも人間の細かな心情。表情を描こうとすると挑戦であることを感じます」
そしてここからちひろの遊び心あふれる試みが・・・
水をたっぷり含んだ筆でパステルを溶かしていくのです。
透明感あふれる色の面が生まれました。
所々にパステルのザラザラとした質感が残っています。
こうした少し荒っぽい表現こそ、ちひろが出したかったものではないかと春野さんは言います。
透明感溢れる色彩で塗られた子どもたちの愛らしさ。
でもそれだけじゃない。
パステルの質感から立ち上がるわんぱくさ。
ちひろが開いた新たな表現です。
そしてその表現をさらに高めていきます。
「私は豹変しながらいろいろとあくせくします」
最晩年に行き着いた表現
愛する家族と暮らし、好きな絵の仕事も順調でした。
しかし病が襲いかかります。
亡くなる一年前。54歳の年。
ちひろは傑作を生み出しました。
絵本「ぽちのきたうみ」
ちひろならではのつぶらな瞳を持った少女と愛犬ポチの物語。
珠玉の一枚がこちら。
「海とふたりの子ども」
にじみを多用して描かれた表情豊かな海。
春野さんはこの絵はちひろにしかできないといいます。
まだ乾いていない絵の具部分に水を垂らせばにじみはできます。
しかしそれで形をつくらなくてはなりません。
ちひろはにじみで波を表現しているのです。
「偶然の技法を必然的に組み合わせている作品。だからどんな人もこういった模様は作ることができると思う。たまたま。
だけれどもいわさきちひろの場合はこのくらいの際をつくるためにはどれくらいの水が必要かとか、紙の乾き具合が必要だとか、そういうことを知り尽くしていたのではないかと思います。垂らした瞬間うまく行ったと思っても乾かしたら別のものになっていたりします。なんでこの絵が描けたのかますますわからなくなりました」
亡くなる一年前に編み出したにじみの技の集大成。
そして、同じ年全く対極的な絵本も手がけていました。
当時起こっていたベトナム戦争の悲惨さに心を痛め描いた「戦火の中の子どもたち」
あなたのおとうとがしんだのは
きょねんの春。
あの子は
風のように
かけていったきり。
もうずっとむかしのことと
いえるかしら。
東京のくうしゅうが開けた朝
親を探していた
ちいさなきょうだいの思い出。
あつい日。
ひとり。
この絵本に心を動かされた人がいます。
今年春に亡くなったアニメーション監督・高畑勲。
高畑はちひろの絵の顔の向きに注目しこう言います。
見る人に感じさせる、考えさせる絵であると。
以前ちひろが描いた横顔について、講演会でこんな事を言っています。
「ちひろさんの横顔の特徴というのは、つい見つめざるを得ない」
「気持ちを読み取ろうという気分にさせる力を持っている」
「それはこちらを向いていないから」
登場人物が訴えてくるのではなく、こちらが見つめざるを得ない。
気持ちを入れられずにはいられない。
そんな力を持つ横顔。
そして、高畑はこの「戦火の中の子どもたち」の正面を向く絵にも触れています。
実は、この絵本ではほかの黒目だけの絵とは違い、
ちゃんと白目が描かれて視線の向きがはっきりと分かるのです。
なぜちひろはこのような表現に至ったのか。
高畑は土門拳の写真と比較しながら、こう語っています。
「ちひろは悲しいものを描きたくなかったと言っています。では笑顔を描くかというとそれにも抵抗があったのです。私達を見て頂戴というような写真形が撮るような子供の絵にもしたくない。
では、一瞬だけ目をそらしている子どもがこちらを向いたらどうなるんだろうと考え抜いたものなんだろう」
見るものに生々しく訴えてくるような描写ではありません。
しかしその強い視線はいつ見る側に突きつけられるかわからない。
それは可愛さや甘さを超えてちひろが最晩年に行き着いた表現でした。