美の壺「主が宿る 門 」

家の顔とも言われる「 門 」。そこに住む主(あるじ)の格式や趣味趣向を表し、さまざまな形がつくられてきた。武家屋敷の門に込められていたのは武士の誇りと格式。それを伝えるために建築上の驚きの工夫が!わびを追求した茶室の門。簡素なたたずまいには、外の世界と厳かな茶室を隔てる“結界”の役割!長崎の新地中華街にそびえ立つ中華門には街の人びとの切なる願いが託されていた!門に秘められた知られざる物語をたっぷりと!

【出演】草刈正雄,藪内紹智,【語り】木村多江

美の壺「主が宿る門」

放送:2019年3月10日

水戸市下京区にあるおよそ150年前に建てられた門です。かつての武家屋敷の風格を今に伝えています。敷地の中と外とを隔てその出入り口に立てられる門。そこに住む主の格式や趣味趣向などを表し、様々な形が作られてきました。かって幕府に仕えた大工の一族が残した秘伝の書。33種類もの門の形や寸法を調べ、体系的にまとめています。これは30本以上の柱を使い、板敷の広い空間を持つ門。城を守る櫓門を表していました。それに比べてこちらはシンプルな形。神社仏閣で数多く建てられている四脚門です。古来、人々は門に様々な意味を込めてきました。徳川家康を神として祀り、華麗な装飾を施した日光東照宮の陽明門。外の世界と厳かな空間を隔て、結界の役割を果たす茶室の門。そこに住む人々が願いを託し特別に作った門もあります。今日は人々の思いが込められた知られざる門のお話です。

武家の門

秋田県有数の豪雪地帯角館。江戸時代初めに作られた城下町には当時の武家屋敷が今も大切に残されています。こちらは下級武士の屋敷。門は柱を2本立てた立柱門です。簡素ながらも門を構えられるのは武士の証でした。中級の武士になると本のつくりが少し変わります。一見先ほどとほとんど同じようですが横に木が一本渡してあるのです。こうした門は藩の許可なく作ることはできませんでした。「江戸時代は身分制度の時代で、武士の間にも上中下と分かれておりますけど、上級中級下級に従って門も区別されているのが普通です。この通りを歩くだけで大概の種類そろってます」。 門を見ればそこで暮らした主の姿が見えてくる。今日一つ目の壺は、門に重ねる武士の顔。

上級武士の屋敷の門を見てみましょう。藩の要職についていた青柳家です。上級武士が構えるのは薬医門。一説には扉が弓矢の攻撃を食い止める矢食いという言葉からその名がついたとも言われます。杉の扉に切妻屋根。屋根には魔除けの飾りがあしらわれています。中央の扉は身分の高い客が来た時のみ開かれ、普段は両脇の小さい扉が使われました。身分制度の厳しい武士の暮らしを今に伝えています。前方に大きく張り出した屋根。軒下がひときわ広く感じられませんか。矢食門にはある工夫が施されているのだそうです。「門の前を広く見せるために柱を引っ込めてのではないかと思います」。柱を引っ込めるとは、一体どういうことなのでしょうか。後ろから見ると門は4本の柱で支えられています。この柱の位置がポイントです。屋根を支えるためには柱は本来この位置に置かれます。ところが薬医門は柱を後ろにずらし、屋根が前にせり出す形にしているのです。このままだとバランスが悪くなってしまうため、短い梁を取り付けて補強しています。こうして生み出された軒下の広いスペースは訪れる客の馬や籠を停める場所として使われました。
角館で最も古い薬医門があります。360年続く石黒家の12代目石黒直次さん。毎朝門を開け客を迎える準備をします。「これはメインの柱なですけれども、根元が腐ってしまって、これは私の代に直したものです。こちらの控え柱のほうも同じように腐ったらしくて、取り替えた形跡があるんですが、前の人も直しながら残してきたんだと思います。考え深いですね」。無駄な飾りを廃し、無骨に作られた石黒家の門。代々藩の財政を扱う要職についてきた家柄の特徴がよく表れているといいます。「侍として華美に作る必要はなかったんだろうなと。つまり門としての役目を助けられば。侍は元々質素倹約を旨とすとか質実剛健とかそういった傾向の強い家だったのかなという気がします」。武士の精神が脈々と受け継がれた石黒家の門。四季折々に表示用を変えます。春は色づいた桜の下でどこか優しげ。夏は緑の中でみずみずしく。秋は紅葉と共に艶やかに。城下町の歴史の中で時を重ねていく武家屋敷の門。これからも主の顔を宿し続けます。

茶の門

高さ25メートル。幅29メートル。東大寺南大門。西本願寺唐門。門は神社仏閣を中心に長い歴史の中でより大きくより荘厳に作られてきました。しかしそうした流れとは一線を画す門を作り上げた文化があります。茶の湯です。「茶の湯の主は不如意(貧しい)生活を楽しんでいる境地ですね。そういう境地で客をもてなす遊びですから、主の門構えはそのような立派なものであるのはおかしいわけですね。本格的な門の形式を崩してもっと省略して隠者の庵らしい細やかな構えの門に作ろうということになってくる」。詫びを追求する茶の湯の伝統。その中で茶人が生み出したこだわりの門とは。今日二つ目の壷は門に込められた写真の詫び。
茶の湯の家元藪之内家。表門は戦国時代の武将で茶人でもあった古田織部の屋敷から移築されたと言われています。この屋敷の奥に茶の湯の重要な門があります。中門と呼ばれる門です。藪内家では茶会の時だけ扉を取り付けています。栗の木の柱の間に竹と杉を組み合わせた扉を吊る簡素な造り。それには意味があります。「外界とお茶室という神聖な部分を隔てる結界的な役割を果たします。あくまでお茶室がメインですから、お茶室以上に豪華になってはいけないと思うので、 こういう風に本当にシンプルな形になってます」。中門があるのは露地と呼ばれる茶室へ続く庭のちょうど中ほど。茶会の際には亭主がこの中門で客を出迎えます。中門の足下にはある仕掛けがあります。わずかに段差のある石が埋め込まれています。通常亭主が立つのはこの場所。身分の高い客を迎える時には下の段に立ちます。藪内家は戦国武将古田織部の茶を受け継ぐ流派。武士の礼儀作法がこうしたところにも表れています。また屋根が無く向こう側が垣間見える形にもある理由が。亭主が茶室の準備をする間。客は門の外側で待ちます。この時亭主の姿は見えないものの、その気配と音は門を通して感じ取ることができるのです。「これから先どういう風なお茶席になるんだろうっていうのを楽しみにしてる方が多いですね。この猿戸から境として園内向かっていくっていうのはもう深山幽谷に入っていくそのアプローチになっています」。中門を通り抜けたその先は、静かな山奥に入り込んだかのような趣。中門には茶の湯の美学が凝縮されていました。

街の顔

古くから様々な外国文化を受け入れ発展してきた長崎。中心部に広がるのは新地中華街。40軒ほどの商店が軒を連ね、年間100万人以上が訪れる一大観光地です。この賑わいを生み出した立役者と言われるのがこちらの門。町の顔として東西南北4箇所にそびえ立ちます。この門はおよそ30年前、中華街に住む人々の切なる願いによって建てられました。今日最後の壷は門に託した町の未来
時間を見つけては足しげく中華街正面の広場に通う人がいます。林照雄さん。中国料理店の二代目です。「一日に一回はここに来て、暇なときは二回も三回も出てきます。 やっぱり気になるんですよね。ざれだけ観光客の皆さんが来ているか」。この門は林さんが商店街の仲間と作りました。きっかけはある出来事でした。「新婚旅行らしき若いカップルに中華街の中で「注が言ってどこですか」と聞かれたんです。ここがそうですと答えたら恥ずかしかった」。この町に店が立ち並び始めたのは昭和初期。在日中国人を中心に料理店や雑貨店などが営まれました。しかし、戦後客足は思うように伸びず、街に活気はなかったといいます。亡くなった父梅冒さんが生前町の将来を気にかける姿を度々見にしてきた林さん。何とかして街を発展させることができないか仲間に相談を持ちかけました。「仲間内に相談したら皆同じような気持ちがあったもんですから、何からしようかということで随分議論があったんですけども、中華街らしい中華街のシンボルを何か作ろうかということになった」。そこで林さんたちが向かったのが神戸の中心街、南京町。ちょうどこの年。町のシンボルとして石造りの巨大な門を作ったのです。その門を目の当たりにした林さん達。「帰ってきて門を作ろうと」。林さん達は商店街にある四つの入り口全てに門を作ることにしました。客がどこから訪れても中華街だとわかるようにと考えたのです。そして仲間内で資金を出し合い国からも地域活性化のための融資を受けました。昭和61年4月門が完成しました。2階建ての屋根を持つ中国伝統のパイロウ門です。赤や緑白など中国で縁起がよいとされる色で覆われた華やかな装飾。林さん達から相談を受けた中国の職人が駆けつけ作り上げました。落成式が終わった後林さんに声をかけてきた人たちがいました。「親父の仲間が二三人いらしたんです。まだ健在で、その方たちは涙流して喜んでいました。親父がいたらただねほんと喜んでお前よくやったぞもっと喜んでくれるだろうと思うんですけどね」。まもなくある変化が起こります商店街の人たちが街を門と同じ赤や黄色で飾って行ったのです。街に活気が生まれ始めました。人々が願いを託した中華街の門。今なお町の発展を支え続けます。